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出エジプトの聖なる心理学

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2013年 3月 7日(木)00時10分43秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://wwwd.pikara.ne.jp/swedenborg/exodus.html

スウェーデンボルグの重要な教えが書いてあります。ある識者によるとスウェーデン語ではSwedenborg は「スヴェーデンボリ」と発音するそうです。そういえば日立市の法眼さんはフランス語では....イタチのムッシュー・オジャンとなります(爆笑)Hは発音しませんからね。ちなみにタバコのハイライトはイリテです。

しかし聖なるエジプトもイルミナティでは悪魔主義の母体となる

http://megalodon.jp/2009-0318-0306-13/angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/303.html

関連URL....聖書ものがたり・出エジプト記

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/126.html

『Numbers(民数記),Deuteronomy(申命記)のエジプトからMOABへの記述の半数以上が不正確であり,セシル・デミル監督が言うように,幼児のモーゼが捨てられファラオの娘に拾われ育てられた時から自分の出生の秘密を知る時期という中間部分がないというのも不思議です。

 By the Brink of OLD NILE。そこへ,ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りてきた。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は,葦の茂みの間に籠を見つけたので, 仕え女をやって取って来させた。開けてみると赤ん坊がおり,しかも男の子で,泣いていた..............。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから」<EXODUS・出エジプト記2:4~10>(写真下)

 モーゼがひとりシナイ山に登ることを述べたシリア社会の神話のうち『人間は人間性を棄てて,アリストテレスのことばを借りていえば「獣か神か」どちらかにならなければならない』ということが示されている。モーゼはヤーウエに召され,ヤーウエと交わるために山に登る。召されるのはモーゼひとりであって,ほかのイスラエルの子らは,離れているように命ぜられる。しかしヤーウエがモーゼを山の上に呼んだ目的は,再びモーゼを,山に登り,神と直接言葉(ロゴス)を交わすことのできなかったほかの人々に新しい掟を伝える使者として,山から降らせるためであった。』

関連URL....モーゼの墓・NEBIMUSA

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/203.html

祇園祭り(シオン)と過越祭(ペサハ)

http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1471.html

過越祭りは上の出エジプト記とレビ記参照

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/127.html

出エジプト記12章11節=3.11

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/429.html

    出エジプトの聖なる心理学

    0.はじめに

    「出エジプトの聖なる心理学」という新しい項目を設けて、出エジプ
    トについて、スウェーデンボルグ先生に学んだことを「覚え書き」に
    残していこうと思います。随時、書き足していきますので、更新情報
    を見て、ときどきのぞいてくだされば幸いです。

    1.再生の物語

     出エジプトは、エジプトで奴隷となっていたイスラエル人が、神に
    導かれてエジプトを脱出し、約束の地カナンに入る物語です。スウェ
    ーデンボルグによれば、聖書に描かれているのは主の栄化の過程です
    が、これが人間の再生のモデルになります。ですから、出エジプトの
    物語は、人間の再生の物語と解釈してよいわけです。エジプトは人間
    の低い心、カナンは理想郷・天国です。低い心が天の高みに昇ってい
    く過程が出エジプトの物語ということになります。これは、本来は主
    の栄化の過程でしたし、人間の再生に適用した場合でも、この過程を
    導くのは主なる神なので、「聖なる」心理学と呼ぶことにしました。

     さて、世界地図を見ると、エジプトからカナン(パレスチナ)まで、
    直線 距離で約300キロ程度です。ゆっくり歩いても一カ月か二カ
    月もあれば到着する距離でしょう。しかし聖書によれば、エジプトを
    出てカナンにはいるまでに40年間を要したというのです。それは水
    も食べ物もない荒野をさまよい、敵と戦い、エジプトを出なければよ
    かったと後悔し続ける過酷な旅でした。これが再生の過程であるとす
    れば、天界にふさわしい人間になるための過程は試練の連続というこ
    とになりそうです。

    2.奴隷

      出エジプトで最初に考えてみるべきテーマは、イスラエル人はエジ
    プトでなぜ奴隷になったのかという問題です。ヨセフの話から思い出
    してみましょう。父ヤコブに特別に愛されたヨセフは、兄弟にねたま
    れ、エジプトの商人に売りとばされてしまいました。しかし、神の声
    を聞くことができたヨセフは、エジプトでファラオの夢のなぞ解きを
    して彼の信頼を勝ち取ります。ヨセフはエジプトの総理大臣になりま
    した。ヨセフの兄弟たちもやってきて、イスラエル人はエジプトで繁
    栄しました。しかしやがてヨセフは死に、ヨセフを知らないファラオ
    が支配者となります。ファラオはイスラエル人が増えることは危険だ
    と考えます。戦争にでもなり、彼らが敵方についたらたいへんだとい
    うわけです。そこで、イスラエル人を奴隷にしてしまおうということ
    になりました。

     この物語の霊的意味は何でしょうか。スウェーデンボルグによると、
    ヨセフは「霊的なものの天的なもの」を、エジプトは「記憶知」を表
    します。ヨセフはエジプトを管理していますが、やがてヨセフは死に、
    ヨセフを知らない王が王座につき、イスラエル人を奴隷にしてしまい
    ます。つまり、当初は崇高なるものが自然的なものを支配しています
    が、いつのまにか両者の関係が逆転するという話です。

     このようなことは私たちの生活の中でよく起こることなので、「初
    心忘るべからず」ということばがあるのでしょう。人々を救おうとい
    う立派な志をもって医者になる。あるいは政治家になる、宗教家にな
    る。しかし、いつのまにか崇高な志は忘れてしまって、お金や権力や
    名誉を追い求める。そういうことはよくあることです。

     あるいは現代社会についても同じことがいえます。現代のわれわれ
    は科学技術の恩恵を被っています。かつては奴隷労働のようなものが
    ありましたが、今ではそういうことは機械がやってくれます。それは
    ありがたいことです。しかし一方で、人間は科学技術によって核兵器
    をつくりだし、あるいはサブプライムローン問題をつくりだし、自ら
    を苦しめています。科学はなんらかの理想に仕えるべきで、人間の悪
    に利用されるとわれわれは科学の奴隷になってしまうのではないでし
    ょうか。これも「エジプトで奴隷になる」の一例です。

     ですからイエスは地上ではなく天に宝を積みなさいと言われました。
    また、創世記には、よく知られているように、エバがヘビにだまされ
    て、神に禁じられていた「善悪を知る木」から食べてしまったという
    話があります。これも奴隷状態、低いものが人間を支配する状態のた
    とえ話です。

     ちなみに、ヘビは感覚的なものを意味します。エデンの話は、五感
    はこの世を生きていくのに必要なものであるが、感覚的楽しみが目的
    そのものになってはいけないという警告です。もちろんヘビが悪いわ
    けではありません。ただ、人間は容易にヘビ(感覚)にだまされてし
    まいます。

    3.モーセの誕生

     モーセはファラオと戦い、イスラエル人のリーダーとなってエジプ
    トを脱出し、カナンへと導いた人物でした。そのモーセの誕生と成長
    が次に描かれています。モーセはレビの家に生まれます。へブル人の
    男の赤ん坊は殺されることになっていたので、母親は箱舟に入れて川
    に流しますが、ファラオの娘が水から引き上げ育てました。成人後、
    モーセはファラオから逃れるためミデアンの地に行き、そこで家庭を
    もちます。

     この物語の内的意味は次のとおりです。エジプトやファラオは「記
    憶知」とりわけ「神から切り離された記憶知」を意味します。それと
    戦うモーセが表すものは「律法」です。

     モーセはレビの家に生まれました。レビの意味は神の愛です。すな
    わち、モーセ(律法)は神の愛の中に生まれました。また、モーセと
    いう名前は「水から引き上げられた」という意味です。水は通常真理
    を意味しますが、ここにおける水はエジプトの水、すなわち誤謬です。
    そのモーセ(律法)がカナンへの旅におけるリーダーになります。ミ
    デアンは、単純な善の諸真理にいる者という意味です。

    4.燃える柴

     ある日、モーセが神の山ホレブ(シナイ山)の近くで羊の番をして
    いると、燃える柴の炎の中に神の使いが現れました。神は、イスラエ
    ル人を救い出し、「乳と蜜の流れる」国に連れて行こうと約束されます。
    そして、その仕事の実行をモーセに命じられました。モーセは、そん
    な大それた仕事などとても私にはできませんと渋ります。神に遣わさ
    れて来たと言っても、イスラエル人が信じないでしょう。エジプトの
    王は言うことをきいてくれないでしょう。それに私は口べたです。う
    まく話ができたためしがありません。お願いです、どうか他の人をや
    ってください。モーセはそう言います。

     神は命じられます。「わたしはある」という方に遣わされたと言い
    なさい。奇跡を起こして、エジプトの王もいやおうなく承知するよう
    にさせよう。ちゃんと話せるように助けてやるし、何を話すかも教え
    よう。おまえの兄アロンは話すのがじょうずだ。彼はおまえの代わり
    に語る。おまえは、わたしの代わりに言うべきことを告げる。神はこ
    のようにモーセに命じられました。

     モーセとアロンはエジプトに帰り、イスラエル人の長老を集めて会
    議を開きました。アロンは、神がモーセに語ったことを話し、モーセ
    は奇跡を行いました。長老たちは二人の話を信じました。

     以上の物語の内的意味は何でしょうか。燃える柴の物語は、誤謬と
    悪に悩まされる人が、そこから解放されるということを意味します。
    解放する神は主であり、人々を天界に導き入れると約束されます。し
    かしモーセが自分は信じてもらえないであろうと言ったように、人は
    なかなか神の導きを素直に受け入れることができないし、神の命令を
    実行できません。

     ここで、柴・灌木は知識、火は愛です。エジプトは誤謬であり、そ
    こから「連れ出す」は誤謬からの解放です。モーセのここでの表象は
    神の真理であり、アロンは善と真理の教義です。モーセは口が重く、
    アロンが語るというのは、神の真理は直接認識されることはできず、
    間接的にのみ認識されうるということです。

     モーセは、羊の群れを荒野の奥に導いてホレブにやってき、燃える
    柴を見ました。その霊的意味は、試練の後に善と真理がひとつになる
    ということです。それはどんな瞬間でしょうか。人生の悩みを克服し
    て、今度は神に仕える生き方をしよう、社会に貢献する生き方をしよ
    うと決意する瞬間でしょうか。具体的には、人それぞれ、色々な生き
    方があるでしょう。いずれにせよ「燃える柴」の体験は人生の忘れら
    れない瞬間になることでしょう。

    5.れんがをつくり続けよ!

     しかし話はそう簡単ではありません。モーセとアロンは王に会いに
    行きました。二人が神の命令を告げると、王は「どうしてわしが主と
    やらの言うことをきいて、イスラエル人を行かせなければならんのだ」
    と怒ります。腹立ちまぎれに、部下に「以後、れんがづくり用のわら
    を与えてはならん、生産割り当ては一個たりとも減らすな」と命じま
    した。

     れんがをつくるために、人々は自分でわらを探さなければならなく
    なりました。二人が王を怒らせたために、イスラエル人はいっそう苦
    しくなりました。彼らはモーセとアロンを見ると腹が立ち、思い切り
    ののしりました。モーセも気持ちがおさまりません。「神様の命令を
    王に伝えてからというもの、事態はよくなるどころか、ますます悪く
    なるばかりです。それなのに神様は、いっこうに救いの手を差し伸べ
    てくださらないではありませんか」。

     ここでは一種の試練が描かれています。モーセが表すものは、神の
    律法です。エジプトの王は、誤謬です。両者がぶつかり合うときの苦
    悩が試練の苦しみです。しかし人間の再生は試練がなければ起こりえ
    ないとスウェーデンボルグは言います。その意味では、事態はむしろ
    悪くなったように見えても、やはり前進しているのでしょう。

     神の約束にもかかわらず、イスラエル人はれんがづくりを続けなけ
    ればなりませんでした。れんがの霊的意味は誤謬です。石は真理を意
    味しますが、れんがは人間がつくった「石もどき」ですから、誤謬と
    いうことになります。わらは全般的記憶知で、スウェーデンボルグは
    その一例として信仰義認説をあげています。悪を行いながらも、人生
    の最後に神を信じますと言えば天国に行けるはずだと考えているなら
    「わらの入ったれんが」になります。神は出エジプトを約束されまし
    たが、ファラオは引き続きれんがをつくることを命じました。しかも、
    ここではわらさえも自分でさがしてこなければならなくなったという
    話になっています。

     モーセが神に抗議する場面は、試練における絶望を想起させます。
    人間は試練を通して再生するわけですが、この戦いには勝てると思う
    程度の苦しみであれば、それは試練になりません。夢も希望もないと
    絶望するぐらいでなければ本当の試練ではないとスウェーデンボルグ
    は言っています。

    6.荒廃

     神の命令にもかかわらず、出エジプトは容易ではありません。エジ
    プトの王が、イスラエル人が出ていくことを頑なに拒絶するからです。
    王を説得するために、モーセとアロンは奇跡によって次々に災いを引
    き起こしました。杖をヘビに変え、川を血に変え、カエルの大群を発
    生させ、ブヨを大発生させ、アブを大発生させました。それでも王は
    頑なに拒みます。さらに伝染病を発生させました。エジプト中の生き
    物にできものができました。石のような雹が降りました。イナゴの大
    群が発生し、すべての緑は食い尽くされました。三日間エジプトを闇
    が蔽いました。神の過ぎ越しがあり、エジプト人の長男と家畜の初子
    は、王の長男も含めすべて死にました。ここに至ってようやく王は、
    「もうたくさんだ。早く出ていってくれ」と言うようになりました。

     ここで表されているのは、誤謬の中に生きていて、正しい人間にと
    りついて悩ませる者たちが、善と真理を失っていく過程だとスウェー
    デンボルグは言います。彼はこれを「荒廃」と呼んでいます。これは
    英語訳では vastation が使われていますが、この言葉は現在ではほ
    とんど使われないことばで、英和辞書にも出てきません。スウェーデ
    ンボルグは vastatio と表記していて、それがそのまま英語にされて
    います。vasto は「空にする、荒廃させる」という意味です。vastation
    は長島訳では「荒廃」柳瀬訳では「剥奪」となっています。

     荒廃は聖なるものを間違った考えで見ること、あたかも夕暮れ時の
    暗がりのようなものだと言います。その荒廃の状態にもいろいろあり
    ます。エジプトのさまざまな災いは、そのような荒廃のいろいろな状
    態、さまざまな悪と誤謬を表しています。そして荒廃の状態はますま
    すひどくなっていきました。

    7.過ぎ越し

     上述のとおり、最後はエジプトの王もイスラエル人の出エジプトを
    認めたわけですが、その直前には神の過ぎ越しがあり、たくさんのエ
    ジプト人が死にました。過ぎ越しも含め、災いはエジプト人に降りか
    かったのであり、イスラエル人は無事でした。ここではいろいろな災
    いの中でも、過ぎ越しに限定して、その内的意味を記しておきます。

     エジプト人は誤謬の中にいて正しい人間を悩ます者、イスラエル人
    は霊的教会の人間です。「エジプトの地を出る」は、霊的な人々がも
    はや誤謬の中にいる者によって悩まされることがなくなることを意味
    します。

     さて過ぎ越しでイスラエル人が災いを逃れる方法ですが、聖書には
    次のように書かれています。家族ごとに子羊を一頭用意しなければな
    らない。子羊を殺して、その血を戸口の柱とかもいに塗る。その夜は、
    焼いた子羊の肉をパン種を入れないパンと苦いものとともに食べなけ
    ればならない。過ぎ越しの祭りの作法が聖書にはもっと詳しく書かれ
    ていますが、ここでは簡略化しています。

     その内的意味ですが、子羊は無垢の善、その血は神聖な真理です。
    それを家の戸口に塗るという時の「家」は人間の心です。すなわち、
    心の入り口に「無垢の善に属する神聖な真理」をもつことによって、
    地獄の力は人間の意志には近づかなくなるという意味です。パン種は
    誤謬なので、パン種の入らないパンとは、誤謬から清められた善です。
    苦いものとともに食べるとは、試練の苦しみを指しています。誤謬の
    混じらない善は試練の苦しみを通してしか自分のものにならないとい
    う意味が、「パン種を入れないパンを苦いものとともに食べる」にこ
    められているのです。

     天国に入るにはどうしたらよいかとイエスに尋ねた裕福な青年がい
    ました。「財産を全部売り払って貧しい人に分け与えなさい」と言わ
    れて悲しくなりました。誰だってそうでしょう。財産があればあるほ
    ど幸せになれそうな気がします。しかし、真理はそうではないのです。
    だからみことばという神聖な真理を自分の心の入り口に塗りつけてお
    く必要があるのでしょう。これが過ぎ越しの意味です。

    8.エジプト脱出

     イスラエル人はエジプトを脱出しました。約束の地へはペリシテ人
    の地を通るのがいちばんの近道でした。しかし神は彼らをそこへは導
    かれず、紅海を通る荒野の道へ導かれました。神は、イスラエル人は
    強敵ペリシテ人と戦うことができず、もし彼らと直面したらエジプト
    に帰るであろうと思われたからです。

     一方、エジプトの王は、奴隷を逃がすとはなんと愚かなことをした
    のだと考え直します。王は戦車に飛び乗り、エジプトの戦車隊の精鋭
    六百とすべての戦車とともにイスラエル人を追跡しました。そしてイ
    スラエル人がピハヒロテの岸辺に野営していたところで追いつきまし
    た。

     エジプトの軍勢が近づくと、人々はすっかり震えあがり、神に助け
    を求めました。そしてモーセに泣き事を言いました。エジプトには墓
    が足りないから、こんな砂漠まで連れ出して死なせようというのか、
    荒野で死ぬくらいならエジプトで奴隷になっていたほうがよかったと。

     以上の物語の霊的意味は何でしょう。エジプトを脱出するとは、霊
    的な囚われの状態から解放されることです。しかし、それは直ちに約
    束の地へ行くことではなかったとされています。そこにはとても克服
    できない困難が待っているというのです。霊的囚われから解放される
    というのは、直ちに天界に入ることではありません。最初の一歩を踏
    み出したにすぎません。まだ前途に長い困難な道が続いているのです。
    結局、出エジプトの後、イスラエル人が導かれたのは荒野、すなわち
    試練の状態でした。

     試練の状態とは善霊と悪霊との霊的な戦いの状態です。エジプトの
    軍勢は悪から出てくるあらゆる誤謬を意味します。エジプトの軍勢に
    追われて、イスラエル人はほとんど絶望状態になりました。しかしこ
    こで負けるのは悲惨です。善と真理について知り、悪と誤謬に戦って
    いる状態で悪と誤謬に屈することは、善と真理を冒涜することになり
    ます。善と真理について知らずに悪と誤謬の状態にいるほうがまだま
    しです。「荒野で死ぬくらいならエジプトで奴隷になっていたほうが
    よかった」とはそういう意味です。

    9.前進せよ!

     イスラエル人の前には、海が彼らの行く手を阻んでいます。後ろか
    らはエジプトの軍勢が追ってきます。彼らはパニックに陥りました。
    モーセは人々に言いました。「あなたがたは恐れてはならない。かた
    く立って、主がきょうあなたがたのためになされる救いを見なさい。
    ・・・主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙してい
    なさい」。しかし主はモーセに言われます。「あなたは、なぜわたし
    にむかって叫ぶのか。イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせな
    さい。あなたはつえを上げ、手を海のうえに差し伸べてそれを分け、
    イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい」。

     モーセが手を海の上に差し伸べると海は割れ、イスラエル人は海の
    中のかわいた地を進みました。一方、エジプトの軍勢も彼らを追って
    海の中にはいりました。しかし、モーセがふたたび手を差し伸べると
    海はもとに戻ります。こうして、イスラエル人を追って海に入ったエ
    ジプトの軍勢はすべて海に投げ込まれ、ひとりも残りませんでした。
    他方、イスラエル人はかわいた地を行くことができました。

     海はここでは地獄を、エジプトの軍勢はあらゆる種類の誤謬を表わ
    します。試練において、われわれはあらゆる誤謬に取り囲まれ、地獄
    の真ん中を通って行くのですが、主によってあらゆる誤謬から守られ
    安全に通り過ぎることができるという意味です。

     スウェーデンボルグの重要な教えがあります。試練において人はあ
    たかも自分自身で悪や誤謬と戦うように行動しなければならないが、
    そこで戦われるのは主である。そして主が人間のために戦われるとき、
    その人間は勝利するというものです。試練で絶望したとき、モーセは
    神の救いを見よと言いましたが、神の命令は「前進しなさい」でした。
    困難に直面したとき、神頼みでぼんやりしていてはいけません。われ
    われがあたかも自分の力で試練を乗り越えようと努力するとき、神の
    力が働いて海が割れ、われわれはかわいた土の上を歩いていくことが
    できるのです。

    10.第二の試練

     エジプトの軍勢が全滅すると、モーセとイスラエルの人々はエホバ
    を讃える歌を歌いました。その後、モーセは人々をひきいて、シュル
    の荒野へ行きました。三日間、水のない日が続きました。そしてやっ
    とマラに着きましたが、水はあるものの、苦くて飲めません。人々は
    モーセに不平を言いました。モーセが神に助けを求めると、神は一本
    の木を示し、それを水に投げ入れよと命じました。そのとおりにする
    と、水は甘くなりました。

     神はマラで人々を試されました。「もしもおまえたちがわたしに従
    い、正しいことを行うなら、エジプト人を悩ませた病気で苦しまなく
    てすむようにしよう。わたしはおまえたちの病を治す主である。」一
    行は、やがてエリムに着きました。そこには泉が12と、なつめやし
    の木が70本ありました。その泉のそばで人々は野営しました。

     以上の内的意味ですが、まず「エジプトの軍勢が一人残らず滅んだ
    ので神をほめたたえた」という文章に違和感を覚えられるかもしれま
    せん。神は敵を一人残らず殺してしまうのか。エジプト人がかわいそ
    うではないか?神はそのように残酷な存在であろうか?カナンの地で
    の戦いでも、神はイスラエル人に「敵を皆殺しにせよ」と命じられま
    す。いったい一人残らず皆殺しを命じる神を神と言えるのか?「神は
    愛なり」ではないか。たしかにそうです。文字どおりに理解したので
    は旧約聖書に聖なるものを見出すことはできません。スウェーデンボ
    ルグは霊的意味で理解しなければならないと言います。霊的意味では、
    エジプト人やカナンの地の敵は、悪や誤謬なのですべて滅ぼさなくて
    はならないのです。

     さて、シュルの荒野は人が次に入れられる試練という意味です。水
    は真理、木は善です。水は苦くて飲めなかったが、木を入れると甘く
    なったとは、善が欠如している者にとって、真理は苦いものであると
    いうことです。われわれはどんな崇高な理想であっても容易に理解す
    ることができます。しかしそれを実践できるかどうかとなると話は別
    です。実践するためには善の情愛が必要です。イスラエル人は、一念
    発起してエジプトを出たのですが、荒野に来ると、ついついエジプト
    の暮らしがなつかしくなってしまいました。彼らにとって真理は受け
    入れがたいものになっていたのです。それが「水が苦くて飲めない」
    の霊的意味です。

     善の情愛が欠如してくると人間の外部に悪と誤謬が入りこんできま
    す。これに対し、善の情愛は主から人間の内部を通って流入してきま
    す。この二つの流入がぶつかり合うとき、つまり人間の内部と外部の
    間で戦いが生じるときが試練のときです。ここでは、「木を投げ入れ
    ると水が甘くなった」、つまり主から善の情愛が流れ入ることによっ
    て真理を受け入れることができるようになったと書かれています。

     エリムのオアシスは試練の後の安らぎを意味します。「12の泉」
    とは真理を豊富に得たことを、「70本のなつめやしの木」も真理の
    諸善を得たことを意味します。「その泉のそばで人々は野営した」は、
    試練の後で、信仰の諸真理は愛の善により秩序づけられたという意味
    になります。

    11.第三の試練

     イスラエル人はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシン
    の荒野に来ました。そこには食べ物がありません。彼らはモーセとア
    ロンにつぶやきます。「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかた
    わらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死
    んでいたらよかった」。主は言われます。「わたしはあなたがたのた
    めに、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めな
    ければならない」。こうして、朝になると露が降りてきて、それが乾
    くと、うろこのようになり、それを集めて食べることができました。
    また、夕べになると、宿営を覆うほどウズラが飛んできたので、イス
    ラエル人は肉を食べることができました。朝、天から降って来る露の
    ようなものは、主が人々に与えたパンでした。イスラエル人はこれを
    マナと呼びました。彼らは、人の住む地に着くまで、40年間マナを食
    べました。

     前章の第二の試練は、真理が不快なものとして感じられたところか
    ら起こった試練でした。ここで扱われているのは第三の試練で、これ
    は善が欠けたために起こる試練です。善の欠如は、パンと肉の欠乏に
    よって示されています。

     スウェーデンボルグによると、「シナイ」は再生後の善であり、
    「シン」は再生前の善です。だからシンの荒野は「エリムとシナイの
    間」にあると書かれています。二つの善の違いは、喜んでなす善と義
    務感でなす善の違いです。義務でなす善には、心中における戦いがあ
    ります。良いことだからしなければならないという強制が必要です。
    ですから、そこはシンの「荒野」であり、飢餓の状態です。しかし、
    そのとき主は天から霊的な喜びを与えられる、というのが天から降っ
    て来るマナの物語です。

     主は毎日マナを与えられますが、人々は一日に必要な量のみを取る
    ことができました。必要以上に取ると残りは腐ってしまいます。第七
    日の安息日にはマナは降ってきませんが、第六日に通常の二倍与えら
    れました。「日々のパン」というと、主の祈りの「日々のパンをお与
    えください」を思い出しますし、マタイによる福音書の「明日のこと
    を思いわずらうな」を思い出します。スウェーデンボルグによると、
    「明日のことを思いわずらうな」とは、明日の計画を立ててはいけな
    いという意味ではなく、神を信じない者は自己愛と世間愛が無限に膨
    れ上がって、それが満たされないことを心配するし、実際、それが満
    たされない場合は神に対して怒り、神を呪いさえするようになるとい
    うことです。神を信じている者は、願っているものを得ようが、得ま
    いが心を乱されることはないということです。

     「人々は六日間マナを集めるが、七日目は安息日で集めるマナはな
    い」の霊的意味は、人間は、再生以前は服従から行動するが、再生以
    後は情愛から行動するということです。六日間とは天地創造の六日間
    と同じ意味で、自分自身の悪や誤謬と戦いながら再生へと向かう過程
    です。ここでは人間は真理をとおして善を得ます。安息日は再生を意
    味します。そのときには、人間はもはや戦いなしに主から導かれます。

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