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スウェデン・ボルグの死後の世界

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2013年 3月 6日(水)23時14分36秒
  通報 返信・引用 編集済
  スウェデン・ボルグは霊体離脱をした霊能者ですがその「霊界日記」の中で「しっかりとした墓を建てることにより墓から天上界に向けて出ている光の筋を死者が見て,その方向に行こうとする」とある。そうでないと浮遊霊あるいは成仏できない不浄霊となってしまうそうだ。彼の遺体がストックホルム大聖堂に埋葬されているのはそれが理由なのだろう。

スウェデン・ボルグの履歴書

http://www7.ocn.ne.jp/~elfindog/SWEDEN.htm

ある識者からの情報ですとお墓はウプサラの大聖堂内にあり静寂のうちに安置されているそうです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%97%E3%82%B5%E3%83%A9%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82

スウェーデン王、また著名な人物が大聖堂内に埋葬されている。

グスタフ・ヴァーサ - 16世紀のスウェーデン王。3人の妃と共に埋葬されている。
ヨハン3世 - 王妃カタジナと共に埋葬されている。
カール・フォン・リンネ - 18世紀の植物学者
Olof Rudbeck - 17世紀の科学者。ウプサラ大学の薬学教授
エマヌエル・スヴェーデンボリ - 18世紀の科学者。1908年にイギリスから移葬された。
ナータン・セーデルブロム - 聖職者。ウプサラ大司教。1930年にノーベル平和賞受賞
聖エリク - 12世紀のスウェーデン王。スウェーデンの守護聖人
ラウレンティウス・ペトリ - スウェーデン史上初の、ルーテル教会派大司教。

参考URL....成仏霊と不浄霊の次元階層

http://web.archive.org/web/20071228223637/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/297.html

http://www.geocities.jp/susano567miroku/reikaimonogataritotenkaitogigoku_1.html

 エマニュエル・スウェーデンボルグは父をイェスベル・スウェドベリ(Jesper Swedberg 1653~1735)とし、母はサラ・ベーム・スウェドベリ(Sara behm Swedberg 1666-1696)の三番目として1688年、1月29日(ユリウス暦)に生を受けました。場所はスウェーデンのストックホルムです。グレゴリオ暦で換算するとスウェーデンボルグの生年月日は11日遅くなり、2月9日になるようです。
 スウェーデンボルグは九人兄弟だったようですが、長男のアルベルト、弟のダニエルは年幼くして他界、弟、エリエセルもスウェーデンボルグが28歳の時に死亡。弟、イェスペルとカタリーナは長寿を全うしますが、スウェーデンボルグよりも長生きしたのは妹のマルガレータのみだったといいます。


 スウェーデンボルグの兄弟たち

1、アルベルト
2、アンナ
3、エマニュエル
4、ヘドヴィグ
5、ダニエル
6、エリエセル
7、カタリーナ
8、イェスペル
9、マルガレータ

 スウェーデンの首都、ストックホルムは【北欧のヴェネチア】【水の都】とも呼ばれ、当時、近代的な都市であり、港を中心とした商業都市でした。
 スウェーデンボルグの父イェスペルですが、どんな人物だったのでしょう。専門書から引用します。

●エマヌエル・スウェーデンボルグ 持続するヴィジョン ロビン・ラーセン編 米国スウェーデンボルグ財団

 エマヌエル・スウェーデンボルグの父、イェスペル スヴェドベリ(Jesper Swedberg)は、エマヌエルが生まれたとき、35歳で、国王カルル11世(Karl XI)の宮廷の専属牧師であった。彼は神学博士およびスカラの監督として、スウェーデンボルグが47歳のとき世を去った。裕福な鉱山主であったイェスペルと彼の兄のペテルは、伝統的なスウェーデンの習慣にしたがって父の名を冠するのでなく、姓をもつに至った最初の世代であった。イェスペルの父はダニエル・イサクソン(Daniel Isaacsson)、その父はイサク・ニルソン(Isaac Nilsson)、さらにその父はニルス・オッテソン(Nils Ottesson)という具合であった。ダニエル・イサクソンが彼の息子たちのために姓を選んだとき、彼は息子たちを「スヴェドベリ」とよんだ。それは大きなファールン鉱山の近くにあった家族の農場と家屋敷がスヴェーデンス・ゴルド、あるいはスヴェーデン(Sveden)とよばれていたからである。
 ストックホルムの北150マイルのところ、鉱業国のただ中に、こんもりと茂った丘が起伏をなし、そこに非常に多くの湖が点在しているので、この土地はあたかも水上に浮かぶ網のようにみえる。豊富な木材を産し、北国の短い夏に農耕する者もあり、スヴェーデンのような馬の放牧場もある。エマヌエルはここをしばしば訪れ、馬が好きになり、優れた馬の乗り手となった。

●ヂョーヂ・トロブリッヂ著 スエデンボルグ 静思社
 イエスパ スエドベルグ(Jesper Swedberg)はダニエル イサックソンの第二子で、一六五三年に生まれた。彼の良心は敬虔な人であつて、彼を教会に献身させたため、彼は一六八二年に聖職に任じられた。彼はその年近衛騎兵隊司令部の教誨牧師に、一六八六年に王室附教誨牧師に、一六九○年にヴィンゴーケルの司祭長及び牧師に、一六九二年にウプサラ大学の教授に、一六九四年にウプサラの司祭長に、一七○二年にスカラの監督に任命され、この最後の務には二十三年たずさわつた。彼は正しい敬虔な生活の人であり、倦むことを知らぬ活動家であり、熱心な改革家であった。事実、彼はその模範的な行動と不屈な熱意により、彼ほどに熱心でもなく、また彼ほど注意の行きとどかない同僚の間で著名な存在となつたのである。『もし彼が二、三百年以前にうまれたなら』と、彼と同時代の人の一人が記した。『彼はスエーデンの聖徒の数を増大させたことであろう-彼の学問、勤勉、模範的な生活、善良な意図、また神の栄えを求める熱意は、さらに啓蒙された世紀によつてすら尊崇される価値をもつている。』彼は陸軍の教誨牧師としても----彼は読むことを覚えた各兵士に賞を与えたのであるが----またはその後ウプサラ大学の神学教授としても、後の総長としても、喬育のために活動したのである。彼は公立学校の喬育を改良しようと努力し、自ら多くの教科書を作り、編集もし、凡ゆる方面で学問を促進しようと努力した。
 スエーデンは神教の国ではあつたが、その緩慢な時代では聖書研究はかえりみられなかつた。実に聖書はやや高価なぜいたく品であって、出版の特許権を得ていた出版業者はこれに高価な価格をつけていたのである。スエドベルグはこれを匡正し、すべての者が入手することのできる安価な版を提供しようと試みたが、しかし王の許可を得て、こうした版を公にするため自ら莫大な金を費やしたものの、賦与所有権の力が余りに強く、その企図は挫拙してしまつた。聖書のスエーデン語訳の改訂に向けられたその努力もまた水泡に帰しスエーデン語の賛美歌と詩へんを改良しようとするその企ても、ただ彼に異端の非難をもたらしたにすぎずついにはその仕事も抑圧されるようになつたのである。凡ゆる方面で彼は、彼の良い業を当然支持して、援助しなければならなかつたその人々の嫉妬、冷淡、頑強な保守性により、妨害されように見える。にも拘らず、彼はその長い生涯の終わりまでも、その賞賛されてよい努力を継続したのである。
 スエドベルグの宗教はいちじるしく実際的な性格を持っていた。他の神教の教団と同じよう、ルーテル派の教会内でも、良い業がけなされ、そのため道徳が害われるまでにも信仰がたたえられていた。スエドベルグは、真の信仰は仁慈と活動的な有益な生活から切りはなすことはできないと主張した。彼は『多くの者が、「偉大な信仰」の第一項と第二項とには満足するが、第三項の「聖潔と聖い生活」とには何の関係も持とうとしない』ことを嘆いた。『「一頭の信仰」と「悪魔の信仰」とは彼には同意語であつた。』彼は恐れを知らぬ説教家であり、身分の低い罪人の堕落を弾劾すると同ように、高官の怠慢をも弾劾し、とくに高官が宗教的な義務をなおざりにし、その教会庇護の権利を言語同断にも濫用していることを痛烈に非難した。が、彼の包容性はその生きていた時代としてはいちじるしいものであつた。彼はすべての教会の中に善いものを見ようとねがい、英国訪問の間には、オックスフォードのフェル監督と基督教会合同の問題を論じた。ロマ カトリック諸国の中では彼は、貧しい者に与えられている庇護と、病んだ乏しい者に対する高貴な生まれの人々の献身を賞賛し、自国では、敬虔派の教えと実行の凡てには一致はしなかったけれど、そのまじめさには賛意を表したのである。彼はサンデルス参与官から、『熱意に満ちてはいるが、頑迷ではない人物』として記されている。
 彼の個人的趣味は単純であり、また容易に満たされもした。彼はこの世の財産はをかなり与えられていたが印刷物や出版やのそ他私欲のない仕事に多額の金を費やしたために、貧しくこの世を去つて行つた。
 彼の書物の大半は成功せず、いく部屋も売れない本で一杯になつていると彼は嘆き、死後それは恐らく婦人たちからお菓子の包み紙にでも用いられるであろうと現実的な諧謔を洩らした。
 スエドベルグ監督のような真面目な、献身的な人間に対しては、霊界はきわめて現実的なものとして、また身近にあるようにみえたことは驚くにはあたらない。彼は人間の間に天使が現にいることを、またその天使が『救の世つぎとなるためにつかわされた仕える霊』として遂行する務めを確信していた。(ヘブル一・一四)。彼は自分の『守護天使』と交わりながら生きており、時々自分は話も交わすことができるとはつきり言いもした。彼は色々な場合に他の霊的な知らせを受けたと信じ、催眠治癒の力をもっていたように見える。彼はその聖職に就任してから間もなく言つている。たそがれの頃、大きな声で歌が教会堂の中に歌われているのを私も村の人々の凡ても聞いたが、それは私に天使たちが訪ねて来て、そこにいて、私が身をささげたその召命の聖らかさを前にもまして強く私に感じさせたのである。と。こうした凡ての事はその子供のイマヌエル(Emanuel)のさらに異常な経験に関係をもつている。物質界と霊界との間にある密接な関係はその父の教訓から疑いもなく後者に親しく考えられていたのである。

 スウェーデンボルグの父も霊感を持っていたようです。彼の父が霊的にエンゼルと交流することが出来たのだとしたら、彼も良質な霊能者だったことを意味します。そんな父の霊的な遺伝子的影響を少なからず受けたスウェーデンボルグは後に瞑想によって霊的世界に入り、エンゼルと交流するようになり、多くの著書を執筆するようになります。
 スウェーデンボルグの家は裕福な家庭であったといってもよいでしょう。父のイェスペルは近衛騎兵隊司令部の教誨牧師に、ヴィンゴーケルの司祭長及び牧師、ウプサラ大学の教授となり、ウプサラの司祭長にも歴任。非常に優れた人物であったと同時にスウェーデンボルグの祖父が残した遺産がありました。祖父はスウェーデンの中でも良質なファールン鉱山を所有し、同鉱山を運営していた株式会社の株主だったようです。父であるイェスペリもそれを引き継ぎ多大な土地の所有者であるとともに大きな屋敷も所有していました。
 スウェーデンボルグの母、サラはスウェーデンボルグが僅か9歳の時、スウェーデンのウプサラで他界してしまいます。僅か30歳の短命でした。スウェーデンボルグを生んだのは20の時だったといいます。
 母、サラの両親も父のイェスペリの両親と同様、ストーラ・コバベリという鉱山会社を所有しており、他の鉱山でも共有権を持っていたようです。スウェーデンボルグは両親とも裕福な家庭で育っていました。
 スウェーデンボルグはウプサラ大学卒業後、機械工学に専念しており、勉学に励む意欲を持っていました。しかし、当時の国情としてスウェーデンのはデンマークからの攻撃を受け、財政的に非常に困難な状況に置かれていました。外国旅行も不可能な状況で、かつペストが蔓延する危険性もあったようです。そのような境遇の中、スウェーデンボルグは単身、危険を顧みずイギリスへ向かいました。
 イギリスへ単身出向いたスウェーデンボルグでしたが、多難だったようです。ゆうに4度も生命の危険にさらされ、時にはロンドンで逮捕されて絞首刑に処される程の危機に直面したこともありました。この件は彼の友人の助力があってなんとか危機を乗り越えましたが、これは幸運以外のなにものでもなかったようです。

●エマヌエル・スウェーデンボルグ 持続するヴィジョン
 彼は次つぎと職人のところへ下宿し、通常の下宿よりも安く生活しただけでなく、そこで宿主の技術も学んだ。彼らの職種は時計製造、戸棚製造、金管楽器製造、彫刻、そして(のちにオランダ)でレンズ研磨であった。同時に彼は、ボイルの実験をして化学を独学すべく、スウェーデンでは手に入らない書籍や備品を買った。彼はニュートンの著作を毎日読み、ここに描かれているようなロンドンのコーヒー店で、当時の問題を議論できる若い科学者や数学者の仲間を捜しだした。
 彼はグリニッジへ移り、ここにみられる王立天文台で偉大なジョン・フラムスティード(John Flamsteed)のもとで天文学を学びはじめた。フラムスティードはここの図のような望遠鏡で、月の位置の最初の詳細な一覧表を作るべく、ずっと観察を続けていた。スウェーデンボルグは、夜間に観察してデータを記録することで彼を手伝うように頼まれた。ここで彼は、月によって海上の経度を知る独自の方法を考えはじめた。また彼は、スウェーデンに天文台を設置するという夢を描きはじめた。この夢を彼は長年抱き続けることになった。

 スウェーデンボルグはニュートンの書籍に興味があったようです。彼は生きている間にアイザック・ニュートンに出会うことは出来なかったようですが、霊界では出会うことが出来たようです。その様子が霊界日記に記されてあります。

●霊界日記 角川文庫
 6064
 私はニュートンと数回、話し合った。彼はまったく誠実な人間であり、彼と親しい者たちのあいだにいて、彼らに愛されている。彼は私にこう語った。
「私は今、主は天使たちの天界の太陽だ、ということと、その本質が神的な知性であり、天使や人間に知性を与える光は主から発しているということを知っています。けれども人びとは、この光が理解力を啓発して自分たちに知性的に考えてさせているものだということを知りません。また私は、万人を生かしている一なる生命が存在し、この生命は彼らには光として現われ、人間の生命はこの光から発することを知っています。それは人間の最内奥へも流れ入っていますが人間にはあたかもそれが自分自身から発するかのように現われています」
 彼はまた次のようにも語った。
「私のいるところでは、世にいたときよりもはるかに輝いた。はるかに変化に富んだ色彩が現われています。この色彩は神的な光の変容にその起源を有し、天使や人間にそなわる、生命を受容する形態の中へと注がれます。理解力の多様性はここから生み出されるのです」
 色彩の多様性に関して、彼はこう語った。
「(基本になる)三色、つまり光から発する白、火から発する赤、そして(陰影)から発する黒があります。色彩のあらゆる多様性は、この三色から生み出されます」

 霊界に昇天したニュートンはすでにエンゼルになっているようです。ニュートンが解明したニュートン力学、万有力学などの法則は天界のエンゼルがもたらしたものだったのでしょうか。スウェーデンボルグは数学者や科学者と談話することを楽しみにしていたところがありますから、ニュートンと話が出来たことはスウェーデンボルグにとっても有意義なことだったでしょう。

 スウェーデンボルグはイギリスのオックスフォードであのエドマンド・ハレーと出会い、彼の元で研究するようになります。さらにスウェーデンボルグはレンズ研磨の職人に弟子入りし、その元で職人技を習得するようになり、スウェーデンボルグの発明、技術に対する意欲は益々熱を帯びていきます。
 スウェーデンボルグは科学や天文学、発明に興味を示し、次々と新しい技術を完成させていきます。彼の発明はスウェーデンの鉱山労働者のためのものだったようです。何れもその労力を軽減するための開発だったようで、彼の故国スウェーデンに対する愛着の証でした。

 スウェーデンボルグの発明の中でも特に興味深いのは、飛行機の模型です。空を飛ぶための装置でしたが、翼と操縦席、着陸装置も考案されており、実用的に考えられていたようです。この模型は現在でもアメリカ、ワシントンDC、スミソニアン博物館に保管され、展示されています。スウェーデンボルグが発明した飛行機の発明をヒントに後の発明家たちは飛行機をより完成に近づけていったといいますから、スウェーデンボルグの発明は当時としても高水準だったようです。
 スウェーデンボルグが専攻した分野とその論文は相当数に上っています。その範囲も実に広く物理学、化学、工学、数学、解剖学、生物学、微粒子論、地質学、医学、宇宙学、心理学などに及んだといいますから、驚異的といえます。あらゆることに精通していたスウェーデンボルグ。そういった彼が霊界に興味を持ち、霊界の情景と相応を記したというのは、実に信憑性が高いと考えてもよいのではないでしょうか。

 スウェーデンボルグは結婚をしていたのでしょうか。実は終生独身でした。イギリス、ロンドン在住の時、愛人と共に同居していたという噂もあったようですが、基本的に彼は結婚まではしていなかったようです。彼も若い時代、一度、恋愛感情を抱いたようですが、その際、相手の女性に断られてしまいます。女性といっても相手はまだ当時、13、14歳ほどだったようですが、スウェーデンボルグの知人、クリストファー・ポルヘムの娘でした。求婚を断られたスウェーデンボルグは後に結婚しない意志を固めたのではないかとされていますが、実際、彼の場合、天界の秘儀、霊界日記などの膨大な著作を執筆する必要があり、さらにそのためにはニアデスして霊界を探検してくる必要がありましたから、基本的に家には簡素な静寂さが求められていたことでしょう。近侍のお手伝いの証言ではスウェーデンボルグはほとんど食をとらず、主に砂糖の入ったコーヒーをすすり、ビスケットを食べるだけにすぎなかったと語っています。食生活にしても、結婚をしないにしても、瞑想から霊界にニアデスするためには必要なことだったと思われますし、また、スウェーデンボルグは彼の著書、【結婚愛】でも取り上げていますが、真の結婚愛とは愛と真理の結合、また、主と教会の結びつきであると語っているので現界での結婚は差し控えたのかも知れません。
 スウェーデンボルグは彼独自の呼吸法で臨死(ニアデス)を経験し、霊界へと赴きます。その中で天界のエンゼルと出会い、霊界の本質を教示され、また、体験し、見聞し、その結果を彼の著作へと反映させていきます。
 スウェーデンボルグがニアデスする際の様子が霊界日記に書かれてあります。

●霊界日記 角川書店
1092 今朝、私は臨死(ニアデス)の状態に入れられたが、それは死につつある人々の状態や、死後それに続いて起こることを知るためだった。私は実際に死んだのではなかったが、肉体の感覚の方面で一種の無感覚の状態に陥った。内的な生命は完全なままであったので、私はそこから、臨死の人びとに起こることがらを認知して記憶に留めることができた。なぜなら、私の呼吸は取り去られはしなかったし、呼吸が残っているかぎり、人間は知覚を持もち、その呼吸が私がもったようなものであれば、人間は五感の対象ないし外なるものからではなく、内なるものから知覚をもつからである。

1093 〔私の霊と肉体との〕交流がある程度取り去られるために、私の呼吸もまた鳴りを静め、無感覚になった。

1094 最初、心臓が天的な者たちによって占められたが、私の心臓を介して私は天的な者たちに接合されるように思われた。とうとう私は、私自身のほとんど何ものも残らなくなるまで、ぴったりと彼らに結びついた。この状態は数時間続いた。

1095 それゆえ、臨死の最初の状態は、霊的な者たち、つまり話している者たちの語っていることを、いわば彼らから私が引き離されているという思いをもってしか聞かなかった。ということである。したがって、ほかの場合だったら私と語りあった霊たちと交流することはほとんどなかった。私はたしかに彼らの声を聞いたことは聞いたが、いわば彼らとのどんな交流もなしに聞いたのである。霊たちもまた、私が死んで肉体の生命を取り去られている、としか考えなかった。というのは、私は彼らがそう言っているのを聞いたからである。このことは私の場合に起こったことである。しかし、私のように霊たちと話さない人びとが死につつあるときは、同様なことは起こらない。

1096 天的な霊たちはそのとき、私が〔霊的な〕霊たちに委ねられないように、心臓の領域を占めていた。さらに、ある善良な霊、つまり天的な霊もまた私の頭りかたわらに座っていた。このように、主の墓のところにいた天使たちについて私たちが〔聖書で〕読んでいるように、天的な者たちがそのとき頭の辺りに座っているということが一般的な規則である。このことは誰が死ぬときにも起こるのである。

1097 天的な者たちというのは、何事も話さないで、彼らの考えや内的なものを顔を用いる伝達によってのみ表わす者たちであり、〔相手の〕顔に彼ら自身に似た顔の表情を引き起こす。その結果、そのようにされた者は、引き起こされた顔の表情をみずからのうちにきわめて明らかに認知することができる。二度、私は別な顔の表情が私に引き起こされるのを認知したが、そのさい彼らは、彼らなりの仕方で、
「それは、あなたの頭の辺りに座っている天的な者たちの顔です」と語った。このように二つの顔があったのである。また、彼らが、人間で死んでいるか、いないかを知るのは、このようにしてである。なぜなら、引き起こされた彼らの表情が彼らのものと認められるなら、そのときかれらはその人間が死んでいることを知るからである。

1098 さらに、彼らはまた私の口の辺りに、ある種の変化を引き起こすことによって、彼らなりの仕方で私と話し、彼らの考えを表わすことができた。なぜなら、天的な者たちのもとでは、口の領域を手段として話すのが一般的だからである。この言葉は、天的なものであるため、理解できるのである。

 霊界にニアデスするためにスウェーデンボルグは独自の呼吸法を身につけていたのではないかと考える人がいますが、実際、彼の儀式的な様子を偶然見た人の証言では東洋の瞑想のような雰囲気だったとされています。スウェーデンボルグが自ら編み出したのでしょうか。この辺りは王仁三郎と共通しているかもしれません。

 スウェーデンボルグが聖書に則した著作の中で、最も基礎となり、また代表とされるものは、【天界の秘儀】です。この名は鈴木大拙訳【天界と地獄】の序章にも【天道密意】と翻訳されていました。王仁三郎は天界と地獄の序章を霊界物語第42巻第1章に組み込みましたから、天界の秘儀の存在は十分分かっていたでしょう。1750年、スウェーデンボルグ65歳の時、イギリスで天界の秘儀第1巻が発刊されます。
 しかし、彼の著作も当時、あまり売れなかったようで、彼自身、これに対してどのように捉えていたのでしょうか。霊界日記には記されてあります。

●霊界日記 角川書店
4422 「あなたの本〔『天界の秘儀』は二ヶ月で四冊しか売れていません〕という数通の手紙を私は受け取った。このことが天使たちにも知らされた。彼らは仰天したが、しかし次のように語った。」
「それは主の摂理に委ねるべきです。主の摂理は誰をも強制するものではありません。むろん強制することも可能でしょうけれども。信仰をもつ人びと以外の人びとが、最初にあなたの著作を読むことは適切なことではありません。このことは、主が世に来られたときに起こったことからもわかります。主は御自身の言葉や御自身を受け入れるように人びとを強制することもできたのですが、しかし、あとで使途たちの場合でも同じことですが、誰ひとり強制しませんでした。それでも、受け入れる者たち、すなわち信仰をもつ者たちが現われ、この者たちに使途たちがつかわされたのです」
 また、キリスト教世界におけるほかの者たちの場合はどうなっているかが、〔いく人かの霊が〕肉体の生命にいたときの状態に入れられることによって示された。彼らは、私が書いた他生のことがらや内なる意味の解説について考えるようにさせられると、まるでへどを吐きたがっているかのようだった。そして私の書いたものをことごとく拒絶してしまった。このことを彼らはまた口にすることによって、「本当に私たちはそうしたのだ」と告白したのである。

 スウェーデンボルグは自分の著作が受け入れられない状態があっても天使たちにこのように言葉を投げかけられたのでした。強制はしない。それが天界のルールだったようです。仮にスウェーデンボルグの著作を受け入れない人々に対して強制的に強いたとしても、理解力や智慧証覚が元から追いついていないのですから、いつかは離れていくのは明らかです。また、霊界では相応の理ということがありますから、受け入れられない状態で神の真理を手にすると、途端に聖言を曲解して誤謬を生み出すことにもなりかねません。あくまでも自らこれを受け入れる状態があって聖言は意味をなすものなのでしょう。天使の想いは心理的に見ても霊界的に見ても妥当なところにあると言えます。

 スウェーデンボルグは自分の著作が世間ではどのように受け取られるかについて、受け止める人々の相応のパターンを既に予見していました。

●霊界日記 角川文庫
2955 私は霊たちと、こうした〔霊的な〕ことがら冠する私の著作集〔当時、出版の準備をしていた、彼の最初の神学著作、『天界の秘儀』〕が公になったとき、どのように受け取られるか、ということについて話した。というのも、悪霊たちが時おり、こんなものは誰にもわかりはしないし、人びとはこれを拒絶するだろう、という思いを吹き込んだからである。
 さて、街路にいて霊たちと話していたとき、五種類の受け取られ方があることを認知することが許された。
 第一に、全面的に拒絶してしまう人びと。彼らは別な信念をもっており、信仰の敵である。こうした人びとは拒絶する。なぜなら、私の著作は彼らの心に浸透しないので、彼らには受け入れられないからである。
 第二の部類の人びと。彼らはこうしたことがらを知識として受け入れ、それを知識として、また好奇心をそそるものとして喜ぶ。
 第三の人びと。彼らは知性的に受け入れる。その結果、彼らは十分に鋭敏に受け入れるが、しかしその生活に関しては以前のままに留まる。
 第四の部類の人びとは納得して受け入れ、その結果、それが浸透して彼らの生活が改善される。彼らはある種の状態の中でこうした霊的なものに立ち返り、これを活用する。
 第五の部類の人びとは喜びをもって受け入れ、確かなものと認める。

 これは出口王仁三郎の霊界物語でも同じことです。王仁三郎没後、大本の三代直日は表向きは霊界物語を賞賛しつつも、実質では霊界物語を棚上げしてしまい、彼女の影響から物語は拝読しないという風潮が大本内に伝播していたといいます。また、現実に霊界物語67巻にはそのことを予言した記載もあります。霊界物語が受け入れられない。神の真理が受け入れられない。これはスウェーデンボルグの著作が受け入れられないという状態と一致しており、両者の共通点ともいえるでしょう。
 スウェーデンボルグの著作は非常に多く、天界の秘儀、天界と地獄、結婚愛、新エルサレムの教義集、神の摂理、霊界日記、黙示録講解、神の愛と知恵、宇宙の諸天体、真のキリスト教など実に多彩でした。

 日常でのスウェーデンボルグの様子がヂョーヂ・トロブリッヂの著作に記されてあります。スウェーデンボルグは自己の境遇に満足して昇天していったようです。

●ヂョーヂ・トロブリッヂ著 第18章 人物の特徴 スエデンボルグ 静思社
 我々はスエデンボルグの長い、色々な経歴を辿り、かんけつにかれの主要な著作を考察したため、今度は人物そのものを眺めてみようではないか。不幸にして肖像は余り助けにはならない。現にあるもので、高い芸術的な価値のあるものは一つもない。恐らく「哲学、鉱物学論文集」の口絵で四十五才のかれを表しているものが最良のものであろう。その顔は人好きがして、きれいでないことはなく理知の輝きがあり、常識的な力に満ちているが、しかし多少固苦しく、自己満足しているようにみえる。クノーはこの肖像は『四十年前巧みな彫刻家ベルニグロートにより完成されたものであるが、とくにその眼は依然完全にかれに似ている。その眼はかれの老年期でさえも、その美を保っていた。』と、言明している。
 この目は疑もなくかれの容貌の中で著しい特徴となつていた。クノーは再び言つている、『かれはその青い眼に微笑をたたえてわたしを見つめるときは――かれは私と話すときはいつもそうした眼で私を見つめるのであつたが、――恰も真理そのものがそこから話しているかのように見えた』。それはかれに同情を持たない人間をさえ、引きつける力をもつていた。同じ証人は記している、『わたしがかれを案内した大きな集会に入りこんで、この老紳士を愚弄しようと考えていた嘲笑者らが、いかにその嘲笑とそのたくらんでいた愚弄とを忘れてしまつたかを、そしていかに彼らは茫然として立ちながら、かれが無邪気な幼児のように腹蔵なく、十分の自身をもつて霊界について話す極めて奇妙な事柄に耳を傾けたかを、わたしは驚きながらも認めたのである。それはほとんど恰もかれの目は凡ての者に沈黙を命じる力をもつているかのように見えたのである』。
 かれが一七六九年クノーと別れるにさいし、会話は彼らは再び会うことができないことに移つた。スエデンボルグは遠からず自分に来るにちがいないと知つているその最後の大きな変化を熱心に先見して、語りそしてその話すさい、『その眼は無邪気に、またうれしそうにも見えたが、わたしはそのような眼つきは前には決して見たことはなかつた。わたしはその言葉をさえぎらず』と、クノーは語つた、『いわば、驚きのあまりに、口をつぐんでいた』。他の証人たちは時折見られるかれの天使のような顔附きとその容貌の全般的なおだやかさを語つている。『内的おだやかさと心の満足とは』と、トマス ハートレイ牧師はヂョン クローズ牧師に宛てた手紙の中に語つている、『その容貌の美しさと外の態度の中に現われていました』。ときどきかれは霊的な存在と話合つているとき、その目は見る者を畏怖させる驚くべき光に満ちていたと言われているが、しかし普通の状態ではスエデンボルグは落着きがあり、また和やかであつた。
 姿では、スエデンボルグは普通の背丈よりはあまり高くなかつたようにみえるが、大半の観察者からは高かつたと記されている。じつに、かれは小さかつたと記している者もいる。セオドル コンプトン氏は九十一才のとき以下のように記した、『わたしが子供の頃わたしの知つていた一人の年とつた学校の教師が、自分はクラークンウェルでイマヌエル スエデンボルグに会つたことを憶えています――かれは「小さな人」で――子供好きで、街で子供に会うと、生姜入りのパンをよくやりました、と言つた』。ともかく、かれは老年の頃は食物を節し、それがかれの背丈を高くみせたことは疑うことはできない。かれの宿の主人シアスミスは言つた、『以前あの方は肥えた人であつたにちがいありません、が、坐つて勉強されるので、やせ細り、顔色も青白くなりました』。一七六六年かれを訪ねたフィラデルフィアのスエーデン教会の教区牧師ニコラス コリン牧師は、かれの風貌を以下のように記している、『わたしがかれに会つたときは、かれは非常に老年で、やせて、顔色も良くなかった。しかしその容貌には非常に快いものがあり、その直立した長身には威厳があつた』。それより二年前に、職務上かれを訪ねる機会のあつたストツクホルムの王立図書館員カール C・エルウェルは以下のように我々に告げている、『かれは老人であり、そのかつらの下から白髪が四方にのぞいてはいたが、活発に歩み、話すことが好きで、一種のたのしさをもつて話した。その容貌は実さいやせこけてはいたが、しかしたのしく、また微笑をたたえていた』。
 スエデンボルグの後年の肉体的名活動は非常に注目された。クノーは記した。『スエデンボルグ氏の外貌については、氏はその年令としては健康の完全な驚異である。氏の背丈は普通で、また氏は私よりは二十年以上も老令ではあるが、私は氏とは競走する気にはなれない。なぜなら氏の足は非常に若い青年のようにも速いからである。私は氏と先日オドン氏の家で会食をしたとき、氏は新しい一組の歯が口に生えかかつていると言つた。こうしたことを八十一才の人間について聞いたものがあるであろうか』。
 一七七〇年のかれの最後の外国旅行の途中、スエデンボルグはエルスノアで向かい風のため航行をはばまれた。そこにはかれの初期の弟子であるクリスチャン タックセン将軍が住んでいた。将軍はかれを自分の家に招待しようとして、乗船すると、スエデンボルグが着流しでいる姿を見た。将軍は招待を申し出たところこれに対し、『かれ(スエデンボルグ)はすぐに承諾し、二十一才の青年のように、活発に、敏捷に上衣とスリッパを脱ぎすて、清潔なリンネルを着け、着物をきた』。『かれが外出して訪問するとき、普通着た衣服は、仕立ての古風な、一着の黒色のビロード、一対のひだかざり、つかの奇妙な一振りの剣、さきが金の杖であつた』。スエーデン人の伝記により、我々は『スエデンボルグは当時の習慣に従つて、頭にしきたりのかつらをつけていたが、それは余り長くなく、その身体の他の部分は、長い薄青い、または鼠色がかつたビロードの上衣に包まれ、黒色の琥珀織の下着をつけ、靴下と大きな黄金の締め金のある靴をはいていた』他の記事によると『かれの衣服は、冬はとなかいの毛皮の上着から、夏は化粧着からなり、ともに哲学者の衣装にふさわしく着古されていた。かれの衣服は単純ではあったが、よく整つていた。それでもときどき、かれが外出の準備をして、身近にいる者から注意されないときは、その衣服には何かが忘れられたり、またはなおざりにされているのということがあつた。そうした放心の例を私自身、かれが私の父の家に会食に招かれたときは見たのである。そのため数人の若い娘たちは非常に喜び、得たりとばかりにこの老紳士を笑つたのである』。ロンドンのウェルクローズ街区のキングズ アームズ旅亭を経営し、ときどきスエデンボルグを招待した、彼の同国人エリック ベルグストレームは『あの方は普通朝食の後散歩に出かけ、普通はビロードの服をきちんと着て、立派な身なりをしていました。』と、我々に言つている。シアスミスはブロヴォ氏に言つた、『あの方のふだん着は全くお粗末で、値段の高いものではありませんでした……でもあの方は外出なさるときは時々白い裏地の黒色のビロードの服と銀のつかの剣と白いひだかざりとをつけておられました』。
 スエデンボルグの社交上の振舞いは、気どらない、洗練された、快いものであつた。かれは高貴な人にも卑賤な人にも同じように打ちくつろぎ、自国ではしばしば王侯と会食もし、英国の身分の卑しい宿の亭主とも親しく生活した。クノーは言つている、『スエデンボルグは非常に如才なく世に処しており、卑賤な者も、高貴な者にも話しかける方法を知っている』。『かれは』とロブサームは語つている。『学者であつたのみでなく、洗練された紳士であった。なぜならその著書、旅行、言語の知識により国の内外に名声をえたところの、かくも広般な学問のある人物は、その所謂真面目な、または謹厳な時代に、人間を尊敬させもし、またその人間との交際を楽しみもさせる礼儀、その他凡てのもを持ちそこなうはずはなかつたからである従つてかれは老年の頃でさえも、愉しく、元気に、快く他と交じり、しかも同時にその容貌は偉大な天才にのみ見られるある非凡な特質を見せていた』。
 サンデルスは我々に告げている、『かれは愉快に快適に他と交り、その苛烈な仕事からの休養として知的な人々と交ることを楽しみ、かれらからは常に歓待され、また非常に尊敬された。かれはまた、まじめな問題にも差出がましく入ろうとする底の好奇心を適当にあしらつて、これをふざけながら他の話題に外らすこともできた』。
 一七六一年から一七七二年までロンドンのスエーデン教会の牧師であつたアルヴィド フェレリウス牧師により――彼はスエデンボルグを良く知り、その死の床にかれに仕えた人であるが――社交上のスエデンボルグの態度について非常に重要な証言が与えられている。一七八〇年三月一七日附けの、グレイフスバルデのトレトゴルド教授にあてた手紙の中で、彼は以下のように記した。
『監査官スエデンボルグは奇矯なきちがいじみた人間であると考える者がいるかもしれませんが、事実はその正反対でした。かれは非常に気楽に、また楽しくどんな話題についても話し、一座の人々の考えに自分を合わせ、自分自身の意見については、それをたずねられないかぎりは、決して話しませんでした。しかしもし誰かがかれに礼を失した質問を発し、かれを愚弄しようとする考えをもっていることに気づきますなら、その質問を発した当人が沈黙を余儀なくされて、べつに賢くもならないというような答えをすぐに与えられたのです』。
 発声に欠陥があつたため、スエデンボルグは交際のある話術家ではなかつた。然し『かれが語るときは常に他の者は凡て口をつぐんだ』。『普通かれの発音は非常に明瞭であつた、しかしかれは速く話そうとすると少々舌がもつれた……かれは宗教の問題についてはいかような論争にも入ることは好まず、もし余儀なく自分を弁護しなければならないならば、柔和に、また言葉少し話した』。『かれは反駁されると、口をつぐんだ』。『かれは親切で、感じやすい人物であつた』と、トマス ハートレイ牧師は証している。『そしてかれと話す人々を非常に喜ばせるような、愛すべき、また心をひきつけるものをその態度にもつていた』。
 スエデンボルグは婦人との交際を好み、かれと婦人たちとの交際については、いく多の愛すべき光景が語られている。既に言及したように、かれがタックセン将軍を訪問したとき、将軍は、『病身の妻とその年若い娘たちの他にはあなたをおよろこばせるお話し相手はおりません』と、言つて弁解した。するとかれは「ですが、それが良い話し相手ではありませんか。わたしは何時も婦人方とお話しすることが好きでした」と、答えた』。『かれ(この八十二才の老人)はありふれた題材について非常に丁重に、また入念に話してかれらを喜ばせ』、室にハーブスィコード(ビアノの元)を見、あなた方は音楽が好きですか、とたずねた。娘は弾奏するようにすすめられ、スエデンボルグは興深げにきき、足で拍手をとり、彼女が弾奏を終えると叫んだ、「お見事!大変お上手ですね。歌もおやりではないんですか」。母と娘とはいくつかフランスとイタリアの歌曲と二声曲とを歌うと、それにもまたかれは拍子をとり、後にタックセン夫人にその趣のある歌と、長い病にもかかららず、尚保たれているその美声ををほめ賛えた』。
 クノーは一度一友人の家の会食にスエデンボルグを案内した。ここでかれはいく多の教養の高い婦人たちに会つた。『かれの態度はいみじいまでに気品があり、またいんぎんであつた。食事の知らせがあると、わたしは手を主婦に差出した、するとこの八十一才の青年はすばやくその手袋をつけていて、手をフーグ嬢に差出した、そのさいのかれは並々ならず楽しそうに見えた。……この老紳士はコナウブ夫人とフーグ嬢との間に席をとつたが、その二人の話術を充分に理解していた……かれは婦人たちにかくも心をこめて仕えられることを非常に楽しんでいるように見えた』。
 すでに述べたように、スエデンボルグは一度も結婚しなかつた、『しかし』とサンデルスは語つている、『これは性への無関心によるものではなかった。なぜならかれは立派な理知的な婦人との交際を歓喜の最も純粋な源泉の一つとして高く評価していたからである。しかしかれの深遠な研究の上で家に日夜完全な静けさが保たれる必要があつた。それでかれはただ、一人あることを勝れりとしたのである』。
 かれの家には子供たちの片言は聞かれなかつたが、しかしかれはしばしば戸外でかれらの仲間になろうとした。かれ自身子供のように振舞いながら、幼い者や無邪気な者の仲間にあることを喜んだ。アムステルダムのかれの宿の主人はクノーに言つた。『わたしの子供たちはあの方のいないのを一番さみしがるでしよう、なぜならあの方は外出なさると、きまって子供たちに美味しいものをもつて帰つてくださるからです。腕白れんもまたこの老だんなにぞつこん惚れこんでおりまして、自分の親よりもあの方が好きなのでございます』上述したように、かれは散歩のさい出会う子供たちのために、そのかくしの中にお菓子を入れておくのが常であつた。
 フリート ストリートのポピンズ コートのハート氏という人物は数年間スエデンボルグの印刷人であり再三自宅にこの大人物を招待した。スエデンボルグの亡くなった頃ほぼ三才であつた『ハート氏の小さな娘を、かれは常々とくに注意していた』。『天国は私たちの周囲を幼少の頃とりまいている』と、ワーズワスは記したが、スエデンボルグはその同じ思想を数年以前に発表したのである。かれらの天国の友だちがかれを幼い者たちに引きつけたことは疑をいれない。かれ自身が幼児のようであつた。『あの方は』とシアスミスは語った、『金銭に価値を大しておかれず、人から良いものとして求められるものを買うと、それを与えられ、幼児のように生活しておられるようにみうけました』。
 やや成長した一人の子供にスエデンボルグの行つた一寸とした悪戯について可憐な物語りがスエーデンの歴史家アンデス アリクセルにより語られている。『通商参与官であり、また市長もつとめたアンデルス エックマンと結婚したサクラ グレタ アスクボという私の祖母は』と、かれは言つている、『セーデルマルムのビエルンゴルドスガタンの近くに成長した。そこに彼女の父はスエデンボルグからあまり遠くない所に住んでいて、スエデンボルグとは親しくつき合っていた。十五か、十六になつたばかりのこの可愛い少女は再三、「叔父さん」のスエデンボルグに向つて、わたしに霊か、または天使を見せてくれるように、とねがつた。とうとう、かれは承諾し、庭の四阿に彼女を連れて行き、垂れているカーテンの前に立たせてから言つた、「さあ、天使が見えますよ」。そう言つて、かれはカーテンを上げると、少女は鏡に映つている自分自身の姿を眺めたのである』。
 スエデンボルグ個人の習慣については多くの事が伝えられている。かれは飲食には極度に控え目であり、肉食はめつたにとらず、一時に葡萄酒は二杯か、または三杯以上は決してとらず、しかもこれはただ人と交際しているときに限られていた。シアスミスは言つている、『食事については、あの方は肉は決して食べられず、朝食としてはミルクとコーヒーをとられるのみで、午後はいくらかお菓子をそえて同じものをとられ夕食は食べられませんでした……あの方はミルクとコーヒーの中に砂糖を沢山いれられることと、砂糖の沢山入ったおいしいお菓子が非常にお好きで、砂糖の精が自分を養つているんですよと言われました。……あの方の生活は非常に控え目なものでしたので、あの方が私の家におられる間、葡萄酒、または麦酒、またはアルコール性の飲物を、それがどのようなものでしても、飲まれるとは、決して考えられませんでした。あの方はふだんは朝の五時か六時に起きられて、八時まで書かれるか、勉強されるかされ、八時に約三合あまりのミルクを飲まれ、その後、もし外出されないなら、午後の三時または四時まで勉強をつづけられ、そのときになつて再び昼食として三合あまりのミルクをのまれるか、または一鉢のコーヒーをのまれ、再三夕方の六時か、七時に床に入られ、夕食は決してとられませんでした』。
『招待を受けないときは』と、ロブサームは語っている、『かれの昼食は沸騰したミルクにしたした巻きパンのみであつた。これがかれが家で食事をするときのいつもの食事であつた』。かれは旅行をするときは環境に従つたことは疑うことはできない。なぜならクノーは我々に告げているから、『かれ自身の部屋に運ばれるチョコレートとビスケットが普通かれの昼食であつた。その大部分は普通かれの宿の主人とその妻、子供たちが受けたのである』。もしかれがさらに食禁を感じたなら、いわゆる『つつましく』附近の料理店へ行つた。かれは老年になり胃弱に悩まされているため、過去十二年間コーヒーとビスケット以外はほとんどいかような食事もとつていないと、一七七〇年にタツクセン将軍に語つた。かれはコーヒーを非常に好み充分砂糖を入れ、これを日夜凡ゆる時間に飲んだ。かれはまたかぎ煙草を非常に愛好した。ヒンドマーシュは語つている、『かれが惜し気もなくかぎ煙草を愛用した一つの利益は、かれの原稿が保存されたことであつたように思われる、なぜなら『黙示録講解』と題された、かれの遺稿を印刷にふするとき、わたしはその原稿紙の間のいたるところに多量のかぎ煙草をみつけたが、そのためその原稿紙は、古い書物や紙を非常にくい荒らす、かの小さな敏捷なマイト(だに)または虫から孔をあけられたり、奪われたりするのを防がれたからである』(「新教会の勃興と進歩」註二〇頁)

 ここに王仁三郎とスウェーデンボルグとの共通点があります。王仁三郎は下戸でしたから、お酒はあまり飲みませんでした。しかし、酒が嗜好の来客があった際には大本信徒の中でも酒が飲める人を共に臨席させ、自分はお猪口一杯のみに飲んだあとはそれを逆さにして置き、後は一切、口にしなかったという逸話があります。亦、王仁三郎の著作、霊界物語には酒好きの登場人物が改心後、一切の酒を断とうと決心した描写があります。酒は百薬の長といいますが、王仁三郎は飲みすぎはよくないと注意しています。スウェーデンボルグもそのことがわかっていたようです。
 また、肉食はあまり好まなかったようです。この書籍には決して口にしなかったと記されてありますから、スウェーデンボルグ的には肉食は禁忌的なものだったのでしょう。王仁三郎の場合は魚でもその顔を見ていると食べる気が失せると語っていたことがありました。お互いに菜食主義的な食習慣が基本にあったようです。

 かれの習慣は自宅では宿にいるときよりも不規則であつたように思われる。かれは、その生来の思いやりから、外国にいるときは、自分を迎える者にできるだけ迷惑をかけないような生活様式に、自分をできるだけ順応させたことは疑うことはできない。しかし家にいるときは、とロブサームは言つている。『かれは昼と夜との区別を大して意にかけないで働き、働くに、休むにも、定まつた時をもたなかつた。「わたしは眠くなると」とかれは言つた、「床につきます」』。しばしばかれは十三時間もぶつ遠しに眠り、幻視状態にあるときは、いく日も食べないで、床にふしているのが常であつた。その死ぬ少し前に『かれは何もとらないで数週間も床に臥し、再び我に帰つた』。こうしたとき、かれはだ独り放置されることをねがい、何も変わったことはないから、妨げてくれないように、と宿の主人に言つた』。
 ベルネティ僧院長は我々の著書は『日夜働いて倦むことを知らない人物』であつた、と我々に告げ、クノーは以下のように記している、『かれは驚嘆すべき、超人間的な態度でその新しい仕事に携わっている。以前の著作に用いられた活字とは倍も小さい活字の十六枚はすでに印刷されている。考えてもみられよ!一枚の印刷された紙のために、かれは原稿紙四枚をうめねばならない。かれは今毎週二枚印刷している。これをかれ自身が訂正しなくてはならない。従つてかれは毎週八枚を書かなくてはならない』。これはスエデンボルグがその八十三才を終る三日以内の一七七一年の一月二六日に書かれたのであつた!サンデルス参与官は叫ぶ、『わたしはかれの異常な勤勉を考えるとき、驚異の念に満たされないわけにはゆかない』。そして我々もまた、かれが自分自身で出版した三十冊にもなる厖大な著作とその小著作に加えて、恐らくその印刷したものに量では匹敵している厖大な量の未刊の原稿を死後遺したことを記憶するとき、驚くのは当然であり、またかれは『時間に対しては最も経済的であつた』というかれの義理の兄弟(ベンセリウス監督)の言葉を素直に受取ることができるのである。
 この巨大な労作にも拘らず、スエデンボルグの著作はルーズでもなく、不注意なものでもなかった。その重要な著作の中には、最終の形をとつて現れる以前に、いくたの改訂を経たものがあり、他は、かれが、その労力の結果に満足ししなかつたため、全く棄て去られたのである。
 いく多の証人はスエデンボルグは後年聖書とかれ自身が注意して整えた索引以外にはその著作には何らの参考書をも用いなかつたことを証している。『かれは学者ではあつたが』と、ロブサームは言つている、『その室にはそのヘブル語とギリシャ語の聖書とかれ自身の著作に対する索引の原稿以外にはいかような書籍も一度として認められず、その索引により、かれは引用をするに当つて、以前書いたものや印刷したものを凡て検べる労を省かれたのである』。かれは四種類のちがつたヘブル語の聖書をもつていたが、いつも使つて、旅行中も携えていたものは一七四〇年ライプツッヒで出版されたラテン語の訳のついたセバスチャン シュミディユス(Sebastian Schmidius)のものであつた。いたるところに下線の引かれているこの聖書をかれは前記のロンドンのスエーデン教会の牧師アルヴィド フェレリウス牧師に、その死に当つてのこした。師もまた『かれはいかような書物も、実に、人名簿さえももつていなかつた』と主張している。
 スエデンボルグは数年間その神学の著作を匿名で出版し、その販売からは少しの利益も得なかつた。かれのロンドンの出版業者、パータノスタ ロウのヂョン ルイスは「天界の秘儀」の第二巻の広告で以下のように記した、『この紳士は不屈の労苦をもつて「天界の秘儀」第一巻の研究、執筆に満一年を費し、これを印刷するために二百ポンドを支払い、さらにこの第二巻を印刷するため、前金として二百ポンドを差出された。しかもれかはそのことをなされたさい、この大作の販売から生まれる一切の金は福音の宣伝の費用のために与えられねばならないと明らかに命じられた。わたしは以下のことを断言する、かれはその労力から益をえようとは些も考えておられず、その費した四百ポンドから一銭も受けとろうとはされない。それでかれの著作は極めて安価に一般の方々は入手されるであろう』。
 クノーによると、一般の方々は必ずしも『極めて安価に』かれの著作を入手しなかつたが、これは著者の責任ではなかつた。『かれは全く自費で英国とこの国〔オランダ〕でその色々な著述を出版したが、その販売からは一銭の金も得なかつた。この凡ての著作は大きな高価な紙に印刷されており、しかもかれはその凡てを与えている。かれからその著作の売却を委ねられている書店は、できるかぎりそれに高い価格をつけている。実さい、わたしは自分自身の経験から知ったのではあるが、かれらはそれらをかなり高価に売つている。なぜならわたしはその「啓示された黙示録」一部のためにこの町の書店の主人のシュレウデルに四フロリン半を支払わねばならなかつたからである。しかし書店の主人自身、わたしに、著者はその主人自身から』もまた他のいかような販売人からも精算書を決して求めてはいないと語つた』。
 かれの出版処理に関連した他の小さな出来ごとは、かれの絶対的な正確さを証するものとして記す価値がある。かれはその「真の基督教」をパリーで出版することを望み、印刷物検察官のもとにその承認を求めるため、それを提出した。見出しの頁に『例のように』本書はロンドン、またはアムステルダムに印刷されたということを明示するという条件で承認が与えられた。しかしこれはスエデンボルグの事を為す流儀ではなかつた。それでかれは原稿をアムステルダム持つて行き、そこで正直に出版場所をとびらに印刷して出版した。かれの神学の著作の大半はイギリス、またはオランダで出版された。なぜならその国では『かれはその好むものを、いかようなものでも、印刷にふする完全な自由を得ており、その自由はかれの生まれた都では、恐らく基督教国の他のいかような所でも、決してかれに与えられなかつたであろう。』
 スエデンボルグの家庭について少し語っておかなくてはならない。それはストックホルムの南の地区のセーデムマルム(sodernalm)に在つて、かれ自身に便利なように建てられたつつましい木造の建物であつたそこには大きな庭園が附設されていて(その土地全体ほとんど六千平方やーどにたつしていた)そこに他のいくつかの建物、四阿、鳥小屋、迷路などがあつた。四阿の一つは研究室として整えられ、その一室にはその所有者の図書がおかれ、他の部屋には訪問客をもてなすために、動かすことのできる衝立、鏡などが備えつけられていた。オランダ風の、奇妙に刈りこまれたつげの木のある花園があり、貴重な果樹や若干の大きな見ごとなぼだい樹のある広々とした菜園があつた。この庭園の生産物は、スエデンボルグは、自分の些細な必要をのぞいては、その庭師に手渡した。この庭師とその妻とがかれのお側づきの凡てであつた。
 スエデンボルグは花園に親しく興味をもち、その手入れがかれの激しい労働の休養となっていた。スウェーデンの伝記記者は、『かれはその敬虔な幼児のような心をもつてフローラー女神の多様な、美しい色の子供たちを愛した。わたしはたまたま一七五〇年のスエデンボルグの暦の一つを見たが、そこにはかれは、恰もそれがある深遠な論文の始めか、または終りかであるかのように、正確に、何時かれが桜草を、または石竹を植えたか、何時その花は開いたか、いかほど種子を得たか、などと書きとめていた』。かれがアムステルダムのヨアキム ウレットマン(Joachim Wretman)に出した通信文の中で、珍しい植物と種子、つげの木などの購入にいく度も言及している文字が見られる。王立図書館員のエルウェルがかれの最近出版した書物のいく冊かを求めるため、一七六四年かれを訪れると、かれがその庭園にいるのを見た、『そこでかれは粗末な身なりで、その植物の手入れをしていた。・・・かれは私を、すなわち、私の用事の性質を知らず、ほほえみながら言つた。「庭をお散歩になつてはいかがですか」』。かれはその庭園は一般の人々に開放されていたので、彼が普通の訪問客であろうと恐らく考えたのであつた。
 スエデンボルグ以上に単純な、世ばなれした人間を想像することは不可能であろう。かれは豊かな収入をえていたが、それを自分のために用いず、生活の最低の必要なもので満足していた。かれは他人を信用し、金をしまつてあるひきだしに宿の主人をやり、その必要なだけをとらせるのが常であつた。かれは死にさいし、遺言をのこさず、また僅かしか財産ものこさなかった。
 後年かれは常にただ一人で旅行をした。かれは自分には天使が一しょにいてくれるので、附添いの必要はないとクノーに語つた。かれは何処に行つても愛され、人々はれかは自分たちに幸運をもつてきてくれると言つた。船長たちですら、かれが上船しているときはいつも航海が順調に行くと断言した。かれらの一人は、『もしスエデンボルグさまがよろしいと言われますなら、いつでも無料でおのせしましよう。わたしのこれまでの海の経験で、それ以上航海に恵まれたことはありません』と、語ったと言われている。スエデンボルグが晩年ロンドンで宿つたシアスミスは、『スエデンボルグさまがわたしの家に宿つておられる間は、何もかもが順調に行きました』と語り、シアスミス夫人は『あのかたは家の仕合せでございました、あの方が私たちとともにおられます間は、私たちは心も一つになつて、商売も繁盛しました』と、答えた。
 数年間スウデンボルグはフェレリウスに、『わたしは、牧師の言うことを、とくに、その牧師が三神と同一である神性者の中の三人格を取り扱うとき、その言うことを反駁する霊たちのために、教会では平安をえないのです』と語つた。ある安息日主義者はスエデンボルグは安息日を守らないから、善良な基督教徒として考えられることはできないとシアスミスに語つた。『これに対しシアスミスは「スエデンボルグさまのような善良なお方にはその生活の毎日が安息日でございます」と答えた』。
 スエデンボルグは奇妙なほど時間や季節に無頓着であつた。かれは前に言つたように、夜をひるに変え、ひるを夜に変え、週日には無頓着であつた。あるときかれは宿の主人を呼んで、毛せんがかぎ煙草で一杯からたいてほしいと言つた。シアスミスはかれに、その日が日曜日であることを思い出させた。かれはそのことを全く忘れているようにみえた。かれはその抗議に片言の英語で『Dat be good.』(あかりました)』と答え、そのままにしておいた。
 かれの神学の教えを侮べつさせようとしてある者は無法にもスエデンボルグの精神力は中年から衰えたという考えを打ちたてようと努力した。一度かれは熱を病み、その後で、その熱に普通つきものの譫妄状態に陥つたということわ除いては、その死の二、三週間前になるまでは、肉体的にも、精神的にも衰えたという確証は片りんもない。『かれは』と、サンデルスは言つている。『肉体的にすばらしい健康にめぐまれ、一度として不きげんになったことはない』。鉱山局の記録には、かれは家にいるとき、時折一寸した病気、多分風邪のようなものにかかつた場合をのぞいては、規則正しく出勤していたことが示されている。かれはその八十三才のとき初めたその最後の旅行でさえも、ただ一人で旅をした。
 スエデンボルグの生涯の臨終の光景もことごとくその平和な日常に一致している。かれは死を恐れず、むしろよろこんでそれを予想していた。『もし』と、かれはクノーに言つた、『人は生に結合しているなら、この世ですでに永遠の生命を味うのであり、もしその人がそれを得ているなら、もはやそのかりそめの生涯をさして心にはかけません。じつさい、もしわたしは主がわたしを明日その御許に召されることを知りますなら、この世でも一度心から愉快になるため、今日音楽家たちを招きましよう』。かれはその死の少し前にその日時をその宿の主人に、かれに仕えていた女中に予告したが、女中は、『あの方は休日をえて、何か楽しいことにでもでかけるかのように』その前途を楽しんでいるように見えた、と語つた。これはまだ明け初めぬ歓喜を誇示するのでもなく、またその自然的な生活に倦み果てたのでもなかつた。なぜなら『かれは常に自分自身と自分の境遇に満足していたため、凡ゆる点で幸福な、いな、実に、最高度に幸福な生活を送つた』からである。(一七四八年の十月二十日の)霊界日記にかれは記した、『信仰にいる者は生活の凡ゆる歓び、肉体の凡ゆる快楽を自分自身から退けなくてはならないと考えている者があるが、しかしわたしは以下のように言うことができる、すなわち、歓びと快楽とはわたしには決して拒否されてはないとわたしは主張することができる、なぜならわたしは〔この世に〕住んでいる人々のように、単に肉体と感覚との快楽を楽しむことを許されているのみでなく、わたしの信じるところでは、全世界のどのような人も未だかつて知つたこともないような、たれ一人想像したり、信じたりすることもできないような、大いなる、微妙な生活の歓喜と幸福とを楽しむことを許されているからである』。

 スウェーデンボルグの人となりがこの本には記されてあります。スウェーデンボルグはやはり超人的な人物だったと思います。しかし、それ以前に彼は常識人であり、婦人との会話を楽しみ、隠遁するわけでもなく、世間の人と交流することも楽しみとしていました。あらゆることに興味を持ち、その範囲は現界を超えて霊界へと進み、主たる神の叡智と愛に守護されながら、天界のエンゼルによる教説と庇護を受けつつ、生涯を全うしました。
 スウェーデンボルグの生涯を概略的に見ていきますと、裕福な環境もあり、彼は自分の欲求する目的のために全力で傾注することが出来たようです。政治に、発明に、学問に、そして、霊界に。彼は豪奢な生活を送ることもなく、虚飾に偏ることもなくあくまでも自然体に生きてきました。霊界には相応の理という霊的ルールがありますから、そのことをよく知悉していたスウェーデンボルグはまさに相応的な生き方をまっとうしたのだと思います。

 出口王仁三郎が主張した【惟神】の精神。スウェーデンボルグは既に知覚していたに違いありません。

『人は生に結合しているなら、この世ですでに永遠の生命を味うのであり、もしその人がそれを得ているなら、もはやそのかりそめの生涯をさして心にはかけません。じつさい、もしわたしは主がわたしを明日その御許に召されることを知りますなら、この世でも一度心から愉快になるため、今日音楽家たちを招きましよう』。

 スウェーデンボルグの言葉にこのような言葉があります。【永遠の生命】、翻訳的に偶然このような言葉にされたのかもしれませんが、出口王仁三郎もこれと同じことを語っていました。下記に表示します。

●水鏡 永遠の生命
 世人或は云ふ、鰥寡、孤独、又は貧者、重病人なりと。併し乍ら以上の人達よりも尚々不幸なるものがある。如何に巨万の富を積むと雖も、貴人の列に加はるとも、人間死後の生活を知らぬ程大なる不幸のものはない。如何なる貧人と雖も、鰥寡、孤独と雖も死後永遠の生命を感得したものは、胸中自ら閑日月あり。非時心に爛漫たる花咲きみち、芳香薫じ云ふに云はれぬ歓楽に浸り、永遠の生命を楽しむ事が出来る。故に如何なる智者、学者、貴人、富者と雖も、明日をも知れぬ人生を保ち、戦々兢々として其日其日を送る位不幸なものはない。

●水鏡 精霊の生命
 精霊の生命が亡ぶ事があるかと聞くのか、無論あるよ、現に生て居る人即ち肉体をもつて居る人にでも精霊の生命を失つて居るものがある。彼の発狂者の如きはそれであつて、生きながら既に邪霊の為めに、全く精霊の生命を亡ぼされて仕舞つて居る。永遠の生命といふのは、神を信じ、神にあるもののみが享有し得る特権である。

 スウェーデンボルグは生涯独身でしたが、孤独を超越して自己の生活に満足していたようです。王仁三郎が主張する上記の言葉を十分に理解していたことでしょう。

●月鏡 神と倶にある人生
 人間は神を信じ、神とともにありさえすれば、池辺の杜若(かきつばた)や山林の青葉が自然につつまれているごとく、長閑(のどか)にして安全なものである。しかし世の中は変化があるので、人生はおもしろい。かの美しい海棠(かいどう)の花だけを避けて、吹きまくる暴風雨はない。いかなる苦痛の深淵(しんえん)に沈むとも、心に正しき信仰さえあれば、すなわち根本に信をおいて、惟神(かむながら)の定めにまかせてさえゆけば、そこに変わりのない彩色があり音響がある。
 人生はいかなる難事に逢うも恨まず、嘆かず、愛別も離苦もすべてが花をうつ風雨と思えばよい。富貴も、栄達も、貧窮も、すべてがゆったりとした春の気分で世に処するのが惟神の大道である。なにほど焦慮(あせ)っても、一日に人間の足では百里(400キロメートル)は歩けぬものだ。学問や黄金の力でも、いかに偉大な政治家や大軍人の力でも、昨日を今日にすることはできぬ。また今日を明日にすることもできぬ。ただ一秒の時間でも、自由に動かすことはできぬ。一滴の露、眼に見えぬほどの小さい生物でも、それを黄金の力ではつくれない、学問の力でもだめである。こう考えてみると、人間ほど小さい力の貧弱なものはない。しかし人間は一滴の露さえ自力でつくることはできぬが、神を忘れ神にそむいた時には、憂愁と苦悩とをもって、広い天地を覆いつくすようになる。その胸が幾個あっても、そのもの思いを容(い)れることができないようになってくる。
 ああ、人間は一滴の露、一塊の土さえつくる能力もなきくせに、天地に充満して身のおきどころのないほど、大きい苦労をつくることができる。人間は苦労をつくるために、けっして生まれたのではない。人間は神の生宮、神の御子、天地経綸の使用者として、神の御用のために世に生まれてきたものである。惟神の心になってなにもかもことごとく、天地の神にうちまかせさえすれば、しぜん天地の恵みが惟神的にして、自然のままにゆきわたるものである。しかるに神にあらざる人間の根帯(こんたい)は、ともすれば揺らつき動きだし、自然の規定をわれから破って、神を背にした道を踏むために、ついに神の恵みに離るるにいたるのである。
 もし人間に、樹草のごとく確固たる根があって、すべてを天地にまかせて、優和(やさ)しい大自然の懐に抱かれる余裕さえあれば、いつの世も、至幸至福で長閑で、悠々たる光陰を楽しく送ることができるようになっておる世界である。牡丹も、杜若も、または清い翠(みどり)をみせる樹々も、大風に揉(も)まれ、大雨にうたれて、手足を挫(くじ)かれるほどの憂き目をみることはあっても、その根帯に、いささかの揺るぎもみせぬ。ここは苦しいから、他の土地へ移ろうとは考えない。大風はどこえいっても吹き、大雨はどこえいっても降る。美しい太陽は何国(いずこ)の涯にも輝く。今日の暴風雨を凌(しの)ぐだけの勇気さえもてば、明日の長閑かな歓楽に会うことができると覚悟して、天地に絶大の信をおく。そのためにすこしも動揺がない。土地を替えても、処を変えても、会うだけの苦難には会い、享(う)けるだけの歓楽は享ける。麻縄で縛られて、身の自由をえようと煩悶(もだ)えるのは、やがてみずから苦痛の淵に沈むものである。人間はいっさいを惟神にまかせておれば、じつは世界は安養浄土であり天国である。
 爛漫たる花の香に酔う春の光も、しだいに薄らぎ、青葉の茂る夏となり、木の葉の散りしく秋の淋しさをむかえ、雪の降る冬となって、万木万草枯死の状態になるは、天地惟神の大道である。香のよい釵(かんざし)の花をうれしうかざした天窓(あたま)の上に、時雨(しぐれ)が降り、愛の記念の指輪を穿(さ)した白魚の手に落葉がする世の中だ。花の山が青葉の峰とたちまちかわり、青葉の峰は木枯らしの谷となる。つらい経験は、人生にとってまぬがれがたきところである。
 しかしながら、人間はけっしてこんなに悲惨なものではなく、永遠の生命と永遠の安楽とを与えられて世に生まれ、大なる神業をもって、神の御用のためにでできたものであることを覚らねばならぬ。それはただ神を知ることによってのみえらるる人生の特権である。

 を神を知る。それが永遠の生命を感得する条件であるなら、神とはいかなる存在でしょうか。出口王仁三郎は多神教の教義を古事記を通して霊界物語のベースとしましたが、信仰観に至ってはスウェーデンボルグと同様にして一神教的です。王仁三郎の【神】とはスウェーデンボルグが提唱した【主】以外にありません。天界から送られる神の内流。それを王仁三郎もスウェーデンボルグも感得していました。真理とは一つ。表現方法は違っても元は同じです。
 王仁三郎は列子を、【列子は支那の霊界物語だ。】と語っていましたが、列子の生き方も王仁三郎流に置き換えると惟神であって、人生を自由奔放、闊達に生きてきたとされています。浄土真宗では阿弥陀仏に全てを委ねる【他力本願】という宗教的概念がありますが、スウェーデンボルグ神学もこれによく似た概念で共通してるところが多々あると思われます。王仁三郎も浄土真宗聖典からその文章を霊界物語に組み込みました。
 世界の宗教は実は一つの根に帰着することが出来る。これが出口王仁三郎の【諸教同根】の精神です。言葉は違えども、中枢神経で捉えられるこの摂理は、まさに国境や民族が異なろうとも、実は深く共通しているといってよいと思います。
 スウェーデンボルグは数多くの著作を遺していきました。彼自身の伝記を読むことによってでも、十分に現界における天界の一端を知ることができるのではないでしょうか。
 天界とは人の心の中にあると王仁三郎もスウェーデンボルグも語ります。スウェーデンボルグは心の中に天界を持っていました。彼の著作にはそんな天界のエナジーが膨大に蓄積されていることでしょう。

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