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武田泰淳」と石原慎太郎

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2012年10月26日(金)00時33分29秒
  通報 返信・引用 編集済
  転載用URL........http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1076

都知事辞任の会見をたまたま見ていて思い出した。氏は横田基地にも触れていましたが運輸大臣当時はだんまりを決め込んでいた。国会の答弁も自己陶酔的な文学的表現が多く質問者から注意を喚起されたこともあった。

これで決定的になったことがある。誤解を招くことを承知で言おう。会期33日が終わると解散であろうがその後東京直下型人工大地震・大津波は起きるだろう(を起こすだろう)。

もともとマヤ歴の終わるとされる2012年12月21日の三週間前に設定されている。シナリオ通りだ。

ただ選挙に出るなら.......をやるがそれでもいいか?とサンカの頭領であり八咫烏の頭領であるアヤタチの大宮司が慎太郎に会いに来ることは間違いない。

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/591

武田泰淳「異型の者」
投稿者:管理人 投稿日:2012年 8月20日(月)23時31分50秒   通報 返信・引用 編集済
穴山という人物が直情径行的だ。隆起したペニスをむき出しにして控え室を仕切っている障子に走っていって穴をあける。彼の取り巻きや主人公が見守るなか、つぎつぎと障子に穴がくっきりとあけられていく ...............これが問題の文章で石原慎太郎の「太陽の季節」での完全なるパクリである。石原の文体はヘミングウエイで特に物語は「日はまた昇る」のパクリでもある。

ところが話にはまだ続きがある。阿久悠さんの本「時には懺悔の値打ちもある」

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%99%82%E3%81%AB%E3%81%AF%E6%87%BA%E6%82%94%E3%81%AE%E5%80%A4%E6%89%93%E3%81%A1%E3%82%82%E3%81%82%E3%82%8B&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=

の中でこの「ペニス」の件のパクリがあからさまになっている。ところがその後大分あとになってから慎太郎と阿久悠の対談がMXTVで行われていたのを偶然視聴した。慎太郎がこの本を読んでいないのかインタビューに応じた阿久悠が莫迦なのか今もって分からない。

異型の者...........電子文

http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/late/takedataijun.html

http://oceanic.blog70.fc2.com/blog-entry-294.html

 私からするとつかみどころのない主人公だ。社会に対する野望はもちあわせていない。あれをしたい、これをしたいという具体的な計画もない。実家が裕福な寺であったので、その跡を継ぐことが気楽に見えて自然にその道を選んだ。だがまったく後退的な姿勢のままかというと、そうでもない。学生時代には社会主義の運動に参加して投獄された経験もある。僧侶の資格を得るため、本山の寺に一定期間泊り込んでの集団生活をするいわゆる「加行」(けぎょう)の最中に政治的騒動が起きると、堂々と意見を述べて、火中の栗を拾うこともする。そういう正義感をもちながらも、対話のなかでは愛や憎しみを「誤解のうえに成立するものであります」と身辺からとおざけるようなことも言う。また僧侶の身でありながら禁欲的生活にはまったく自信がないと決めてはばからない。そうかといって観念的世界に興味がないわけではない。どうすれば諸観念にとりまかれながら据わりのいい位置をしめることができるか、あるいはできないか、ということも考えないではいない。自分に対する決定論よりも、むしろ曖昧な部分をより重視する、それと世界との関係に知らず知らずに引きこまれる。そんな人物像が見えてくるように思う。

 作者武田泰淳(1912~1976)自身の経歴をモデルにした短編である。武田の実家は浄土宗の寺であり、武田も加行に参加して僧侶の資格をとったからだ。(川西政明の巻末解説参照)だが順番は現在が先で、加行の物語は後にくる。同棲中の女性が勤務している「特殊喫茶」で彼女の勤務明けを待って座っている場面が始まりである。「特殊喫茶」とはなんだろうか。はっきりは書いていないが売春施設であることも考えられる。その「花子」という女性には上客がいて、花子を「マリア」と呼んで高価なプレゼントをときどき与える。既に肉体関係が生じたのかどうかは不明だが、たいへん好きであり、その感情を抑えられなくなっている。主人公は彼を「哲学者」と呼ぶ以上の説明はないが、インテリのようだ。男二人は花子との関係で知り合いになっている。「何か憎悪に似たものでギラギラ両眼をかがやかし、悲痛な切迫した口調」で哲学者は主人公に話しかけて会話は始まる。要は女性を大事にしなさいよという忠告だ。そこから一転して、彼は自分は地獄に落ちると言う。この部分も説明が省略されているが、女性を愛してしまったことへの自責の念が高じたゆえの思いだと受けとれる。たぶん「哲学者」はそれまで学究に打ち込んできて禁欲的生活のもとにあった。倫理的な土台もそこにあったのだ。女にうつつを抜かすことは、そういう生活を裏切ることになる。だが引き返せない。「地獄」をみずからに言い聞かせることで将来の自己処罰を決定づけて、かえって安心して、今後も花子を愛しつづけようとするのではないか。そして、哲学者のその言葉に対して主人公は意地悪な反論をする。この短編の読みどころのひとつである。

「先生は極楽へ往きますよ」
「極楽?」と学者は不機嫌をむき出しに、眉根をしかめた。
「先生が何と言われても、先生は極楽へ往きます」
「何故かね」
「だって人間はみんな極楽へ往くときまっているんですから」
彼は一瞬、呼吸をとめた。そしてさも憎らしそうに私をみつめた。小学校の一年生が黒板に白墨で大きな数字を二つ三つ書き、あらゆる数学上の計算はこれですと主張したときの、大学教授の目まいと憤怒が彼を襲っているにちがいなかった。
(中略)
そして、極楽というブワブワした軟体動物で、地獄往きのスピードを喰いとめられた具合わるさをモグモグと噛みしめている様子だった。(p77~78)


 虚をつかれて狼狽するインテリの表情が目に浮かんで、ある種痛快さを覚えずにはいられない。インテリは愛憎の急迫する情緒のもとでいそいで地獄の理論構築をした。だが思いこみが強すぎると忘れてしまうことがある。主人公が仏教にたずさわる者であることを「哲学者」が知っていたのかどうかは不明だが、罪人もふくめて人間はすべて極楽往生するという浄土宗や浄土真宗の教義をたぶん彼も知っていただろう。それを指摘されて思い出したはいいが、理論的反駁がただちにできない。すると理論も含めた情緒の世界がぐらついてくるのだ。一方、主人公にしてみればみずからの宗の教えを披露するくらい何の造作もないことだ。「うっかりと」「奥の手」が出てしまったにすぎない。理論の面で渡りあう意気込みなどなかったのではないか。ちょっと意地悪をしてみたかったのだ。それにしても哲学者はあっけなくぐらついた。武田はここでインテリの視野の狭さ、脆弱さを指摘したかったのか、それはあるだろう。もうひとつあるのは、あの世ではなくこの世こそ極楽であったほうがいいという主人公の願いだ。(この願いは後の、ある僧との会話に出てくる)女性を好きになる、肉体関係をつくるということは一種の極楽である。そうでなくても女性を好きになることくらいでくよくよしなさんなというやわらかい忠告もふくまれている。前半の部分はこの会話のあたりで終わり、後半では加行とそこでの「この世の極楽」への主人公の執着ぶりが描かれる。

 人間すべては極楽へ往く、そう言って「哲学者」を狼狽させた主人公だが、実は彼もまた同じことを言われて、哲学者とまったく同じ狼狽をしめしたことがあった。十代後半に体験した加行時のこと、ある僧侶との会話においてだが、この世のもろもろに対する執着がまったく無意味になってしまう、あの世の極楽が至上価値ならば、この世の「青春の悲しみも、歓喜も、毛髪もそそけだつ苦悩も、骨も肉もとろけ流れる快楽も」雲散霧消してしまうではないか。そんな馬鹿な、寂しいことはない。こうして彼は、自分の宗の教義をにわかに嫌悪するのだ。彼にとってはこの世の極楽のほうがよほどおもしろいので、加行という修行につきまとう禁欲ほどつまらないものはない。それに違反することに何のためらいもない。たぶん精進料理しか出ないのであろう、実家の書生からさしいれられた寿司などを口に入れたり、夜、女性のいる飲食店に出かけたりする。用意周到、坊主頭をかくすためのソフト帽や衣装もそろえているのだ。醤油をわけてもらうために炊事場に行って、係の若い僧にマグロの寿司を分けてやる場面など印象に残る。主人公はお坊ちゃんだ。

 若い身空で一定期間とはいうものの禁欲生活を送ること、これに積極的な意義をみいだす人は、それほどはいないだろう。宗教教義によほどの支持や興味を抱かないかぎりは。そういう人はこの短編には登場しない。だから禁欲が人に生じさせる変化を経て、教義にふさわしいと思われる人間像が描かれることはない。(主人公と対話した僧がそれにあたるだろうか。また百歳を超える大僧正も回想場面で出てきて、欲望とはまるで縁のない姿が描写されるが、いずれも「若く」はない)総勢約八十人の一人一人まではわからないが、禁欲生活にはつまらない思いを抱いているのではないかとかってに想像してしまう。主人公のようなお坊ちゃんはきわめて少数で、貧乏な階層が大部分だ。若い頃から寺に預けられて苦労をかさねた人、四十代、五十代にもなってようやく僧侶の資格を取ろうとする人もいる。ほとんどの人が就職と生活のために本山の寺に集まっているのだ。

 禁欲を実践したところで、禁欲的志向が安定することはない、むしろ逆である。自分の欲望のありように直面せざるをえない。なかでも女性への思いが募ってくる。主人公も例外ではないが、穴山という人物が直情径行的だ。隆起したペニスをむき出しにして控え室を仕切っている障子に走っていって穴をあける。彼の取り巻きや主人公が見守るなか、つぎつぎと障子に穴がくっきりとあけられていく。これは主人公のような「恋情のオブラート」につつんだ女性の肉体へのあこがれというものではない、生理的欲望そのものを凝視したうえで、その奥底にあるものの発散である。また破れかぶれのその行為には、現在の禁欲生活への怨みとともに将来にわたる穴山の野望と意気込みもこめられている。穴山は貧乏で、反抗心旺盛で、坊ちゃん育ちの主人公を憎悪している。「おめえは死ね。おめえなんか、もう死んじまったっていいんだ。だが俺の方はそうはいかねえんだ。これからいくらでもやることがあるんだ」と吐き捨てる。宗教的静謐とはまるで縁遠い、主人公とはちがった意味での生臭坊主の典型の人物だ。「若者の陰気なニヒリズム」とも書く..............


21世紀の薩長同盟を結ぶことだ...........

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/575


21世紀の薩長同盟を結べ
投稿者:管理人  投稿日:2012年 8月19日(日)09時17分42秒   通報 返信・引用 編集済
   「解決のためのプロセスとして」

『単純化してまとめると、日本では結局、あらゆることが「おまえはどっちの味方やねん?」「おまえはどこの所属の人間やねん?」ということに帰着してしまうのですが、そこであえて、「どっちの味方でもあるかい!俺は”真実”の味方じゃあ!」とタンカを切るような方向にみんなで迎えたらゴールだということです。』

倉本圭造.........

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%80%89%E6%9C%AC%E5%9C%AD%E9%80%A0&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=

ブログ.....http://keizokuramoto.blogspot.jp/

http://blacknightgo.blog.fc2.com/blog-entry-2190.html

21世紀の薩長同盟を結べ(倉本圭造)
内容に入ろうと思います。
本書は、京大からマッキンゼーに就職するも、「グローバリズム的思考」と「日本社会の現実」との矛盾に大きな違和感を抱き退職、日本で「カルト宗教団体」や「肉体労働」や「ホストクラブ」など、とにかく様々な職業現場に潜入し肌感覚としてそれを捉え、船井総研を経て独立。現在は、個人相手の人生戦略コンサルティングなるものを起業し、企業ではなく個人相手に、ビジネスに限らず相手が望んでいる願望の実現の手助けをしている著者による初の著作です。

内容の紹介は後でうんざりするほどしますけど、この本メチャクチャ面白かった!!

僕はホント、結構好きで新書を読むんですけど、これまで読んできた中でもトップクラスの面白さでした。新書なのに400ページもあるというなかなかの分量の作品で、しかも、タイトルからはなんの本なのかさっぱり分からない(読めば、作品にぴったり合ったタイトルだということはわかるんですけど)。なのでこの本、本当にうまく売ってあげないとちょっと埋もれちゃいそうな気がするなぁ、という感じがするから、どうにか売らないと!と思っています。
僕は、本書を読んでいる途中でPOPのフレーズが思いついたので、早速POP職人につくってもらったんですけど、こんな文章にしました。

『とうとう現れた!!
本書はまさに、『日本人のためのビジネス書』だ!

どのビジネス書を読んでもしっくりこない人。
どのビジネス書を読んだらいいかわからない人。
とにかく読んでみてください!
日本人だからこそ出来るビジネスの形が、ここにある!』

あくまでも、売りやすくするために「ビジネス書」という形で推すことに決めたんですけど、作品としては思想とか日本論とかいう感じになりそうです。でも、思想とか日本論とかでは手にとってもらえないだろうからなぁ。とはいえ、まさに本書は「日本人のためのビジネス書」だと思います。だから別に嘘をついているわけではない。ビジネスというものを通じて日本の特殊性を知り、その特殊性をどう現実に生かしていくのか、ということがかなり具体的に語られると同時に、今僕らが感じている閉塞感とかやるせなさみたいなものの源泉を指摘してくれもする作品で、本当に読んでて深々と納得させられる場面に溢れていました。
世の中にはビジネス書がこれでもかというくらい溢れています。僕はあんまり読んだことはないんですけど、でもまあ大体は、欧米的な考え方、つまり、とりあえずやってみるべ!失敗したっていいんだから突き進め!効率だ効率!成果をあげるためには何したっていいんだよ!理屈でゴリゴリ押し通せ!聞かないやつがいたら切り捨てろ!みたいなことが、もう少しオブラートに包んだ表現で書かれているんだろうなぁ、というイメージがあります。
でも、なかなかそういうのって、日本人には合わないですよね。
今世の中に出回っているビジネス書って、本書で言うなら『長州藩・ユダヤ人側の人間』(何言ってるのかわからないでしょうけど後で説明します)が、自分たちがこうやって成功できたんだからおまえらだってこうすりゃいいじゃん!という感じで押し付けてくるやり方なわけです。
でも、日本人の特殊性というのは、本書で言う『薩摩藩・ドイツ人側の人間』の性質が、かなり色濃く染み渡っているという点です。そこを理解しないまま、グローバリズムに迎合したやり方だけを押し付けてもうまくいかない。
さて本書はタイトルの通り、「21世紀の薩長同盟を結ぼう」というところに持っていくための作品です。じゃあ、誰が長州藩の人間で、誰が薩摩藩の人間なのか。
本書では、長州藩と薩摩藩はこんな風に描かれています。

「理論先行で個人主義者の集まりである長州藩」と「親分の意向で集団が一つの生き物のように動く(いわゆる”和をもって貴しとなす国=日本”のイメージ)薩摩藩」

さて、これを現代に置き換えると、欧米的なグローバリズム的な発想でガンガン行こうよ!という人達が長州藩、そういうグローバリズム的な発想に、うーん確かにそうなのかもしれないけど、でもなんか違和感がなぁ、うーむ、とか言っている人が薩摩藩。そして本書は、日本人の特筆すべき点として、この薩摩藩的性質を持つ人間がある程度多数を占めるという状況の中で、どちらか一方だけがのさばるのではなく、両者がお互いのいい点をうまく突き合わせながら「同盟を結ぶ」ことで、日本はそして日本に住む個人は復活するのだ、という話を展開していくわけです。
こういう点で本書は、日本人のためのビジネス書であり、経済思想書でもあり、日本論でもあるわです。
とにかくべらぼうに面白い作品で、これから引用を大量にしながら内容紹介をするつもりですけど、本当に是非とも読んで欲しい。僕は本書で描かれる薩摩藩的人間で、そういう人間の持つ能力・性質・鬱屈などについてかなり的確に説明をしてくれていて、凄く納得させられました。もちろん本書は、薩摩藩的な人たちにも読んで欲しいのです。何故なら、両者が同盟を結ぶためには、今の日本では「ダメ人間」の烙印を押されることが多い薩摩藩的人間のことを長州藩的人間が理解してくれなければ前に進めないからです(とはいえ、これは逆もまた同じで、本書では、薩摩藩的人間は最終的に、長州藩的人間を立てる形でやっていかないとうまくいかない、だから長州藩的人間に腹が立っても出来るだけ許容してやってくれ、というような話が出ます)。
また、ビジネス書という風に書きましたけど、本書で描かれることは、ビジネスに限らず「日本におけるどんな集団・組織」にも当てはまると思います。それこそ、学校のPTAなんかにも、本書で論じられているのと同じような議論をすることができるでしょうし、本書ではほんの少しですけど婚活の話も出てきます。あくまで著者がコンサルタント出身なのでビジネス方面の具体例が多くなっているというだけであって、ビジネスに関わらない人にももの凄くためになる作品だと思います。
さてそんなわけで内容紹介にいきましょうか。

まず、「本書の読み方」という部分の文章を一部抜書きします。

『しかし、本書は「初心者向けの経済の解説本」というよりは「真面目な提言をする本」であるため、どうしても限界はあります。その場合、本書の一部がよくわからなくても、「まあ8割わかればいいや」くらいの気持ちで読み流していただければと思います。
本書の目的のためには、どうしても難しい話をしなくてはいけないこともありますが、「結果として何をしていくべきなのか」については、「読者のあなたの明日」に関わってくる内容ですので、大枠の流れをつかむだけでも、本書を読んだ価値はあるはずだと私は考えています。』

さて、第一章は「大変革は「抑圧された個人の内面」から生まれる」です。
著者はまず森のたとえを使いながら、著者が理想と考える経済の形を提示します。

『そして、巨木だけが偉いとか微生物はダメだとか、そういう差別は自然界には一切なく、それぞれが生態系全体のなかでかけがえのない役割を果たして共に生きているというのが「社会の理想状態」であるという考え方は、多くの読者のみなさんにも納得していただけるビジョンなのではないでしょうか。
社会全体が短視眼的に単純過ぎる部分に特化すると、言ってみれば「生態系が単純化」してしまい、「イキイキと生きられる人間の種類」が非常に限定されるようになり、その人間の本来の性質からすると無理に無理を重ねて生きねばならなくなるような人が増え、社会に怨念が渦巻いて、良からぬ状況が現出してしまいます。』

『つまり、「本当の自然の厳しい生存競争」は「多種多様な生命の豊かさ」を内包したものである、と言えます。』

ここで著者は、現在の日本の「グローバリズム的な人」『だけ』が必要とされもてはやされる状況を憂えます。

『ある意味、グローバリズムの時代というのは、「時代に乗り遅れたダメ人間(扱いされている人たち)の怨念」がどこまでも蓄積されていく社会というようにまとめても良いでしょう。』

そういう世の中にあってどうするべきか。

『もしもその「ダメ人間扱いされやすいタイプの本性」をうまく経済に活用できる方策が生まれればどうでしょうか?そうすれば、20世紀に人類を二つに分断した果てしのない罵り合いを越えて、新しい経済活動パターンを生み出すことができるでしょう。』

『そこで、「もっと頑張れ」ではなくて、「現在ダメ人間扱いされてしまっている人々の本来的な価値」をどうやったら「経済付加価値に転換できるか」を真剣に考えれば、今はフテ腐れてしまっている人たちにも生きる希望が生まれますし、「”ダメ人間を切り捨てている国の経済”よりももっと根本的に新しい価値を生み出せる”タフな経済”」が実現するでしょう』

では、グローバリズム社会で「ダメ人間」扱いされるタイプというのはどういう人か。それが「大器晩成型」と「確実安定型」です。「大器晩成型」は、初めは大したことはしないけど、キャリアを重ねることで次第にとんでもないことをする人。「確実安定型」は責任感と安定性は抜群というタイプ。この二つを、日陰でも育つ樹である「陰樹」にたとえます。

『この二つのタイプというのは、適切な土壌が与えられてしっかり根を張って成長すれば、かけがえのない優秀さを経済に対して還元してくれるタイプであるにもかかわらず、昨今のようにリクルート社&外資コンサル型人材だけが優秀さの基準という圧力がかかりすぎると、行き場を失って「ダメ人間化」してしまうんですね。』

さてこの章は、「大変革は「抑圧された個人の内面」から生まれる」という話でした。司馬遼太郎は「世に棲む日日」の中で、革命・大変革が起こるときには「三つの役割」が必要だと言ったそう。それが、「思想家」「革命家」「実務家」。革命の下地となる思想を生み出す「思想家」になれるのは陰樹的存在であり、

『日本において「思想」を生み出すには、やはりある程度、個人の人生を賭けた爆発力を利用するしかないということです』

そして著者は、同時代の色んな考え方を吸収し思想を生み出していく日本人独特の知的作用のことを「PQ」と呼びます。

『PQとは、「デジタルな知性」だけでも「アナログなココロ」だけでも割り切れないような問題に対して、「三つのP」の力を動員してジックリ考え、最終的に「オリジナルで一貫した行動の旗印」を作り上げる、全人的な知的能力である。』

『「個人的な違和感」をしっかりと捉え、理解してくれない周りの人間に対して面従腹背しながら熟成させ、最終的に「みんなの行動を巻き込める旗印」にまで高めていく力…それがPQです』

本書ではこの、日本人がかなり特異的に持っているこのPQの力を伸ばすことで、グローバリズムの台頭によって日本だけでなく世界中が喘いでいるこの現状を、日本人だからこそ解決できるのだ、ということを示すところに最終的な到達点があります。

先程「日本人のためのビジネス書」だと書いたけど、グローバリズムを推し進めるアメリカについて、著者はこんな風に評します。

『「部屋の中か外か」「男か女か」「イエスかノーか」とかいうのは、非常に概念的にパッキリ分かれている世界で、そういう「デジタルな考え」をぐるぐる回す世界にかけては、アメリカ人に勝てる国はおそらくありません。彼らはインディアンを虐殺した土地の上に「頭で考えた概念」だけでゼロから国を立ち上げた、まさにサイボーグのような人たちだからです。』

『これらはすべて「アメリカという国の成り立ち」と「日本という国の成り立ち」の根本的な差異を無視した、「単純なアメリカの追従」の結果として引き起こされている問題だと言えます。』

だから、今アメリカ発のグローバリズムは、日本のみならず世界中で台頭しているけど、それが日本に合わないのはある種当然なわけです。もちろん著者は、日本にもグローバリズム的な思考をする人はガンガン出てきてくれないと困ると書いているけども、本書はそうではなく、グローバリズム的な思考ってなんかなぁと思ってしまう、日本人に結構特有の、味方によっては「欠点」でしかない部分を、いやそこって日本人の利点っしょ、そこもっと突き詰めて考えていったら他の国には絶対真似できないことが出来まっせ、ということを言っているのです。

『グローバリズムが良くない側面を持ったまま世界中を席巻しているということは、アメリカ人だろうとフランス人だろうと中国人だろうと、誰だって知っているわけです。
しかし、20世紀の壮大なる人体実験の結果として、大量の会社と血みどろの政治弾圧と地域紛争の終わりなき連鎖反応を生み出したあげくに共産主義の夢が破れた今、「資本主義市場」なしに人類社会を運営するなんて、人口数万人の漁村のなかだけですら絶・対・無・理!(いわんや全世界においてをや)なことも人類は知ってしまいました。
その「どちらにも進めない矛盾点」にブレイクスルーを起こせるのは、言語と文化的背景によって独立性が高く、かつ金額的にある程度大きな市場規模を持る我々だけです。』

さて、第二章は「あなたにもできる「PQ的大道楽」」です。
PQ的大道楽というのは、「そんなのビジネスとして成立するはずがない」「そんなのんびりしたスパンでビジネスなんてやってられない」というような、現在のグローバリズム的思考からは絶対に立ち上がってこない、しかし突き詰めて突き詰めて考えればメチャクチャ儲かるビジネス(やビジネスでないこと)の総称、という感じでしょうか。このPQ的大道楽は、陰樹的人間にぴったりです。そしてこのPQ的大道楽がいくつも沸き上がってくることが、社会にとって必要だと著者は言います。

『今日明日すぐに結論が出るようなものではない種類のことだとしても、それでも本人の個人的関心として大事だと思うことであるならば、”個人の大道楽”として温めていくプロセスを確保することです。』

例えばグーグルの社員は「20%ルール」という、就業時間の20%は本来の業務とは関係のない興味関心に従った研究をすることが「義務付けられている」そうです。また本書には、Mさんという仮名で、しかも守秘義務があるからという理由で具体的なことは書けないものの、ある企業に務める陰樹的タイプの特に目立つわけでもない普通のおじさんが立ち上げたビジネスを例にとって、PQ的大道楽について話がなされます。

さて以下では、第二章で描かれる「PQ的大道楽と陰樹的タイプの人との相性」「PQ的大道楽に大切なこと」「PQ的大道楽の良さ」について、それぞれ引用しようと思います。

「PQ的大道楽と陰樹タイプとの相性」

『自分の人生の核の部分にあるような「なんとなくの思い」が大事なんですね』

『その人にしかできない個人テーマを開拓していくプロセスが無数に起きることがいちばん大事なはずです。』

『「実現が難しいがやることの意義が大きいこと」こそ、陰樹的転換にふさわしい事業だと言えます。』

「PQ的大道楽に大切なこと」

『そしてそのために、個人の大道楽にのめり込むことは「個人のワガママ」ではなく、”みんな”のために必須不可欠な最大限の”善なること”なんだ』という共通了解を生み出していくことです。』

『そのPQ的大道楽のプロセスのなかには「勉強すること」も多く含まれているわけですが、一つ一つの新しい知識が、その人地震の世界観・ビジネスの持っていき方とちゃんと有機的につながって身についていくのでなければ、意味がありません』

『むしろ、そのスキルと有機的に接続された個人的な吟味の積み重ねという「パーソナルなもの」をdそれだけ資本主義の最前線に載せていけるかがこれからの時代の勝負のしどころだし、』

『これからの時代は、「他人に使われるためのオベンキョウ」ではない、「自分自身の深いところから出るものを実現するためのオベンキョウ」が大事なんですね。』

『「意義が大きい」ということと「儲かりそう」との間の違いは、「課金の仕方・ビジネス化の仕方がとりあえずわからなくてもOK」ということです。』

『神様になったつもりで人間社会を上から見下ろしたときに、「その新しい仕事をしている人がたくさんいる」未来の状況が「みんなのためになっているかどうか」といった視点で考えてみるのがいいでしょう』

『逆に言うと、今メディアが変に煽り立てているように、学生時代から「自分のやりたいこと」とかをやたらと明確にする必要はなく、とりあえず流れ的に参加したところで具体的な技術なりビジネス力を手に入れておけば、何か大きな夢を抱いたときにそれと結びつけて「曖昧な夢物語じゃない本当に具体的な革命」を起こすことが可能なんだよ、という話でもあります。』

『むしろ、「こういう存在でありたい」「こういう店にしたい」「こういう事業が今の世の中に必要だろ!?」という、主役となっている人の「思いの強さ」自体が優位性なんですよ。「真実から出た誠」の行動は、決して滅びはしない。』

『彼の言葉ですが、「あんまりマスコミ的によく聞く話ではなくても、自分は今の時代に本来的に必要な真っ当なことをしている」という感覚を共有できる仲間がいれば楽…だそうです。「社会から抑圧された異端者の挑戦」みたいな感じではなく、「自分は天地自然にとってあたりまえの普通なことをやっているんだから、いずれうまくいくのが当然の摂理」というような感覚を共有できる仲間がいると楽だということですね。』

「PQ的大道楽の良さ」

『2020年に全世界の脚光を浴びているビジネスは、今すでに世界のどこかの誰かの頭のなかで、「そんなの無意味だって」という周囲の意見と「いや、それでもやっぱ大事でしょう」という本人の直感との押し合いへし合いのプロセスを経ているわけです。そういうものを次々と生み出してこそ、すでに通過が強くなってしまった国ならではの産業は立ち上がるんですよ。そして、欧米的世界観が一面的に支配している世界の領域に比べて、それに対する違和感を濃密に感じる文化のなかに生きている「非欧米の先進国代表」である我々には、そういう転換を起こしていくための材料が、本質的には恵まれすぎているほど眠っているはずなのです。』

『そして、10年間、いろんな他人を愚痴的に非難しながら自分のなかには何も蓄積せずにただただ言われたことを言われたとおりにこなした人生と、日々の実務はこなしつつも、いつかは自分だけの何かを手に入れてやろうと思って虎視眈々と生きてきた人生では、そもそもの主観的満足度で言っても大きく違うでしょうし、もし成果につながっていけば、みんなにとっての価値もぜんぜんちがいます。』

『なぜ儲かるかといえば、実現が難しいが意義が大きいことをジックリ考えて実現までこぎつければ、その苦労したプロセス自体が参入障壁(他の人がその商売に入って来にくくする壁)になるからです。』

『私個人にしてもそうなのですが、ネットの普及にとって「今までのビジネスが変化するのではなく「そんなものが仕事になるとは思いもしなかった」ようなことが「実際に仕事になる」という可能性はすごく広がってるんですね。』

『今の時代「俺はお前とちがってこーんなに成果を上げたぜ」とお互いアピールし合うのに忙しくて、結局ギスギスした雰囲気は「集団の中野いちばん優しい人」に押し付けて知らんぷり、その「優しい人」がそれで心を病んだりすると、「けっ、なんだよ、俺はこんなにタフな状況の中で耐えて頑張ってるのに!甘えんじゃねえよ!」ということになります。
誰かが「潤滑油になる役割」を意識的かつ一貫してやってくれれば、実はこれほど大きな貢献はないと言ってもいいくらいなものです。』

『そして、そうやってみんなが自分の本当にパーソナルな思いを「有償の経済行為として実現していく」ことによって、世の中はもっと「多様性と豊かさ」を持ったものに変貌していくんですよ。』

二章の引用の最後に。本書では、ニートだったという著者の弟の例が載っていて、彼が自立していくまでの長い付き合いの過程が一部描かれているんだけど、そこで「納得こそすべての優先する」という、僕にも似た部分がある考え方が出てきて、なるほどなぁと思ったでした。

『オレは「納得」したいだけだ!「納得」は全てに優先するぜッ!でないとオレは「前」へ進めねぇッ!「どこへ」も!「未来」への道も!探すことは出来ねぇッ!』

さて、第三章は「「異質な者同士」の結合から新しい価値観が生まれる」です。

著者は、今の日本に「断絶」として存在する「異質な者」に目を向けます。

『特に今の日本にとって本当に必要な「高い値付けができるほどの重み」を生み出すブレイクスルーは、むしろ「国内における異質」に目を向けることから生まれるんですよ。』

そしてその異質というのが、「国際派日本人」と「国内派日本人」です。これはそれぞれ、これまで出て来た用語を使うと、「国際派日本人=陽樹・長州藩」、「国内派日本人=陰樹・薩摩藩」ということになります。

ここでは、国際派日本人と国際派日本人の双方がどんな主張をしているのかということを見ていくことになります。著者は、この二者に「同盟を結ばせたい」と考えているわけで、両者の意見を知ることは大切です。今両者は大いなる断絶の中にいる。お互いがお互いを嫌な存在だと捉え、両者に会話は成立しません。著者は、それぞれの言い分を分析しつつ、お互いのどの部分に歩み寄りの余地があるのかを示していきます。

『そのため、「概念的に明確なロジックを持って改革しようとするプレイヤー」は、「ほぼ必ず日本人の本能に対して抑圧的」であり、口を開いたら「グローバルな成功事例ではもっと身軽に動いているのに、日本人の組織は出遅れている」と「短所是正的に尻を叩く」言説しか生み出しません。
逆に、それに反発する「国内派」には、「口達者な日本人たち」と同じレベルで本当の事情をロジカルに説明できる人間がいないため、言われるがまま嫌々「改革」には参加してみるものの、「でもやっぱり違うんだよなあ…」という言葉にならない不満だけを募らせていて、「自分たちの長所を真剣に活かすための一貫した戦略」にぜんぜん力を集中できていないという現状にあります。』

さて、そんな中でどうするべきなのか。

『そのためには、本当の意味で「国内派の本当の事情」を理解でき、それを基点として、自分たちの本当の長所を一貫して活かせる戦略を「知的一貫性」を維持したまま考えつくすことができる、「日本人の集団を動かすための専門技術」に長けた「日本特有の自前の知的エリート」を分厚く養成していくことが必要になります。
そして、その要請に応える存在が「PQ人」なのです。』

「ワグナーズ・ギャップ」というものが出てきます。これは著者がそう呼んでいるという話ですけど、現実を生きる僕たちの感覚と、現実を動かしている概念との齟齬みたいなものへの違和感、という感じでしょうか。その「ワグナーズ・ギャップ」は、日本だけでなく人類にとって普遍的な問題なのだそう。

『まずは、このワグナー図ギャップを超える連携(薩長同盟的連携)というのは、それぐらい「人類史レベルで難しいことなんだ」と知ることが第一歩なのだと思います。』

そしてそれをどうやったら乗り越えられるのか。

『それはどうしたら解決できるのか?それは我々ひとりひとりが考えるしかありません。
「ワグナーズ・ギャップ」というものがあり、それが今の日本のあらゆる閉塞感の根本原因になっていて、長州藩・ユダヤ人的日本人と薩摩藩・ドイツ人的日本人同士の罵り合いを超えた連携を模索しないと何も解決しないんだ、それは実際、人類史の普遍的な問題だから、現在それができていなくても仕方がないが、それを乗り越えられたら日本はすごい国になれるんだ…という「認識の共有」がまつ大事なんだと思います。』

「解決のためのプロセスとして」

『単純化してまとめると、日本では結局、あらゆることが「おまえはどっちの味方やねん?」「おまえはどこの所属の人間やねん?」ということに帰着してしまうのですが、そこであえて、「どっちの味方でもあるかい!俺は”真実”の味方じゃあ!」とタンカを切るような方向にみんなで迎えたらゴールだということです。』

『日本人の集団の中である程度以上に「個人主義的である」ということは、常に「集団の圧力」にさらされ続けて生きているということであり、言ってみれば「智に働けば角が立つけど、情に棹させば流されてしまうんで、意地を通してみたら本当に窮屈ですよね、という夏目漱石の苦悩」を日本人のなかの「長州藩。ユダヤ人的人間」は明治維新以降、常に受け続けて生きているわけですよ。
(中略)
彼らの心のなかの汚れちまった悲しみを「太っ腹な親分力」で抱きとめてやることは、薩摩藩側の日本人がやるべきこと…だと考えてやってほしい。いや、そこからしか日本の復活はありえない。』

『薩摩藩・ドイツ人側の人間は、長州藩・ユダヤ人側の人間が「現状ばかばかしいことしか言わなくても、それは彼らは主張し続けないと生きていけない構造にあるからで、だからこそ太っ腹に包み込んで協力しあわなくてはならない」と思うことが必要ですし、長州藩・ユダヤ人側の人間は、「この不器用だが愚直な薩摩藩・ドイツ人たちが本当に輝ける場所を見つけてプロデュースしてやるのが俺の使命だ」というふうになっていくしかありません。』

さて、第四章は「「無駄な人間」なんていない」ですが、ちょっと僕には難しかったので省略。

さて、今は章毎にに引用してみましたけど、本書には、日本にはこんな凄いところがあるんだよ、的な文章もたくさんあって、それもガーッと引用してみようと思います。

『日本人は、普段は世界一煮え切らないくせに、いざ本当の危機状態に陥ったときには「昨日までの自分たちってなんだったんだろうね」というような大改革を起こして立ち直ってきた民族です。』

『日本の会社というのは「日経新聞に記事が載り始めたような現象」についてみんなでいっせいにキャッチアップする力は非常に高いと感じられます。』

『学問的領域でも、企業の技術開発でも、基本的に日本が特異な可能性を発揮するときというのは、欧米人がそのクリアーな論理でデジタルに追い詰めた行き止まりにおいて、その「論理の行き止まり」と「現実の手触り感」との間何度も往復しながらブレイクスルー(新しい発明・発見・展開)を起こす…パターンがほとんどです。』

『この「アナログな現実」と「デジタルな論理」の間を「何度も粘り強く往復する知性」こそが、「日本人のスイートスポット」なのです。』

『「日本人のみんな」は、アメリカ人のように概念レベルのことをみんなでイジクリ回すのは心底苦手です。しかし、「日本人のみんな」が理解できるレベルにまで高まった「具体的なカタチになった思想」には、激的に反応してくれます。』

『アニメやゲームがオリジナリティを次々と発揮していっているのも「同質性の高いコミュニティが”異質”を排除することによって、逆に圧倒的高密度な情緒のやりとりが可能になる」ことで生まれている現象です。』

『結局、日本人は「長い時間かけて、自分自身の本当に深いテーマとしてそれを探求してきたという価値」で勝負するしかありません。そして、そういうのをネチネチネチネチ陰湿にやるのが、”本来的には”(今はどうも沈黙させられている作用ですが)日本人はおそらく誰よりも得意なはずです。』

『日本人は「概念」と「現実」との間の「距離」に敏感で、そこを「密度感」を持って処理できるところが日本人の強みなわけですよね。』

『「理屈」自体の実在性に懐疑的で、常に「自分の中の感覚」が先にあり、何か言葉にするときにはいつでも「いま自分が感じている眼の前の”現実”を、とりあえず仮に無理矢理に世の中的な理屈に”翻訳”して言うとしたら?」という「翻訳作業」をやる回路があるという、この「二重性」こそが、日本人の集団の本当の底力なんですよね。』

『日本人が本当に世界的にユニークなことを生み出しているときには、常にこういう「言葉の向こう側のリアル」に対する深い直感の結び付きのなかで、「ありあるそのものとデジタルな理屈との間を何度も往復しながら試行錯誤をするプロセス」があり、そこにこそ「理屈の側からゴリゴリ押し出していくだけになりがち」なアメリカ人には生み出せない可能性があるわけです。』

『昔はもっと気骨ある「自分は自分、他人は他人」みたいな風土が日本にもあったように思われますが、昨今の「空気の同質化圧力」の強化は、日本人全員を冒険から遠ざからせる短所を持ちつつも、「こっちが日本の本来の行方」という方針がコンセンサス(共通了解)を得られたら、一気にみなが動き始める可能性があります。』

『なぜなら日本人は「与えられた目標が心底どうでもいいくだらないものであったとしても、目の前にそれがあればそれを真剣にやらずにはいられない病気」が持病だからです。』

『個々の企業の文化をジェイ準歌詞、「強い個人」の出現を寄ってたかって叩き潰し、みんなで足を引っ張り合い、お互いに空気を読ませる閉塞感を味わわせ…ということ20年に何か意味があったとすれば、それは「いざ意味があって明確なテーマ」が共有できたならば、それに対して「みんなで突っつきまわすことができる能力」を得たということだと言っていいでしょう。
これは、この20年間それなりにまともな運営ができてきた他の国にはない、我々日本人が毎年3万人もの自殺者と下がり続ける出生率と積み上がる政府債務と引き換えに「決死の思いで手に入れた武器」なのです。』

さて本書には、小売店で働いている人間にはちょっと気になる話もいくつか出てくる。

『しかし、すでに「それがないと死ぬというような致命的な必要性」などほとんど満たされている現代においては、「そのニーズを満たしていること」そのものよりも、「そのニーズに気づいてくれるほどに、この人は自分のことをわかってくれている!」という「”自分より上の人”との、形にあらわされた心理的つながり」の方が満足度は高いのです。
そこでは、「買い手」から見て「憧れの売り手」は「憧れの存在のまま」であってほしいというニーズがある、つまり「自分よりなんらかの意味で”上”な存在であり続けてほしい」わけなので、売り手側が自信なさそうに卑屈になってペコペコして、「どうか一つお許し下さい」的になっては興ざめです。』

『どんな切り口でもいいので、「俺が上、お前が下だ!」という構図が作れるような立場を自分で発見すれば、そしてそれをちゃんと「お客さんに喜んでもらえるように」という気持ちで研鑽していって商売にできれば、基本的に「商売」というものは必ず成立するようになっているんですね…と、ここまでは結構みんな、深層心理的にはよくわかっていることだと思います。
しかし、みんながこういう儲け方ができないのはなぜか?それは、この「自分にとって”下”だと思っているもの」に対して「真剣に相対する」ということが、結構死因理的に難しいからなんですね。』

『そして、今後世代が下がれば下がるほど、卑屈な店には、「とにかく一銭でも安ければいい」「何か気に食わないことがあったら絶対クレームを言ってやる」という客ばかりが集まって、客筋が荒れるので、ある程度、現代社会において金回りが良いようなタイプからどんどん敬遠されていきます。』

『もしあなたが小売店をやっておられたり、あるいはチェーン店を後方支援する本部的な役割の人だったり、あるいは小売業の現場的コンサルタントの方だとしたら、できれば「自然な敬意」というものがある売り場の文化を、今後形作っていただけたら、と思います。
今の小売は客に対して卑屈すぎるので、客側としても、もともとそんな気がなくても「売り手が本能的に求めているように振舞って」ヒドイことをしたりします。
それに無理して対応するから、店員の自尊心もどんどん踏みにじられて売り場全体が卑屈になっていく。そうするとさらに客筋が荒れて、利益率的にもどんどん厳しい売り場になっていく。
そこで、適切な「NO」を言う、あるいは「言う必要がそもそもないような雰囲気」がいかに作れるかが、今後の小売業の(あるいは、働く場所の空気として考えれば、あらゆる”日本の職場”の)成功の鍵になってくるはずです。』

最後に。阪神大震災で被災したという著者の、東日本大震災に対する言葉から引用。

『しかし無茶なことを言うようですが、「本当の復興」とは、「あの震災があってよかったね」と言えるような感覚が起きるほどまでに、この「震災」を味わいつくすことではないか、と私は思っています。』

ホント、素晴らしい作品です!ぜひとも読んでみて下さい。

倉本圭造「21世紀の薩長同盟を結べ」

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