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日本語こそ,聖書の奥義を解明する鍵

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2012年10月20日(土)22時15分45秒
  通報 返信・引用 編集済
  個人的にはここから始まったんですが...........

ヨブへの答え:教会の原理と精霊の原理

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/122.html

『キリストの死が人間を救うためではないとすると,それは何を意味しているというのであろうか。それについてのユングの解釈は正統派キリスト教のそれとは驚くほどの違いを見せている。ユングは十字架上でイエスの叫び「エリ,エリ,レマ,サバクタニ」に注目する。(管理人注:アラム語で「わたしの神よ,わたしの神よ,なぜわたしをお見捨てになるのですか」という意味でそれは詩篇22にある)ある人物が定義上ありえない言動をするときには,そこに深い意味が隠されているものである。さきにユングは,全知全能の神としてはありえないヤーウエの言動から,ヤーウエの無意識性を明らかにした。ここでも彼は,人間の罪を背負って犠牲になることを承知しているはずのイエスにしては,この叫びが奇妙であることに注目する。なぜここで神に対して苦しみないし恨みの叫びが出るのであろうか。』

驚くべきことにエフライム工房のご主人は「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」をこう説明する............

さて、肝心のイエスの言葉だが、レマというのはエジプト語rmaで「腕に」という意味である。rは前置詞で「~に」、maは「腕尺のマ(=間)」。最後のサダクタニは「裁く手(タ)に」だから、全体では「神よ、裁きの御手に委ねます」が正しい事になる。ルカの方が圧倒的に近いが、それでも「私の霊を」は余計。本当は、十字架に掛けたユダヤ人達を自らは裁くことなく、御父の裁きの御手に委ねるという意味なのである。イエスは裁かない人なのだから、至極当然である。それにしても、どうしてマタイのような解釈になったのか?イエスの時代にはアラム語が公用語で、ギリシャ語やラテン語も使われていた。さらに、復元されたヘブライ語が聖職者の間で用いられていたために、多分に混乱が生じたのだと思う。イスラエルの民が古代エジプト時代に話していた日本語にこそ、聖書の奥義を理解する鍵が隠されていたのである。日本語は本当に尊いのですよ。

関連BBS...........http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/939

http://satehate.exblog.jp/18530991/

tatsujinさんのページで紹介されていましたが

エフライム工房
http://www.geocities.jp/atelier_efraym/index.htm

とても興味深いですね

うちでは、これを載せてみようっと

『カインをぶら下げている日本人』 16.イエスが話した日本語
http://www.geocities.jp/atelier_efraym/kain16.htm

今までは、主に旧約聖書のエピソードを解説してきた。だが、イスラエルの民が古代エジプト時代に話していた言葉は旧約の世界に留まらない。その良い例としてイエスの有名な言葉を取り上げたい。

イエスが十字架に掛けられ、最後に発した言葉が「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」である。

この意味は、

「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」マタイによる福音書27章-46、

「父よ、私の霊を御手に委ねます」ルカによる福音書23章-46、

と分かれている。果たしてどちらが正しいのだろうか?

途中ですが管理人注:ルカによる福音書に座布団10枚!!

この疑問に対する回答は、やはり古代エジプト語と古代イスラエルの言葉である日本語によって成される。先ず、最初のエリであるが、これは日本で昔から行われてきた魞(エリ)漁にヒントがある。魞漁は定置網の一つだが、網の張り方が衣服の襟(エリ)の形をしている。ここには神の名前の本質が隠されている。要するに、神様が両腕を輪にして人を救う形がエリなのである。だから、エリと付く物は全て同じ形となる。

神がエリと呼ばれたのは、旧約時代のヤハウェは人々を魞漁のように囲う形で救済したからである。だが、新約のイエスは異質である。それは、投網による漁のように、積極的に人々を救済する姿勢に表れている。イエスの弟子が漁師というのは、実はこの積極的な救済の象徴なのである。旧約のヤハウェは網に入るのを待ちの姿勢。対して新約のイエスは網を投げて捕まえに行く姿勢。この姿勢の違いが、旧約と新約の神が異なって見える理由なのである。

ところで、網というのはネット・ワークという言葉のように、組織の象徴ともなる。この場合の組織とは教会である。従って、教会に属さない人は漁師としてふさわしくない事になり、イエスの教えに連なる事は出来ないのである。だから、既存の教会に属すか、あるいは自分で教会を構築するか、いずれかが求められる事になる。さらに、投網を投げるように、積極的な活動が求められるのである。この活動が出来ない者はクリスチャンとして失格である。


良い子のための世界史

http://www.geocities.jp/timeway/index.html

http://

 
 
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