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戦争責任を負わない人 その3

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2013年 1月 8日(火)14時03分49秒
  通報 返信・引用 編集済
  「イルミナテイ三百人委員会のエージェントとしての皇室の正体が、日本国民に知られないままであること、つまり、今後ともずっと半永久的に、少なくとも日本民族が完全に滅亡してしまうまでは、日本国民がイルミナテイの仕掛けたこのからくりに気づかないことが条件になる。」

≪吉田祐二 著『天皇財閥―皇室による経済支配の構造』 より一部抜粋、要約(9)≫
テーマ:吉田祐二
(8頁からの続き)

http://ameblo.jp/antibizwog/theme-10044233394.html

■敗戦国日本に対するアメリカの選択

日本国憲法上では天皇は「象徴」であり、実質的な権力は削ぎ落とされたと考えられたが、実際には、天皇は権力を行使していたのである。但し、憲法上の地位が変わった後は「民間人」として外交に携(たずさ)わったのである。「民間」とは、外務省などの官長ではなく、「プライヴェート(Private)」であるということであり、プライヴェートの立場から、天皇は外交及び国政に影響を与え続けたのである。

民間と言えば、官庁より一段下の存在でさして重要ではないと思われるかも知れないが、現実にはむしろ逆であり、民間のほうが上位なのである。そのことは、カウンターパートだったアメリカ側がそうであったことを見ても分かる。

豊下楢彦(とよした ならひこ 1945-)『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波書店 2008年刊行)〔※関連資料(1・2)〕によれば、昭和天皇(迪宮裕仁 1901-1989)とジョン・フォスター・ダレス John Foster Dulles(1888-1959)〔※『ロマノフ家の黄金』より【系図35―CIA 長官ダレスとロマノフ家の姻戚関係・39】〕の会見を取り持ったのは、『Newsweek』誌の外信部長ハリー・カーン Harry F. Kern(1911-1996)と、東京支局長トーマス・コンプトン・パケナム Thomas Compton Pakenham(1893-1957)〔※関連資料(1YouTube重要)〕という人物である。彼らは純然たる「民間人」である。

では何故、彼らが昭和天皇とアメリカの高官であるダレスとの間を取り持つことが出来たのだろうか。そのことに切り込んだのが、ジョン・G・ロバーツ John G. Roberts(-)とグレン・デイビス Glenn Davis(-)の共著『軍隊なき占領―ウォール街が「戦後」を演出した』(森山尚美 翻訳、新潮社 1996年刊行 ※2006年に一部訂正を加え講談社より文庫版で再販された)である。

ロバーツらは、パケナムとハリー・カーンは「アメリカ対日協議会 American Council on Japan(ACJ)」というロビー団体のメンバーであったことを明らかにしている。ロビー団体とは、民間企業から資金援助を受けて、クライアント(Client 顧客)である企業の利益になるように政治的な働き掛けを行う団体のことである。

敗戦後の日本には、工業力を残した「財閥」達がいた。彼らを今のうちに取り込みアメリカ企業の為に役立つようにすることが、彼らの目的であった。アメリカ企業の代理人として、ACJの重要メンバーであるジェームズ・リー・カウフマン James Lee Kauffman(-)がいる。カウフマンは戦前日本で法律事務所の共同経営者(パートナー)を務め、ゼネラル・エレクトリック社 General Electric Company(GE)、スタンダード・オイル社 Standard Oil Company、ディロン・リード社 Dillon, Read&Co.〔※―Bush父が経営するベクテル社 Bechtel Corporation の大株主〕などのアメリカ大企業の日本における総代理人の立場で活躍した。

マッカーサーら占領軍は当初、日本を本当に「民主化」しようとしていた。つまり、財閥による寡頭政治から、財閥を解体させて真に民主的な政府を創ろうとしていたのである。しかしアメリカの「財界」からの圧力により、また折からの朝鮮戦争(1950~1953)〔※一考察として関連資料(1・2・3・4)、『クラウゼヴィッツの暗号文』より【世界地図1950~1954】〕により、アメリカは日本の民主化よりも、戦前からの財閥を復活させる道を選ぶ。これを「逆コース」と言う。

アメリカのビジネス・ロビー団体であるACJが、日本の財閥とアメリカの財閥を結び付けようとしていた。その意味で、昭和天皇とダレスの会見は象徴的なものであった。ダレスは来日時、米国務省顧問の肩書であったが、本当は「民間」のロックフェラー財団理事長として、アメリカの財界代表として来日していたのである。

ダレスはこの後、1952年にアイゼンハワー政権(1953~1961)〔※関連資料(1・2)〕で国務長官を務める。

日本の敗戦処理で最も重要な、米軍の基地駐屯が、憲法上権限の無い天皇と、民間の財界代表の間で決定されているのである。その後で開かれたサンフランシスコ講和会議(1951年)はセレモニーに過ぎない。本当の決定は既に日米を代表する「財閥」のトップ間で行われていたのである。

敗戦により廃墟となった日本に対し、アメリカは再び工業化させるという「逆コース」政策を選択した。それによって、日本には財閥が復活することになる。しかしそれは、戦前の形態とは少し異なっていたのである。

〔資料〕外交問題評議会と日本1~5・外交問題評議会のメンバー・ロックフェラー兄弟のジャパン・コネクション1~4(『軍隊なき占領―戦後日本を操った謎の男』から抜粋・引用 1~10) - 日本人が知らない 恐るべき真実
http://rothschild.ehoh.net/truth/part3/find.html


〔吉田祐二 著『天皇財閥―皇室による経済支配の構造』 第5章 現代も生き続ける天皇財閥 より一部抜粋、要約 P.212-P.259〕


■オーナーがいなくなった戦後の日本企業

1945年(昭和20年)11月、マッカーサー Douglas MacArthur(1880-1964)率いる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は持株会社解体指令を発し、三井、三菱、住友、安田をはじめとする15財閥の資産凍結・解体を命じた。いわゆる「財閥解体」である。傘下企業は温存させつつ、権力が集中していた財閥本社を取り除くことにより、産業を「民主化」しようというものであった。

財閥本社とは、傘下企業の株式を所有・管理している「持株会社」のことで、持株会社とは、事業を行わずに株式の保有だけを目的として設立された会社のことである。日本では財閥解体によって長らくその設立は禁止されていたが、最近になって1997年(平成9年)に解禁された。

それぞれの財閥の本社である持株会社の株式を所有していたのが、創業者一族である「財閥家族」である。GHQによる財閥解体宣言により、三井財閥の三井家当主や三菱財閥の岩崎家を含む財閥家族に指定された56名〔※関連資料(1・2)〕は、保有株式を強制的に取り上げられ、一切の役員の地位にも就くことが出来なくなったのである。

持株会社の解体、財閥家族の追放によって、日本の企業形態は大きく変わることになった。会社学の研究家、奥村 宏(1930-)はそれを「ピラミッド型」から「円環型」への構造変化であるとしている(【図3】参照)。

戦前の財閥においては、持株会社である財閥本社が傘下の大企業の株式を所有し、これら大企業が更に傘下の多くの企業の株式を所有していた。そして財閥本社の株式は財閥家族が閉鎖的に所有していた。その支配形態はピラミッド型であった。

戦後になって、財閥家族の所有株式が放出させられ財閥本社が解体された。しかし、放出された株式は一般投資家の手に渡ったのではなく、傘下企業が「法人」として取得した〔※関連資料(1・2)〕。つまり、同じ財閥の下にあった企業が、仲間の株式を相互に所有するという事態が起こったのである。これを「株式持ち合い」と言う。

株式持ち合いによって、戦前のようなピラミッド構造は崩壊した。そこでは「支配―従属」関係は無くなり、文字通り「持ちつ持たれつ」の関係となった。つまり、円環状の相互支配関係である。最終的な企業所有者、つまり、オーナーがいなくなった状況が戦後日本企業の本質である。


■日本の企業には「代表者」がいない

株式持ち合いによるグループ企業は、株式交換だけでなく、各会社の社長が集まる「社長会」によって人的繋がりを持ち、銀行をグループの中核とし、総合商社を持ち、重化学工業分野を中心として多くの産業分野へと進出している。これを「企業集団」と言う。いわゆる「三井グループ」や「三菱グループ」といった企業群がこれに当る。このことを指摘した前出の奥村 宏(1930-)は、この株式持ち合いを本質とする日本企業の在り方を「法人資本主義」と名付けた。

その弊害の1つが、株価である。会社間での株式持ち合いによって株価は常に操作され続けた。インサイダー取引が常態化し、みなそれが異常だとは考えなくなった。そして実質的な値段とは無関係なまま高値を保った株価は、何かの引き金によって会社の信用が崩れるとあっけなく崩壊する脆弱さを持っているのである。

法人資本主義の本質的な問題は、それが「会社本位」と結び付くことである。その帰結は、奥村 宏(1930-)『法人資本主義―「会社本位」の体系』(御茶の水書房 1984年刊行)に、次のように書かれている。



法人である会社は意思も行為能力も無いが、それは身体が無いからである。身体があるものは絶対に死から逃れられないが、身体が無いものには死が無い。法人である会社は論理的には死ということが無い。もちろん会社が倒産したり解散したりすることはあるが、しかし論理的にはそれはゴーイング・コンサーンとして、株主は交替するけれども、会社は永遠に存在し続けることが出来るのである。こうして論理的には死なない、永遠に続くものとしての会社を代表し続けるということは、死から逃れられない自然人を代表することと質的に異なる。

抽象的な不死の存在としての会社への忠誠はそれだけ強固なものになる。自然人と自然人の関係では忠誠と同時に裏切りがあるし、それが契約関係であろうと義理の関係であろうと、永遠の関係にはならない。ところが抽象的存在としての会社への忠誠となると、そこでは裏切りという人間臭いことは起こらず、永遠の関係になる。まさに(中略)「会社の生命は永遠です。その永遠の為に私達は奉仕すべきです」という日商岩井の島田三敬(しまだ みつたか 1922-1979)常務の言葉そのものである〔※関連資料(1)〕。

(『法人資本主義―「会社本位」の体系』174ページ)



また、会社本位の帰結として、全ての従業員が代表であるということは、実は「誰も代表がいない」ということにもなるのである。「みんなの責任」は往々にして「みんなの責任」となる。それと同じ事だ。



会社が公害や汚職などの犯罪事件を起こした時、担当者は上から命令されてやったのだと言い、上の者は更に社長から命令されたと言う。ところが社長は取締役会の決定に従ったまでだと言い、取締役会は部下からの稟議(りんぎ)に基づいてやったのだと言う。こうして真に会社を代表して対外的に責任を取る者がいない。それどころか、誰かが事件の責任を取らされて犯人とされれば、会社はそれを会社の為にやったのだと庇う。これが無責任経営の実態である。

(『法人資本主義―「会社本位」の体系』178ページ)



こうした日本企業一般に対する指摘は、戦前の日本の体制そのものにも当て嵌まるのである。それは、日本が天皇財閥を中心とする一つの企業体に擬せられる体制だったからである。


■実体の無い「法人」が支配するビジネスの世界

法人を巡る論争として「法人擬制説」があるが、この説は「会社のものは全て株主のものである」ことを前提としている。株主こそが本体であり、法人はあくまでも擬制、作り物に過ぎないのだ。

戦前の日本では多くの大企業は財閥本社に従属し、財閥本社は創業者一族である「財閥家族」によって支配されていた〔※関連資料(1・2)〕。財閥家族が持株会社の株式を所有・支配していた故に、法人などというのは法律の手続き上の存在であることは明らかだったが、戦後になり財閥が解体されると、逆に法人が自ら株式を所有して「実質的な存在」となってくるのである。「法人実在説」の復活である。

この「法人実在説」の復活の準備をしたものが、他ならぬ「天皇法人説」である。そして天皇法人説の中でも、法人をどのように定義するかによって解釈が異なる。これを只の機関に過ぎないとすれば「天皇機関説」となり、それは会社で言えば法人擬制説に対応する。一方、法人を実在のものとして捉えれば、それは生身の人間を超越した存在となり、「国家の主権者」という意味になる。即(すなわ)ち「天皇主権説(天皇主体説)」となり、法人実在説に対応する。

この「法人が実在する」という考えが、財閥解体後の戦後の日本企業の間で一般化した。前述した「法人資本主義」である。それはつまり、戦前の天皇主権説が形を変えて日本企業の存在様式に現れたということである。或いはまた、戦後の法人資本主義を準備したものが、戦前の天皇の存在様式であったと言うことも出来る。

「実業」であるはずのビジネスの世界が、その権力の中枢においては、実体の無い法人が支配していた。そしてそれは、戦前の「天皇財閥」が支配していた時と同じ構造であった。更に論を進めて、日本は歴史を通じてこの構造を採り続けてきたのではないか。江戸時代以前にも、この構造が当て嵌(は)まる可能性があるのだ。


■天皇財閥の構造的な変化

戦後の日本企業の歴史は、「企業集団」の歴史である。企業集団とは、占領軍によって解体された旧財閥系企業の、中心を持たないネットワークである。三井グループや三菱グループといった企業の集まりで、内部に持つ都市銀行を核とする融資系列集団と言うことも出来る。

戦後の高度成長期には急速な重化学工業化が進むが、それを金融面でコントロールしたのが都市銀行による融資だった。融資によってグループ内での中心的な役割を果たした銀行が、企業の「系列化」を進めたのである。また、マネタリー(資金上)の系列化に対して、マテリアル(物的)の系列化も歩調を合わせた。三菱商事や三井物産といった、企業集団における「総合商社」の果たした役割がそれである。銀行と総合商社、戦後の企業集団の中核を担う2つの部門はこうして形成された。

戦後の企業集団は、「財閥」の生まれ変わりである。これらは只の名前の付け替えではなく、構造的な変化を示している。つまり、法人が中心になったということである。自然人である財閥家族、創業者一族が経営から離れたにも関わらず、「三井」や「三菱」といった実体の無い名前が、法人として生き続けているのだ。

天皇財閥もこれと同じである。戦後になって皇室財産が凍結され、天皇家が保持していた株式等の財産は大部分が没収された。当然、戦前に支配していた企業に対して、株式を通じての支配は出来なくなった。しかし、戦前に天皇財閥の配下だった企業には、現在でも存続している会社が数多く存在する。或る会社はそのままの姿で存続し、或る会社は姿形を変えながらも存続しているのである。

つまり天皇財閥は「天皇グループ」として、今も生き続けているのだ。この旧天皇財閥である「天皇グループ」は、その下部構造に「三井グループ」や「三菱グループ」を含む巨大な企業集団である。言い換えるなら、この日本という国そのものが、天皇という「法人」の会社組織である「天皇グループ」なのではないか。それは「日本株式会社」(Corporate Japan、Japan Inc.)と呼ばれることもある。


■望まれた「天皇グループ」による経済発展

小林英夫(1943-)の『「日本株式会社」の昭和史―官僚支配の構造』(小林英夫, 米倉誠一郎, 岡崎哲二, NHK取材班 共著、創元社 1995年刊行)では、「日本株式会社」の起源を、戦前の植民地である満洲国を経営した革新官僚に求めている。革新官僚とは、社会主義的な計画経済を推進した東條英機(1884-1948)や星野直樹(1892-1978)、岸 信介(1896-1987)〔※関連資料(1・2)、『腐蝕の連鎖』より【系図11-1・11-2―満州利権者と朝鮮窒素と水俣病】〕らを指している。

彼らが計画した、官僚主導の経済システムである「戦時統制経済」体制が戦後も生き続け、「日本株式会社」として日本の高度経済成長を可能にしたのである。それを論じた代表的な論者は『1940年体制―さらば戦時体制』(東洋経済新報社 2002年刊行)の野口悠紀雄(1940-)、『日本/権力構造の謎〈上・下巻〉』(早川書房 1990年刊行)のカレル・ヴァン・ウォルフレン Karel van Wolferen(1941-)らである。小室直樹(1932-2010)〔※関連資料(1)〕も同様に、「日本経済の本質は戦時統制経済である」と述べている(『小室直樹の資本主義原論』235ページ)。

小室によれば、日本は資本主義であることをやめ、官僚主導の擬資本主義となった。民間部門と公共部門との間の垣根が取り払われた「混合経済(Mixed Economy)」だとしている。戦前には完成しなかった統制経済体制が、戦後になって開花したと言うのだ。

「戦後の統制経済体制」を推し進めたのは、岸 信介である。戦後圧倒的なまでのアメリカの圧力の下で、アメリカに対して従順な政治家が日本で権勢を誇った。前章で昭和天皇(迪宮裕仁 1901-1989)とジョン・フォスター・ダレス John Foster Dulles(1888-1959)〔※『ロマノフ家の黄金』より【系図35―CIA 長官ダレスとロマノフ家の姻戚関係・39】〕のトップ会談について述べたが、「実行部隊」としては、アメリカに従順な政治家によって戦後日本の基本レールが敷かれたのである。それは、財界に対して親和性のある保守系の政治家であり、吉田 茂(1878-1967)、池田勇人(1899-1965)、岸 信介、佐藤榮作(1901-1975)〔※岸 信介(1896-1987)の実弟、安倍晋三(1954-)の大叔父〕らである。彼らは米財界でも支持を得たので首相になったのである。

岸はA級戦犯として巣鴨プリズンに収監されていたが、突然アメリカの要請を受けて釈放された。笹川良一(1899-1995)、児玉誉士夫(1911-1984)〔※『私物国家』より【図1】〕も同日に釈放されている。彼らは米財界にとっての懸念である日本の“共産化”を防ぐ為に必要な人材と見なされたのだ。

前章で、マッカーサー Douglas MacArthur(1880-1964)ら連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)と対立し米財界の意を受けて暗躍した「ジャパン・ロビー」〔※関連資料(1)〕について述べたが、そのオーガナイザーとなったのが『Newsweek』誌の外信部長という肩書で日本に来たハリー・カーン Harry F. Kern(1911-1996)や、東京支局長トーマス・コンプトン・パケナム Thomas Compton Pakenham(1893-1957)〔※関連資料(1YouTube重要)〕であった。

『Newsweek』誌〔※『地球のゆくえ』より【図2】『赤い楯』より【系図76-1・76-2・76-3】〕は、「鉄道王」エドワード・ヘンリー・ハリマン Edward Henry Harriman(1848-1909)の息子ウィリアム・アヴァレル・ハリマン William Averell Harriman(1891-1986)が株主を務める企業であり、米財界の為の情報誌である〔※『赤い楯』より【系図24・81】『世界石油戦争』より【系図9―ブッシュ大統領家・10―ブッシュ育ての親ハリマンの閨閥】〕。ハリー・カーンは米財界の利益になるように、日本の政財界に対して工作を行っている。

その工作先というのが、他ならぬ岸 信介なのである。原 彬久(はら よしひさ 1939-)によるインタビュー集『岸 信介証言録』(毎日新聞社 2003年刊行)に掲載された以下の証言は、岸が米財界と共に働いたことを如実に示している。



岸 ハリー・カーンは私が(日本)民主党の幹事長の時から知っているんですがね。

――ハリー・カーンさんと言えば、パケナムさんが連想されるんですが。

岸 パケナムがハリー・カーンを連れて来たんです。パケナムは私の英会話の先生ですよ。幹事長時代、パケナムは一週間に一遍私の家に来て英会話を教えてくれたんです。

――パケナムさんも総理のご訪米については色々アドバイスをしてくれたんですか。

岸 そうです。パケナムという男はなかなか面白い人でね。55年8月の重光・ダレス会談で私がアメリカに行く時には、パケナムはダレス宛に手紙を送っているんです。岸は将来日本の総理になる男である、だからこの男には注意をしておけというような内容であったらしい。

(『岸 信介証言録』143ページ)



このように、革新官僚の生き残りであり、社会主義的計画経済の信奉者である岸が、米財界の代表者である「ジャパン・ロビー」〔※関連資料(1)〕のハリー・カーンやパケナムと親しいのである。ここから分かるのは、戦前の日本の統制経済体制が、アメリカの要請によって復活したということである。それは、旧天皇財閥である「天皇グループ」が、アメリカの承認を受けて日本経済を発展させていくことを、米財界が望んだということなのである。

〔資料〕暴利を貪るジャパン・ロビー~初めて描かれるアメリカ人“銀バエ”の実態~ - 大野和基のBehind the Secret Reports ※日本国民に対しShock Doctrine(惨事利用型資本主義)及びストックホルム症候群の応用などを仕掛けた統一教会・ヘリテージ財団と石原慎太郎、それに対するマスコミの対応、更には日経・CSISバーチャル・シンクタンク、CIA、FRS他といった視点から伏線として参照。
http://www.globe-walkers.com/ohno/article/japanlobby.htm

〔動画〕ドイツ国営放送ドキュメンタリー戦後の日本・欧州の視点 No.3「児玉機関と笹川良一」1~2 - YouTube [11分30秒]
http://www.youtube.com/watch?v=vSSwdGV9UHg

http://www.youtube.com/watch?v=2rF2SKbetWo


■日銀とその「支店」の戦後

ところで、天皇財閥傘下にあった天皇財閥系企業が、戦後どのような変遷を辿ったのだろうか。

先ず、天皇財閥の筆頭企業である「日本銀行」は、日本国の中央銀行として戦後も変わらずに存続している。戦後の日銀総裁こそが、占領国アメリカと直接交渉して戦後政策を進めたのである〔※≪吉田祐二 著『日銀―円の王権』 より一部抜粋、要約(1~15)≫を参照〕。戦後初の総裁である新木栄吉(1891-1959)は駐米大使となり、戦後の国交回復に努めた。また、「法王」と呼ばれた一萬田尚登(いちまだ ひさと 1893-1984)は戦後の日本経済復興の舵取りを行った。

前述した通り、「企業集団」の本質は銀行にある。銀行によって同じ企業集団内の企業は結び付けられる。日本銀行は、銀行の銀行である中央銀行という性格から、三井グループの銀行や三菱グループの銀行に対して融資する。つまり、企業集団と企業集団を結び付ける役割を日銀は持っている。このことは、天皇グループが、三井グループや三菱グループといった企業集団を要素として、更にその上に君臨するグループであることを如実に実証しているのである。

日銀は戦後も何らの変更も受け付けなかった。戦中に制定された日本銀行法(日銀法)は1942年(昭和17年)に制定された。その内容は「日本銀行ハ国家経済総力ノ適切ナル発揮ヲ計ル為国家ノ政策ニ即シ通貨ノ調節ト、金融ノ調整及信用制度ノ保持育成ニ任ズルヲ以テ目的トス」(第一条)という国家総動員法に合わせた法令であったが、戦後になっても、長らく変更が加えられなかった。

日銀法が改正されたのは、1998年(平成10年)になってからである。この法令によって日銀は政府からのより強い独立性を勝ち取った。しかしそれは政府と無関係になるということではなく、より政府の掣肘(せいちゅう、コントロール)を受けずに自由に「日本株式会社」の経営に関与することが出来るようになった、ということなのである。

日銀の海外支店の役割を果たしていた「横浜正金銀行」〔※預ヶ合について≪NHKスペシャル『圓の戦争』 より文字起こし≫を参照〕は、敗戦後占領軍の指示により解散となった。しかし、その人材や資産はその後の東京銀行に引き継がれることになった。日本銀行本店の直ぐ近くにある横浜正金銀行東京支店の建物が、そのまま東京銀行本店として使用された。

東京銀行は日本で唯一の外国為替専門銀行として活動したが、1996年(平成8年)に三菱銀行と合併し「東京三菱銀行」となった。更にその後、UFJ銀行と合併し「三菱東京UFJ銀行」となり、現在に至っている。

戦時中の1936年(昭和11年)から1943年(昭和18年)まで横浜正金銀行頭取を務めた大久保利賢(おおくぼ としかた 1878-1958)〔※『持丸長者 国家狂乱篇』より【系図1】〕は、維新の元勲・大久保利通(おおくぼ としみち 1830-1878)の八男である。大学卒業後一貫して横浜正金銀行に勤めた生え抜きである。終戦時の頭取は、ニューヨーク支店長を務めていた柏木秀茂(1881-1952)である。その息子が大蔵省財務官として国際金融エキスパートの柏木雄介(1917-2004)である。柏木雄介は大蔵省退官後の1977年(昭和52年)に東京銀行頭取に就任し、後(のち)に会長となった。

横浜正金銀行は三菱グループの一翼となったが、三菱グループ自体が「天皇グループ」の一員であることを考えれば、その配置転換は見た目ほど重要なものではないだろう。

〔資料〕1997年日本銀行法はなぜ改正されたか? - 金貸しは、国家を相手に金を貸す 2007年12月16日
http://www.kanekashi.com/blog/2007/12/000431.html


■普通銀行となった三行の特殊銀行

国策として特別な政府保護の下に設立された3つの特殊銀行〔※4・5頁参照〕である「日本興業銀行(興銀)」、「日本勧業銀行(勧銀)」、「北海道拓殖銀行(北拓、拓銀)」もまた、戦後それぞれの道を辿った。

戦時中の「日本興業銀行(興銀)」は、軍需生産の為の設備投資や運転資金供給において中心的な役割を果たした。玉置紀夫(1940-2004)『日本金融史―安政の開国から高度成長前夜まで』(有斐閣 1994年刊行)〔※関連資料(1・2)〕によれば、「特殊銀行中最も酷使されたのは、興銀であった」(216ページ)と言う。興銀は、自ら国債と同様の扱いを受ける興銀債を発行して資金収集に努め、金融統制を指揮する日銀の下で、軍需産業への融資配分に当った。

戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)により戦争に協力した機関として指定されたが、行名もそのまま存続して普通銀行へと転換した。しかし、短期ではなく長期の信用銀行を目指し、1952年(昭和27年)に長期信用銀行法に基づく長期信用銀行へ転換した。

興銀は、日本の重厚長大産業(電力・化学・造船・海運・石油・自動車など)の信用給与機関として活躍した。しかし1980年代に入ると、日本産業の軽薄短小への変化に立ち遅れ、企業の直接金融による資金調達力増大の影響を受けるようになる。2000年(昭和46年)に富士銀行、第一勧業銀行(第一勧銀)と共に金融持株会社「みずほホールディングス」を設立し、「日本興業銀行(興銀)」の名は消滅した。

「日本勧業銀行(勧銀)」は、重工業を出資先とする興銀とは異なり、農業や軽工業を融資先とした。戦後は普通銀行に改組し、1971年(昭和46年)に第一銀行と合併し、「第一勧業銀行(第一勧銀)」となる。2002年(平成14年)、第一勧銀は富士銀行及び興銀の分割・合併により、みずほフィナンシャルグループが誕生した。

「北海道拓殖銀行(北拓、拓銀)」は、北海道における興業銀行の役割を果たした。戦後になって特殊銀行から普通銀行になった。都市銀行としては一番小規模な銀行でもあったが、北海道以外に東京・埼玉・千葉・神奈川・宮城・愛知・大阪・京都・兵庫の各都府県に支店を置き、香港、ニューヨークにも海外支店を置く大手銀行の1つであった。1997年(平成9年)、都市銀行として初の破綻銀行となった。

また、戦後新たに設立され、戦前の特殊銀行の遺伝子を引き継いだ金融機関に、「日本長期信用銀行(長銀)」がある。長銀は勧銀と北海道拓殖銀行の長期信用部門として1952年(昭和27年)に設立された。日本の戦後の高度経済成長を支えたが、1998年(平成10年)に金融機能再生緊急措置法による特別公的管理(国有化)となった。その後、不透明な経緯でリップルウッド Ripplewood Holdings LLC ら外資投資機関に売却され、「新生銀行」として営業している。

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