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からゆきさんと外貨獲得

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2012年10月19日(金)21時14分17秒
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  関連URL......Behind The Myth

その1 http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/225.html

その2 http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/226.html

その3 http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/227.html


秀吉の伴天連(バテレン)追放令の論理

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nihonchristokyoshico/tuihorei.htm

http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-entry-686.html

九州の炭鉱。この炭鉱の石炭は不純物が少なく良質であったため、船で台湾、東南アジアに運ばれ、英国海軍の軍艦の燃料となった。そしてこの石炭の運搬船には、誘拐された日本人女性が乗せられ、売春婦としてヨーロッパに「売り飛ばされた」。
日本の農村で農作業をしていた女性を、暴力を使い誘拐し、学校帰りの女子学生を殴り倒し、誘拐し、売春婦として、ヨーロッパに売り飛ばした
誘拐し、売春婦としてヨーロッパに売り飛ばした、日本人女性の数は50万人。50万人が、全員、20歳代で梅毒等で死亡した。

英国貨物船のことで、青煙突がトレードマークだった。この船は北九州で産出する石炭を東南アジアに輸出するために往来していたが、からゆきの密航を乗せた。乗せられた女たちは、真っ暗な船底に押し込められ、飯もろくに与えられず、石炭の中に糞尿垂れながしにさせられ、道中屈強な船員たちに強姦され続けて行った

からゆきさんとは唐(中国)に行く女性を意味します。中国に行き働けば3度3度の食事が出来て、両親に送金が出来ると口説かれて、おびただしい日本人女性が渡航、密航しています。中国行きが看板でしたが、実は世界の津々浦々まで日本人女性が売られてゆきました。そうです。貧困による人身売買です。明治の疲労困憊していた経済はこのような犠牲、女性の送金で立ち直ったともいえます。

これらのフィリピン在住日本人の人口の男女比は「からゆきさん」の増加する1900年以降、女性の割合が比較的高く、特にマニラ及びその周辺は、廃娼運動の高まる1918年頃まで25%前後以上を保っていました。

慶応義塾をつくった福沢諭吉が、女性を海外に売り飛ばすことを推奨したことは以前に書いた(2月16日)。同じく明治の元勲・伊藤博文も女衒・村岡伊平治がゴロツキを集めて女性を誘拐したりだましたりして、海外に連れていき売春させる仕掛け(犯罪)を賞賛し、女郎屋をもっと増やせと言っているのである。こういう福沢や伊藤をわれわれは紙幣(1万円札)の顔にしていた。

送り出し側の日本にとっては、外貨獲得の尖兵としての価値を見出し、密航者が多かった「からゆきさん」を黙認していたようです。あの福沢諭吉すら「そういう土地に行って、必要とされる娼婦の仕事をし、帰国時には相応の銭を持って立派に家を建てる者も多く、この様に、いずれにおいても利益の多き事なので、移住の奨励と出稼ぎを自由にするのは経世上の必要なること」と「からゆきさん」を奨励していました。

オルタナティブ通信より転用

http://alternativereport1.seesaa.net/article/111887599.html

 1885年.天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社.日本郵船が創立される。明治維新により富国強兵の道を歩み始めた日本は.欧米から.あらゆる兵器を購入し続けていたが.欧米への支払いに当てる資金が日本には無かった。

 そこで福沢諭吉は.「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」という指示を天皇に与える。賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に「輸出.売却」し.兵器購入資金を作る.というプランであり.天皇一族は.このプランに飛び付き.実行する(福沢諭吉全集.第15巻)。

 1900年初頭から.天皇の命令の下.「海外に行けば.良い仕事があり.豊かな生活が出来る」という宣伝が.日本全国で大々的に行われた。日本の健全な家庭に育った.当時の若い女性達は.天皇の言葉を信じた。

天皇一族により.だまされ「売春婦として欧米に販売された」日本人女性の数は数十万人。大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり.天皇は.「健全な女性を売春婦」として「売却」する事で.欧米の売春業者から女性1人あたり.数千円.当時.普通の会社員であれば10数年分の給与を手に入れていた。

その金額が数十万人分=莫大な資金が.この天皇一族のサギ行為.女性の人体販売により.天皇一族に転がり込んだ。その資金の一部は戦争のための兵器購入に当てられたが.大部分は天皇の「個人財産」として「蓄財」された。

天皇一族は自分の金儲けのために.健全な若い日本人女性を.だまし.売春婦として.欧米に「売却」して来た。天皇一族は欧米の売春業者と.タイアップした.日本の売春業者であった。

 天皇により経営される日本郵船により.欧米に「売却」された日本人女性は.1人残らず.現地に着くと即座に.売春宿に「連行」され.監禁された。そして売春を強制された。初めての外国であり.逃げ場も.助けてくれる相手も居ない。数十万人の日本人女性が.天皇によって.売春を強制された。これが従軍慰安婦の原型である。

 日本郵船の共同経営者.三菱財閥も.この売春業で巨大化した。この莫大な富を生む売春業に参加させてもらった.お礼に.三菱財閥は昭和天皇の結婚後の新居を.全額.三菱財閥の出資で建設する。渋谷区下渋谷の第一御領地の「花御殿」が.昭和天皇の新婚の住居であり.それは.数十万人の日本人女性を「売春婦として販売した」利益で.三菱の天皇に対する「売春業参加の.お礼」として建設された(山田盟子「ウサギたちが渡った断魂橋」 新日本出版社)。

 また天皇が大株主であった船舶会社.商船三井も.天皇と協力し.同一の「売春婦・輸出事業」に従事する。

 こうして日本人女性の「販売業者」として天皇一族が蓄積した財産は.第2次大戦後.日本に進駐してきた米軍GHQの財務調査官により調査され.当時の金額で1億ドルを超える.と記録されている。

国民に対しては「自分は神」であるとしていた天皇は.女性の人体販売で金儲けし.また日清戦争.日露戦争で中国.ロシアから得た賠償金を.自分の私財として「着服」していた。

戦争中.全ての日本人は餓死寸前の中.軍需工場で「無給」で重労働を行っていた。そうした重労働と.日本人男性=軍人の死によって.戦争によって得られた賠償金を.国民のためでなく.自分の私的財産として.天皇は着服し.密かに蓄財していた。

また日本軍が朝鮮.中国に侵略し.朝鮮人.中国人を殺害し.略奪した貴金属は.天皇の経営する日本郵船によって日本に運び込まれ.日銀の地下金庫にある天皇専用の「黄金の壷」という.巨大な壷に蓄財された。中国.朝鮮から略奪された貴金属.そして賠償金=侵略戦争は.天皇の個人的蓄財のために.行われていた。

この問題を調査したエドワード・ベアは.「天皇一族は金銭ギャングである」と.吐き棄てるように語っている(エドワード・ベア「天皇裕仁」 駐文社)。

 1945年.日本の敗戦が決定的になると.天皇一族は.この蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ.海外に蓄財を「逃し」始める。

天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて.スイスに850万ポンド.ラテンアメリカに1004万ポンド等.広島.長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中.天皇は自分の蓄財を海外に次々と.逃がす事に専念する。

この問題を調査したマーク・ゲインは.海外に天皇が逃した蓄財は.累計で5~10億ドルに上る.としている(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)。

広島.長崎に原爆が落とされ.膨大な死傷者が出.戦後.日本を.どのように再出発させるか.を考えなくてはならない時期に.天皇は.ひたすら自分の蓄財を守るため.数百回に及ぶ海外送金を繰り返していた。

日銀の地下金庫からは.莫大な金塊と貴金属が日本郵船により運び出され.アルゼンチンの銀行.そしてスイス銀行まで遠路.運搬されていた。中国では.日本に逃げ戻るための船舶が無く.逃げ遅れた日本人女性が中国各地で多数.強姦殺人され.子供が殺害されている最中.天皇は貴重な船舶を独占し.自分の金塊を遠路.アルゼンチン.スイス等に運び出していた。

天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く.日本人の事など.何も考えていない事は.明白である(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」 マルジュ社)。

 なお.天皇が.第2次大戦中.「売春婦輸出業」を行っていた商船三井の.天皇の共同経営者が.CIA(当時はOSS)の対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは.何故なのか?

敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員であったのか?

 天皇は戦後.このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を借り.CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に.港区の不動産を次々に買収し.またハイテク産業に投資し.莫大な蓄財を.さらに莫大に膨れ上げさせて行く。

天皇は神でも「象徴」でもなく.単なる金儲け主義の.金融ビジネスマンである。

そして.ここでも.「何故か」.CIAと天皇は「共同経営者」である。

 天皇は.1940年代初頭から.スイス銀行に少しづつ蓄財を「移し」始めるが.ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが.虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのもスイス銀行であった。

天皇はヒトラーに請願し.ナチス・ヒトラーの口座の中に.「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい.そこに天皇一族の蓄財を隠していた。天皇と.ヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する.略奪ビジネスのパートナーであり.ナチスと天皇は一体であった(アダム・レボー「ヒトラーの秘密銀行」 ベストセラーズ・・また.濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)。

 1924年.米国は「排日移民法」という法律を成立させる。日米関係は.まだ険悪ではなく.日本から.余りに多数の若い女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が社会問題化し.それを禁止した法律であった。

 天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の.「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に.1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。

「米国のカリフォルニア州への移民拒否については日本を憤慨させるに十分なものであった。」

 この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。

日本人女性を.だまし.売春婦として米国に「売却」する天皇の売春ビジネス=移民を米国が禁止した.それに憤慨.激怒し.米国と戦争を始めた.と天皇自身が独白しているのである。

天皇一族は.神でも.「象徴」でも無く.人間のクズの集団である。

http://alternativereport1.seesaa.net/article/106394330.html

2008年09月11日
次期首相?麻生太郎の出自

 麻生太郎。九州の麻生炭鉱の経営一族の代表。この炭鉱では第二次世界大戦中、朝鮮半島から銃で脅され無理矢理、日本に連れて来られた朝鮮人が、半ば奴隷として強制労働を強いられた。

麻生一族が殺害した朝鮮人の数は数千人に上る。

この炭鉱の石炭は不純物が少なく良質であったため、船で台湾、東南アジアに運ばれ、英国海軍の軍艦の燃料となった。

英国軍がアジアを、侵略する「原動力」を供給していたのが、麻生一族であった。

麻生一族は「アジア全体にとっての売国奴」であった。

 この石炭の運搬船には、天皇一族と三菱財閥一族によって、誘拐された日本人女性が乗せられ、売春婦としてヨーロッパに「売り飛ばされた」。

日本の農村で農作業をしていた女性を、暴力を使い誘拐し、学校帰りの女子学生を殴り倒し、誘拐し、天皇一族と三菱財閥は売春婦として、ヨーロッパに売り飛ばした。その運搬役が麻生である。

天皇一族と、麻生一族が結託の上、誘拐し、売春婦としてヨーロッパに売り飛ばした、日本人女性の数は50万人。50万人が、全員、20歳代で梅毒等で死亡した。

この誘拐された女性を売り飛ばした金は、圧倒的大部分が天皇家の「私財」となったものの、その一部は「分け前」に預かった麻生家の銀行預金となり、現在、利息が付いて巨額化し、麻生太郎の政治活動資金となっている。

 麻生の企業は、現在、ロスチャイルド系企業ラファルジュ社の、事実上の子会社となっている。

「環境保護でノーベル賞」を受けた、アル・ゴアの石油会社オクシデンタル社は、かつてソ連(ロシア)の石油を、欧米に密売していた。このオクシデンタルの密輸石油を運搬していたタンカー企業が、麻生の親会社ラファルジュである。そして、このラファルジュの顧問弁護士がヒラリー・クリントンである。

麻生政権が出来れば、本格的な、日本ロスチャイルド政権が出来上がる。

http://homepage3.nifty.com/yao/emi-n31.html

一休みに額の汗を拭き拭きテーブルに座ります。目の前に分厚い本がありまして、何気なくページを開きました。
その中央に福沢諭吉の一文「海外労働の進め」が掲載されておりました。この本は時事新報(新聞)の復刻版でだったと思います。
新聞が発刊された当時は明治維新後で、日本が極度に疲弊していた時代です。
滅多に本を読むこともなかったお父さんでも、諭吉の「学問ノススメ」ぐらいは知っていましたので、海外労働の進めに「あれっ?」と疑問がわきました。

図書館では周囲の目を気にして、勉強をしている振りをして、目の前の本を偶然開いただけでしたが、
その後、お父さんは福沢諭吉の「脱亜論」を読むことになりました。
感受性の多感なころでしたので、アジアを蔑視したような「脱亜論」にわけもわからず憤慨しておりました。
その反動で、学業を忘れ、当時の時代調べに没頭していました。当然「からゆきさん」に行き当たります。
からゆきさんとは唐(中国)に行く女性を意味します。中国に行き働けば3度3度の食事が出来て、両親に送金が出来ると口説かれて、おびただしい日本人女性が渡航、密航しています。中国行きが看板でしたが、実は世界の津々浦々まで日本人女性が売られてゆきました。そうです。貧困による人身売買です。明治の疲労困憊していた経済はこのような犠牲、女性の送金で立ち直ったともいえます。

http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/d91ba02b84e455cc56ef6fde4c829f0d

島原の子守り歌は、「おどみゃ島原の おどみゃ島原の なしの木育ちよ…」という歌詞。
 これ以下の歌詞は、「からゆきさんの小部屋」というサイトかをご覧ください。
http://www.karayukisan.jp/no7/index.html
 ここで芹洋子さんの歌声で聴くことができる。悲しい歌を心のこもった優しさで歌い、心にしみる。歌詞は方言なので、意味がとりにくいが、同サイトや、「島原の子守り歌」のサイト
http://www.geocities.co.jp/MusicHall/8142/lullaby.htmで解説されている。
「からゆきさんの小部屋」からの引用と書いたとおり、『島原の子守り歌』は、からゆきさんを歌ったものである。この「からゆき」についても、私の弟子に尋ねたが、誰も知らず、驚いた。
 からゆきとは、江戸時代末期から昭和20年までのあいだに外国に娼婦として売られていった女性たちである。端的に言えば国に捨てられたのだ。 からゆきは天草や島原が最も多かったそうだ。アフリカ西岸に「黄金海岸」という奴隷を運び出した土地に付けられた名前があるが、島原から口ノ津あたりの海岸を「白銀海岸(シルバーサイド)」と呼んだのは、こうした誘拐されたりだまされたりした女たちが密航していった場所だからである。
 歌詞のなかの文言に「鬼(おん)の池の久助どんの連れんこらるばい」とは、鬼池の久助という女衒が人さらいにきて、連れていくぞ、という意味である。また3番の歌詞にある「青煙突のバッタンフール」とは、英国貨物船のことで、青煙突がトレードマークだった。この船は北九州で産出する石炭を東南アジアに輸出するために往来していたが、からゆきの密航を乗せた。乗せられた女たちは、真っ暗な船底に押し込められ、飯もろくに与えられず、石炭の中に糞尿垂れながしにさせられ、道中屈強な船員たちに強姦され続けて行ったのだった。
 からゆきが、教科書には載っていなくても、われら同胞がかくも悲惨な目にあっていたことは、常識になっていなければなるまい。

 例えば、からゆきさんについては、森崎和江、山崎朋子、山田盟子、工藤美代子、谷川健一といった人たちの研究書があるし、文学作品としては、円地文子『南の肌』、秋元松代『村岡伊平治伝』、宮本研『からゆきさん』など多数ある。これらの一つ二つくらいは読んでいなければ、われわれが生きているこの日本社会というものがわかるわけがなかろう。
 言っておくけれど、からゆきは決して昔の話ではない。今は逆にフィリピン、韓国、ロシア、支那などなど世界中から「ジャパゆきさん」として身を売る女性が日本へやってきている。チリから来たアニータなる悪辣なジャパゆきさんに、青森住宅供給公社のバカ男が14億も貢いでしまった事件があったが…。
 それに、現代日本の女性にしても、OLだとか派遣社員とかも、基本構造は同じであって、昔のからゆきよりも相対的にカネは入るようになっただけのことである。劇作家・秋元松代氏が書いた『村岡伊平治伝』の村岡伊平治は、からゆき女性の生き血を吸って巨利を得た女衒の親玉であるが、奥谷禮子(ザ・アール社長)などはさしずめ派遣社員の生き血を吸うおんな女衒(ぜげん)だろう。

 昨日も書いたが、われわれの先祖は天皇族とその配下の権力者によって、部落民とされて、千数百年に渡って虐げられてきたのだ。男は戦争に狩り出されて殺された。女は十代半ばから娼婦とされて世界中にバラまかれ、国にも家族にも捨てられて死んでいった。民衆は税金でしぼりとられるだけ収奪されてきた。だから「産めよ増やせよ」だったのだ。それが日本の本当の歴史である。
 慶応義塾をつくった福沢諭吉が、女性を海外に売り飛ばすことを推奨したことは以前に書いた(2月16日)。同じく明治の元勲・伊藤博文も女衒・村岡伊平治がゴロツキを集めて女性を誘拐したりだましたりして、海外に連れていき売春させる仕掛け(犯罪)を賞賛し、女郎屋をもっと増やせと言っているのである。こういう福沢や伊藤をわれわれは紙幣(1万円札)の顔にしていた(いる)

http://www.geocities.jp/jhonlenjp/page068.html

明治以降のおはなし・・・

明治以降、太平洋戦争の勃発までにフィリピンに渡航した日本人は53,115人にものぼるようです。この数は、同時期に世界各国に渡航した人の6.8%、東南アジアの中だけでは69.7%にあたります。
1896年に施行された移民保護法では、労働を目的として海外に渡航する者と定義されていました。フィリピン行きは、地理的な近さから(南米などに比べると)出稼ぎ傾向がより強く、大半の人がそうであったようです。

フィリピン在住日本人職業別人口調査は、1896年にマニラの日本領事館が再開されてから、ほぼ毎年定期的に行われていました。それを見ると、主な職業は「娼婦(からゆきさん)」「道路工夫」「農夫」「大工」「木挽き」「漁民」「商人」であった事がわかります。

これらの職業から、日本人渡航者の大半は、この頃から起きた植民地での奴隷制度廃止に伴う労働者不足のために大量に増えたアジア系の移民と同じ性格であったものと考えられます。19世紀後半の世界情勢の中で、アジア各地は欧米諸国の従属下に置かれ、その結果国を離れざるえなくなった人をたくさん発生させました・・・この時期、日本も
その例外ではなく(植民地化がされませんでしたが、経済状態は他のアジアの国と同じで、故郷での生活基盤を失ってしまった人々や、その時代のうねりの中で一攫千金を狙った者が、新天地を求めて北海道に移住したり(実は私の先祖の中にも、この時期、一攫千金狙いで北海道に渡った人がいます・・・残念ながら、夢破れてしまったようですが)
あるいは海外に渡ったりしたのです。

その行き先のひとつが、フィリピンであったという事なんですね。

「からゆきさん」・・・
フィリピンで最初に見られるようになった日本人グループの中に「からゆきさん」がありました。「からゆきさん」は19世紀後半から急増したアジアの欧米諸国の植民地開発のため、半ば強制的に未開地や港湾に連行された中国人やインド人などの下層労働者の慰安用、そして足止め用として利用するため発生した中国人娼婦グループを補うかたちで増加し、とくに公娼制度のあったイギリス領植民地などを中心にその数を増やしていました。

「からゆきさん」の受け入れ先には、そのような事情があったわけですが、送り出し側の日本にとっては、外貨獲得の尖兵としての価値を見出し、密航者が多かった「からゆきさん」を黙認していたようです。あの福沢諭吉すら「そういう土地に行って、必要とされる娼婦の仕事をし、帰国時には相応の銭を持って立派に家を建てる者も多く、この様に、いずれにおいても利益の多き事なので、移住の奨励と出稼ぎを自由にするのは経世上の必要なること」と「からゆきさん」を奨励していました。

「からゆきさん」の出身地は九州の人が多かったのですが、やはりその当時、地域的に貧しかったということもあり、「からゆきさん」は地域に富をもたらす名誉でさえあったようです。家族に楽な思いをさせたいという気持ちで「からゆきさん」となり、南洋に行かれた方がほとんどだった事だと思います。
フィリピンでは、1898年のアメリカ領有後、駐留するアメリカ軍の強い要望で1902年末から増加し、1920年までの廃娼まで全土津々浦々に300から400人がいたと考えられます。しかし、廃娼後は激減し、1940年には11人しかいなくなっていたそうです。

この時期、いまや工業国・先進国・・・ようするに「一等国」となった日本は「からゆきさん」の評価をかつての外貨獲得の尖兵、アジア進出の先鋒としての評価から、一転、「国辱」の烙印を押してしまいます。「一等国」としての対外的な面子を重んじて「からゆきさん」を抹殺してしまった日本は、その後の「からゆきさん」の面倒を何一つみませんでした。

当時の知識人たちからも、軽蔑の対象となってしまった彼女達の多くは、慣れない異国で風土病・過労・栄養失調、そして梅毒などによって若くして死んでいってしまいました。
まだ近代化がなされる前の貧乏だった日本を、自分の身を切り売りしての送金で支え、国が発展し面子を重んじるようになると「国辱」として切り捨てられてしまった「からゆきさん」。

彼女達の無念は幾許のものがあったのかと思うと、とても平常心ではいられません。
日本人移民の定着・・・
これらのフィリピン在住日本人の人口の男女比は「からゆきさん」の増加する1900年以降、女性の割合が比較的高く、特にマニラ及びその周辺は、廃娼運動の高まる1918年頃まで25%前後以上を保っていました。

フィリピンにおける日本人移民の定着性は、ダバオの男女比からより明らかになります。1919年まで5%にも満たなかった女性人口比率が、その後急激に上昇し、ダバオでの日本人人口がフィリピンでの全日本人人口の3分の2近くを占めるようになった1928年には20%に迫り、1935年以降は30%を越えて全土平均を上回るようになりました。1940年に
はフィリピン全土での日本人家族人口が14,891人となり、就業人口の13,891人を上まっていました。フィリピンへの日本人渡航者は、単なる海外出稼ぎ労働者から、定住を目的とした家族連れの移住者に変わっていった様子がうかがえます。

これらの日本人移民は、種々雑多な職業に就き、フィリピン全土いたるところで見られるようになっていたようです。彼らは満州移民のような国策移民ではなく、大半は家族・同郷の者を頼って好況時のフィリピンに渡航してきた人たちでした。

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