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獣の数字666の正体 その4

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2013年 2月 3日(日)20時47分27秒
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  新羅系伽耶人

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%96%B0%E7%BE%85%E7%B3%BB%E4%BC%BD%E8%80%B6%E4%BA%BA&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=

なぜ井口和基さんは日本人や在日双方を軽視(あるいは蔑視)するような在日の記事を書くのか?

http://quasimoto.exblog.jp/18711174/

>要するに、日本人の上に朝鮮人が支配層として君臨できるという法案である。ほんの100万人にも満たない民族が1億人の日本人を支配するという「復讐法案」である。当然ながら、これに乗じて、韓国や北朝鮮や中国の朝鮮系中国人が怒濤の如く入り込んで来る....

http://blog.goo.ne.jp/chutaro1503/e/53a8205bf3f5306cc7d2028277dceafc

『「伽耶は日本のルーツ」(澤田洋太郎著 93年)のご紹介をします。

 著者は、この書にて、日本人および天皇家のルーツについて、大胆ではあるが
うなずける仮説を展開されています。

 まず、日本人の原郷を伽耶地方つまり、朝鮮半島の南端、慶尚南道のあたり、
古代に任那とか弁韓と呼ばれていた地域としています。

 論拠は、つぎのとおりです。
  伽耶地方と北九州地方の、弥生時代と同時代の遺跡や発掘品の比較によって
  双方非常によく似ていて、若干、北九州の方が新しいということです。
  ・環濠集落や銅剣、鏡、管玉の意匠が、そっくりであること。
  ・双方で、そっくりの馬よろいが発見され、騎馬民族系譜であること。
  ・墓制がそっくりで、石槨はあるが、棺はないという騎馬民族の特徴が
   ある。
  ・この騎馬民族的特長は、百済や新羅にはありません。

つぎに、天皇家の由来、系譜についての説をご紹介いたします。

 ①1世紀に北九州は、百余国に分かれていたわけですが、これは、伽耶地方の
  諸国の王族が、伽耶の海岸線で活躍していた倭人(海人族)に助けられて、
  北九州に移住し、国をつくったというものです。
 ②この中から、邪馬台国が成長し、卑弥呼が登場するのは、3世紀半ばです。
 ③伽耶の豪族であり、日輪信仰をもつ、物部氏の祖先が、畿内に移動。
 ④卑弥呼の死後、男王がたつが、国が乱れ、豊後中津方面に退去し、後に
  ヤマトに移動(神武東征 300年ごろ) 物部氏を臣従させて、日輪信仰
  つまり、天照大神を奪う。これが、イリ系の天皇と呼ばれ、神武、崇神です。
 ⑤400年ごろ、神功皇后・応神が、波多氏・蘇我氏・巨勢氏・平群氏・紀氏・
  葛城氏の助けをかりて、畿内に入り、大王となる。これが、ワケ系(タラシ
  系)の王朝で、応神から継体までつづく。
 ⑥532年、伽耶の王国は、新羅に降伏。その王族が、ヤマトに来朝、欽明天皇
  となる。ずっと蘇我氏の実質支配となる。この王朝は、天智天皇までつづき、
  ずっと任那回復や百済への肩入れを続ける。任那王族の王朝なので、うなづ
  ける。
 ⑦このあと壬申の乱により、天武が即位。天武は、天智とは兄弟ではなく、別
  の王統であり、新羅系の渡来人の指示を受けている。
 ⑧770年、天智の孫、光仁が即位し、百済系の復活となる。その子の桓武は、
  百済王家(100年前から日本に帰化)の姫を皇后にする。桓武は、天皇家が、
  三韓の出身であることを隠すため、それに関する焚書を実施する。

天皇家のルーツと、庶民としての日本人のルーツとは、どのような関係になる
のかということであるが、私は、大同小異だと思います。
天皇家が、伽耶の王族の子孫だとしても、かれらは、伽耶の庶民と同じ民族で
あろうし、北九州の同時代の人々も、伽耶と同じ文化をもつ人々であろうと
思われるからです。

澤田先生の著書でおもしろいのは、伽耶人、倭人が、騎馬民族系であり、百済は
高句麗系、新羅には、騎馬民族の特徴がないことから、伽耶は、三韓のなかでも
特徴のある地域だということです。
これは、日本語と朝鮮語が、よく似ているが、音韻構造がとても異なり、別の
民族、遠い過去に分岐したと考えるべきということになります。決して、朝鮮
民族から日本民族が分岐したわけではないということです。

また、日本民族では、自己主張をしない日本人の気質や虫の鳴き声を
音楽として聴ける性質など、縄文人から受け継いだものや南方系から受け継いだ
ものがあります。

これで、2300年ぐらい前まで、日本人のルーツは、かなりの確からしさで見えた
と思います。

しかし、いつ朝鮮族と日本人がわかれたのか、日本人と同一の祖先をもちそうな
民族の範囲を特定していくなどの、テーマが残っています。
ぼちぼち、研究していきましょう。』

日本の渡来人

http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/toraijinrekisi.htm

日本の渡来人
【日 本と渡来人】
日本地域には多くの渡来人が来ている。渡来の波は大きく4回あるといわれるが、これには東アジア全体の動きと、日本(ここでは地域名として日本を使う)の 王権の伸張、そして日本の朝鮮半島、大陸政策との関係を考えなければならない。言い換えると、王権との関係で渡来人(=帰化人)をどう考えるかということ である。渡来人が日本に来たということともに、渡来人を日本に引きつける日本側の力も大きかったと言うことである。

さらに王権と関係を持った渡来人以外にも、日本に渡来した人々がいた。長野県に見られる渡来人関係の遺跡な ど、中央との関係では説明の付きにくいものもあるからだ。

【第1の波 紀元前5世紀-3世紀】
第1の波は紀元前5世紀から始まる波である。中国では戦国時代(403-221)で、群雄割拠の時代を迎えていた。そのため中国から朝鮮半島に移る人が多 く、さらにこれに押し出されるように朝鮮半島から日本に来た人々が多くいた。彼らの持っている稲作の技術によって、日本はそれまでの縄文時代から農耕を中 心の弥生時代に移行した。集落も稲作に適した平野の近くに作られるようになった。

【第2の波 4世紀-5世紀】
日本では応神・仁徳天皇など倭の五王の時代にあたる。この時期中国東北では、慕容氏が南下して、それに押されるように高句麗が朝鮮半島を南下しは じめ、新羅は高句麗の影響下に置かれた。それに押されるように日本にも渡来が増 えた。この時期日本では大王はじめ各地の有力豪族は、領域内の経済的、文化的発展と政治的支配力の強化を 図っていた。そのため渡来人の技術が必要とされた。4世紀後半になると、ヤマト政権は畿 内から西日本へ勢力を拡大した。この中で、新羅との関係が深いとされる秦(はた)氏や、百済との関係の深い漢(あや)氏などはこの時期に渡来して、文筆や外交に携わった。これらの うち漢氏の東文(やまとのあや)氏の力が強くなる。

ヤマト政権は伽耶の鉄資源を巡り朝鮮半島にも勢力を伸ばしていたが、その軍事力を目当てに百済が関係を持ち、ヤマト政権に七支刀を 送っている。しかし伽耶のヤマト勢力は、北から進出した高句麗に敗れた(400)。 高句麗の圧力によりこれをきっかけに百済、倭とも中国に朝貢する(倭の五王 413- 502)。一方で高句麗の騎兵の影響を受けて、乗馬の風習が顕著になる。西文(カワチノアヤ) 氏の地盤の河内地域にこれに関する伝承が多い。

【第3の波 5世紀末-6世紀】
雄略、継体、欽明天皇の時期に当たる。朝鮮では新羅が急速に台頭し、伽耶、百済と対立 した。百済は高句麗に都の漢城を落とされ(476)、熊津に遷都し、さらに泗沘(扶余)に都を遷す(538) など深刻な政治情勢に陥り、日本は機内中心の古代国家の形成が本格化していた。支配体制の動揺を迎えつつ、新たな国家体制を作ろうとしたため、国 家統治の技術として、渡来人の最新の知識や技術を必要とした。そのために積極的に渡来人を受容した。

今来の才伎(いまきのてひと)と言われる人たちで、王辰爾の後裔とされる一族(船氏、葛井、津氏) もこの時期に勢力を伸ばした。他にも綿織や綾織などの技術をもたらした錦部、須恵器をもたら した陶部などが相次いで渡来してきた。他にも百済から画部、手人部、鞍部、衣縫部、韓鍛冶部、飼部などが渡来する。

彼らは交通の要衝で西文氏の地盤であった河内古市付近や、飛鳥近傍の東漢氏の地盤 であった高市郡に配され、それまでに定着していた渡来人と一緒となって、他とは文化的に異なっ た地域を形成していった。河内では5世紀中頃から勢力の中心が西文氏から船氏に移り、大和でも東漢氏も実務から離れ、今来の人々と政府の仲介を行うように なる。渡来人の力は為政者に独占され、生産力の向上や富が蓄積されていき、6世紀には各地で群 集墳が築かれるようになった。

【6世紀の渡来人】
こうした渡来人の勢力を蘇我氏は接近した。そのため積極的に仏教を受容しようとした。仏教の公伝は 538年とされるが、それ以前でも東漢氏のいる高市郡で司馬達等が継体天皇の時に草庵を営んでいたという。いずれにせよ百済系の仏教の強い地域であった。 蘇我氏は司馬達等の娘を尼僧、善信尼として、これも漢氏一族の豊女と石女と一緒に百済へ派遣して仏 教を学ばせた(543)。帰国後10人あまりが得度したが、いずれも漢氏系である。

6世紀の後半には、ヤマト政権と高句麗との交流が始まり(570)、高句麗を通じた文化流入が始まった。飛 鳥寺では高麗尺を使った。高句麗の使節が日本に 来たときに警護したのは東漢氏であるが、彼らはそれ以外にも新羅征討計画(602)、壬申の乱(両軍とも)で軍事力において大きな役割を果たした。さらに 造仏造寺など土木工事にも活躍した。さらに外交でも外国の事情に明るい渡来人が利用され、漢氏系の高向玄理や南淵請安が派遣された。

一方で秦氏は中央政権との関係よりも地方の豪族から力をつけてきた。主に京都盆地、近江愛智軍、 摂津豊島に分布して資材を蓄積した。京都広隆寺に見られるように、新羅系の影響が強いとされ、蘇我氏でも蘇我本家に反する人々が秦氏に接近した。豪族的性 格が強かったため、彼らの信仰と、固有信仰が融合した。そのため稲荷、賀茂社、松尾神社の神主にもなっていった。

【第4の波 7世紀後半】
新羅が伽耶を滅ぼしたことをきっかけに、ヤマト政権は新羅と関係を持つようになる。また、中国との関係も復活した。しかし、それも百済滅亡(660)、高句麗滅亡(668)によって一度途絶える。日本には百済や高句麗から多くの人 が渡来した。こえに対応して百済人男女400を神前郡(665)、男女2000名を東国(666)、余自信ら男女700名を近江蒲生郡に配した。一方で高句麗からも高麗若光や 背奈福徳等が来ているが、高麗人687名を常陸国(687)に、さらに1799名を武蔵国(716)に配 している。新羅とも国交が回復して(668)、新羅人を下野国に配した(持統期)。

大和朝廷は百済復興運動に失敗して、国内体制を立て直す必要が出来た。そのため渡来人の多い近 江に都を一時的に遷した。沙宅招明、鬼室集斯、 憶礼福留など百済からの渡来人を積極的に登用した。これ以降渡来人の勢力は、この時期に百済から渡来した人々が中心となっていく。一方で百済人2000名 が東国に配されている(666)。

【奈良・平安時代】
一方で漢氏系集団はそれぞれの地域に土着化する。秦氏も同様である。地方官人クラスとして忌寸を称する帰化人集団が増えてきた。天武、持統朝になると百済 男女214名を武蔵に、高麗人56人を常陸へ配するなど、渡来人を関東などの遠隔地に配するようになる。これは、大宝律令以降(701)、外国使節の往来 する道路の近くに外来人を置かないとすることと、遠隔地の開発が眼目にあった。この 流れで上州には新羅系渡来人を中心とした多胡 郡が置かれ(711)、武蔵国の未開の地には新羅人による新羅郡が置かれた(758)。彼らはそれらの地域で土着化していく。

平安京に遷都した桓武天皇は母が渡来系であったため、秦氏の勢力が強くなる。また、東漢系の坂上苅田麻呂が桓武天皇の寵愛を受けた。その息子が坂上田村麻 呂である。しかし9世紀にはいると、朝鮮を蕃国と見る思想が強まり、新羅人を陸奥に配したりした。これに対して駿河、遠江の新羅人が反乱を起こすことも あった(820)。830年には帰化を認めなくなった。一方で北九州や西国での新羅との交流などは続いていった。

このような流れの中で帰化氏族は始祖を中 国に求めたり、8世紀に日本風の氏に改姓するものも増えた。この中で武蔵の新羅人が姓を金に変えたり(728)、上州の新羅人が吉井に姓を変える、百済王 氏の一部が三松氏に変えるなど、全国的に名字が変えられ、一見渡来系とは分からない者も増えていった。この流れによって、日本が対外関係が希薄に なることに合わせるように、9世紀に入ると渡来人 と、日本側の人々との間に融合が起こり、「渡来人として」の姿は消えていく。もちろん、その後も様々なところに渡来人の影響は形をかえて顔を出してはいる が。


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