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日本に渡来したイスラエル族 その3

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2012年10月17日(水)13時47分27秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-568.html

 イスラエル10支族の子孫アマベ(海部氏)は海人で、倭人集団を率いて日本列島に渡来し、沿岸の漁業適地に海部郷を設けて根拠地としたが、さらに内陸部に進んで各地に農業集落【イセ】を建設した。このことが列島を縄文社会から弥生社会に移行させたとの私見を、前月号で述べた。

 海部1族の丹波穴太村・上田氏の血筋を称する月海黄樹が、海人伝承を紹介した(以下 -「月海伝承」という)中に「アマベが建てた丹後海人王国の王族ニギハヤヒが2世紀に大和の土着勢力と同盟して大和地方を支配した云々」とあることも紹介した。

 丹後半島に始まり各地に集落の建設を進めた海部氏が、近江守山でイセの建設に着手したのは、遺跡調査の結果から紀元前50年ころとされる。しかし大和への進出は近江よりずっと遅れたらしく、月海伝承は「ニギハヤヒが大和でナガスネヒコとの連立政権を立てたのは3世紀のこと」と言う。この「三世紀」を原伝承ではどう言うのか、気にかかるが、一応このまま聞いておこう。

 ナガスネヒコは国津神、すなわち天孫降臨以前の先住民であるが、渡来人の海部から見ても先住民というから、明らかに縄文系だが、列島来の土着民なのか、海部氏に先んじて渡来したシュメルなのかは、分からない。別の古伝に「ナガスネヒコの兄の安日彦が奥羽に逃れて安倍氏の祖となった」とあるが、安倍氏はエミシの族長で縄文族の代表格だから、この点でも符合する。史書に名の見えない安日彦を後世の仮設とする説もあるが、もしそうだとしても、ナガスネヒコが縄文系だからこそ、そんな仮設(仮説)も可能だったわけだ。

関連記事........日本人シュメール起源説の謎

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E8%AA%AC&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=

 ともかくナガスネヒコは、ニギハヤヒと同盟する以前から大和の支配者であった。尤も、古代社会には1地方を排他的に支配する政治権力は存立せず、他にも多数の部族が各自の族長を立てて並立していた。例えば賀茂族、三輪族あるいはクズ(国栖)族がそれである。

 大和地方は銅鐸文化圏であった。弥生文化の精粋たる銅鐸は前1世紀に現れ、2世紀に全盛を極め、3世紀の半ばに忽然と消えた。その興亡の時期が伊勢遺跡とまったく一致するのは、天孫東征により弥生社会が一転して古墳社会に改まった事実の反映だから当然である。★重要文物たる銅鐸を天武朝の官撰史書が完全に無視したのは、天孫族以外の優れた文化の存在を否定するためと見る外はない。

 それでは銅鐸文化の担い手は誰であったか。神道考古学の大場磐雄は、銅鐸の分布と三輪・賀茂両氏族の分布が重なることから三輪・賀茂の両氏族と判断したが、肯綮にあたる。

 両氏族は、オオクニヌシないしオオモノヌシの子孫を称し、縄文系とは見えないが、信仰対象がホアカリ・ニギハヤヒでないから、海部・物部と同じイスラエル族ではあるまい。つまり非海部系の倭人と見るのが妥当であろう。

 海部が倭人を引率して渡来したことを前に強調したが、すべての倭人が海部系という意味ではない。他にも越人系・呉人系・任那系などの諸部族が、個別の事情は未詳だが、それぞれのルートにより陸続と渡来したものと思われる。

 ともかく、大和地方には三輪や賀茂などの出雲系倭人が早くから根を下ろしていて、ニギハヤヒの侵入に抵抗した。3世紀といえば弥生時代も最晩期で、大和では縄文族も倭人文化を受入れ、弥生社会として成熟していた。そこへ侵入したニギハヤヒは、非海部系倭人の抵抗を感じ、縄文族長ナガスネヒコの妹婿となり同盟し、連立政権の樹立にまで漕ぎ着けたのであろう。

 天孫神話では「ニギハヤヒは天孫軍の先駆けとして天磐船によってヤマトに降臨した」というが、鉱物製の輸送機器に乗って空中から降下するなぞあり得ない。★「岩」は古代には堅固の意味で用いられたし、また「降臨」は侵入の意味と解する外はない。つまり、ニギハヤヒは堅固大型の外航船で、当時深く湾入していた大阪湾から大和に上陸したので、丹後から地続きに歩兵で攻めてきたのではない。
(★ブロガー注:岩→磐は、堅固の意。と『辞統』にもある。石(盤=円く大きな平な器)製の盤を磐といったという興味深い記述もある。)

 以上から、ニギハヤヒは月海伝承にいうごとく、丹後古王国を継いだ伝統的勢力ではなく、「西からの新勢力」と見るべきである。天孫神話がニギハヤヒを天孫軍の先駆けというのは、明らかに虚説だが、嘘の中にも真があり、遠方から来たことは事実だろう。また元伊勢根元の宮たる籠神社の秘伝に「ニギハヤヒはホアカリと別名ながら同体」とあるが、この伝承は各地で強調され、確かな根拠があると見てよい。しかしながら物部氏は、海部氏の分家にしては漁民性(第1次産業)よりも、軍事・祭祀性(高次産業)が強い。物部氏は、海部と同族ではあるが、丹後海部の分家ではなく、新に渡来したイスラエル族と見るのが至当であろう。

 天孫史観は、縄文系や倭人らを地祇(国津神=天孫降臨以前の先住民)と位置づけたが、海部ホアカリと物部ニギハヤヒをば天孫系譜に嵌め込んだ。あるいは海部の系譜を奪って天孫が入り込んだというべきか、とにかく海部・物部と天孫族の系譜を統合した。その無理を反映して、官撰史書には、相互矛盾があるが、大概は次のようである。

 「ニギハヤヒとホアカリ(火明)は同体で、弟が二二ギ。二二ギにはホデリ(火照)、ホスセリとホヲリ(別名ヒコホホデミ)の3子がいたが、末子のホヲリが兄との抗争に克ち、その孫イハレヒコが初代神武天皇となる。敗れたホスセリ(これをホデリとする説もある)の子孫は隼人族となって、ホヲリの子孫たる皇室に永久に仕える事を誓う云々」

 海人ホアカリの弟として天孫二二ギを嵌め込み、次に二二ギの子として、ホアカリの同体ホデリと、その別名ホスセリヲを嵌め込み、天孫ヒコホホデミとの3兄弟としたところがミソである。

 ホアカリをホアカリ、ホデリ、ホスセリの3体に分けたのは、3者を混淆することにより、海部の事跡を隼人の事跡にすり替えるためであろう。官撰史書において、天孫史観と矛盾する海部古王国の存在を完全否定する一方、隼人の存在は認めて、抹殺した海部の受皿としても利用したのである。隼人はインドネシア系で、海部とは民族が違うがどちらも海人で、混淆し易いと観たものだろう。こうして、天孫と海人の系譜統合による万世一系の皇統譜の中で、天孫正統化の根拠を造ったのである。

 ところが、折角の天孫神話も、あいにく他の古伝と合致しない。例えば三角寛が採集した山窩伝承では、山窩の祖先をホアカリと言いながら、別のところで「ホアケの隼人を召して云々」なぞという(三角寛『サンカの社会』)。

 ホアケはホアカリの訛りだが、同じく隼人の祖というから、ホアカリ(ホアケ)とホスセリが同体とばれてしまう始末である。長男ホデリも、伯父ホアカリと同体だから、影が薄くて存在感がない。ホアカリを3体に分けた折角のトリックも、かくのごとく、他の古伝に照らすと随所に破綻が見えるのだ。

 海部氏古伝(上田伝承と月海伝承)は海人渡来を伝えるから、天孫降臨を根幹的事績とする天孫史観とは根本的に相容れない。ゆえに史書官撰の主旨は海部氏古伝の排除にあったが、それは銅鐸黙殺より悪質な史実改変であった。

 ホアカリを海部氏の祖神とする説もあるが、人格神ではなく海部氏が参じたシュメル由来の天空(太陽)神だと思う。これに対してニギハヤヒは人格神で、物部氏の興隆をもたらした実在の英雄であろう。朝鮮半島から渡来したニギハヤヒは、大和にナガスネヒコとの連立政権を立てた余勢で、イセ建設に行き詰まった海部氏を救済して、部族統合したため、海部氏側に同族・分家説が残ったのではないか。

 月海伝承の続きは、「この時(3世紀)西方から大和に侵入してきた勢力があった」とする。これはいわゆる神武東征の実年代を3世紀とする史学の定説とも符合するもので、天孫史観と海部古伝の結節点となる。つまり、西方からの侵入=神武東征説の究明により古代史の真相が浮かび上がる筋合だが、それには海部古伝の尊重と吟味が欠かせまい。

 西からの侵入勢力について、月海伝承は「それが古事記に記されている神武天皇(崇神人皇=応神天皇)である。神武の正体は九州某王朝の入婿となった渡来人」という。

 神武・崇神・応神の3天皇を同体というのだが、在位時期の違う3天皇が同体だとすれば、最後の応神だけが実在天皇で、先行する神武・崇神は架空天皇となる理屈だ。しかし、崇神については、別名ハツクラシラスが国の創治者を意味するところから、三輪王朝を創始した実在人皇との見方が史家間でも有力である。

 応神は河内王朝を創始した実在天皇で、河内王朝の成立がもたらした政治的・社会的衝撃により、弥生社会が古墳文化に移行したことは、考古学的にも証明される。応神が河内王朝に先行する三輪王朝を創始した崇神と同体でありえないのは明らかであろう。崇神と同じハツクニシラスの美称を与えられた神武については、崇神と同体と見ても良いと思うが、ここでは深い議論を避けたい。

 翻って3世紀の畿内を見ると、海部氏が拓いた守山の伊勢集落は、2世紀にはムラの域を脱し、王(キミ)が支配するクニの段階に達していたことが遺跡調査で確認された。海部氏の本拠・丹後に、縄文→弥生時代にかけて、月海のいう海部古王国が成立していたのは疑うまでもない。大和でも同じような様相がある。ここに存在した崇神創業の三輪王朝は、弥生→古墳にまたがる過渡期の王朝と思われるが、うんと遡れば、古く渡来したシュメル族が、縄文時代に神武王朝を開いていたと見ても不自然ではない。天孫王朝に先行する縄文・弥生の王朝の存在は、口碑・古伝もあって隠せない。

 応神の開いた天孫王朝は継体以前に早くも途絶え、天武朝の史書官撰までにはさらに何度か王朝が交替した。史官はそれを百も承知で、縄文→弥生→応神→継体→以後と各王朝を直列に接続して万世一系モデルを創った。その際、神武と崇神は先行王朝の創業者として別格に扱われたのだろう。

 あるいは、史官が応神の天孫王朝創業を尊重する余り、その偉業を先行王朝に投影して、実在した神武・崇神を応神の別名同体と見做した、とも考えられる。ホアカリと同様、応神を3体分けして神武・崇神に割り振ったわけで、3天皇同体説も、この意味でなら理解できる。

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