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日本に渡来したイスラエル族 その4

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2012年10月17日(水)13時54分21秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-569.html

蘇我氏に関する報道

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013020902000236.html

関連URL..........シュメール(キ・エンギ)語で書かれた古事記

http://www42.tok2.com/home/oaksnet/kojiki2.htm

紀元前722年、アッシリアに滅ぼされたイスラエル10支族の末裔が東方に流れ、縄文末期の丹後半島に上陸、海部氏を称して海民を支配し、丹後古王国を建てた。右は丹後国龍神社神官の海部家と分家の丹後穴太村の上田家に伝わる伝承として月海黄樹が紹介したもので、天孫神話とは矛盾するが、その根底は却って信ずべきものと、これまで述べてきた。

 天武朝に始まる史書官撰は、天孫族を列島支配者として正統化することを眼目とし、先行諸王朝の系譜に応神天皇を接続する一方で、先行王朝を卑小化するため海部氏の祖・ホアカリを無視した。ニギハヤヒは子孫の物部一族の存在が大き過ぎて無視できず、天孫族に留めはしたが嫡流から外し、皇統譜上の位置を曖昧にした。そのため物部一族は天孫族中の異端とされ、実質的に国津神(先住民)として扱われた。海部氏の子孫は、直系の海部・上田家の他は、大半が同族の物部氏を称して生きてきた。

 官撰以外にも史書はあった。平安中期に成立した『先代旧事本紀』がそれで、日本書紀・古事記とあわせて官撰史書の三部作と考えられた時期もあったが、実は物部氏が編んだ史書で、ニギハヤヒとホアカリを同体とした点が特色である。

 同書は官撰皇統譜を否定せず、むしろ迎合したうえで、物部氏をそこに嵌め込んだもので、見ようでは物部系譜を奪還したとも言える。江戸中期までは官撰史書よりも尊重されていたが、水戸光圀や伊勢貞丈によって偽書扱いされ、以来名のある史家は言及を避けてきた。

 事ほど左様に、官撰の権威は時とともに増大する。江上波雄が戦後発表した騎馬民族説は、海部伝承から応神襲来と列島征服の部分を抜き出したものと見られるが、一時は国史界に衝撃を与えたものの、今や当初の勢いを失いつつあるようで、やがて官撰史書に権威負けしてしまいそうだ。

 かく言う落合も、最近まで物部史観の意義を知らず、先月まで『先代旧事本紀』を官撰史書の異種と見ていたから、他家を批判できない。しかし以前経営していた東興書院で、古伝ホツマツタヱの解説書『神代巻秀真政伝』と入門書『ホツマツタヱ入門』を出版したのは、官撰史書にない説得性を感じたからで、ことに天照大神を男神とする点に感動した。

「ホンマ(真実)を伝える書」と題するこの書は、天照大神(男神)の事績を詠った叙事詩で、官撰史書が女系優位の倭人に迎合して天照大神を女神に改変したような不純性は見られない。尤も純粋だからこそ、『先代旧事本紀』と同様、時々の権力を憚ったものと思われる。

 だが、龍神社をコモリ神社と読み「神武天皇を育てた子守神を祀った」と説く点などを見ると、起源が海部伝承と異なるようで、そういえば十数年前、『ホツマツタヱ入門』を龍神社に寄贈したら、神官・海部氏から内容について抗議を受けた。結局、この書の本質は、純粋な天孫史観に立つ一種の聖書というべきであろう。

 海部・物部史観の重要性は認むべきだが、月海黄樹を通じた海部・上田家の伝承(月海伝承)には俯に落ち難い点がある。それは神武・崇神・応神の3天皇同体の説で、要するに 「海部家の口伝では、神武天皇は応神天皇、崇挫天皇と同一人物であるとし、古事記においては3世紀頃の天皇とされる応神天皇の時代に、朝鮮・北九州の合衆国の王・応神天皇が大和に東征するに至り・・・」(月海黄樹著『龍宮神示』)という辺りである。

 皇統譜は、縄文を含む先行の諸王朝を直列に接合し、すべての王朝を同一血統と見なし、その後へ天孫族の応神天皇を接続して万世一系とした。応神の河内王朝が数代で絶えた後を継体の新王朝に繋ぎ、以後も何度か交代した諸王朝をすべて同一の血統で繋いだ。つまり、応神の河内王朝以後も縄文以来の【同一血筋】で繋ぎ、皇統万世一系の史観いわゆる血のミトスを貫徹したのである。

  皇統譜上で太祖に位置づけられた神武だが、現実の皇室とは同じ血統でないから、皇室が宗廟に奉祀するのは筋が通らない。皇室も、内心では神武を観念的存在と意識したから、神武の陵墓とか神宮は古来建てられなかった。今の橿原神宮は、宇都宮藩による文久の修陵の際に、種々の論議で決定した御陵候補地に、維新後の東京王朝が創設したものだ。

 ところが天照大神については神武とは扱いが全然違う。天照大神は元もと天照国照彦と呼ばれた男神で、海部氏がイセの宮に祀っていた太陽神ホアカリのことだから、海部氏とその支配下の海民・倭人の崇敬を受けて当然で、倭人が主流をなす国民の間では、伊勢信仰は今日も盛んである。古来、伊勢神宮を「国家の大廟」と尊称し、応神を祀る宇佐八幡宮を「皇室の祖廟」と区別して呼んだのは、そのあたりを反映したものと思われるが、伊勢・ハ幡信仰の隆盛に対して、神武信仰というのは政治的主張を除けば、聞いたことがない。

 崇神を『古事記』は第10代天皇とするが、史家は実在した初代の天皇という。大和地方に古来、崇神陵と伝わる壮大な陵墓が存在していて、物証もある(「行燈山古墳」或いは景行陵と目される「王の塚」)。官撰史書が崇神の没年干支を戌寅とするのも疑う必要なく、実年は紀元258年ないし318年と推定されている。崇神が神武と同じくハツクニシラス(国家創立者)と呼ばれる所以は、3世紀の大和で垂仁・景行と続く三輪王朝を始めたことにあるが、これは同じ時期に文化的変移が発生し、大和地方が弥生文化から古墳文化に移行したとする考古学的知見と符合するから、崇神と三輪王朝の実在はなおさら否定しうべくもない。

  ところが月海伝承は「ニギハヤヒが大和でナガスネヒコとの連立政権を立てたのは3世紀のことで、この時西方から侵入してきた勢力があった」という。そのまま受け取れば、3世紀の大和に、ニギハヤヒ・ナガスネヒコの連立政権とは別に崇神の三輪王朝が存立したことになるが、有り得まい。

 前月号では、ナガスネヒコを縄文系、ニギハヤヒをイスラエル系の新渡来民とする私見を述べたが、崇神の出自についても、ここに私見を示したい。曰く、崇神はニギハヤヒと同体である、と。

 月海伝承は、ニギハヤヒは丹後古王国の海部氏と同族の大和の大王と言い、崇神(神武・応神と同体)は西方からの侵攻勢力というから、両者は真っ向から対立するが、私見は同体と見るのである。天孫神話に「ニギハヤヒは天孫軍の先駆けで大和へ降りたが、ナガスネヒコに籠絡された」とあるのも「応神の軍事侵攻に先立ち、崇神がナガスネヒコと同盟して三輪王朝を樹てた史実を天孫神話に投影したもの」と見るわけである。さらに言えば、崇神の三輪王朝は、土着部族と婚姻を通じて培った交易力を基盤とした商事政権で、ナガスネヒコの役割は軍事保護者、いうなれば傭兵だと思う。

 崇神の出自はイスラエル支族だが、中でも秦始皇帝の国土統一を支えた胡商呂不韋の一族の泰氏だと思う。泰氏の一派は先秦の滅亡後、秦人を率いて朝鮮半島の南端に流移し、そこで立てた秦韓が華僑的商事政権だったことは、当時の支那史書からも窺うことができる。

 秦氏は2世紀頃からぽつぽつと北九州に渡来し、筑前の宇佐郷で縄文族の宇佐君と通婚し、自ら宇佐氏を称した。この説の根拠は、上田家の血筋を引く渡辺政雄が吉薗周蔵に伝えた上田家伝である。「海部も物部も元はユダヤであり、他には宇佐がいて、元々日本人だったが婚姻を重ねてユダヤとなった。宇佐ハ幡」と、渡辺が語った通りを周蔵は記録した (『吉薗周蔵手記・別紙記載』)。

  秦氏は宇佐から豊後に拡がり、その支配地は秦韓に似せて 「秦王国」と呼ばれたが勿論商事政権であった。ニギハヤヒは秦韓の所在する任那から外航用船舶(天磐船)で来航した秦氏後続隊の頭領か、ないしは宇佐で生まれたその子であろう。先遣任務を帯びて大和に入り、ナガスネヒコと交易拠点設置に関する協約を結び、妹を娶って同盟した。ニギハヤヒが舶来物資と一緒にまたらした半島南端の文化は、3世紀の大和の弥生社会を急速に変えたが、今日では古墳文化と呼ばれている。

 以上の私見は、月海のいう3天皇同体説すなわち「古事記においては3世紀頃の天皇とされる応神天皇の時代に、朝鮮・北九州のの合衆国の王・応神天皇が大和に東征するに至り・・・」と、どう整合するのか。

 皇統譜では第15代天皇とされる応神は、月海の言うように「古事記においては3世紀頃の天皇とされる」が、今日の史学は官撰史書の年代を、干支二巡すなわち120年分繰り上げたものと見ており、応神が4世紀に実在したことはまず疑いない。応神が始めた河内王朝の実在も、応神陵・仁徳陵・履中陵の巨大陵墓群が証明して余りがある。

 以上から見ると、前掲文で月海が「古事記においては3世紀頃とされる」とわざわざ強調したのは、自分は応神の実年代を4世紀と見る、との意味だろう。おそらく海部家口伝が応神3世紀説を明言するため、それとの調和に苦しみ、上記の表現を用いざるを得なくなったものか。つまり海部家口伝が、官撰史書の重圧に押されて解釈の歪みを来し、いつしか応神3世紀説が固まってしまい、応神と3世紀に実在した崇神が重なってしまい、両者を同体と解釈せざるを得なくなってしまったものではないだろうか。

 月海伝承の合理的な解釈は、「ニギハヤヒがナガスネヒコと同盟して大和に連合政権を建てたのは3世紀のことで、4世紀になり、西方から応神が侵攻してきた」とするしかないだろう。三輪王朝の首長の名は代々ニギハヤヒで、3代目・景行の代に応神軍が西から侵攻してきた。景行ニギハヤヒはナガスネヒコ(これも世襲名)との同盟軍を率いて戦うが、早々と義兄を裏切り、東征軍に投降した。これは宇佐の秦王国からの指令によるものではないかとも思える。

 魏・呉・蜀の抗争の余波で満洲では騎馬民族が興隆し、その1つが満洲奥地から半島を南下した。応神は元々騎馬族の亡命政権で、半島南端では辰王と称していたが、押し出される形で九州に来襲した。侵入者の応神を、宇佐の秦氏が入婿にした。応神は辰王自身ないし秦氏との間の子で、これに軍権まで与えたのは、秦氏伝統の傭兵戦略には違いない。しかし、その奥には、半島時代すでに辰王と秦韓の間に特別な関係があったと思う。   

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