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日本に秘められた謎を解く その3

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2012年10月19日(金)03時03分16秒
  通報 返信・引用 編集済
  酔石亭主の管理人さま...........ありがとうございます。ただしWikiの情報ではミスリードされる可能性もありますね。

隠されていた祭祀曼陀羅

http://uumusou.yamanoha.com/monoomoi/qbl-1.html


関連URL............疑史

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1041

関連URL..........日本に渡来したイスラエル族

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1040

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/category23-0.html


今回は平安京遷都までの秦氏を概観しつつ、どのような疑問が出てくるか見ていきましょう。

秦氏の祖は始皇帝とされていますので、そこから系図風に書いてみます。

管理人注:秦氏は西戎の秦を支援して始皇帝を擁立した呂不韋の子孫なのでは?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E4%B8%8D%E9%9F%8B

始皇帝―故亥皇帝―孝武皇帝・・・・・功満王―弓月君(融通王)・・・・秦酒公(雄略天皇期の人物)・・・秦大津父(欽明天皇の時代に活躍)、秦川勝(565年~645年頃の人物で秦氏の中で最も有名)、秦嶋麻呂(聖武天皇の時代の人物)、秦朝元(八世紀前半に活躍した人物)、藤原種継(737年~785年)。一方で、徐福―長男・福岡・・・・秦氏、の流れもあります。

始皇帝と徐福はいずれも不老不死にこだわった人物であり、秦氏として自分たちの祖先に設定するには都合がよかったのでしょう。自分たちに都合のよいものは何でも取り込む秦氏の面目躍如ですね。

弓月君に関しては、以下Wikipediaより引用します。

弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ、生没年不詳)とは『日本書紀』に記述された秦氏の先祖とされる渡来人である。新撰姓氏録では融通王ともいう。
『日本書紀』では応神天皇16年に朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化したという。秦の皇帝(始皇帝とされる)五世の孫であり、渡来後、日本に養蚕・機織を伝えたとされる。

秦酒公は、『日本書紀』によれば雄略天皇に仕えた人物で、庸、調の絹や絹織物を献上してうずたかくつんだので禹豆麻佐(うつまさ)の姓をあたえられたとされています。

秦大津父(はたのおおつち)は『日本書紀』によると、深草に居住していた人物です。欽明天皇(539 年~ 571年)が幼少のころ、「大津父という人物を寵愛すれば、壮年になって必ず天下を治められるであろう」との霊夢を見て、深草の里にいた大津父を探し出し、側近としました。大津父はその後大蔵の司に任じられています。

秦氏は養蚕、土地開墾、金属精錬、土木建築、工芸、芸能などあらゆる分野に亘って専門的、先進的技術を持っていました。また呪術にも長けています。

芸能分野では、聖徳太子の支援者だった秦川勝が大和猿楽の祖とされ、能楽の創始者である観阿弥、世阿弥などはその流れに連なっています。

正倉院文書の戸籍帳によると、8世紀初頭豊前国(福岡東部から大分県北部)仲津郡と上三毛郡の9割以上が秦氏でした。秦氏は雄略天皇期までは大和に在住していましたが、それ以降は大挙して北上し岡田、深草、乙訓などに進出、最終的に山城国に入植しています。他には近江や若狭、河内、播磨、三河でも秦氏の影が濃いようです。いずれにしても、ほぼ日本全土に散っていると考えられます。

秦氏は聖武天皇の大仏建立にも関与していました。これに必要とされる金属は銅、金、水銀となります。銅は宇佐八幡に関連する香春神社(禰宜は秦氏系の赤染氏、鶴賀氏)の銅山などから提供しており、水銀は若狭から調達しています。東大寺の初代別当は良弁(ろうべん)僧正ですが、彼も若狭出身の秦氏です。大仏建立には高度な技術が必要だから、この面でも秦氏の支援なしには実現不可能だったと思われます。

また、聖武天皇が恭仁京を造宮した際の功労者が秦嶋麻呂です。天平14年(742年)造宮録として恭仁京の造営にたずさわり、従四位下の位を得て、太秦公(うずまさのきみ)の姓をあたえられました。

桓武天皇が長岡京を造営した際の造営長官藤原種継の外祖父は、秦朝元であり、長岡京のある乙訓は秦氏の支配地域です。そして、彼らは平安京の造営にも深く関与しました。そもそも荒地の山城国(今の京都)を開墾したのは秦氏であり、大内裏は彼らの居住区上に造られたのです。

さらに、平安京の造宮長官は藤原小黒麻呂ですが、資金は岳父の秦嶋麻呂から出ているし、小黒麻呂の妻は秦嶋麻呂の娘で、その子葛野麻呂は、名前を秦氏の支配地域である葛野から取っているのです。平安京遷都の背後にも秦氏の存在がありました。

ここで疑問が湧いてきます。秦氏は、大仏建立、平安京造営などで莫大な資金や資材、労力を提供しましたが、それに見合う見返りを受けてはいません。というか、受けようとする意志もなかったように思えます。これはなぜでしょう?秦氏は無償で何でも提供するボランティア団体だったのでしょうか?もちろんそんなはずはありません。この謎はいまだに説明がつかず、秦氏研究の専門家を悩ませている問題です。

秦氏は日本史上最大・最強の渡来氏族です。しかし彼らが得た地位はその実力に比較してあまりにも低すぎました。このギャップがどこに由来するのか、今日まで様々な議論がなされていますが、答えは得られていないのです。

ただ、酔石亭主の視点から見ると、見返りを受けなかったことや、実力に比較して地位が低い理由は簡単に説明がつきます。

秦氏は現世的な地位や富に全く興味がなかった、彼らの関心は別の方面にあったということです。疑問に対する答え自体は単純なものでした。しかしです。では彼らの関心はどこにあったのか、なぜ彼らは歴史の闇の中に消えていったのかを考えると、途端に一筋縄ではいかなくなってしまうのです。

これは秦氏に関する大きな謎です。だとすれば、上記の謎の中にも、秦氏の秘密に迫る糸口があるかもしれません。

平安京遷都に最大の功績があった秦氏は、何の見返りもないまま歴史の闇の中に消え去ったと書きました。彼らが消えた裏には何らかの事情があったと思われますが、その検討は一旦横におき、今日は平安京遷都の経緯を見ていきましょう。

秦氏は雄略朝まで大和の葛城地方などに在住し、五世紀後半頃には岡田、乙訓、深草などを経由して山城国に進出しました。(賀茂氏と同一歩調を取っていたようです)広隆寺のある太秦や伏見区の深草が、彼らの主要エリアです。全国に3万2千社を数える稲荷神社の総元締め伏見稲荷大社も秦氏の創建になるものです。また、桓武天皇が長岡京を造営した乙訓周辺は、秦氏の拠点の一つでした。

彼らが進出したことにより、当時は単なる荒れ野でしかなかった京都が日本の中枢に大変身しました。秦氏は渡来の技術によって葛野一帯の開墾に尽力し、大堰川の築堤工事を推進し、千年の都の礎を築きます。これだけを見ても、彼らの役割の大きさが読み取れるでしょう。

平安京遷都の問題は、桓武天皇の皇位を巡る争いに端を発しています。その争いの中、天災が相次ぎ、桓武自身も病に倒れます。深刻な事態に直面した桓武は、お祓いなどの手を尽くし、天応元年(781年)、ようやく皇位を手中に収めました。そして延暦3年(784年)、まだ造営途中の長岡京に遷都します。

次に後継の問題があります。父光仁の遺言で、早良親王(さわらしんのう)が桓武天皇の皇太子になると決まっていましたが、桓武は自分の息子である安殿親王(あてしんのう)に皇位を継がせようと考えていました。天皇は、早良親王に藤原種継(長岡京の建設長官)暗殺の濡れ衣を着せ、幽閉します。親王は抗議の断食を行い、10日後に最期を遂げるのです。

桓武の思惑通りと思いきや、これから悲劇が始まりました。夫人の藤原旅子が死去したのに始まり、天然痘の流行や伊勢神宮焼失などの大事件が勃発します。これらの事件は、怨霊と化した早良親王の祟りによるものだとの噂が広まり、天皇は怒りを静めるためあらゆる手段を講じます。しかし、見合う効果は得られません。

万事休した天皇は、怨霊の呪縛が及ばない土地への遷都を決断。延暦13年(794年)、平安京への遷都が断行されます。天皇は怨霊の祟りをいたく恐れ、都の造営に当たって二重三重の対策を講じ、平安京は怨霊封じの都となりました。

しかし、ここでも疑問がついて廻ります。平安京の現実は、怨霊が跋扈する魔界都市のはず。平安京が怨霊封じの都なら、なぜ魔界都市に変貌してしまったのでしょう?どう考えても辻褄が合いません。また、平安京遷都を裏で推進したのは他ならぬ秦氏です。ということは、秦氏も平安京の怨霊封じに一枚噛んでいると考えられます。それにも拘らず、平安京は魔界都市へと変貌しました。秦氏の行動と結果にも、矛盾する部分があるのです。

これらの矛盾こそが、平安京に伏在する大きな謎を暗示しているように思われませんか?

以上、天皇が平安京への遷都を断行した裏には、やはり隠された事情がありそうです。一般に流布した説を白紙に戻し、平安京遷都の真の理由を検討し直す必要があるでしょう。では、怨霊封じの都平安京が一方では魔界都市とされる矛盾は、どのように再構成し直せるのでしょう?謎の真相に迫るにはまず、桓武天皇が構築した平安京の怨霊封じの仕掛けを知る必要があります。

怨霊を封じるため、平安京には前代未聞の仕掛けが構築されています。桓武天皇は山城国葛野郡に都を定めるに当たって、中国の風水思想を用いました。風水によれば、北に玄武、東に青龍、南に朱雀、西に白虎を配する地がよいとされます。四神相応の地ですね。京都は三方を山に囲まれ、南に傾斜しています。これは山からの気が都に流れ込み、南へ抜けていく理想的な形。よって京都は、都を構えるに最適な地とされているのです。

次の対策として桓武天皇は、神仏を挙げて怨霊封じの仕掛けを作りました。古代の信仰は山の磐座をご神体とする例が多いのですが、天皇は、京都にある東西南北の磐座の下に『一切経』の経文を埋めます。これにより古代信仰の霊力と、仏の霊験を最大限引き出すことになるのです。

これだけ手を尽くせば天皇もひと安心、とは考えなかったようです。まだ安心できない天皇は、スサノオを引っ張り出します。スサノオに大将軍の名前を与え、都の東西南北に配しました。例えば大将軍八神社ですね。この神社は旧大内裏の西北角に位置していることから、塞神を祀った祭場が、疫神の侵入を防ぐ目的で、王城鎮護の神祠になったもの。大将軍は陰陽道で祀る八将神の一つです。

愈々鉄壁の防御陣が敷かれたと思われるでしょうが、なお不安の種は尽きません。怨霊から身を守るには、鬼門を封じる必要があるからです。鬼門は艮(うしとら)の方角、すなわち北東方面に当たります。そこで、上賀茂神社、下鴨神社の改築を行い、早良親王の怨霊を慰める上御霊神社、辻の神である幸神社などを配置しました。

鬼門の北東ラインは、そのまま秦氏が創建した松尾大社から蚕の社、大内裏、下鴨神社の糺の森、比叡山の日吉大社を直線で結ぶ夏至の日の出遥拝線になります。つまり鬼門ラインに秦氏系か秦氏に関連する神社が並び、都の守りを固める構成となっているのです。

鬼門まで封じれば、もう完璧、と太鼓判を押したくなりますが、桓武天皇は最後のダメ押しとして、最澄に比叡山延暦寺を開かせます。比叡山は鬼門の北東ライン延長線上にあるため、延暦寺を平安京守護の大霊場として配置したことになります。

天皇は怨霊を封じるため平安京に鉄壁の防御陣を敷きました。それなのに防御陣は脆くも崩れ、平安京は魑魅魍魎が跋扈する魔界都市に変貌したのです。

さてどうしましょう。平安京の怨霊を封じる仕掛けを見ていくだけでは、謎は全く解けないということになってしまいました。

もう皆さんもご存知のように、謎のあるところには常に秦氏の関与があります。そして秦氏は、平安京にあって最も重要な鬼門ライン防御の一端を担っています。だとすれば、秦氏と秦氏の関係する鬼門ライン上の神社を探ることで、平安京の謎を解く手がかりが得られるかもしれません。

ということで、これらの神社についてざっと見ていきましょう。

まず松尾大社です。Wikipediaによれば以下の通りです。

大宝元年(701年)、勅命により秦忌寸都理(はたのいみきとり)が現在地に社殿を造営し、山頂附近の磐座から神霊を移し、娘を斎女として奉仕させた。以降、明治初期に神職の世襲が禁止されるまで、秦氏が当社の神職を務めた。

松尾大社は京都嵐山にあり、祭神は大山咋神(おおやまくい)と中都島姫命です。『古事記』によれば大山咋神は鳴鏑(なりかぶら=音のする鏑矢のこと)を用いる神とされています。諏訪大社で頻出した矢がここにも出現している点は留意すべきでしょう。

ところが『秦氏本系帳』によれば、秦氏女子が葛野川上流から流れてきた丹塗矢を持ち帰ったとの伝承があります。『秦氏本系帳』はこの丹塗矢を松尾大明神としています。要するに松尾大社には丹塗矢と鳴鏑の二種類の矢の伝承が重なっていることになります。

なお、大山咋神の父親は大年神(おほとしのかみ)で、穀物神とされています。大山咋神は『古事記』によると、近江国の日枝山および葛野の松尾に鎮座し、鳴鏑を神体とするとされています。

大年神の兄弟神が食物神の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、秦氏の伏見稲荷大社の祭神となります。この大年神の父親がスサノオということになります。松尾大社は、筑紫の宗像つまり秦王国の中都大神が松埼に天下り、秦忌寸都理が松尾に勧請して成立したとされます。

酔石亭主の目には、秦氏は自前の神様を持たない一族に映ります。元々この地には松尾の神の信仰があり、それに秦氏が入り込み社を造っているのです。また秦氏は、なぜか穀物系の神を取り込んでいるようにも見受けられます。松尾大社は桂川を望む地にあり、秦氏はここに治水施設である葛野大堰を造成しました。

松尾大社の境外摂社に月読神社があり、この神社も秦氏の影響下にあると推定できます。日本書紀では月読命は月弓命と表記されており、秦氏の祖である弓月君との関連が推定されます。月と桂はご存知のように秦氏と深い関連があり、大月には秦氏関連の地名があり、桂川と葛野川まであります。月読神が保食神の元に赴く際、桂の木に寄りついた、との記述が『山城国風土記』に見られ、両者の関係を示すものとなっています。

秦氏が月に象徴されるのは、表に出ない彼らの性格を示し、また月読命が殺した保食神の死体から五穀や蚕が生まれたのは、月神が死と再生の霊力を持つこととも関係していると理解されます。

松尾大社には数々の祭祀がありここでは書き尽せません。詳しくは白水社の『日本の神々 神社と聖地5』をご参照ください。秦氏関連の神社は、そのほとんどを大和岩雄氏が執筆しています。

次が賀茂社です。この神社は飛び抜けてややこしい神社と言えます。賀茂社には通称上賀茂神社、正式名賀茂別雷神社(かものわけいかずちのかみのやしろ)と通称下鴨神社、正式名正式名賀茂御祖神社(かもみおやのかみのやしろ)の2社があります。まず、上賀茂神社に関して以下Wikipediaを参照します。

『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神ともいう。玉依日売とその父の賀茂建角身命は下鴨神社に祀られている。
延暦13年(794年)の平安遷都の後は王城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、大同2年(807年)には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。

Wikipediaの説明もややこしいですね。丹塗矢は秦氏の居住地である乙訓神社の火雷命(ほのいかづちのかみ)ということですが、一方で鳴鏑の大山咋神とも考えられているのです。つまり上賀茂神社においても、丹塗矢と鳴鏑の二種類の矢が重なっていると見られます。

次に下鴨神社である賀茂御祖神社を見ていきましょう。こちらもWikipediaを参照します。

(この神社は)上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命の母の玉依姫命と玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀ることから「賀茂御祖神社」と呼ばれる。八咫烏は賀茂建角身命の化身である。付属施設に糺の森(ただすのもり)、みたらし池がある

いかがでしょう?上、下社の祭神に違和感を覚えませんか?上社は別雷命、下社はその母親と母親のお父さんを祀っているのです。となると、別雷命のお父さんである火雷命が抜け落ちていることになります。これはちょっと変ですね。

火雷命は秦氏の拠点であった乙訓郡の社に坐せる神。そして火雷命は丹塗矢でもあります。ちなみに秦氏の蚕ノ社は元糺の森と呼ばれています。下鴨神社糺の森の元は蚕ノ社ということになり、秦氏の賀茂氏に対する影響力が窺えます。

下鴨神社では別雷命の母親である玉依姫命と、玉依姫命の父である賀茂建角身命が祀られているのですが、火雷命と玉依姫命の子供が別雷命であることから、下社の祭神は賀茂建角身命ではなく、丹塗矢(火雷命)を鳴鏑(大山咋神)と見立てて、大山咋神とする説が一般的です。つまり下鴨神社でも丹塗矢と鳴鏑の二種類の矢が重なっているのです。

次が日吉大社です。これもWikipediaを以下参照します。

文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見である。日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山を指す。
牛尾山(八王子山)山頂に磐座があり、これが元々の信仰の地であった。磐座を挟んで2社の奥宮(牛尾神社・三宮神社)があり、現在の東本宮は崇神天皇7年に牛尾神社の里宮として創祀されたものと伝えられている。三宮神社に対する里宮は樹下神社である。
近江京遷都の翌年である天智天皇7年、大津京鎮護のため大神神社の神を勧請した[1]。以降、元々の神である大山咋神よりも大己貴神の方が上位とみなされるようになり、「大宮」と呼ばれた。
平安京遷都により、当社が京の鬼門に当たることから、鬼門除け・災難除けの社として崇敬されるようになった。

日吉大社東宮の祭神も大山咋神で鳴鏑を用いる神。この神は牛尊とも呼ばれ、スサノオの子孫ですが、秦氏系の大年神の子供に当たります。しかし西宮には大神神社の大己貴神が天智天皇の時代に勧請され、以降こちらが日吉大社の中心となっていきます。大己貴神は大物主神と同神で、大物主神は『古事記』に丹塗矢として記載されています。何と、日吉大社でも鳴鏑と丹塗矢という二種類の矢が重なっているのです。

混乱させられますが、そもそも乙訓神社は秦氏の支配地でそこの祭神火雷命が丹塗矢であり、『秦氏本系帖』によると松尾大社には丹塗矢の伝承があります。つまり丹塗矢は秦氏を象徴していると考えられ、一方鳴鏑の大山咋神はスサノオの孫に当たります。

以上を整理すると、鬼門ライン上にある三社にはいずれも丹塗矢(秦氏系)、鳴鏑(スサノオ系)が出現しており、秦氏とスサノオの両者が共同で鬼門の防御に当たっているようにも見受けられます。秦氏にとっては、この地を霊的に設計する上で、比叡山や下鴨の地が重要ポイントだったので、日吉大社と賀茂社を取り込み、鳴鏑矢ライン(大山咋神=シュメール・スサノオ系)に丹塗矢ライン(秦氏系)が重なってしまったとも考えられます。

ついでに京都で矢の出てくる他の神社もチェックしましょう。乙訓神社は火雷命が祭神ですから丹塗矢ですね。伏見稲荷大社も『山城国風土記逸文』には秦氏・中家忌寸(ナカツイエノイミキ)等の遠祖・伊侶具(イログ)は稲や粟などの穀物を積んで豊かに富んでいた。ある時、餅を使って的として弓で射たら、餅は白い鳥になって飛び去って云々とあり、矢が出てきます。

また日吉大社の神使は猿であり、その実体は猿田彦と考えられます。猿田彦の猿は鬼門ライン上の各所に出現します。まず御所の、鬼門に当たる北東の角は直角に欠け、塀が内側にへこんでおり、この場所を猿が辻と言います。この塀の屋根瓦の下には猿の彫刻が置かれ、猿田彦が御所を守っているのです。

その延長線上に幸神社があり、そのまた延長線上に、天台宗慈覚大師の遺命によって建立された赤山禅院があるのですが、これらにも猿の彫刻が置かれ、その延長線上に比叡山があって、比叡山を守護する日吉大社が琵琶湖側に控えているという構図になっています。つまり、平安京にとって最も重要な鬼門ラインを、秦氏とスサノオ、猿田彦が共同で防御している構図になっているのです。

それに加えて、鬼門には坤(南西)方向にも怨霊の侵入口があります。いわゆる裏鬼門ですね。ここには城南宮が配されています。城南宮は元々秦忌寸を氏神とする真幡寸神社でした。それだけではありません。巽(南東)と乾(北西)にも剣神社と愛宕神社を配しています。愛宕神社は愛宕山で役小角が修行したところで、修験道の聖地としても有名な場所。加えて羅城門や鞍馬寺には兜跋(とばつ)毘沙門天像を安置し、王城の監視をさせているのです。ちなみに、毘沙門天はミトラ神とされています。

以上を見ただけでも、桓武天皇が構築した平安京における怨霊封じの仕掛けは、水も漏らさぬ完璧な態勢と言えるでしょう。何しろ秦氏、スサノオ、猿田彦が鬼門ライン、丹塗矢ライン上にあって防衛の任に当たっているのですから。

なのに、平安京は怨霊が跋扈する魔界都市になってしまいました。ここに大きな矛盾があるのです。ではどうこの矛盾を解消できるのでしょう?

今まで、怨霊を封じるため平安京に様々な仕掛けが構築されたという視点で見てきました。しかし、もしかしたらその視点自体に誤りがあるのではないでしょうか?

よく考えてください。上記した全ての神社は、いずれも平安京遷都以前に創建されているのです。

つまり、平安京の怨霊封じとは何ら関係なく、強力な防御網が張り巡らされていることになります。では、彼らは一体何から何を護ろうとして、これほどの防御ラインを設置したのでしょう?

またまた困ったことになりました。平安京の謎を解こうとして、より大きな謎がまた一つ増えてしまったのです。

山城国開拓と平安京への移転、そして都に張り巡らされた壮大な仕掛け。秦氏はこの地に、膨大な資金と労力をつぎ込んだはずです。なのに、あっさりと魑魅魍魎の跋扈を許してしまい、しかも不思議なことに、遷都以降は、いずこともなく姿を隠してしまいます。

あまりにも支離滅裂としか言いようのない秦氏の行動です。もしこれらに意味があるとしたら、全ての事柄はばらばらのように見えて、実は裏で繋がっており、日本史の奥底に秘められた謎とも係わっているのかも知れません。魔界都市平安京を覆う謎の真相は、依然として深い闇の中にあるのです。

今日は伏見稲荷大社から入り、秦氏の謎を検討していきましょう。以下Wikipediaより抜粋します。

伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は京都市伏見区にある神社である。稲荷神を祀る全国約4万社の稲荷神社の総本宮とされる。宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)を主祭神とし、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神(しのおおかみ)を配祀して、五柱の神として祀るが、これら五柱の祭神は稲荷大神の広大な神徳の神名化としている。
和銅年間(708~715年)(一説に和銅4年(711年)2月7日)に、伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)が勅命を受けて伊奈利山(稲荷山)の三つの峯にそれぞれの神を祀ったことに始まる秦氏にゆかり深い神社であるが、秦氏来住以前の原信仰が基礎となったとされる。和銅以降秦氏が禰宜・祝として奉仕したが、吉田兼倶の『延喜式神名帳頭註』所引の山城国風土記逸文(但しこの風土記は延長3年(925年)に編纂の始まったもの)には秦氏が稲荷神を祀ることになった経緯が以下の様に記されている。

伏見稲荷大社に関して『山城国風土記』逸文には、餅を的にして(弓を射たので)餅は白鳥となり飛んでいったという説話が見られ、ほぼ同様の話が、秦氏の支配地域である豊後国の風土記逸文にも見られます。この説話には矢の存在が暗示され、矢は蛇神=ヤハウェ神を象徴しています。

そこで、伏見稲荷大社の特徴を見ていきましょう。この神社は日本における庶民信仰の頂点であり、お稲荷さんの総元締めとしても有名です。しかも稲荷社は、日本全国で3万2千社あるとされ、村々に配置された祠も含めれば数限りないと言えましょう。では、秦氏系や秦氏の影響がある各神社に似たようなものがないでしょうか?

宇佐八幡宮は武家にまで広がった八幡信仰発祥の地で、八幡社は全国に2万5千社。日吉大社は日吉山王信仰発祥の地で、全国3,800社の日吉神社や日枝神社の総本社になります。日吉社参詣といって天皇も何度か行幸しています。また上賀茂・下鴨神社は古い時代から葵祭りがあり、実に盛大なものでした。松尾大社は全国の酒造業者から絶大な信仰を集めています。

これらの事実は何を示唆しているのでしょう?秦氏系の神社はなぜか、天皇から貴族、武家、民衆など、日本の最上層から最下層に至るあらゆる階層にまで浸透しており、その数も天孫系神社と比べ圧倒的に多いのです。加えて、広く人口に膾炙した空海の弘法大師信仰や聖徳太子信仰までも、裏で秦氏が担った形跡があります。

秦氏の神社は日本全国を覆い尽くしていました。平安京遷都の後、自ら姿を隠してしまった彼らの動きと、秦氏系神社が日本を覆う現実との間には、相反するものがあるのです。では、この矛盾をどう整合させ、矛盾のない形に再構成できるのでしょう?またしても別の謎が出てきて、混乱は広がるばかりです。

秦氏の謎もほぼ出そろったようです。

日本人の特殊性の謎、すなわち日本人の意識構造が反転し特殊な性質を持った謎。(日本人の特殊性の謎を解く その3、4はぜひ事前にもう一度目を通しておいてください)
天武天皇が構築した二重仕掛けの体制の謎。
平安京の壮大な怨霊封じの仕掛けと、その仕掛けにも拘らず、魔界都市へと変貌した謎。仕掛けを作って後、秦氏がイスラエル十支族のように、歴史の表舞台から消え去った理由。
秦氏が平安京遷都以前に怨霊封じとは関係なく強力な防御網を構築した謎。
秦氏は消えたのに、秦氏系神社が貴族から武家、民衆にまで浸透したことの意味。

幾つもの奧深い謎が現れました。どれを取っても一筋縄ではいきそうにありません。けれども、これらの謎に対応する秦氏の仕掛けは基本的に一つだけのような気がします。つまり、一つの謎が解ければ後は芋づる式に、残り全部の謎が解かれていくのではないでしょうか?いよいよ秦氏が日本に仕掛けた巨大な謎を解くタイミングが到来したようです。

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