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日本に秘められた謎を解く その2

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2012年10月18日(木)17時41分51秒
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  http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/category23-1.html

でもなぜ秦氏は、空海を未来への鍵として選んだのでしょう?同時代の偉大な宗教家としては天台密教の最澄がいます。彼でも良かったのではないでしょうか?この疑問について少し考えてみたいと思います。

秦氏が空海を選んだ理由。それは空海の持つ特殊な能力にあったと考えられます。空海は
大地が発する気を読み取る能力を持っていました。だから活動領域は中央構造線に沿っていたのです。また空海は大地を錫杖で打ち、清水を湧き出させました。各地に弘法清水があるのはご存知ですね。それらは空海の能力の一端を示すものです。

次にイエスと空海の共通点を見ていきましょう。まず、イエスが生誕したのは大地溝帯の北端部ベツレヘムで、空海が生誕したのは中央構造線が走る四国の讃岐です。両者の生誕場所に構造的な類似性があり、その結果、二人とも大地の気=神の力、を受けて特殊能力を得たと推測されます。

空海は24歳から31歳までの間消息が途絶えます。イエスは19歳で大工になってから30歳まで行方不明となりました。期間は別として、この点にも共通性があります。

イエスは行方不明とされる間、インドからチベット方面に行き、伝道や仏教の勉強に携わったという説があります。19世紀ロシアの探検家、ニコラス・ノトビッチは、チベットの僧院で彼の足取りを記す古文書を見つけます。ヒミス寺院のキリスト古文書には、チベットやインドにおけるイエスの伝道記録が記されていたのです。イエスはインドやチベットで伝道してからイスラエルに戻ったとの推測も成り立ちそうです。イスラエル各地で伝道して後、イエスははりつけになったのですが、ミトラの秘儀により蘇ったと想像します。

蘇った後のイエスは、使徒トマスとともに再び東に向かいます。イスラエルは安全ではないから当然ですね。トマスはインドに到達した後、死を迎えます。トマスの死後、イエスは中国に向かいました。これらは推測(妄想に近い推測です(^_^;))ではありますが、少なくとも、紀元後すぐに原始キリスト教が中国にまで到達しているのは確かなことです。一般的には紀元60年代とされています。

ここで日本に目を転じましょう。与佐がヨシュアであるのはご存知ですね、イエスはヨシュアのギリシャ語読み。彼が日本に到来したとして、当時の天皇は垂仁天皇です。アマテラスが元伊勢の与佐宮に向かったのは、ちょうどこの頃。一体アマテラスは何をしに、与佐まで向かったのでしょう。アマテラスはイエスを出迎えに与佐へ向かった、そう空想したくなってきます。イエス・アマテラス同体説は、秦氏がミトラ神を媒介として担った象徴的なもののはずですが、具体性も出てきそうな雲行きになりました。

話はまた飛ぶのですが、福岡県朝倉市(2006年甘木市と朝倉郡が合併)に麻氐良布(まてらふ)神社という奇妙な名前の神社があります。周辺には多くの古代遺跡が存在し、邪馬台国はこの地にあったのではないか、と言う説さえあります。

神社の名前から(まてらふ)はアマテラスのことだ、あるいはマテラ=マタラ=摩多羅神だとの2説があるのですが、酔石亭主の視点からはその両方を意味することになります。アマテラスが摩多羅神であれば、それはミトラ神に繋がり、ミトラ神はイエスと繋がってしまうからです。

空海が『三教指帰』を著した秦楽寺は、聖徳太子のブレーンである秦河勝の創建であり、またアマテラスが宮中を出て最初に巡行した場所が笠縫邑なのですが、寺の中にはアマテラスを祭る笠縫の名がついた神社があって、この一帯を笠縫邑とする伝承まであります。

イエスは大工の子で、聖徳太子信仰と弘法大師信仰を担う中心は大工を始めとした各種技能・職人集団です。しかも、大工などによって信仰を支えられた聖徳太子は厩戸皇子であり、イエスは馬小屋で生誕しました。イエスは神の声を聞き、伝道を開始しました。空海は高野山から立ち昇る気(=神の声)を感知し、ここを真言密教の総本山としました。

キリスト教はミトラ教と結びついて勢力を得ました。ミトラ神はインドに入って弥勒菩薩に変容します。イエスは、ミトラ神の死と再生の秘儀を受け継ぎ、はりつけになった後、蘇りました。空海は、弥勒菩薩すなわちミトラ神とともに下生すると弟子に告げ、入定しました。

以上より、空海とイエスは、太陽神ミトラ(=弥勒菩薩)を媒介として極めて近似した存在であると断定できるでしょう。そして、イエス、アマテラス、秦氏、聖徳太子、空海が一本の糸で結ばれてしまいました。

要するに空海は、大地の発する気=神の声を聞く能力があり、秦氏からしてみればイエスに擬せられる必然性がありました。だからこそ秦氏は空海を重要視し、未来への鍵を託したのです。空海に託された鍵は開かれ、秦氏の思想は空海を通して明らかになりました。しかし、これで秦氏の謎が解かれた訳ではありません。日本に封印された巨大な謎を解く旅は、まだまだ続きます。

秦氏の思想はほぼ明らかになりましたが、彼らの行動もまた謎めいています。そこで、今回から数回にわたって、秦氏の活動のどの部分に謎があるのかを見ていきたいと思います。

秦氏は新羅系の渡来人という意見があります。今までの検証から、彼らが新羅の民でないことは明らかですが、ではなぜ新羅系という説が出たのでしょう?それは、秦氏が新羅を経由して日本に渡来したからだと考えられます。秦氏は利用できるものは何でも自分の中に取り込んでしまう一族です。新羅にいる間に、この地の様々な要素を取り込んだことは想像に難くありません。

そのせいか、日本神話の最重要人物(=神)たちが、揃いも揃って新羅の系統に繋がっているように思えます。例えば、皇祖神アマテラス。この神は現在の天皇の祖先神とされ、弟のスサノオが問題を起こしたとき、天の石屋戸に入ったとされます。

石屋戸は通常の理解では古墳と思われますが、日本の古墳は入り口が封印され、引き戸形式にはなっていません。引き戸になっているのは、朝鮮半島にある統一新羅時代の古墳のはずです。またアマテラスを祀る伊勢神宮は秦氏の影響を受けていますが、これは既に書いているのでご存知ですね。

アマテラスの弟であるスサノオは、言うまでもなく新羅から渡来した神です。スサノオと秦氏の関係も既に検証済です。以上から、日本の最も重要な神々は新羅から渡来したと考えられるのです。

しかも、新羅の王子天之日矛の子孫が神功皇后で、皇后の子供が応神天皇でした。また皇后は、しばしば丹生都姫や卑弥呼に比定され、卑弥呼はアマテラスに比定されています。応神天皇に至っては、秦氏の大王という説もあるほどです。秦氏が新羅経由渡来したから、日本古代史は新羅の影響が強いということになりそうです。

そもそも日本初の歴史書とされる『古事記』自体、新羅よりの記述が多く、大和岩雄氏は『古事記と天武天皇の謎』(ロッコウブックス)において、『古事記』には秦氏の関与があるとしています。『古事記』の編纂を命じた天武天皇も親新羅の天皇で、聖徳太子同様謎の多い人物とされます。

『古事記』に秦氏の関与があり、その『古事記』の編纂を命じ、伊勢神宮のアマテラスを皇祖神化したのが天武天皇でした。だとすれば、当然天皇と秦氏の間には接点があったはずです。ではここで天武天皇の事績を見ていきましょう。以下Wikipediaより引用します。

即位後は飛鳥浄御原令の制定を命じ(天武10年(681年)2月)、律令国家の確立を目指す。
天皇の宗教的権威も高められた。伊勢神宮の祭祀が重視され広瀬・竜田祭が国家事業として行われた。斎宮が制度化されたのも天武朝の時代であると言われている。またこの頃から新嘗祭と大嘗祭の区別などがされ、現在にまで継承されている。仏教に対しても大官大寺等の造営が進められるとともに僧尼の統制が強化された。
天皇自身、占星を得意としたのに加え、当時陰陽道などが律令国家である唐や新羅で盛んに行われたのが影響もしてか占星台や陰陽寮も設置させている。

天武天皇は天皇制が制度として確立してからの、実質的初代天皇と言っても過言ではありません。天皇は壬申の乱で大友皇子を破り、律令制度を始めとして国家の支配・管理体制を整備していきます。これにより、天皇の権威は絶対的且つ普遍的なものとなっていきました。

天武天皇は、氏族政治から中央集権政治への転換を果敢に断行。この制度を組織的に支えるため、官僚制度を整備しました。次に、陰陽道を司る陰陽寮や占星台を設置します。陰陽寮という組織は朝廷直属の中務省の下にありました。そして天皇自身天文・遁甲・陰陽五行を自在に操ったとされます。天皇はまた『記紀』の編纂に着手し、伊勢神宮社殿の建築を始めとする神社建築を推進、神祇制度を制定強化しています。

いかがでしょう?ここまで見てきて疑問が湧きませんか?天武天皇が諸施策を実行に移したのは、天皇絶対制を確立するためです。それだけなら体制の整備だけで十分なはず。ところが天皇は官僚をコントロールするため陰陽道を取り入れ、『古事記』も陰陽五行思想の影響下に置きました。また伊勢神宮にも同様の措置を取り、女神アマテラスを皇祖神化しています。

『古事記』の場合、序の部分は陰陽五行思想の影響を色濃く受けています。序第一段には、混沌とした状態が、天地分かれ、陰陽ここに開けた―とあります。序の第二段では、天皇は二気(陰陽の二つの気)の正しきに乗り、五行の序を整え、国を治めた―と書かれています。『古事記』の記述によると、日本国の成り立ちまでもが陰陽五行そのものですね。

日本人の心を象徴する簡素で清浄なお宮とされる伊勢神宮は、日本を代表する建築物とされています。ところがです。最も日本的と思われる神域に、実は非日本的思想が深く入り込んでいます。例えば、『伊雑宮』のお田植祭の神事においては、水田に竹が立てられます。約9メートルの青竹に扇型が取り付けられ、『太一』と大書されています。

また、伊勢へ奉納する品々を積んだ船には、『太一御用』の旗が掲げられていました。20年に一度の遷宮における杣始祭(そまはじめまつり)でも、太一の文字の幟(のぼり)が見られるのです。

このように、伊勢神宮ではあらゆる場面で太一が現れます。太一とは、陰陽五行思想における原初の混沌を意味し、これが天地(陰陽)に分かれ、次いで五つの要素に分かれていきます。最も日本的なはずの伊勢神宮に、外国思想である陰陽五行が色濃く取り入れられていたのです。

天皇のこうした行動は不自然に感じられます。記紀の編纂目的が天皇絶対制の確立を内外に示し、天孫の神と豪族の神を系譜化することにあるなら、陰陽五行は必要ないはず。また伊勢神宮にしても、アマテラスを皇祖神化し社殿を建てるだけで意図するところは十分に達せられます。

では、なぜ陰陽五行なのでしょうか?また、天皇絶対制を支える目的で官僚制度を作ったのに、どうして官僚や貴族をコントロールする陰陽寮などを設置したのでしょう?平安貴族や官僚は、陰陽師のアドバイスなしには自分で何一つ決められませんでした。引っ越しですら、いつ、どの方角にするのか陰陽師と相談していたのです。そのせいか、今でも京都では他地域に比較して方角を気にする人が圧倒的に多いようです。

これは酔石亭主の直感なのですが、陰陽五行の導入や陰陽寮設置は、別の目的を持った裏の策と思われます。しかも、記紀や皇祖神を祀る伊勢神宮まで、これでがんじがらめになっているのです。がんじがらめになっている、という雰囲気を作ったのが天武天皇だとすれば、表面の支配体制の裏側に、極めて異質な体制が整えられていると考えられます。まるで二重仕掛けの装置のようですね。

天武天皇が構築した二重仕掛けの体制。これにはどんな意味があるのでしょう?一般的に言って、疑問や矛盾点のあるところには、必ず裏の目的が隠されています。天武天皇の背後に秦氏の影がちらついている以上、二重仕掛けの体制に秦氏の関与も想定されます。秦氏は何を目的として天武天皇を操ったのか?これを探っていく前に、秦氏の実体を様々な側面から検討していく必要があるでしょう。

話は急に変わります。実は秦川勝の没地について、腑に落ちない点が一つあったのです。彼の没地が播磨国の坂越であることは既に書いていますが、なぜ川勝が坂越を終焉の地としたのか、説明がつきません。猿田彦の一族が誘ったから、という考えも成り立ちますが、川勝ほどの人物なら自分の死地は必ず意味のある場所を選ぶはず。ということで、この問題に関してあれこれ考えてみました。

まず川勝が坂越に至る手段を見てみましょう。彼は「うつぼ舟」に乗って坂越の地に着いたとされます。うつぼとは、瓢箪のように中がうつろになったものを意味します。うつぼ舟とは、他界から来てこの世の姿になるまでの間、何かの中に入っていることを意味し、死と再生を象徴するものでもあったのです。そして秦川勝は、死と再生を司る一族秦氏の日本における代表的人物です。

だとすれば、坂越には死と再生を象徴するものがあり、それを求めて川勝はこの地に至ったと推定できます。そこまで考えると答えが出ました。川勝の墓は、彼を祀る大避神社の正面に浮かぶ生島にあります。生島は神社の神域となっており、島の形は大避神社側から見ると、まぎれもなく瓢箪型だったのです。

これこそが川勝が死地を坂越に選んだ理由に相違ありません。『歴史に秘められた謎を解く その9』において、秦氏=豊=匏=瓢箪=巨丹=方舟=聖櫃で、それらは全て死と再生の象徴であると書きました。ロジックの筋は一応通していますが、やや強引に結びつけてしまったという感触は今も残っています。しかし、川勝の没地から判断すれば、上記の考え方に間違いはなかったとも思えてきます。

そう、秦川勝は瓢箪の中に入って死ぬことで、いつの日か再生できるとの確信を持ち、この地を選んだのです。


今回は平安京遷都までの秦氏を概観しつつ、どのような疑問が出てくるか見ていきましょう。

下の写真ですが見事なセーマン(五芒星)で整合性が取られています。

秦氏の祖は始皇帝とされていますので、そこから系図風に書いてみます。
始皇帝―故亥皇帝―孝武皇帝・・・・・功満王―弓月君(融通王)・・・・秦酒公(雄略天皇期の人物)・・・秦大津父(欽明天皇の時代に活躍)、秦川勝(565年~645年頃の人物で秦氏の中で最も有名)、秦嶋麻呂(聖武天皇の時代の人物)、秦朝元(八世紀前半に活躍した人物)、藤原種継(737年~785年)。一方で、徐福―長男・福岡・・・・秦氏、の流れもあります。

始皇帝と徐福はいずれも不老不死にこだわった人物であり、秦氏として自分たちの祖先に設定するには都合がよかったのでしょう。自分たちに都合のよいものは何でも取り込む秦氏の面目躍如ですね。

弓月君に関しては、以下Wikipediaより引用します。

弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ、生没年不詳)とは『日本書紀』に記述された秦氏の先祖とされる渡来人である。新撰姓氏録では融通王ともいう。
『日本書紀』では応神天皇16年に朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化したという。秦の皇帝(始皇帝とされる)五世の孫であり、渡来後、日本に養蚕・機織を伝えたとされる。

秦酒公は、『日本書紀』によれば雄略天皇に仕えた人物で、庸、調の絹や絹織物を献上してうずたかくつんだので禹豆麻佐(うつまさ)の姓をあたえられたとされています。

秦大津父(はたのおおつち)は『日本書紀』によると、深草に居住していた人物です。欽明天皇(539 年~ 571年)が幼少のころ、「大津父という人物を寵愛すれば、壮年になって必ず天下を治められるであろう」との霊夢を見て、深草の里にいた大津父を探し出し、側近としました。大津父はその後大蔵の司に任じられています。

秦氏は養蚕、土地開墾、金属精錬、土木建築、工芸、芸能などあらゆる分野に亘って専門的、先進的技術を持っていました。また呪術にも長けています。

芸能分野では、聖徳太子の支援者だった秦川勝が大和猿楽の祖とされ、能楽の創始者である観阿弥、世阿弥などはその流れに連なっています。

正倉院文書の戸籍帳によると、8世紀初頭豊前国(福岡東部から大分県北部)仲津郡と上三毛郡の9割以上が秦氏でした。秦氏は雄略天皇期までは大和に在住していましたが、それ以降は大挙して北上し岡田、深草、乙訓などに進出、最終的に山城国に入植しています。他には近江や若狭、河内、播磨、三河でも秦氏の影が濃いようです。いずれにしても、ほぼ日本全土に散っていると考えられます。

秦氏は聖武天皇の大仏建立にも関与していました。これに必要とされる金属は銅、金、水銀となります。銅は宇佐八幡に関連する香春神社(禰宜は秦氏系の赤染氏、鶴賀氏)の銅山などから提供しており、水銀は若狭から調達しています。東大寺の初代別当は良弁(ろうべん)僧正ですが、彼も若狭出身の秦氏です。大仏建立には高度な技術が必要だから、この面でも秦氏の支援なしには実現不可能だったと思われます。

また、聖武天皇が恭仁京を造宮した際の功労者が秦嶋麻呂です。天平14年(742年)造宮録として恭仁京の造営にたずさわり、従四位下の位を得て、太秦公(うずまさのきみ)の姓をあたえられました。

桓武天皇が長岡京を造営した際の造営長官藤原種継の外祖父は、秦朝元であり、長岡京のある乙訓は秦氏の支配地域です。そして、彼らは平安京の造営にも深く関与しました。そもそも荒地の山城国(今の京都)を開墾したのは秦氏であり、大内裏は彼らの居住区上に造られたのです。

さらに、平安京の造宮長官は藤原小黒麻呂ですが、資金は岳父の秦嶋麻呂から出ているし、小黒麻呂の妻は秦嶋麻呂の娘で、その子葛野麻呂は、名前を秦氏の支配地域である葛野から取っているのです。平安京遷都の背後にも秦氏の存在がありました。

ここで疑問が湧いてきます。秦氏は、大仏建立、平安京造営などで莫大な資金や資材、労力を提供しましたが、それに見合う見返りを受けてはいません。というか、受けようとする意志もなかったように思えます。これはなぜでしょう?秦氏は無償で何でも提供するボランティア団体だったのでしょうか?もちろんそんなはずはありません。この謎はいまだに説明がつかず、秦氏研究の専門家を悩ませている問題です。

秦氏は日本史上最大・最強の渡来氏族です。しかし彼らが得た地位はその実力に比較してあまりにも低すぎました。このギャップがどこに由来するのか、今日まで様々な議論がなされていますが、答えは得られていないのです。

ただ、酔石亭主の視点から見ると、見返りを受けなかったことや、実力に比較して地位が低い理由は簡単に説明がつきます。

秦氏は現世的な地位や富に全く興味がなかった、彼らの関心は別の方面にあったということです。疑問に対する答え自体は単純なものでした。しかしです。では彼らの関心はどこにあったのか、なぜ彼らは歴史の闇の中に消えていったのかを考えると、途端に一筋縄ではいかなくなってしまうのです。

これは秦氏に関する大きな謎です。だとすれば、上記の謎の中にも、秦氏の秘密に迫る糸口があるかもしれません。

管理人注:秦氏の関与した平安京は「シャローム !」(平安でありますように)という意味。

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