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日本に渡来したイスラエル族 その2

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2012年10月17日(水)13時39分56秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-567.html

 丹後一宮籠神社の宮司・海部家の分家で、丹波桑田郡穴太村の小幡神社を守ってきた上田家は、円山応挙(上田主水)と出口王仁三郎(上田鬼三郎)を出したことで知られる。上田家には古来イスラエル族の日本渡来に関する伝承が伝わっていた。上田家の血を引く外科医・渡辺政雄から聞いた伝承を、吉薗周蔵は手記中の★「別紙記載」として書き残した。以下では、それを★「上田伝承」とする。

 上田伝承は「上田はアヤタチの一族である。アヤタチとは後に付けた名前で、本姓はアマベと言い、日本に流れ着いたユダヤの子孫である。アマベとは海人で、日本の海を支配した人のこと」から始まる。アヤタチについては後日論究するとして、まず政雄の謂うユダヤがヘブライ族の北朝イスラエルを指すことを銘記すべきである。ヘブライ族を指して当時も今も、欧米俗流が「ジュイッシュ」、日本でも「ユダヤ」と呼ぶが、その俗語を政雄は用いただけであり、伝承の内容からしても、南朝ユダのことではあり得ないので、以下ではイスラエルとする。

関連URL...........

詳しくは...........アヤタチとサンカ1~5参照

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1019

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1021

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1022

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1023

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1024


 セムとシュメルの混血児アブラハムを始祖として、メソポタミアのウルに発祥したヘブライ族は、神の召命でカナーンに向かい、食料を求めて入ったエジプトで奴隷化されたが、モーゼの指導で脱出し、その後はカナーンにあって民族団結により隆盛を誇るが、ソロモン王の死後に分裂した。ヤアウエ1神教に傾くユダ2支族に対して、シュメル起源のバアル・イシュタル・ミトラ神の信仰を棄てない北方10支族が反乱し、独立してイスラエル王国を建てたからである。

 イスラエルはやがてアッシリアに征服され、その民は、史家から行方不明とされる。実情は当時の慣習として、民族全体が征服者の奴隷として連行され、民族の一体性と主体性を失って周辺民族に溶け込んだのだ。彼らが奉じたバアル中心の多神教がオリエントの普遍的信仰のため、周辺諸族との宗教的障壁が低かったこともある。この点、新バビロニアに滅ぼされたユダの民が、バビロン虜囚後において唯一神ヤアウエの信仰を却って強化したため、民族の一体性を失わなかったのは、むしろ例外なのである。

 上田伝承は、アマベのほか、物部も宇佐も渡来イスラエル族だと語る。同様の趣旨は、月海黄樹が『日本神道に封印された古代ユダヤの暗号』にも述べているが、穴太村・上田家の血筋を称する月海女史の言なれば、平仄が合って当然か。また、籠神社の極秘伝にも「当社の祭神ホアカリと物部氏の石切神社の祭神ニギハヤヒは同体なり」とある、と聞く。要するに、海部氏と物部氏はイスラエル系の同族というのであるが、宇佐については後述する。

 ホアカリを祀る籠神社の別名は元伊勢根元の宮(イセ=イスラエルか?)である。その祭神ホアカリは、別名天照国照彦が示す通りの太陽神で、太陽神バアルの垂迹たるべき筋合だが、後代に男性を表す「彦」が取り去られて天照大神となり、性転換されて伊勢神宮の内宮に祀られた。因みに「籠神社の秘伝にホアカリが実はヤアウエという」との記事をインターネットで見たが、これは論者が「ユダヤ神ならばヤアウエの他にない」と速断、誤解したものであろう。イスラエル族は、実は多神教なのである。

 アマベ渡米の事情について、上田伝承は詳述しないが、月海著『龍宮神示』には「海人の王国として現在、認識されているものは、丹後、俳誌、丹波の範囲。出雲、若狭湾・琵琶湖周辺。紀伊半島の海岸添い(沿い)。四国・九州の海岸添い(沿い)一円、伊勢、尾張等の地域で、古代日本にはこうした海人王国が大和朝廷と並んで点在していた」と述べる。

 確かに、海部郡の名は尾張・紀伊・豊後の三国にあり、海部郷は阿波国那珂郡・上総国市原郡・越前国坂井郡・丹後国熊野郡・伯貴国会見郡・筑前国怡土郡・同那珂郡・同宗像郡と六国八郡にわたって散在している。紀伊国を例に取れば、今は名草郡と合併し海草郡となった海部郡は、凹凸の激しい紀伊半島の紀伊水道側の突端部にとびとびに散在する村や浦で構成されていた。海部郡(郷)とは、海人の住む漁村だけを括った行政区画に冠した地名で、渡来海人たちが漁業の適地を選んで展開した地区を海辺(部)と称したものである。上田伝承にいう「日本の海を支配した」とは、まさにアマベが全国の「海部」の人民を支配した、と謂う意味になる。

 月海はさらに説く「その中心であった丹後王国に関しては、・・・まず海人には渡来の伝承が受け継がれている。海人伝承では、海人たちは、日本に従来いた原住民とは違い、船を漕いで海の向こうから渡ってきた人たちである」。

 これと、同根の上田伝承とを一体として見ると、「アマベは海人の頭として、海人を引き連れて丹後半島に渡来し、全国の海部の人民を支配した」となり、ここで海人渡来伝承の全体がはっきりする。

 ところが、上田伝承によれば「アマベは初め丹後半島のあたりから始まり、勢力範囲を拡大して伊勢まで伸ばした。この伊勢は近江の伊勢のこと」とある。アマベの開拓前線が到達した「近江の伊勢」が滋賀県守山市の伊勢遺跡を指すことは前号で述べたが、弥生遺跡として全国でも最大規模の伊勢集落はBC50~紀元0年にかけて出現し、2世紀に最盛期を迎えたと見られる。これが典型的弥生集落である事実は、海人集団が弥生文化の発展に主体的に関わったことを示し、換言すれば、近畿地方の弥生集落は海人集団が建設したことを示す、となる。これも過言ではあるまい。

 一方、月海も前掲著で「丹後に海人の王国が築かれた後、海人たちは各地に都市国家を形成すべく、日本中に広がっていった」と語る。つまり、海人集団は海部地域に留まらず、内陸部に都市国家を作り、周辺を耕作して農業展開を図ったという。その1つが上田伝承に出てくる「近江の伊勢」である。当然なのだろうが、平仄が合う。

 このような海人集団が、日本列島に来て初めて弥生式稲作農業を学んだとは思えない。つまり、彼らは純粋な海人ではなく、半漁半農民と見るべきである。換言すれば、半農半漁集団の渡来を直接原因として日本社会が縄文文化から弥生文化に移行したわけで、海人集団こそ弥生文化の主体ということになる。

 この海人集団にぴたりと当てはまるものは、いわゆる倭人である。江上波雄によれば、雲南に発祥して長江を下り、華南の沿岸で越人と混淆した倭人は、元来水田稲作と沿岸漁業を得意とした。漢民族相手に水産物などを商い、深い交易関係にあった倭人は、前漢の朝鮮半島侵出に呼応して、朝鮮南岸から北九州にかけて渡来してきた。

 落合思うに、倭人は形質や民族習慣を見ても明らかに北方モンゴロイド系で、イスラエル族の後裔ではあり得ない。とすると、★海人集団なるものの実態は、少数のアマベ即ちイスラエル系海人が多数の半農半漁民即ち倭人を率いたものではないのか。且つ、江上のいう「交易」こそアマベの専業で、漁労は倭人が専従したのではないか。つまり、「海人」の語は狭義に、即ちイスラエル族のアマベに限定して用いるのが善いと考える。

 ともかくも、江上の騎馬民族説は、少なくとも導入部分については正しいことがこれで証明された。江上の倭人論の根拠が何かは実は興味ある問題なのだが、暫く措くとして、かように古伝承と考古学的物証が揃う例は珍しく、歴史研究において【古伝承重用すべし】という証左としても意義が大きいものと思う。

 守山市の伊勢遺跡に残る「近江のイセのクニ」は前1世紀に出現した。本家たる丹後海人王国の出現は、さらに数世紀を遡る筈である。その時期が弥生文化の発祥と同期することは、以上により明らかであろう。

 ところで月海は、前掲文に続き、「・・・その中で、3世紀頃に現れた丹後王国のニギハヤヒは、大和の土着勢カ・ナガスネヒコと姻戚となり、大和を統治していた」と語るので、しばらく耳を傾けてみよう。

「3世紀に現れた丹後王朝の王族ニギハヤヒは、大和の斑鳩の峯(現在の生駒)に下り、上着勢力であるナガスネヒコと婚姻関係を結んで大和を統治していた。そこに西から侵入してきた勢力があった」
 まず、ここまでは首肯できる。丹後王国は数百年も存続して周囲に発展したが、3世紀に出た王族ニギハヤヒがヤマト地方まで勢力を伸ばし、土着勢力と同盟して大和を統治したとの意味である。ニギハヤヒは、太陽神ホアカリと同体の神様ではなく、3世紀に現れたアマベ家の英雄なのだ。月海が「物部は海部の分家」と言うのは、ヤマト入りしたニギハヤヒ系を、アマベ本家と区別して物部と呼んだとの意味だろう。

 近江のイセ集落は前1世紀に出現し、伊勢遺跡が物語るように2世紀末にはクニの規模にまで発展した。ところがアマベの前線は、その頃やっとヤマトに到達した。近江に比べて時間を掛けたのに連合政権止まりだったのは、土酋・ナガスネヒコが頑張ったからである。

 天孫神話では、天孫の子であるニギハヤヒは、天孫族の先駆けとして降臨しながら、ナガスネヒコの妹婿となり、義兄と同盟して天孫軍に抵抗した。しかし戦いに利非ず、ニギハヤヒはナガスネヒコを殺して天孫(神武)軍に帰順し(出羽に逃れ)た。その子孫が物部氏であるという。

 これは典型的な偽史だと思う。ニギハヤヒがアマベの王族ならば、3世紀になって高天原(朝鮮)から降臨(渡来)した天孫族には含まれない筋合である。また、ニギハヤヒが天孫軍の先駆けだとしたら、アマベの王族ではあり得ない。唯一の統一理論は、両者ともイスラエル族で、アマベ系を古渡り、天孫を新渡りとする説だが、空論に過ぎないだろう。

 とにかく、弥生社会の生成発展は、海部・倭人は勿論、先住縄文系も混血系も力を合わせた賜物である。3世紀といえば弥生時代も晩期で、国津神ナガスネヒコを首長に仰ぐヤマトの土着民は弥生社会に生きていた。国津神と天津神の区別は、朝鮮渡来の古墳系人が自らを天孫になぞらえたものであり、アマベも倭人も縄文系も、なべて国津神とされたフシがある。しかし、ナガスネヒコは素より天孫ではなく、アマベでもないようだ。それならヤマトの弥生文化を生成・発展させたのは誰か?  

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