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日本に渡来したイスラエル族 完

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2012年10月17日(水)14時19分14秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-571.html

 戦前の教科書歴史は皇国史観に立ち、民族の起源を天孫神話に求めた。天神・アマテラスの血を承けた天孫二二ギの子孫が万世一系の皇室として、永久に皇国日本を治め、また臣民には天神地祇の子孫たる神別、皇宗の分岐たる皇別、渡来人たる諸蕃の3種類が居るが、それぞれ対等で、天皇にお仕えして大和民族を形成しているというものである。

 政治的方便としては有効かも知れぬが、20世紀はかかる鎖国的史観の通用する時代ではなかった。敗戦により天孫神話が否定され、皇国史観は逼塞した。代わって登場した弥生倭人史観を象徴するのが登呂遺跡と志賀島金印とおよび騎馬民族征服王朝説である。

 登呂遺跡は紀元100年頃の弥生後期の遺跡で、昭和18年静岡市で軍事工場の敷地を整備中、たまたま発見された。昭和22年から再発掘され、続々発表される遺物は敗戦に打ちひしがれた国民に大いなる希望を与えた。要するに皇国史観を否定されて祖先を見失った国民に対し、新たな精神の拠り所として弥生史観を与えたのである。

遺物中で注目すべきは、

①コメには水田種の温帯性ジャポニカ以外に陸稲種の熱帯性ジャポニカが混じっていること、
②土器が縄文武と弥生式の混在するいわゆる「接触式」であることで、これらは登呂文化が「縄文要素を残した弥生文化」なることを明示しており、縄文族が倭人と、その水田稲作技術・弥生武土器などの文化を受容することにより、縄文社会が急速に弥生社会に移行した史実を証明している。

 静岡市の登呂遺跡がムラの段階であるのに対し、滋賀県守山町の近江伊勢遺跡はクニの水準に達している。本稿が主張してきたように、近江伊勢遺跡はイスラエル族の流民たる海部氏が建設したクニで、王は海部一族だが、生産民の大半は海部氏が江南から連れてきた倭人で、海部と混血した者が官僚層の臣(おみ)となったと思う。近江伊勢遺跡は、竪穴式住居の壁に煉瓦を使用するなど弥生遺跡中の異例だが、これは地名の「イセ」が示す通り海部氏直轄領だったためにイスラエル的要素が濃いのであろう。
これに対して登呂遺跡では弥生文化中に潜むイスラエル的要素が減退し、その代わり縄文的要素が混在しているわけで、これからして登呂の住民は倭人が主体で、縄文族との混血も居たものと思われる。海部郡海部郷は丹後・越前・伯耆の山陰地方と豊後・筑前の北九州のほか、阿波・紀伊・尾張など西日本各地に分布するが、東日本では上総だけである。これを見るに海部氏が直接ムラ・クニ作りに関与したのは主として西日本で、東日本では倭人が主体となってムラ作りを進めたようで、理由は何といっても人数であろう。人口構成では、キミ層の純イスラエル族はごく少数で、倭人との混血のオミ層もその数多からず、人口の大半のタミ層は倭人が占めたものと思う。

 皇国史観はイスラエル族渡来を完全に否定したから、今日でも国民の大多数はそれを聞いてもなかなか信じない。祖先が天孫ならぬ倭人と聞かされた国民の関心は、直ぐに志賀島金印と魏志東夷伝倭人条に誘導された。志賀島金印に関しては本稿で宮崎市定の話を紹介しつつ、その偽造なることを論究したが、その後千葉大教授三浦佑之が『金印偽造事件』を著し、且つ最近『新潮45』において拙論を敷衍された。教授は小生よりもずっと以前から、金印に疑念を持たれていたと言う。その偽造なることの科学的証明は、学界にその意思さえあれば、直ぐにもできよう。

 志賀島金印を支えたのは後漢書と魏志東夷伝倭人条で、前者は官撰史書、後者は官撰地誌で一応の参考にはなるが、中華思想が国民の歴史観念を誤導する点に問題がある。倭人条などよりも国民を驚かせたのは騎馬民族征服王朝説で、東京大学教授・江上波夫が昭和23年に初めて唱え、古墳時代の前期と後期では副葬品が一変し、前期には祭祀具が多かったが後期には馬具が多くなると指摘して、おおよそ次のような説を建てた。

即ち「4世紀前半に騎馬族の夫余族が南下し、南朝鮮から北九州に渡って来て九州王朝(崇神天皇)を建てたが、九州王朝の応神天皇が5世紀の始め頃に大和に入り、河内王朝を作った」というものである。
 本稿は江上説と異なり、「崇神」を3世紀に大和地方で土着縄文族のナガスネヒコと共同政権を建てたニギハヤヒの同人異名と考える。ニギハヤヒ実在論に立つから、ニギハヤヒが架空ならばそれまでだが、論者も物部氏の実在は否定できず、その祖先(ないし祖神)としてのニギハヤヒを否定し得べくもあるまい。ただし本稿の主旨はニギハヤヒが別名を崇神
と称したと言うのではない。崇神とは数世紀も後の諡(おくりな)で、それを贈られた官撰史書上の大王は、時代・血統・事跡などいずれを取っても史実には合致しないから、単純な崇神不在説も誤りではない。だが、史官が崇神天皇に仕立て上げたモデルたる大王は実在したとみるべきで、人心が実在感を持つニギハヤヒを無視しえない史官が皇統譜に取り込み、血統・人格を皇統譜の都合に合わせて変改し、崇神天皇としたものと見るのが至当である。本稿は、ニギハヤヒを海部とは別派のイスラエル系で宇佐から入ったものと考え、崇神天皇のモデルと見たが、江上教授のごとく、九州に実在した夫余系某王を崇神のモデルと考えても絶対に不可ではない。ただし、その場合はニギハヤヒ本人と、大和の崇神陵の被葬者のことを合理的に説明することが必要である。

 ともかく騎馬王朝説が弥生史観と共鳴したのは、征服王朝の支配者は騎馬族であっても、被支配民の大半を倭人と見た点にある。江上説は、前漢が朝鮮半島に進出して楽浪郡を置いた時、これに対応して倭人の1部が対漢交易の目的で朝鮮半島南端部に移住し、同時に北九州に渡来したとしており、倭人渡来説を包含している。そもそも歴史はかかる大スケールで見ないと本質を洞察できないもので、江上学説は一般国史学者の域を超えた理論として過言ではないが、同時に不審は、ここまで洞察した江上教授になぜ縄文文化が見えなかったかである。それは多分、江上の方法論に原因するものと思う。蓋し江上説にはネタ元がいて、ネタ元が教えたのは縄文以来の歴史伝承のうち倭人渡来と騎馬族来襲の部分だけであった。そのネタ元こそイスラエル流民の渡来伝承を代々伝えてきたアヤタチで、もし夫れ海部氏の本家か分家の丹波穴太村上田家の関係者でないとすれば、物部氏の末裔ないし宇佐秦氏の直系ということではないだろうか。

 イスラエル遺民のなかでも、海部氏が3世紀以後振わないのは騎馬族に対して正面から抵抗したためで、「応仁3年全国で海士の反乱が相次ぐ」と史書に記す通り、海人の全国的な抵抗は騎馬族の軍事行動により制圧され、各地のイセ集落は焼亡を免れず、生き残った海部氏も大半は僻地に隠れ、同族の物部氏を偽装同化したものと思う。その証拠は、海部の祖神ホアカリが物部の祖神ニギハヤヒと同体なりとする伝承が各地に根強く存在するからで、この古伝承は同じイスラエル系から派生した両氏が、氏族統合したことを裏付けていよう。

 騎馬民の渡来・征服後も、物部氏はなお強盛であった。渡来してきた夫余族は、統治権を正統化するために海部・物部の神話を借用してスキタイ的天孫降臨説に結び付け、日本建国の神話を拵えたが、その関係で、両氏の歴史上の位置を故意に卑小視せざるを得なかった。武力反抗した海部氏はほとんど無視したが、一方の大族たる物部氏を無視できず、天孫神統譜土に物部氏を支流として編入するとともに、縄文時代からの土着豪族を国津神として神別に編入した。秦人は弓月君の引率民として、秦氏ともども諸蕃に編入された。

 イスラエル族の中でも秦氏は海部・物部氏と異なり、数世紀にわたり任那地方に僑居して交易国家・楽韓を建てていた。仄聞するところ、渡来某民族には山渡人・海渡人の区別があるという。蓋し海部氏が華南から海上を渡って丹後に至り、物部氏も巨艦天磐船を操ってどこからか渡来してきたのに対し、秦氏は西域から大陸内部を流移して遂に日本列島に至ったもので、例の区別は或いはイスラエル系に2種あることを意味するものかも知れぬ。ともあれ、秦氏が任那の1角に楽韓を建てていた頃、近所に騎馬族の1派が駐屯し辰韓と呼ばれていた。両者は元来別の民族で、分かれて住んでいたが、巷に溢れるどの史書にも楽韓=辰韓としているのは、音通によるものだろうが、用字が違う以上意味は異なる筈である。

 辰韓の辰王1族を江上は夫余族と断ずるが、スキタイの末裔と思われる。広義のトルコ系で、同族に追われて満洲から南下し、半島南部に駐屯していた。武力と智略が売り物の騎馬族は生産活動が苦手で交易民族と共生することが多い。共存関係にある楽韓を防護するために、隣接して設けたキャンプが辰韓であろう。何しろ秦氏は、西戎の秦を支援して始皇帝を擁立した呂不韋の子孫で、由来性格的に政権の表面に立つのを好まず、誰にせよ武力に優れた者を王者として奉り、自らは傍らで経済活動・文化活動に勤しむ道を取った。これこそワンワールド・バンカー的性格の発現とも言えよう。

 その後も南下を活発化する同族に圧された辰王は日本渡来を決心し、秦氏が以前から秦人を連れて入植していた北九州に入る。居ること数年、天磐船の纜(ともづな)を解いた辰王が平和裡に大和に入ってニギハヤヒになったとの考えも絶対に不可能ではない。その場合は本稿従来の立場、すなわちニギハヤヒ崇神を宇佐の秦氏が庇護した新来イスラエル族とする見方を変改し、宇佐秦氏の養子となった辰王、とするのにやぶさかではないが、要するにニギハヤヒの本質を商権と見るか軍権と見るかであって、決着を急ぐことはあるまい。

関連URL..........伊藤博文

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87

伊藤の生まれた周 防 国(すおうのくに)日本の旧国(令制国)のひとつ。現在の山口県東南部にあたる。

熊毛郡(くまげぐん)は、山口県東部の郡である。

人口32,228人、面積119.63km²、人口密度269人/km²。(2012年9月1日、推計人口)

以下の3町を含む。

上関町(かみのせきちょう)
田布施町(たぶせちょう)
平生町(ひらおちょう)

注:田布施は朝鮮人部落

 問題はむしろ東征者の八幡大神応神で、江上は①辰王崇神の子孫と断定するが、その他に、②辰韓に残っていた夫余王1族の新来者、③辰王を圧迫して任那を追い出した扶余族系の新来者、とも考えられる。九州から大和に入りニギハヤヒを破って出羽に敗走させたイハレヒコ(神武天皇)のモデルとなった応神の出自は何か。それはニギハヤヒが誰かによって筋立てが徴妙に異なるが、すべてがあり得る。なかでも月海のいう3天皇同体の説に最も近いのは①であろう。

 いずれにせよ、応神はスキタイ系の夫余族に違いはなく、これ以上の詮索は取りあえず無用であろう。


スキタイ系の関連URL..........

http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_hb/a3fhb204.html


●江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」と「日ユ同祖論」は、これまでお互いに何の関係もなく、それぞれ別個に日本文化の特質と天皇制国家のルーツを追求する仮説とみなされてきたが、これを歴史哲学的に分析してみると、仮説構造の特徴においてかなりの共通点があることに気付く。

●「騎馬民族征服王朝説」は、実際には、スメラミコトといわれた天皇が古代シュメールの王家に由来する可能性を暗黙の前提として組み立てられており、アッシリア帝国に滅ぼされた北イスラエル王国(10支族王朝)の王家と天皇家との関わりを明らかにするため、騎馬民族スキタイ人の移動経路を追及したものと見る研究家もいる。

江上波夫氏は、天皇制の遠い起源が北方ユーラシアのステップ地帯にあると考え、ここから満州・朝鮮を南下した扶余族系の騎馬民族が、ひとまず任那に「辰王国」を建てた後、九州に上陸して大和へ東征し、日本国家の基礎をつくったと想定したわけだが、その時期は、崇神天皇から応神天皇に至る数人の天皇が在位したと記されている4~5世紀のこととされる。

●一方、ユダヤのラビ(ユダヤ教指導者)であるサミュエル・グリンバーグは、早くから古代イスラエルの失われた10支族の一つ、ガド族がシルクロードを経てアジアに向かい、天皇家の祖先として日本に渡来したと唱え、『大和民族はユダヤ人だった』の著者ヨセフ・アイデルバーグもまた、天皇家の祖先ないし日本の有力氏族が大和朝廷を樹立したのは4~5世紀の頃であったとみなしていた。

更に、多くの研究家によってヘブライ集団ではないかと注目されている「秦氏」一族(10万人以上)が、応神天皇の招きによって百済から渡来したのは、高句麗と倭が朝鮮半島の宗主権を巡って激しい戦いを演じていた4世紀末~5世紀初頭のことであった。

●このように、支配民族の渡来ルートとその時期は、「騎馬民族征服王朝説」も「日ユ同祖論」も4~5世紀の朝鮮半島に求められ、前者で紀元前8世紀のスキタイ民族にまでさかのぼられた支配民族のルーツは、後者においては紀元前8世紀に滅亡した北イスラエル王国の10支族に求められる。

なお、ここで注意してほしいのは、朝鮮半島は大和民族にとって単に「経由地点」に過ぎなかったのであり、日本人と朝鮮人は異なる民族である可能性が高いという点である。

●ところで、北朝イスラエル王国がアッシリア帝国によって滅亡(紀元前722年)した頃、スキタイ系騎馬民族は北方ユーラシア大陸を支配していた。彼らは、イスラエル10支族を連行したアッシリア帝国にも、たびたび戦いを挑み、ときには騎馬の機動力を駆使して、アッシリア帝国内にまで深く侵入し、甚大なダメージを与えている。

このスキタイ系騎馬民族の侵入によって、アッシリア帝国は徐々に国力を低下させ滅亡の道へ至ったとされている。

一般にスキタイ民族はアーリア系と言われているが、実際は多くの民族によって構成されていたという。チンギス・ハーンのモンゴル帝国内では、モンゴル族以外にアーリア系白人をはじめ、中国の漢民族、そしてセム系のユダヤ人まで存在していたことが知られている。

また一般に騎馬民族は、チュルク系、モンゴル系、スキタイ系などと区分されているが、実際は、その境界はあいまいにされている。その意味で、当時、スキタイ民族とイスラエル10支族は同盟関係、もしくは合流があったのではないかと推測する研究家がいるのである。

このスキタイ民族の勢力範囲であるが、スキタイ系特有の墳墓である「積石塚」は、北方ユーラシア大陸のアルタイ地方のみならず、西はヨーロッパ、東は朝鮮半島にまで及んでいる。そして、それと全く同じ構造をもつ墳墓が、この日本列島から1500基以上も見つかっているとのことである。

●かのモンゴル帝国は「騎馬民族国家」であったが、モンゴル族は西はメソポタミア地方北部から東は朝鮮半島まで、またたくまに勢力下におさめている。そして、チンギス・ハーンの孫のフビライは、大船団を組んで日本に2度も襲いかかっている。また、似たようなことは平安時代にもあって、このときは東北アジアの騎馬民族「女真族(じょしんぞく/ジュルチン)」が襲来し、「刀伊の禍」が起こっている。

よって、日本に騎馬民族が襲来することは、長い目で見れば、決して珍しい現象ではないと言えよう。

●またユーラシア大陸をながめるときに「シルクロード」という存在は無視できないものであるが、古来、このシルクロード貿易を独占していたのはユダヤ人の商人(絹商人)であったことが、一般によく知られている。

更に、イスラエル共和国の「テルアビブ民族博物館」に展示してあるJ・P・プロイス博士の著書『古代開封之清真教史略』によれば、古代ヘブライ人は今から3000年も昔のソロモン王の全盛時代から、インド洋を越えて極東地域に来ていたという。BC950年頃のヘブライ系部族の一つ古代海洋民族フェニキア人は、インド洋に通じる海洋路を知っていたというのである。

以上、大和朝廷の不思議なヘブライ色を考慮にいれたら、ヘブライ系騎馬民族が古代日本にやってきたというのは、全くSFのような話ではないのである。

ところで、ちょっと蛇足的な紹介になるかもしれないが、興味深い事柄なので紹介させてもらう。

天皇制には昭和とか平成とかいった「元号」があることは誰でも知っているが、「皇紀」が存在していることを知る人は多くない。今年(1997年)は皇紀2657年である。皇紀は紀元前660年から始まっているのであるが、これはちょうど北イスラエル王国が滅ぼされた直後の時期に当たっており、まだアッシリア帝国の治世下でイスラエル10支族が捕囚されている時期に相当している。よってこの時期、アッシリアに捕囚されていた北朝の残党たちが、新しい王朝を再結成したのではないかと推測する者もいる。この時に皇紀がスタートしたというわけだ。


●また、天皇の公式名「スメラ・ミコト」は、古代ヘブライ語アラム方言で「サマリアの大王」を意味し、初代神武天皇の正式名「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」は、「サマリアの大王・神のヘブライ民族の高尚な創設者」という意味になっているという。「サマリア」とは北イスラエル王国の首都である。

サマリアで拙稿を検索すると11件出てきます。

http://angel.ap.teacup.com/applet/gamenotatsujin/msgsearch?0str=%82%A0&skey=%83T%83%7D%83%8A%83A&x=0&y=0&inside=1

『豪華な家と贅をつくしたサマリアはアモスによって否定される。「わたしは冬の家と夏の家を打ち壊す。象牙の家は滅び,大邸宅も消えうせると主は言われる。(アモス書第3章15節)。このような記述は最初列王記Ⅰ第22章39節で書かれている。つまり「イスラエルの王の歴代誌」に書かれているという旨。』

更に、天皇の古称「ミカド(帝)」はヘブライ語に訳すと「ガド族出身の者」という意味に当たり、ガド族の始祖ガドの長男の名前は「ニェポン(ニッポン/英語ではジェッポン)」であったという。

あと、「東方の日出づる国」は古代よりヘブライの民にとって「天国」を意味しているが、約束の大地カナンは「カヌ・ナー」の転訛としてヘブライ語で読むとき、「葦の原」を意味し、「東方の日出づる国」はヘブライ語で「ミズホラ」と呼ぶので、日本の古名「豊葦原(トヨアシハラ)ミズホの国」の意味が判明すると指摘する研究家もいる。

更に、大和朝廷の「ヤマト」はヘブライ語アラム方言では、「ヤ・ウマト」と分解され「神の民」という意味になるという。

●まあ、あまりこういった事柄を持ち出すと、単なる言葉のゴロ合わせのような印象を深めがちだが、直接証拠にならずとも「傍証」として注目に値するであろう。

ただし、日本とヘブライの関係を考える場合、「共通点」とともに「相違点」も数多く存在していることも事実なので、「日ユ同祖論」に関する結論はあまり急がないほうが賢明なようだ。

日本と古代ヘブライ人の間に何かしらの深い関係があったとしても、日本人全体がヘブライの末裔とは限らず、日本の支配階級の者たちだけがヘブライの末裔なのかもしれないし、日本に辿り着いたヘブライの末裔たちは反対勢力によって滅ぼされたのかもしれない……。いろいろな可能性が考えられる。

アッシリア王国に滅ぼされたサマリアの古代ヘブライ人たちは、 シルクロードを東へ東へ突き進んでいったと推測されている

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