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戦争責任を負わない人 その1

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2013年 1月 8日(火)13時40分59秒
  通報 返信・引用 編集済
  「イルミナテイ三百人委員会のエージェントとしての皇室の正体が、日本国民に知られないままであること、つまり、今後ともずっと半永久的に、少なくとも日本民族が完全に滅亡してしまうまでは、日本国民がイルミナテイの仕掛けたこのからくりに気づかないことが条件になる。」

http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11440293371.html

記事一覧.....

http://ameblo.jp/antibizwog/entrylist.html

戦争責任を負わない人の記事

http://ameblo.jp/antibizwog/theme-10044233394.html

≪吉田祐二 著『天皇財閥―皇室による経済支配の構造』 より一部抜粋、要約(8)≫
テーマ:吉田祐二
(7頁からの続き)


■終戦までの日本を動かした「西園寺チルドレン」

牧野グループ(昭和初期~1930年代中期)から木戸・近衞のグループ(1930年代中期~終戦)への交代と言っても、彼らは真の上流階級であり互いに近しい関係にあった。木戸幸一(1889-1977)と近衞文麿(1891-1945)〔※日本放送協会の第2代総裁として戦前のラジオを独占、ナチスのプロパガンダ放送同様、ラジオ放送を戦意高揚に巧みに利用した人物〕、そして原田熊雄(1888-1946)を合わせて「園公三羽鳥」と呼ばれている。「園公」とは西園寺公望(さいおんじ きんもち 1849-1940)〔※関連資料(1・2・3重要・4一視点として)〕のことで、3人は西園寺によって育てられた「西園寺チルドレン」だった。

木戸、近衞、原田は共に学習院から京都大学に進学した同窓生であり、西園寺とこの3人の関係を原田の視点から描いた伝記として、原田の娘婿である勝田龍夫(しょうだ たつお 1912-1991)の『重臣たちの昭和史〈上・下巻〉』(文藝春秋 1984年刊行)がある。

近衞文麿は、(藤原)五摂家(近衞、一条、二条、九条、鷹司の五家のことで、摂政・関白に任ぜられる家柄)の1つである名家の生まれである。元老、西園寺は第1次世界大戦後のパリ講和会議(1919年)に近衞を秘書として連れて行き、自分の後継者のように遇している。42歳で貴族院議長に就任すると、その4年後の1937年(昭和12年)には西園寺の推薦の下、各界の期待を背に第1次近衞文麿内閣(1937年6月4日~1939年1月5日)〔※第2・3次近衞文麿内閣(1940年7月22日~1941年10月18日)〕を組織した。

原田熊雄は、大学卒業後日銀に入行するが、数年で退官。宮内省嘱託(しょくたく)としてヨーロッパを見聞した後、加藤高明内閣(1924年6月11日~1926年1月28日)の首相秘書官を務める。その後に住友合資に入社し、住友社員の身分のまま西園寺公望の私設秘書となる。原田は当時の最高権力者の秘書として、政界の連絡係となった。口述筆記による『西園寺公と政局〈全8巻・別巻1〉』(岩波書店 1950年刊行/再版2007年刊行)は当時の政局を知る為の一級資料である。

木戸幸一は、「維新の三傑」木戸孝允/桂 小五郎(きど たかよし 1833-1877)の妹の孫であり、侯爵を襲爵している。大学卒業後は商工省に務め、牧野伸顕(1861-1949、大久保利通の二男、吉田 茂の岳父)の下で内大臣秘書官長に就任した。第1次近衞文麿内閣(1937年6月4日~1939年1月5日)〔※第2・3次近衞文麿内閣(1940年7月22日~1941年10月18日)〕で文部大臣、初代厚生大臣を、平沼騏一郎内閣(1939年1月5日~8月30日)で内務大臣を務めた後(のち)、1940年(昭和15年)から内大臣を務めた。

彼ら「西園寺チルドレン」達が1935年(昭和10年)以降、天皇財閥の経営を行ったのである。それは即(すなわ)ち、終戦までの10年間の国政を支配したことと同じである。

〔資料〕近衛文麿と木戸幸一 - Beyond 5 Sences tamekiyo.com 2012年8月9日
http://tamekiyo.com/documents/original/kido.php


■木戸幸一のコーポレート・ガバナンス

木戸孝允/桂 小五郎(きど たかよし 1833-1877)は、『木戸日記』〔※木戸日記研究会(1948年頃発足し1992年解散)が『木戸幸一日記』『木戸幸一関係文書』『木戸幸一日記―東京裁判期』を刊行〕という浩瀚(こうかん)な日記を残しており、これが終戦後、占領軍によって資料として提出されている。

この『木戸日記』を元に宮中の政治力学を研究したのが、前出のデヴィッド・アンソン・タイタス David Anson Titus(1934-)『日本の天皇政治―宮中の役割の研究』(大谷堅志郎 翻訳、サイマル出版会 1979年刊行)である。タイタスは日記の中に記されている、木戸が面会した人物達の年代別の回数などを定量的に考察することで、宮中の政治力学を理解しようとした。

木戸の交際範囲は実に広く、国政の重要な情報は全て彼の下に集まっていた。木戸は、当時の日本のパワーエリート達のネットワークの中心にいた。木戸は、秘書官長の時代から情報収集に役立つ人脈を作っていった。政府や軍官僚の公使・局長クラス、産業・金融界の取締役クラス、学者、衆議院議員、新聞記者、その他様々な社交界、政界人などと交流を結んでいる。そこには盟友、原田熊雄から齎(もたら)される情報も入っていた。

また、華族達の社交会である「桜友会(おうゆうかい)」や、華族集団と官界の指導者が集まる「十一会」や、産業・金融界の指導者が集まる「六日会」のような「結社」或いは「サークル」からも情報収集した。このような集まりを「インナー・サークル」と言う。各界の指導者層による非公式情報交換の場である。

そうした情報を元に、木戸は「国民的コンセンサス」を意識して、それに適合するような人事や政策を打ち出していったのである。タイタスは以下のように書いている。



かくして、昭和15年から20年まで天皇の筆頭助言者であった木戸内大臣は、昭和16年の対米開戦の決定も、昭和20年8月の降伏の決定も、共に主宰することが出来たのであった。

簡単に言ってしまえば、木戸は、昭和16年には「時代に合った」戦争に国民を率いて乗り出していけるような首相を推挙することが出来たし、昭和20年にも、その国民が抹殺されてしまわぬうちに、「時代に合った」降伏を国民になさせ得るような首相を推挙出来たのである。即(すなわ)ち、昭和16年には東條大将、昭和20年には鈴木貫太郎退役海軍提督がその人だったのである。

(『日本の天皇政治―宮中の役割の研究』124ページ)



タイタスの言う通り、戦後になって「独裁者」呼ばわりされた東條英機(1884-1948)は、木戸によって奏請(そうせい)されて首相になり、同じく木戸によって倒閣されているのである。戦前の「宮中」〔※→落合莞爾 著『明治維新の極秘計画―「堀川政略」と「ウラ天皇」』(成甲書房 2012年刊行)〕こそが日本の権力構造の中心であり、そこで政策が決定されていたことをよく物語っている。

東條1人を「独裁者」と見做(みな)すことは出来ないのである。


■東條英機を総理に指名した木戸の真意

木戸が務めていた「内大臣」とは、どんな職掌だったのだろうか。タイタスは『日本の天皇政治―宮中の役割の研究』(大谷堅志郎 翻訳、サイマル出版会 1979年刊行)の中で、内大臣を「天皇の首席政治顧問」としているが、実際のところはよく分からないのである。そのことを、他でもない木戸本人が語っている。戦後、木戸本人に直接インタビューした多田井喜生(ただい よしお 1939-)の『決断した男―木戸幸一の昭和』(文藝春秋 2000年刊行)で、このように語られている。



木戸は、「内大臣とは何かと言うとね」とこう語る。

「まあね、助言者なんだね。それで常侍輔弼(じょうじほひつ)って意味はだ、無制限なんだよね、と同時に表には出ないわけだ。だから、国務となったら国務大臣がみんな責任を持ってやるわけだから、その手前で(僕が陛下の)ご相談に乗り、こういうことを言ったらどうだろうとか、こういうことをさせてみたらどうだろうかと・・・・。(中略)

だから、内大臣ってものは一体何なんだってことになるとね、分からないんだ、本当は。あの、清水 澄(しみず とおる 1868-1947)っていう憲法学者がおるがね、あの人は僕らが学習院で憲法を習った先生なんだよ。(中略)それで、“内大臣ったら一体何ですか”って聞いたんだよ、そしたら、“自分にも分からん”って言ったね」

(『決断した男―木戸幸一の昭和』180ページ)



このように内大臣の権限範囲、責任範囲というものは明確になっておらず、人によっては「天皇の代理人」として強大な権力を振るうことも出来るポジションなのである。

木戸の説明によれば、内大臣は元々伊藤博文(1841-1909)が内閣制度を作った時に、太政(だじょう)大臣だった三條實美(さんじょう さねとみ 1837-1891)をどんなポジションに置くかということで設けられたポストだと言う。病気がちな大正天皇(明宮嘉仁 1879-1926)の時代になって、桂 太郎(1848-1913)や松方正義(1835-1924)〔※『持丸長者 幕末・維新篇』より【系図3―松方正義の閨閥】〕など当時の重臣中の重臣が就くポストとなり、重く見られる職掌になったと言う。

内閣総理大臣を指名する者のことを「キングメーカー」と呼ぶ。自らは表舞台に立たずに総理大臣を指名する権限を、この当時は西園寺に代わって木戸が持っていた。太平洋戦争(1941~1945)を開始した時は東條英機内閣(1941年10月18日~1944年7月22日)であった。東條英機(1884-1948)を指名したのは木戸であり、『決断した男―木戸幸一の昭和』の中で、次のように語られている。



現役の陸軍大臣を首相に推した木戸は、何を考えていたのか。木戸は、30年以上経った後も、深刻な自問自答するような口調で、「どう考えてみても、僕としてはあれしか無かった」「東條が戦を始めたから東條を持って行ったのが失敗だと言うのは、結果論なんだ」として、こう話した。

「僕は、開戦直前に、もう戦争は避けられないと考えていたんだ。だから、東條を近衞の後に推したのもだ、もし戦争を止めるとしたら東條しか出来ない、これは事実その通りだけど、しかしそれも難しいだろう、まあ駄目だろうと思っておったんでね、実は、時には勢いというものがある。もしこの陸軍の勢いを止めようとして陛下が正面に出られてだね、それでその結果、皇室が陸軍に乗っ取られると言うか、国民にソッポを向かれたら・・・・、しかも戦争には突入するということになればだ、これは日本の滅亡になってしまうと。

まあ実際にはあんな形で終戦になったが、これも天皇がおられたんで、大した混乱も無くってね戦争を止められたんで、また戦後の再興も可能になったわけなんだな。日本には皇室が必要なんでね」

(『決断した男―木戸幸一の昭和』227ページ)



このようにして木戸は東條を総理大臣に指名することにした。この決定には東條自身が驚いている。当時、企画院総裁であった鈴木貞一(すずき ていいち 1888-1989)がそのことを証言している。



――「組閣の大命」は、東條さんに下りたわけですね。東條さん自身は、それは予期しなかったわけでしょうね。

鈴木 予期しなかったと思います。東條さんと話をした時には、「とにかく戦いをやるにしてもやめるにしても、この非常な時局は臣下では出来ない。誰か宮様がいいじゃないか」ということを言っておったくらいで、自分で総理をやるということは考えておらなかったようでした。

(『昭和史の証言 3』223ページ)



昭和天皇と木戸にとっては、戦争を回避させる為の「人事」であったが、当時の状況には抗(あらが)えず、日本はアメリカとの戦争に突入してしまうのである。


■天皇の「戦争責任」を巡る議論

≪≪天皇の処遇を巡っては、戦争が終る前からアメリカは周到に検討していた。その舞台となったのは、ロックフェラー財団 Rockefeller Foundation やフォード財団 Ford Foundation〔※関連資料(1・2・3・4)〕といった米経済界によって設立された研究機関、太平洋問題調査会(IPR)〔※≪吉田祐二 著『日銀―円の王権』 より一部抜粋、要約(5)≫を参照〕である。そこで日本や中国の政治状況などが詳細に検討されていた。

油井大三郎(ゆい だいざぶろう 1945-)『未完の占領改革―アメリカ知識人と捨てられた日本民主化構想』(東京大学出版会 1989年刊行)によれば、天皇の免責は早くから謳われており、天皇を戦犯として訴追しないことが決められていたと言う。IPRに属する、左翼的立場から日本の支配階級を批判するトーマス・A・ビッソン Thomas Arthur Bisson(1900-1979)や、E・ハーバート・ノーマン Edgerton Herbert Norman(1909-1957)といった論者らも、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)によって天皇制を廃止することは、天皇を「殉教者」に仕立て上げ、反連合国感情を増幅させる恐れがあると進言していたのである。

IPRで決まった政策を実行したのは、当時、陸軍次官補だったジョン・マックロイ John Jay McCloy(1895-1989)という人物で、省内で「SWNCC150」という文書の裁定に当たり、それがマッカーサー Douglas MacArthur(1880-1964)に伝達された。これこそ、財閥解体などの基本綱要を含む「日本占領および管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本的指令(JCS1380/15=SWNCC52/7、1945年11月1日承認)」(『未完の占領改革』205ページ)である。

〔資料〕≪宋 鴻兵 著『通貨戦争―影の支配者たちは世界統一通貨をめざす』 より抜粋(14~17)≫|MelancholiaⅠ ※「財団 Foundation」及び「慈善事業」の意味について
http://arsmagna.jimdo.com/melancholiaⅠ-roentgenium-資料保管庫-目次/


■グランド・デザインを描いた「世界経営者」達

ジョン・マックロイ John Jay McCloy(1895-1989)は、貧しい生まれながらアメリカの支配階級(Establishment)に加わり、世界銀行総裁やチェース・マンハッタン銀行会長、フォード財団理事長などの要職を歴任した人物で、マッカーサー Douglas MacArthur(1880-1964)が極東司令官だった時は西ドイツで高等弁務官を務めており、言わばヨーロッパ地域においてマッカーサーの役割を果たした人物である。

但し、第2次世界大戦(1939~1945)を通して、日本に原爆を投下し、天皇を免責して占領政策を円滑にし、更には「逆コース」によって再び日本を復興させるというシナリオ、及びドイツの戦後処理やソ連との関係など、世界のグランド・デザインを描いた者達は、別にいるのである。

それは、後(のち)に「賢人達(The Wise Men)」と呼ばれた、ジョージ・F・ケナン George Frost Kennan(1904-2005)、ディーン・アチソン Dean Gooderham Acheson(1893-1971)、チャールズ・E・ボーレン Charles Eustis Bohlen(1904-1974)、ロバート・A・ラヴェット Robert Abercrombie Lovett(1895-1986)、W・アヴェレル・ハリマン William Averell Harriman(1891-1986)、ジョン・マックロイといった人達である。彼らは、民間の大企業重役と政府高官を交互に務めた、政財界の支配階級であり、彼らがアメリカを中心とする戦後の世界体制を形作ったのである。

CNN会長を務めたウォルター・アイザックソン Walter Isaacson(1952-)による『The Wise Men:Six Friends and the World They Made(賢人達)』(未邦訳、Simon&Schuster 1986年刊行)は、彼らの伝記を纏(まと)めた800ページに及ぶ浩瀚(こうかん)な本であるが、ここに描かれた「賢人達」の中でも、ジョン・マックロイが特に重要である。以下、一部拙訳にて引用する。



トルーマン Harry S. Truman(1884-1972 大統領任期:1945~1953)大統領はマックロイに何か考えがあると見て取って声を掛けた。「マックロイ、君はさっきから発言していないね」。マックロイはスティムソン Henry Lewis Stimson(1867-1950)国務長官を見ると、彼もまたマックロイに「思ったことを発言してくれ」と言った。

マックロイは「他に代案はありません」と機能議論した内容を繰り返し、現在の政治状況、特に「ミカドの地位の保持を含めて、彼らが自分達の政府を作るのを許可してもよい」ことを述べた。「それは私も考えていた」とトルーマンは言った。

(『The Wise Men』296ページ)



このように本当の政治問題は、民衆に選ばれた政治家によってなされるのではなく、選挙で選ばれていない民間の権力者が決定してしまうのである。彼らが世界の経営者であり、この時代の米大統領トルーマンよりも、「賢人達」のほうが格上なのである。

上記は1945年6月に交わされた会話とされている。つまり、原爆投下(広島:1945年8月6日/長崎:1945年8月9日)の2カ月前に、天皇の存続を含むアメリカの日本占領政策は既に決まっていたのであり、マッカーサーなどは現地に派遣された実行部隊に過ぎなかったことが分かる。≫≫


■戦争責任を「負わない」天皇財閥の経営者・天皇

敗戦が確定した日本では、如何に「皇統の保持」〔※→落合莞爾 著『明治維新の極秘計画―「堀川政略」と「ウラ天皇」』(成甲書房 2012年刊行)〕をするかが問題となった。天皇家を存続させること自体は、既にアメリカの執行部で了解済みであり、後はその体裁を整えるだけであった。

アメリカ及び連合軍が採った方法は、「立憲君主オプション」、つまり、天皇は立憲君主であり、機械的に裁可するだけで反対などは出来ない立場にする、という主張である。それを弁明書として纏(まと)めたものが『昭和天皇独白録』(寺崎英成, マリコ・テラサキ・ミラー 共著『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』文藝春秋 1991年刊行、文庫版は『昭和天皇独白録』文藝春秋 1995年刊行)として知られる文書である。従って「独白録」ではない。

その証拠に、アメリカに渡す為の英語版も並行して作成されており、これを見つけ出した経緯を纏めたのが、東野 真(1965-)の『昭和天皇 二つの「独白録」』(日本放送出版協会 1998年刊行)である。

「立憲君主オプション」は、本書の枠組み――〈天皇家=宮内省〉複合体を中核とする視点――で見れば、天皇こそが法人であることを主張するものである。つまり、「法人」である天皇には責任を問えない。法人とは法律上の概念であるから、犯罪者として追及することは出来ないのである。そこで、天皇家の存続は保証されることになった。

天皇は、現人神=法人であると同時に、生身の人間でもある。天皇財閥の経営者としての顔もある。大株主としての天皇は、出資した持分(株式)を失うこととなり、皇室財産は全て政府に組み入れられた。しかし、天皇家は自らの財産を失うだけで済んだのである。

敗戦による膨大な借金を天皇家が肩代わりすることはなかった。まさに「有限会社」の図式通りである。有限責任とは、会社が負債を抱えて倒産した場合でも、株主は自らが出資した分だけの損害を負うのであり、会社の負債全てを負う責任は無いのである。天皇財閥は、自らが出資した持分(株式)を失うだけで、それ以上の責任が免れたのである。

天皇と言えども「非常事態」の時の対応の仕方は、通常の企業経営者と変わりはなく、不祥事を起こした企業は検察から事情聴取を受けるが、トップ事態が逮捕されることは余り無い。せいぜいが現場責任者が起訴され、トップはけじめを付ける為に代表を退いて終わりである。

近代国家における君主と言うのは、イギリスのエリザベス女王 ElizabethⅡ(1926-)やオランダのベルンハルト殿下 Bernhard van Lippe-Biesterfeld(1911-2004)を見ても分かるように、大企業の株主として経営にも参画している場合が多く、日本の天皇もまた例外でないことは、これまで述べてきた通りである。近代国家における君主は、現在の大企業の経営者程度に権力があった。戦前の天皇は、三井や三菱と並ぶ、天皇財閥の経営者だったのだから、それも当然のことなのである。

〔資料〕皇室財産:大日本帝国憲法下での皇室財産 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AE%A4%E8%B2%A1%E7%94%A3

〔資料〕天皇家の資産や収入について - HEATの日記 2004年8月23日
http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200408230000/

〔資料〕鬼塚英昭 著『天皇のロザリオ―日本キリスト教国化の策謀』より抜粋 1~4 - 日本人が知らない 恐るべき真実 ※Switzerland―天皇財閥
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825

http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060826

http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060827

http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060828

〔資料〕高利貸しロートシルト その3:『赤い楯』第10章 スイス銀行の秘密 - LEGACY OF ASHES 2012年2月1日 ※Switzerland―天皇財閥
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/403.html

〔資料〕≪広瀬 隆 著『赤い楯』 第4章 最後の隠れ家:5「スイス銀行の金庫」、他 より抜粋(16~22)≫|MelancholiaⅠ ※Switzerland―天皇財閥、他について本文及び添付資料を参照
http://arsmagna.jimdo.com/melancholiaⅠ-roentgenium-資料保管庫-目次/


■政治的な力を発揮した「象徴天皇」

昭和天皇(迪宮裕仁 1901-1989)は〈天皇家=宮内省〉複合体である天皇財閥の「代表取締役」の座から降りることになった。日本国憲法の上では、これを「象徴になった」と表現した。しかし、先程の企業の喩えから言えば、代表の座を退いた後も会長或いは顧問として引き続き会社に関与しているケースは多々見られる。天皇財閥の場合においても同様のことが起きていないだろうか。

豊下楢彦(とよした ならひこ 1945-)『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波書店 2008年刊行)〔※関連資料(1・2)〕によれば、天皇は敗戦後も引き続き国家元首として、マッカーサー Douglas MacArthur(1880-1964)及び後任のマシュー・B・リッジウェイ Matthew Bunker Ridgway(1895-1993)、更に米国務省政策顧問ジョン・フォスター・ダレス John Foster Dulles(1888-1959)〔※『ロマノフ家の黄金』より【系図35―CIA 長官ダレスとロマノフ家の姻戚関係・39】〕に対して、安全保障上の会談を行っていたのである。同書はそれを「天皇外交」と呼んでいる。

例えば1951年(昭和26年)4月に行われた第11回目の昭和天皇・マッカーサーの会見には次のようなやり取りがあったと言う。



天皇 戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度に付、此機会に謝意を表したいと思います。

マッカーサー 私はワシントンから天皇裁判に付いて意見を求められましたが、勿論反対致しました。英ソ両国は裁判を主張していたが、米国はその間違いを主張し、遂に裁判問題は提起されなかった。現在尚天皇裁判を主張しているのはソ連と中共のみであります。世界中の国が反対しているのにソ連は法的根拠も示さず之を主張しているのであります。

天皇 共産主義思想の当然の結果でありましょう。日本の安定を破壊し国内治安を乱して革命へ持って行かんとするものでありましょう。

(『昭和天皇・マッカーサー会見』119ページ)



この中で、特に天皇が謝意を述べている「戦争裁判」の箇所は重要である。戦争裁判とは言うまでも無く「極東国際軍事裁判(東京裁判)」(1946年5月3日~1948年11月12日)のことであり、東京裁判は勝者の連合国による押し付け裁判であり無効であると言う「東京裁判批判」が今も一部の論者には主流であるが、他ならぬ昭和天皇自身がそれに対して「謝意」を表しているのである。

昭和天皇はまた、マッカーサーの後任リッジウェイとも7回にわたって会見をしている。朝鮮戦争(1950~1953)〔※一考察として関連資料(1・2・3・4)、『クラウゼヴィッツの暗号文』より【世界地図1950~1954】〕時であり、話題は朝鮮戦争を巡る軍事情勢に集中したと言う。この会見の中で天皇は、兵員の交替問題やゲリラ戦への対応策、制空権の問題、中共軍の戦略、避難民対策など、「高度に軍事的」な事柄について問い質(ただ)している。更には、原子爆弾の使用の可能性までリッジウェイに確認している。

1952年(昭和27年)3月に行われた第4回会見では、以下のようなやり取りがあったと言う。



天皇 ソ連が直接介入するような兆候は無いか?(共産側が)仮に大攻勢に転じた場合、米軍は原子兵器を使用されるお考えはあるか?この問題に対しては恐らく貴司令官も答弁する立場に無いと言われるかも知れないが?

リッジウェイ 原子兵器の使用の権限は米国大統領にしかない。

(『昭和天皇・マッカーサー会見』121ページ)



まるで戦時中に軍部に対して質問するように、昭和天皇は米司令官に対して質問し、状況を知ろうとしている。「象徴」として現実の政治から距離を置いていたはずの昭和天皇だが、実際には安全保障や外交の場面で大きな影響力を及ぼしていた。

また、天皇はアメリカの代表であるマッカーサー司令官、及び日本側の代表である吉田 茂(1878-1967)首相を飛び越えて直接、国務省のジョン・フォスター・ダレス John Foster Dulles(1888-1959)〔※『ロマノフ家の黄金』より【系図35―CIA 長官ダレスとロマノフ家の姻戚関係・39】〕に対してメッセージを送っていたことも明らかになっている。

事の発端は、アメリカに対して軍事基地を貸すかどうかの問題であり、貸す以外日本に選択肢は無いのだが、アメリカが要求した「日本側からの依頼」によって米軍が駐留するシナリオに対して吉田が反対した。それに怒ったダレスは「米軍は撤退してもよいが、そうなると日本人は飢え死にするかも知れない。自分は、日本がロシアに付くかアメリカに付くかは日本自体で決定すべきものと思う」(『昭和天皇・マッカーサー会見』160ページ)と突き放した発言をした〔※冷戦構造の裏側について『ロマノフ家の黄金』より【図4・系図8-1・8-2・14・15・19-1・19-2・20-1・20-2・21・22・25・26-1・26-2・27・28・29・30・31-1・31-2・図5・系図32・33-1・33-2・34-1・34-2・35・36・38・39・40】〕。

こうした状況の中、天皇はダレスに対して「親書」を送り、吉田の発言は日本国民の総意ではないことを述べている。そして1951年(昭和26年)2月の昭和天皇・ダレス会見では、「日本側の要請に基づいて米軍が日本とその周辺に駐留すること」(『昭和天皇・マッカーサー会見』167ページ)が相互に確認されたのである。ダレスの要望がそのまま通った形になったのである。

同書では更に当時の状況から、天皇が吉田を「叱責」していた可能性があると述べている。上記のような経緯があった後にサンフランシスコ講和会議(1951年)への出席を渋っていた吉田は、天皇への拝謁の後に態度を急変させ、全権就任に同意したと言う。

このように、日米間の安全保障、即(すなわ)ち軍事同盟について、昭和天皇は深く関与していたのである。基本的には臣下・部下に任せるが、肝心なところでは自ら決断する。昭和天皇は戦前における国務への関与の仕方と同じことを、占領された後もアメリカに対して行なっていたのである。

〔資料〕現人神(あらひとがみ)の箱の中 その1~3 - LEGACY OF ASHES ※大東亜戦争の舞台裏、日赤の献血がベトナム戦争で使われた新聞記事、他
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/412.html

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/413.html

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/414.html

〔資料〕自民党清和会の源流 - LEGACY OF ASHES 2012年2月4日
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/406.html

〔資料〕≪鬼塚英昭 著『黒い絆 ロスチャイルドと原発マフィア』 より要約(1~28)≫|MelancholiaⅠ
http://arsmagna.jimdo.com/melancholiaⅠ-roentgenium-資料保管庫-目次/

〔資料〕≪広瀬 隆 著『腐蝕の連鎖―薬害と原発にひそむ人脈』 より抜粋(1~14)≫|MelancholiaⅠ ※七三一部隊、他
http://arsmagna2.jimdo.com/melancholiaⅠ-roentgenium-資料保管庫-目次/

〔資料〕日本人が知らないニッポン―隠されてきた歴史から読み解く世界の成り立ち - THINKER
http://thinker-japan.com/thinkwar.html

〔資料〕日本はサンフランシスコ講和条約で独立国として承認されていなかった!?(苫米地英人著『脳と心の洗い方』より抜粋) - Anti-Rothschild Alliance
http://rothschild.ehoh.net/material/36.html

〔資料〕日本人が頭に入れておくべきこと 1~2 - 山本正樹オフィシャルブログ 2011年10月22日、11月2日
http://www.yamamotomasaki.com/archives/714

http://www.yamamotomasaki.com/archives/723

〔資料〕日本人が知らない 恐るべき真実 研究ノート目次:アメリカの占領政策、他 - Anti-Rothschild Alliance
http://rothschild.ehoh.net/truth/part3/find.html

〔資料〕1942年6月米国「日本プラン」と象徴天皇制 By 加藤哲郎(『世界』2004年12月号掲載文) - 加藤哲郎のネチズン・カレッジ
http://homepage3.nifty.com/katote/JapanPlan.html

〔資料〕≪苫米地英人 著『洗脳支配―日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』 より抜粋(9)≫|MelancholiaⅠ ※両建て主義、及び二層化された世界の下層部分に対する分断統治について、本文及び添付資料全般を参照
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11313557343.html

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