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新世界秩序の歴史

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2013年 2月22日(金)21時14分53秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://kakokijiyou.seesaa.net/article/88241940.html

これから連続で新世界秩序の歴史を超特急で見ていきます。 Electronic Journalに1ドル紙幣の写真と日本語の記事があります。  http://electronic-journal.seesaa.net/article/19589691.html     A history of the New World Order ? Part I    原文は http://michaeljournal.org/nwo1.htm      1773年  Mayer Amschel Rothschildは、影響力のある友人の中から12人を集めて、「もし我々全員が資産を共同出資するなら、我々は世界を支配できる。」と説得した。 この会合はドイツのフランクフルトで行われた。 またロスチャイルドは友人に次のことを知らせた。  彼が計画した組織を導いてくれる、驚くべき知力と独創力を持った 申し分のない男を見つけたと。  その男の名前はAdam Weishaupt。1776年  バイシャウプト(コードネームはスパルタカス)は、Illuminatiと呼ばれる秘密結社を創立した。注 イルミナティのメンバーはコードネームを持っていた。他のメンバーには、ピタゴラス、ムハンマドなどがある。 バイシャウプトは、ドイツのババリアにあるIngolstadt大学の教会法の教授であった。 イルミナティはNew World Orderの樹立を求めていた。その目的は次のことである。

① すべての政治体制の廃止

② 個人資産の廃止

③ 相続制の廃止

④ 愛国主義の廃止

⑤ 家族制度の廃止

⑥ 宗教の廃止

⑦ 世界政府の創設

1782年~  イルミナティは、Wilhelmsbadの会議でフリーメースンと力を合わせることになった。 この会議に出席していたThe Comte de Virieuは動揺した様子で帰ってきた。 彼が持ち帰った「悲壮な秘密」について尋ねられたとき、 The Comte de Virieuは、次のように答えた。 「この秘密を君に打ち明けることはできない。 私が言えるのは、これらすべてが君が思っている以上に重大なことだけだ。」  伝記作家によると、the Comte de Virieuはこのときから 恐れを持ってフリーメースンのことを話すようになった。  イルミナティのシンボルは、1933年の1ドル紙幣の裏面にはじめて現れた。  1ドル紙幣には13段のピラミッドの下にローマ数字で1776年と書かれている。
 注 この1776年はアメリカ独立ではなく、イルミナティ創立を表している。  すべての方向を見る「目」は、バイシャウプトが作ったゲシュタポのような暴力主義的機関を 象徴する「すべてを監視する目」である。 “ANNUIT COEPTIS”は、ラテン語で「我々の企て(陰謀)は成功の冠をいただく」という意味です。  下の“NOVUS ORDO SECLORUM”は、この企ての本性を説明しています。新社会秩序または新世界秩序」を。

 新世界秩序の歴史その2  原文はhttp://michaeljournal.org/nwo1.htm    1785年~ Lanzeという名前のイルミナティの密使が、Ratisbonの町を通って 馬で旅をしていたとき雷に打たれて死んだ。 ババリアの警官が彼のサドルバッグの中を調べてみると、イルミナティの存在を示すものとフランス革命の到来を詳細に記した計画書を見つけた。 ババリア政府は、フランス政府に大惨事が差し迫っているから警戒するよう伝えたが、フランス政府は この警告に注意を払わなかった。 ババリア警察は発見できるイルミナティのメンバーをすべて逮捕したが、バイシャウプトと他のメンバーは地下に隠れてしまって発見できなかった。    1796年~  フリーメースンはアメリカの大統領選挙で大きな問題となっていた。 John Adamsがフリーメースンに反対することによって選挙を勝った。 そして彼の息子John Quincy Adamsは、フリーメースンの集会所で持ち出されている 差し迫った国家の危機を警告した。 「フリーメースンは、たとえ最大でないとしても、最大の道徳的悪、政治的悪の一つであり、そのせいで アメリカは今苦心していると私は心から心配している。」

1797年~ スコットランドのエディンバラ大学の自然史の教授であるJohn Robisonが、 「陰謀の証拠」いう題名の本を出版した。 その本の中でバイシャウプトが彼を仲間に誘ったと明かした。 イルミナティの不愉快な目的も暴露した。
 ヘーゲルの弁証法 『ウィキペディア(Wikipedia)』
ある命題(テーゼ=正)と、 それと矛盾する命題(アンチテーゼ=反対命題)、 もしくは、それを否定する反対の命題、 そして、それらを本質的に統合した命題(ジンテーゼ=合)の3つである。 全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。 生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。 最後には二つがアウフヘーベン(aufheben, 止揚)される。 このアウフヘーベンは「否定の否定」であり、 一見すると単なる二重否定すなわち肯定=正のようである。 しかしアウフヘーベンにおいては、正のみならず、正に対立していた反もまた保存されているのである。 1821年ヘーゲルがいわゆるヘーゲル弁証法を公式化する。 この弁証法の手順に従ってイルミナティは目的を達成した。 ヘーゲルの弁証法によると、テーゼとアンチテーゼを統合したものがジンテーゼである。 つまりこういうことです。 まずあなたが危機を作り出す。 するとこの問題について何かしなければならないと大衆の抗議が起こる。 そこであなたは解決策を差し出す。 この解決策とはあなたが初めからずっと望んでいた変化をもたらしてくれるものです。 しかし初めに差し出していたら大衆はいやがって受け入れなかったであろう。

1828年~ イルミナティを財政支援していたMayer Amschel Rothschildは、彼のような国際的な銀行家を 規制しようとする各国の政府を軽蔑していた。 「私に国のお金の発行とコントロールを任せてほしい。そうすれば誰が法律を作ろうとかまわない。」

1848年 Moses Mordecai Marx Levy別名カール・マルクスが「共産党宣言」を書く。 マルクスは「公正連盟」と呼ばれるイルミナティの提携組織のメンバーであった。 彼は経済的、政治的変革を提唱しただけでなく、道徳的、精神的変革をも提唱した。 彼は、家族制度は廃止されるべきであると思っていたし、すべての子供は中央権力によって 育てられるべきであると思っていた。 彼は次のように言って神に対する自分の意見を言った。 「宗教、州、国家、愛国心におけるすべての普遍的な考えと、我々は戦う必要がある。 正道を外れた文明の要となっているのは神に対する考えである。 これは破壊しなければならない。」 1870年1月22日 イタリアの革命家Giuseppe Mazziniへの手紙の中で、Albert Pike(スコットランドのフリーメースンの指導者)が秘密結社の中に秘密結社を創立することを述べていた。 「我々は誰にも知られない最高の組織を作る必要がある。 我々が選ぶ高位階のフリーメースンをこの組織に参加させるために。 フリーメースンの兄弟にも、これらの人は極秘である必要がある。 この最高の組織を通して我々はフリーメースン全体を統治する。 この組織は唯一の国際的センターとなり、その目的は誰にも知られることがないから いっそう強力となる。」 この極秘組織はThe New and Reformed Paladian Riteと呼ばれた。 このため95%のフリーメースンはこの組織の本当の目的について手がかりを持っていなかった。 彼らは立派な事業をするすばらしい地域組織と思い違いをした。 1875年 ロシアのオカルト信仰者Helena Petrovna BlavatskyがTheosophical Society(神智学協会)を創立した。ブラバツキーは、ヒマラヤにいる聖人(彼女は智慧の指導者と言っている)と ロンドンからテレパシーで交信していると主張した。 キリスト教徒は、昔「サタンは善であり、神は悪である」と知っていたと彼女は主張した。 彼女は次のように書いた。「キリスト教徒と科学者はインドの優れた人を 尊敬するようにしなければならない。 インドの智慧、哲学、偉業をヨーロッパとアメリカで知られるようにする必要がある。」 1884~ 社会主義を促進するために、フェビアン協会がイギリスで創立された。 フェビアン協会はローマの将軍Fabius Maximusから名づけた。 ハンニバルの軍隊と決定力のある闘いよりも小競り合いを彼は選んだ。 1889年7月14日 Albert Pikeは世界にある23の最高会議へ指令を発した。 フリーメースンが誰を本当に崇拝するのか彼は明らかにした。 「偉大な指導者であるあなた方に我々は次のことを告げる。 あなた方は32位階、31位階、30位階の兄弟に次のことを繰り返して告げてほしい。 我々高位階の人間によって、フリーメースンの宗教は 純粋なルシフェリアン教義のなかで擁護されるべきである。」 1890年~1896年 John Ruskinに熱心な研究者セシル・ローズは 当時イギリスの植民地であった南アフリカの首相であった。 彼は南アフリカの金とダイアモンドを開発し支配していた。 世界で人間が住むことができる部分をすべて優勢なエリートの支配下に置くために彼は運動していた。 この目的のため彼の莫大な財産の一部を使って有名なローズ奨学金を創設した。 1893年~ 神智学協会がスポンサーとなって、シカゴで世界宗教会議が開催された。 この会議の目的はヒンヅー教と仏教の考え方、たとえば輪廻の信仰を西洋に紹介することであった。1911年 イギリスの社会党は「社会主義と宗教」と題するパンフレットを出版した。 この中で彼らはキリスト教に対する自分たちの立場を明確に述べた。 「社会主義が宗教の敵であることは深遠な真実である。 キリスト教徒の社会主義者は実は反社会主義者である。 キリスト教は社会主義のアンチテーゼである。」 次回はいよいよその時がやってきます。 ウィルソン大統領の登場です。

いよいよその時がやってきました。
1912年 ウィルソン大統領の親しい助言者である  Colonel Edward Mandell Houseが “Phillip Dru: Administrator”を出版した。 彼はこの中でマルクスが夢見た社会主義を奨励した。1913年2月3日 アメリカ憲法修正16条が制定された。 これによって連邦政府は累進的所得税を課すことができるようになった。 共産党宣言は累進的所得税を必要としていた。 1917年、カナダは戦争遂行の資金調達のために、 一時的手段として所得税を取り入れた。913年 ウィルソン大統領が“The New Freedom”を発表した。 彼はこの中で次の事実を明らかにした。

「政界に入ってから私は個人的に人の考えを打ち明けられてきた。 アメリカの有力者または商業と工業の有力者の中には誰かを恐れ、何かを恐れている人がいる。 彼らは知っているのだ。どこかにある権力がある。それは組織化されている。それは巧妙である。それは監視している。それは何かと連結されている。それは完全である。それは広く普及している。 だから、それを非難するときは、彼らは声をひそめる必要があると。」

1913年12月23日 The Federal Reserve(連邦準備制度)が創設された。 これはfederalでも reserveでもない。 民間が所有する制度だ。 これは、1910年ジョージアのJekyl Islandの秘密会合で、 Col. Houseを含む銀行家と政治家のグループによって計画された。 これによって通貨の発行権が アメリカ政府から民間の銀行団へと移った。 クリスマス休会の直前に、連邦準備法がせかされて議会を通過した。 下院議員のCharles A. Lindbergh Sr.(有名な飛行家の父)が 次のように警告した。「この法律は世界一の巨大な信託を制定することになる。大統領がこの法律にサインをすれば、金という権力による影の政府が合法化されることになるだろう。金融信託調査委員会によって、影の政府はその存在が証明されている。」1916年 連邦準備法にサインをした3年後、 ウィルソン大統領は次のことに気づいた。「私はもっとも不幸な人間だ。私は知らずに私の国を破滅させた。偉大な工業国がクレジットというシステムによって支配されている。このクレジットというシステムは誰かに集中している。国家の成長と我々のすべての活動は 一握りの人間の手の中にある。我々の政府は、文明国の中で一番悪く支配されている政府の一つ、文明国の中で一番完全に支配されている政府の一つ となってしまった。もはや自由な意見による政府ではない。 もはや信念と多数の票による政府ではない。有力な人間の小さいグループによる意見と強要の政府だ。」

ウィルソンは新世界秩序の圧力に負けた。 そのため彼は失意の人となった。 ケネディは新世界秩序に抵抗した。 そのため彼は帰らぬ人となった。 ウィルソンだけを責めることはできない。 少なくとも彼は消極的に新世界秩序に協力した。 他の大統領はどうであろうか?

ウッドロウ・ウィルソン 『ウィキペディア(Wikipedia)』

1890年にプリンストン大学の法律学と政治経済学の教授になった。 1902年6月9日に満場一致でプリンストンの学長に選ばれた。 1910年から1911年までアメリカ政治学会の会長だった 1912年の大統領選で民主党は大統領候補にウィルソンを指名した。 共和党のウィリアム・H・タフトとセオドア・ルーズベルトは お互いに対立し、共和党は内部分裂した。 結果ウィルソンは大統領選に勝利した。 ウィルソンはニュー・フリーダムと呼ばれる 進歩主義的国内改革を実行した。 第一次世界大戦に対してアメリカ合衆国を中立の立場に保ち、 それは1916年の彼の再選に寄与した。 しかしながらルシタニア号沈没事件による国民の反独感情や 大戦間、極東における日本の台頭を懸念する世論によって参戦への圧力は増大し、 アメリカは1917年4月6日にドイツへの宣戦を布告した。 第一次世界大戦末期の1918年1月8日に、 ウィルソンは有名な"十四か条の平和原則"を発表した。 その中で彼は国際平和機構の設立を提唱し、 国際連盟として実現したが、 アメリカ自身は議会の反対で加盟できなかった。 第一次世界大戦後、和平会談に出席するため1918年12月4日ヴェルサイユへ出発した。 彼は在職中にヨーロッパへ旅行した最初の大統領である。 合衆国代表としてヴェルサイユ条約に調印した。 4月11日に日本代表の牧野伸顕らが出した人種差別撤廃条項に対し、 イギリスとオーストラリアが反発。 議長を務めたウィルソンも国内選挙の都合から反対に回り、 議長権限で否決に追い込んだ。 このことは、彼の唱える進歩的自由主義の対象が あくまでも白人のみであると認める形となり、 彼の経歴を傷つけた。 1919年10月2日、コロラドで脳梗塞を発症、左半身不随となった。 しかし大統領の執務不能という事態は秘匿され、 これ以降は夫人のイーディスがすべての国政を決裁した。 こうした事実が明らかになったのは 実にウィルソンの死後になってからのことであり、 これが後の大統領権限継承順位を明文化した 憲法修正第25条制定の伏線となった。


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