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老子・道徳経 その4

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2013年 3月16日(土)23時35分48秒
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  http://www.ginzado.ne.jp/~okoshi/rousi.html

第五十二章

世界には始めがある。

それは世界の母と呼ばれる。

その源を知ったものは、その表れを知る。

その表れを知り、その源とともにとどまるとき、人生で不足することはない。

言葉による表現をやめ、感覚への道をふさぐならば、一生くたびれることはない。これに対して、言葉が満ちあふれ、わずらわしさが増すならば、

一生救われないだろう。

見えないものを見るのが覚醒であり、柔らかさを保持するのが強さである。

内なる光りによって覚醒にかえれ。

そうすれば、不幸にならない。

これは真実に従った暮らしと呼ばれる。

第五十三章

私にわずかでも知識があり、大きな道を歩むならば、

それからはずれるのではないかと恐れる。

大きな道はまったく平坦であるのに、人々は小さな近道を行きたがるものだ。

宮廷はきれいになっていても、人々の畑はひどく荒れはて、

倉庫には穀物の貯えはなにもない。

支配者は高価な衣服を着て、立派な剣をつけ、腹いっぱい飲み食いし、

法外な財宝と高価なものを持っている。

これこそ最大の盗人であり、大きな道からはずれたことである。

第五十四章

しっかりと基礎がおかれておけば、引き抜かれるものはない。

しっかりと抱かれておれば、抜きでるものは何もない。

子々孫々祭祀はとだえないだろう。

自己において道を修めれば、徳は本当のものとなり、

一家族において修めれば、徳はあり余るほどになる。

一つの村で修めれば、徳は永続するし、

一国において修めれば、徳はたくさんのものとなり、

天下において修めれば、徳はすべてをつつみこむものとなる。

このように、自己を通して自己を熟視し、

家族を通して家族を熟視し、

社会を通して社会を熟視し、

国を通して国を熟視し、

天下を通して天下を熟視できる。

私が天下をありのままにわかる理由は、こうするからである。

第五十五章

「徳」を豊かにもつ人は、無垢な子どもと同じように見られる。

彼は、昆虫の針からも、野獣の爪からも猛禽の攻撃からもまぬがれる。

骨や筋肉は強いとはいえないが、手のにぎりはいつもしっかりしている。

男女の交合についてまだ何も知らないのに、可能性は明かであり、

生命の本質は完全なものになっている。

一日中泣き叫んでも声がかれることはない。

彼の内的調和が最高だからである。

この内的調和を知ることが真実とともにあるということだ。

真実とともにあれば、啓発される。

しかし、生命に何かをつけ加えようとすると邪悪になる。

可能性をおしつけると、心は不自然になる。

ものが不自然になると、それらは衰えていく。

これは「道」からそれることである。

そうすると、すぐに生を終えてしまう。

第五十六章

知っているものは、しゃべらない。

しゃべるものは、知ってはいない。

言葉による表現をやめ、感覚の門を閉ざし、すべての鋭さをにぶらせ、

そのもつれを解きほぐし、その明るさを和らげ、そして、大地と一つになる。

これは「道」と同一になるといわれる。

それに近づくことができず、また、遠ざけることもできない。

それに利益を与えることもできず、また、害を及ぼすこともできない。

尊敬へと高めることはできず、また、恥の苦しめることもできない。

だから、天下で最も尊い人なのである。

第五十七章

静けさによって国を指導せよ。

めずらしい作戦で戦争を行え。

何もしないで天下を勝ち取れ。

どうしてそれがわかるかといえば、

拘束と制限が多くなればなるほど、人々はますます貧しくなる。

人々が武器を多くもてばもつほど、国はますます混乱する。

こざかしいぺてん師が多くなればなるほど、奇妙なものはますます生じる。

法令と命令の押しつけが厳しくなればなるほど、盗賊と悪漢はますます多くなる。

だから、賢人はいう。

「私は行動しない。

そうすると、人々はおのずから教化される。

静寂にしていると、人々はおのずから落ち着いてくる。

何も干渉しなければ、人々はおのずから富み栄える。

私が欲望をなくしておれば、人々はおのずから本来の簡潔さに戻る。」

第五十八章

国が簡素で寛大に治められるとき、人々は誠実で正直である。

国が無上に猛烈な取り調べによって治められるとき、

人々は誤りやすく、不正直になる。

不運なときに、幸運があらわれ、幸運なときに、不運がひそんでいる。

誰れが最後の正しさを決定することができるのか。

あるいは、最後の正しさというのはいったいあるのだろうか。

正しさがうそに変わると、善は邪悪に変わる。

これは長らく人々を困惑させてきた。

賢者はものを扱うとき、自分の考えをしっかりともっているが、

しかし、鋭くはない。

彼は純粋であるが、害を及ぼすことはない。

彼はまっすぐであるが、激することはない。

彼には光があるが、きらびやかではない。

第五十九章

自然に従って人々を導くには、つつましくすることが最高である。

つつましくすることは戻ることを意味し、

戻ることは、徳を積み重ねることを意味する。

徳を積み重ねれば、あらゆるものがうまく扱われる。

あらゆるものが扱われると極限に至る。

極限において人は国を治めることができる。

源にあって国を治めれば永続できる。

根を深くし、幹を固くすれば、いつまでも生きながらえることができる。

だから、大きな国を治めることは料理を準備するように簡単である。

第六十章

「道」が天下に普及すれば、悪はその力を失う。

それは、悪がもはや精神的力をもたないということではなく、

その力が人々を傷つけないということである。

実際、その力が人々を傷つけないばかりでなく、

まず、支配者が人々に害を及ぼさない。

どちらも傷つけることがないから、

互いに「道」によって利益が得られるのである。

第六十一章

大きな国はつつましく、貯水池のようである。

そこには、すべての流れが交わる。

それは天の受動性である。

受動性は静けさによっていつも能動性にまさる。

静けさは能動性よりも下位にある。

大きな国が小さな国よりも下位にあると、小さな国にまさり、

小さな国が大きな国よりも下位にあると、大きな国にまさる。

このように、つつましくなりながら、一方は他方にまさる。

あるいは、本来、低い地位にありながら、一方は他方にまさる。

大きな国はただ人々を導き、彼らを育てることを望む。

小さな国はただ他に従属し、たがいに仕事をすることを望む。

第六十二章

「道」はあらゆるものの底に隠されている。

立派な人はそれを尊重し、価値なき人はそれによって護られるものである。

良きことばは、名誉として報酬を得、良き仕事は人々を印象づける。

たとえ価値なき人であっても、「道」は決して見捨てることはない。

大きな国に皇帝が立てられ、大臣が任命され、玉や馬が授けられても、

「道」以上に善い提供物はない。

「道」は遠い昔から非常に尊ばれてきた。

どうしてかというと、それを求めないから、人はそれを得るのだ。

たとえ過ちがあったとしても、人はその報いから免れる。

こうして、「道」は天下で最も尊いものとされるのである。

第六十三章

行為や無為、作用や非作用、知や無知、大や小、多や少、

それは、憎しみを愛でもって報い、難しいものに対して易しいうちに処理し、

大きいものに対して小さいうちに処理するようなものである。

天下の難しい仕事は易しいことのなかに始まりがあり、

天下の大きな仕事は小さなことの中に始めがあるからである。

それ故に、賢者は決して大きくなろうとしない。

だから、大きいものに達する。

軽々しく約束すれば、約束を守ることはまれであり、ものを手軽に考えると、

もっと困難なことが起こることが多い。

それ故に、賢者はものを困難なものとしてとらえる。

だから、彼はいつも困難に打ち勝つのである。

第六十四章

じっとしているものはとらえやすい。

現れないうちは扱いやすい。

ちょうど始まっているものは壊れやすい。

小さいものは消滅させやすい。

何でもないうちに処理し、無秩序になる前に秩序だてておけ。

大きな木も小さな若枝から成長する。

九重の塔も一つの小さなかたまりからつくられ始める。

何千マイル行く旅も足もとから始まるのだ。

扱おうとすると失敗し、固執したりすると失ってしまう。

それ故に、賢人は何も行わないから、何も損なわず、

何も固執しないから、何も失わない。

仕事をする場合、ほとんど完成に近づいたときに失敗する。

それ故に、仕事のやり始めと同じく、終わりの段階でも注意せよ。

そうすると、失敗することはない。

こうして、賢者にとって、進んでするということは進んでしないことである。

彼は得るのが難しいものに価値をおかず、学ばれないものを学び、

他人によってつくられてきた誤りを避ける。

彼は万物の本性に従い、それらを決して妨げない。

第六十五章

いにしえの「道」にすぐれた者は人々に打算的な思考をもたず、

それを知らないままにさせていた。

人々を治めることが難しいのは、彼らが知的分別をしているからである。

知的分別によって国を治めることは有害である。

知的分別によらないで国を治めることは幸福である。

この違いを知って規範をつくる。

この規範を知ることは深遠な「徳」である。

深遠な「徳」は奥深く遠くまでとどく。

それはものの後戻りであり、「道」との大いなる調和へと至るのである。

第六十六章

川や海はあらゆる水に対して指導的に支配する。

それらが他の水に対して低い地位にあるからだ。

それがあらゆる水に対して指導的に支配する理由である。

このように、統治者が人々の指導者になろうと望むならば、

まず、人々の前でつつましくしなければならない。

人々の先頭に立とうと望むならば、まず、彼らのあとに身をおかねばならない。

彼が高い地位にいても、人々は彼の権威を感じず、

人々の前にいても、人々は何ら障害も感じることがない。

だから、すべての人々は彼を支持し、いやがらない。

彼は、誰れとも争わないから、他の人は彼と荒そうことができないのである。

第六十七章

世間の人は、私が決まったものを出さず、何ものもあらわしていないという。

私が何ものもあらわしていないのは、決まったものを出していないからである。

もし何かをあらわしていたら、私はもはや決まったものをあらわさないだろう。

私が価値あるものとしてもっている三つの宝がある。

第一は慈しみであり、

第二は倹約であり、

第三は天下の人々の先頭に立つことを望まないことである。

慈しみがあるから勇気を出すことができ、

倹約するから広く施しをすることができ、

天下の人の先頭に立たないから、自分の能力の充分な成長をとげることができる。

ところが、現在、人々は勇敢であろうとして、慈しみをもたない。

広く施そうとするが、倹約はしない。

自分の能力の充分な成長を望んで、天下の先頭に立つことにあこがれる。

しかし、実際に死があるだけだ。

戦争にあっても、慈しみによって勝利を得る。

防衛にあっても、うまく防ぐことができる。

この種の人は天によって救われ、慈しみによって護られる。

第六十八章

すぐれた戦士は荒々しくない。

すぐれた闘士は怒気をあらわさない。

すぐれた勝利者は競争をしない。

すぐれた指導者は人々の前でつつましい。

これは争わない「徳」といわれ、他人の力をうまく使うといわれる。

これは空間と時間をこえ、天の至上さと匹敵する。

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