teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]


スレッド一覧

  1. 11(0)
  2. ハーゲンダッツの苦味成分と健康被害(0)
  3. 株暴落を手招きする投資家を絶対許してはいけない!(0)
スレッド一覧(全3)  他のスレッドを探す  スレッド作成

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成

新着順:2091/3558 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

〈八咫烏〉と〈三足烏〉混乱の始まり

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2013年 3月19日(火)12時13分43秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/yatagarasu.htm

答えを含む関連記事

神の数学九進法

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/511.html

三本足の八咫ガラス

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/509.html

一 〈八咫烏〉と〈三足烏〉混乱のはじまり ■■■■■


◆◆◆ 日本サッカー協会への抗議 ◆◆◆

 日韓共催のサッカーW杯の準備がすすんでいたころ、日本サッカー協会のシンボルマークが話題になり、議論が起こりました。
 そのシンボルマークとは、三本の足をもった烏がサッカーボールを押さえているもので、テレビでお馴染みです。

 これについてのインターネットのサイトにありますサッカー協会の初期の説明は、

【ボールを押さえている三本足の烏は、中国の古典にある三足烏と呼ばれるもので、日の神=太陽をシンボル化したものです。】

 ――という内容でした。

 中国の古典にある〈三足烏〉とは、三本足の烏が太陽の中に棲んでいるという伝説のことで、西暦紀元前後の漢の時代にできたようです。
 おそらくは黒点から想像したのでしょう。

 このマークは、デザインもなかなかオシャレですし、問題はなさそうに見えるのですが、これに対しまして、一部保守派の人たちが厳しい抗議をしたのです。
 それは、

【そのシンボルマークは日本神話の〈八咫烏〉なのに、日本神話の説明が無いのはおかしい。】

 ――という抗議でした。
 この抗議は、新聞にも取り上げられていました。
 ただしサッカー協会は、何の返事もしなかったようです。


◆◆◆ 著者の疑問と推理 ◆◆◆

 著者はこの件につきまして、二つの疑問を持ちました。

(一)日本サッカー協会への疑問
 「なぜ日本の協会なのに、わざわざシナの伝説の烏などを持ってきたのか?」

(二)抗議する保守派への疑問
 「その抗議は『〈八咫烏*〉=〈三足烏**〉』を前提としているが、ほんとうにそうなのか?」

*:やたがらす
**:サンゾクウと読みます

 著者は、『古事記』や『日本書紀』を読んでも、

『〈八咫烏〉=〈三足烏〉』

 ――とは書いてありませんから、保守派の抗議に疑問を持ち、あれこれ調べてみました。
 その結果としまして、すくなくとも古代においては、

『〈八咫烏〉≠〈三足烏〉』

 ――という推理をいたしました。

 なぜそのような推理をしたかといいますと、以下にご説明するようないくつかの文献があるからです。


■■■■■ 二 〈八咫烏〉についての日本最古の文献 ■■■■■


◆◆◆ 日本最古の史書 ◆◆◆

『古事記』(七一二年)
『日本書紀』(七二〇年)
『先代旧事本紀』(平安初期)

 たいへん有名な話ですが、これらの古典の中に、

【神武天皇が大和に進出する途中の難所の熊野で道に迷ったとき、天照大神や高木大神が〈八咫烏〉を派遣して道案内をさせます。その結果神武一行は無事に宇陀(奈良県宇陀郡)に到着します。そのあとの闘いでも、〈八咫烏〉は天皇の指示によって活躍します。それを愛でて東征が完了したとき、天皇は〈八咫烏〉に恩賞を与えますが、その子孫が賀茂県主一族(京都の賀茂社を囲む豪族)になりました。】

 ――とあります。
『日本書紀』がもっとも詳しいのですが、他の二書にも矛盾した記述はありません。

 ここで気づくのは、以下の点です。

[1]三本足の件
 これら日本最古の史書には、〈八咫烏〉が三本足であったという記述はまったくありません。
 もしそういう口伝が奈良時代より前からあったとしたら、それは大きな特徴ですから、かならず書いたと思います。
 書かれていないのは、そのような口伝が無かったということでしょう。
(シナ伝説の〈三足烏〉そのものは、玉虫厨子にも描かれていますし、古墳の壁画にもあるそうですからかなり古くから知られており、太陽に棲む烏という伝説が〈八咫烏〉神話に影響したことは考えられますが、〈八咫烏〉の足がじっさいに三本だったという伝承が古くからあれば、かならず『記紀』にそう書いたと思うのです)

[2]神秘性
 前のどの史書にも、〈八咫烏〉は神武天皇の命令によって動く配下として書かれています。
 もし〈三足烏〉だったとしたら、太陽に棲むのですから、天皇より上位として――神武天皇を助けた金鵄や神剣布都御魂のように――もっと神秘的に書かれる筈だと思いますが、そういう事はありません。
 天照大神が太陽神とされているにもかかわらず――です。
 しかも戦争が終わったあと、天皇が〈八咫烏〉に恩賞を授けているのです。
 これは当然、天皇の部下としての扱いです。

[3]人間であること
 賀茂県主という豪族の先祖と記されていますが、いくら古代人でも執筆者は学者ですから、烏から人が生まれると信じていた筈はありません。
 ですからこれは、あくまでも、豪族の先祖集団の活躍を神話的に表現したものと思われます。

 ちなみに、著者が学んだころの小学国史の教科書にある〈八咫烏〉のイラストにも三本の足は描かれていませんでした。
 もし、〈八咫烏〉の足が三本だという認識が戦前の歴史学者にあれば、描かれていただろうと思います。

 このように、『日本書紀』など最古の史書には、〈八咫烏〉の足を三本とする記述がまったく無いことが分かりましたので、つぎは、古い神社の伝承について、調べてみます。


■■■■■ 三 〈八咫烏〉に関係する古い神社の由緒譚 ■■■■■


◆◆◆『八咫烏神社由緒書』(七〇五年創建)◆◆◆

 この神社は、『続日本紀』によりますと、文武天皇の慶雲二年九月(西暦七〇五年)に創建されました。
 西暦七〇五年といいますと、『古事記』の成立より前で、たいへんに古い神社であることがわかります。
 正史の『続日本紀』に記されているほどですから、由緒正しく格式の高い神社で、延喜式内社です。
 場所は、〈八咫烏〉が活躍した奈良県宇陀郡です。

 この神社の由緒書に、概略次のようにあります。

【土地の豪族の武角身命が、黒い衣をまとって木から木へと飛び移りながら神武天皇をご案内した。
 天皇はその姿をごらんになって、〈八咫烏〉という称号をおつけになった。
『八咫烏神社』のご祭神はこの武角身命である。
 その子孫は賀茂県主である。
 当神社の絵様には〈三足烏〉を使っている。】
(インターネット「玄松子の記憶」から)

 つまり〈八咫烏〉とは、黒い衣を着て道案内をした豪族が、まるで大きなカラスのように見えたので、天皇がおつけになった称号(綽名)である――としているのです。
 ですからもちろん人間で、かつ神武天皇の部下です。
 そして、その故事とは関連なしに、〈三足烏〉を神社のマークにしています。

 この由緒がいつごろから伝えられていたものか分からず、八一五年の『新撰姓氏録』から来たのかもしれませんが、少なくとも創建以来の口伝と矛盾するような事は書かないでしょうから、これに近い伝承があったのでしょう。
 また〈三足烏〉は、デザインとして、(おそらくは)鎌倉時代以降に出来たのではないか――と思います。
 黒い衣装の土地の豪族の足が三本あった筈はありませんから・・・!

 つぎに、〈八咫烏〉や〈三足烏〉に関係の深い、賀茂社と熊野三山の資料を簡単に記しておきます。


◆◆◆ 賀茂社について ◆◆◆

 賀茂社は、先の『八咫烏神社』の由緒書きにありましたように、〈八咫烏〉その人の勢力圏として、京都にできた古い神社です。
 この神社は、下と上の二社に分けられています。

▽賀茂御祖神社(通称下鴨神社/京都市左京区)
 ご祭神は、玉依媛命(東本殿)と建角身命(西本殿)です。
 賀茂県主一族の中心となる神社で、旧社格は官幣大社で超有名です。
 また、賀茂川の近くにあって、《平安京》の水の守り神でもあります。
 西本殿のご祭神は漢字が少し違いますが〈八咫烏〉そのものであり、東本殿の玉依媛命はその姫です。

▽賀茂別雷神社(通称上賀茂神社/京都市北区)
 ご祭神は賀茂別雷大神で、玉依媛命の御子とされています。
 つまり建角身命=八咫烏の御孫にあたります。
 場所はやはり賀茂川の近くにあり、社伝では神武天皇の時代に賀茂山に降臨したとされていますが、風土記では、玉依媛が賀茂川から流れてきた丹塗矢で懐妊して産まれたとされ、『記紀』神話に共通した誕生譚をもっています。
 やはり社格は官幣大社で、上下合わせて一社という感じです。

 この二つの賀茂社のシンボルマークは、いずれも〈三足烏〉ですが、しかし由緒譚には、先祖の足が三本だったという話は無いようです。
 八咫烏神社と同じく、マークとして使われているだけです。

余談:
 私の戦前生まれの友人はこの賀茂社の家系の末裔らしいのですが、子供のころ祖母から「お前の先祖は脚が三本あるカラスなんだよ」と教えられて仰天したそうです(笑)。ですから、そういう俗説は戦前から有ったようです。


◆◆◆ 熊野三山について ◆◆◆

 つぎに、神武天皇の東征伝説で知られ、〈八咫烏〉が活躍した和歌山県の熊野にある三つの著名神社、熊野三山について記します。

▽熊野本宮大社(通称熊野本宮/和歌山県東牟婁郡本宮町)
 計十三柱のご祭神が祀られています。
 主祭神は家津御子大神(素戔嗚尊)で、他に伊弉諾尊・伊弉冉尊・天照大神・瓊瓊杵尊・・・など神話で有名な神々がずらりと並んでいます。

 社殿ができたのは第十代崇神天皇の時代とされていますが、真の創建はつまびらかでなく、神武東征以前にすでに鎮座していたと言われ、神武天皇と争った出雲一族や饒速日命と関係があるとも言われています。
 社格は官幣大社で、熊野三山の中心で三山中最古とされています。

 お祭りは数多くありますが、とくに有名なのが一月七日の八咫烏神事です。
 本宮では昔から、八咫烏の図柄を神璽として紙に押捺し、牛王神符として全国に頒布していますが、八咫烏神事とは、この神符の移靈式と頒布式のようなものです。
 この牛王神符は、とくに中世武家に広まり、武家の誓紙に必要となったそうです。

 この神社のシンボルマークも〈三足烏〉ですが、面白いことに、八咫烏神事の牛王神符にあるたくさんの烏は、三本足ではないように見えます。

▽熊野速玉大社(別称熊野新宮/和歌山県新宮市)
 計十四柱のご祭神が祀られています。
 主祭神は熊野速玉大神(伊弉諾尊)です。
 現在の地に社殿ができたのは第十二代景行天皇の御代とされていますが、その前から三重県や新宮にあったとされており、伝承はおそろしく古いものがあります。
 社格はやはり官幣大社で、国宝や重文がたくさんあります。
 シンボルマークは同様に〈三足烏〉です。

▽熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)
 計十八柱のご祭神が祀られています。
 主祭神は熊野夫須美大神(伊弉冉尊)です。
 有名な那智の滝を望む地にあり、おそらくは縄文弥生の時代からこの巨大な滝を神として崇める信仰があり、それが神武東征と結びついて現在の姿になったのでしょう。
 社伝では、神武天皇が那智の滝を神として祭って、その守護のもとに〈八咫烏〉に導かれて大和に入ったとされています。
 のちに本地垂迹の思想のもとに、修験道とも結びつき、いろいろな伝説が生じたようです。
 社格は官幣中社で、シンボルマークは同じく〈三足烏〉です。

     *

 この熊野三山の歴史の探究は、賀茂社以上に興味深いのですが、頁のゆとりがありませんので割愛いたします。
 ただ注意すべきは、マークに〈三足烏〉を使ってはいても、神社の由緒に、〈八咫烏〉の足が三本だった――という話は無いらしいことです。
 もうひとつ注意したいのは、この熊野三山の烏の図(三本足ではない)が有名になったのは、鎌倉時代以降、武士が盛んになってかららしい――ということです。

     *

 つぎに、『記紀』以後に書かれた、南北朝時代までの文献を調べてみます。


■■■■■ 四 〈八咫烏〉についての南北朝時代までの文献 ■■■■■


◆◆◆『新撰姓氏録』(萬多親王等/八一五年)◆◆◆

 これは、著名な氏族たちの由来などを集めた膨大な資料集で、西暦八一五年にできました。
 編者のひとり萬多親王は桓武天皇の皇子です。

 現在残されているのは、ほとんどが抄本ですが、それでも膨大です。
 例外的に見つかっているこの資料集の本文(逸文)の中に、賀茂県主があります。
 そこには、次のように記されています。

【鴨縣主、賀茂縣主同祖、神日本磐余彦天皇欲向中洲之時、山中嶮絶、跋渉失路、於是神魂命孫鴨武津之身命、化如大鳥翔飛、奉導遂達中洲、時天皇喜其有功、特厚褒賞、天八咫烏之號、從此始也。】

 漢字のみで書かれていますが、比較的判読しやすい文章です。
 漢字を拾ってみてください。なお神日本磐余彦天皇とは神武天皇のことです。
 この文章も、〈八咫烏〉が神武天皇を助けた豪族に与えられた称号であることを示しています。
「特厚褒賞」で分かりますように、天皇から特別な褒美を与えられた部下ですし、もちろん、足が三本という記述はありません。
 八咫烏神社の由緒書に似ています。


◆◆◆『倭名類聚抄』(源順/九三〇年代)◆◆◆

 著者が見つけた、『〈八咫烏〉=〈三足烏〉』説の最古の文献がこれです。
 著者の源順は平安時代を代表する大学者兼歌人で、三十六歌仙の一人です。
 この本は、平安中期に編纂され、世界的に見てもひじょうに古い百科事典(これとは別に世界最古の百科事典「秘府略一千巻」も日本が出しています)として有名です。

 この冒頭近くに、
「天地部第一 景宿類一 陽烏」
 ――という項目があり、そこに、以下のような記述があります。

【歴天記云、日中有三足烏、赤色、今案文選謂之陽烏、日本紀謂之頭八咫烏、田氏私記云、夜太加良須、・・・
(訳:『歴天記』の中に太陽に赤色の三足烏が棲むと書かれているが、いま考えてみると、これは『文選』で言っている陽烏のことだろうし、また『日本書紀』にある〈八咫烏〉のことだろうし、また『田氏私記』で言う夜太加良須のことであろう)】
(注:『歴天記』は今は失われた日本の本です。『文選』と『田氏私記』は、それぞれシナと日本の有名な本です。『日本紀』は『日本書紀』のことです)

 ここに、今に残る文献としては史上はじめて、

『〈八咫烏〉=〈三足烏〉』

 ――という説が書かれているわけですが、その文章は、『倭名類聚抄』より前の本や口伝を引用しているのではなく、「今案(いま案ずるに)」で分かりますように、この百科事典の編者の源順の考えでは「〈三足烏〉は〈八咫烏〉だろう」としているだけです。
 つまり、源順の個人的な意見として記されているだけなのです。

 この源順の個人的な見解を、江戸時代の有名な二人の天才学者が否定しているのですが、それは次の節で記します。


◆◆◆『讃岐典侍日記』(藤原顕綱の娘の日記/一一〇八年ごろ)◆◆◆

 冨山房の『大日本国語辞典』や小学館の『日本国語大辞典』によりますと、この日記の中につぎのようにあります。

【我は何事にも、目もたたすのみおほえて、南のかたをみれは、せいのやたからす、見もしらぬものとも、大かしらなとたてわたしたる見るも。】

 著者には分かりにくい文章(正確な現代語訳のできる方、教えてください)ですが、朝賀即位などの時に庭上に立てる幟でその先端に金銅製の烏がついたものを〈八咫烏〉と呼んだらしく、それを見た有様です。
 それが三本足であったかどうかは分かりませんが、辞書にシナの三足烏と並べて書いてあるので、その可能性があります。

 だとしますと、『倭名類聚抄』の影響があるのかもしれません。
 八十年あとの日記ですから・・・。
(先端に烏型の飾りをつけた幟はかなり昔から有ったらしく『続日本紀』などにも出てきますが、正史ではそれを〈八咫烏〉とも〈三足烏〉とも呼んでいないようです)


◆◆◆『神皇正統記』(北畠親房/一三三九年初版とされる)◆◆◆

 北畠親房の『神皇正統記』の「巻の二」にも、〈八咫烏〉のことがあり、次のように書かれています。

【神魂命の孫武津之身命、鴨武津命とも云ふ、大烏となりて、軍の御前につかまつる。天皇ほめて、八咫烏と號し給ふ。】

 南北朝になってもなお、『〈八咫烏〉=〈三足烏〉』という混乱はなく、しかも「武将に与えた称号」という書き方です。
『倭名類聚抄』の影響はありません。
 北畠親房は当時の随一の学者ですので、この記述も尊重すべきだと思います。

     *

 ここまで見てきた範囲では、『〈八咫烏〉=〈三足烏〉』を主張する唯一の文献は、源順による『倭名類聚抄』でしたが、この源順の説に反対している江戸時代の大学者を、次節でご紹介いたします。


■■■■■ 五 〈八咫烏〉についての江戸時代の書誌学的文献 ■■■■■


◆◆◆『古事記伝』(本居宣長/江戸時代後半一七九八年ごろ最終成立)◆◆◆

 本居宣長は江戸期最高の国学者とされる人物ですが、その宣長の畢生の大作が『古事記伝』です。
 宣長はその『古事記伝』の十八之巻において、

【和名抄に、歴天記云、日中有三足烏赤色、今案文選謂之陽烏、日本紀謂之頭八咫烏、とあるは心得ず、】

 ――と記しています。
 つまり、『倭名類聚抄』の中で源順が『〈八咫烏〉=〈三足烏〉』としている箇所をそのまま引用して、その言葉は納得できない――と言っているのです。

 本居宣長は、膨大な資料を渉猟し、何十年にもわたって研究に研究を続けて、ついに『古事記伝』を完成させた大碩学です。
 伊勢神宮のそばに住んでいて、神社の由緒にもひじょうに詳しい学者です。
 その大学者が、

『〈八咫烏〉≠〈三足烏〉』

 ――としていることは、看過できないと思われます。
 ついでながら、本居宣長が伊勢神宮について詠んだ歌をひとつ記します。

「もの言わば神路の山の神杉に 過ぎし神代のことぞ問はまし」


◆◆◆『倭名類聚抄箋注』(狩谷エキ斎/江戸時代後半)◆◆◆
(エキは液のシを木に代えた字です)

 狩谷エキ斎は、本居宣長ほどの知名度はありませんが、江戸時代最高の考証学者として聞こえた人物です。
 安永四年(一七七五年)生、天保六年(一八三五年)没で、本居宣長の四十五年のちの生まれです。
 裕福な江戸商人の息子として育ち、学問に精進して、とくに書誌学的方面に非凡な才能を見せました。

 業績の第一は度量衡研究で、『本朝度量権衡攷』は、正倉院はじめ全国を旅し、徹底した実物主義を貫いてできた著作とされ、今では平凡社の東洋文庫で見ることができます。
〈八咫烏〉の大きさについての考証なども有名です。

 業績の第二が、この『倭名類聚抄箋注』で、実証主義に基づいた、精緻を極めた考証によってできた、『倭名類聚抄』についての解説書です。
 本文より解説のほうがはるかに長い本です。
 活字印刷されたのは没後の明治十六年とされています。

 この中に、『陽烏(太陽に住む三足烏)』についての長い解説がありますが、そこで、〈三足烏〉と〈八咫烏〉の関係について、狩谷は次のように述べています。

【頭八咫烏者、天照大神為神武帝遣以為郷導之神烏也、古事記所載同、源君以為日中烏者誤矣。】

 源君とは源順のことです。
 つまり、『倭名類聚抄』に書かれた源順の『〈八咫烏〉=〈三足烏〉』説は誤りだ――と明記しているのです。
 本居宣長に匹敵するほどの考証学者が、やはり、

『〈八咫烏〉≠〈三足烏〉』

 ――と主張していることは、尊重すべきだと考えます。


◆◆◆ 明治の童話にある〈八咫烏〉◆◆◆

 以上で江戸時代までの文献をご説明しましたが、ここで、明治になってからの〈八咫烏〉の童話をご紹介しておきます。
 日本の童話の先駆者は巖谷小波とされておりますが、その小波が有名な博文舘から明治二十九年に出した童話に、
『日本お伽噺 第壹編 八咫烏』
 ――というのがあります。
 執筆は小波、画は久保田米僊です。
 この童話を読んでみましても、足が三足という記述は皆無です。
 また、イラストの烏にも、三本の足はありません。

 つまり、明治になりましても、
『〈八咫烏〉=〈三足烏〉』
 という伝承は一般的ではなかったと思われます。


■■■■■ 六 補足と著者の結論 ■■■■■


◆◆◆『〈八咫烏〉=〈三足烏〉』説の発端とは? ◆◆◆

 以上のように著名な学者が否定しているにもかかわらず、多くの人が〈八咫烏〉の足は三本だと信じているようです。
 古舘さんが司会をする人気の高いテレビのクイズ番組でも、そうなっていました。

 しかし著者が見聞した範囲では、ほとんどの人は、以上のような文献調査をした上でそのような見解に達しているのではなく、漠然と信じているように思われます。
 では、そのような説がいつ頃からどのようにして出来てきたのか――ですが、たぶん鎌倉時代以降ではないでしょうか。
 すくなくとも、一般にそのような考えが拡がったのは、鎌倉時代以後だろうと推量しております。
(大部分の人が三本足だと思うようになったのは、戦後しばらくしてからのような気がします)

 著者としましては、『〈八咫烏〉=〈三足烏〉』が鎌倉時代以降の信仰だったとしても、それはそれで尊重したいと思っておりますが、もっとずっと単純に決めつけている方が多いように思いますので、本章のような検討をしてみた次第です。


◆◆◆ 辞書類の検討 ◆◆◆

 多くの国語辞書に、〈八咫烏〉や〈三足烏〉はありますが、これをイコールで結ぶ記述は、源順の説の引用のみのようです。
 源順をはじめて引用したのは昭和七~十二年の『大言海(全五巻)』らしいのですが、その直後に出た『大辞典(全二十六巻)』でも同様な引用をしています。
 同じ人が書いたらしく文章はまったく同じです。
 また百科事典の類には、戦前から戦後まで、イコールで結ぶ話は出ていないようです。
 見逃しているのかもしれませんが・・・。


◆◆◆ 著者のとりあえずの結論 ◆◆◆

 日本サッカー協会では、保守派の抗議を気にしたのかどうかは分かりませんが、シンボルマークの解説の言葉を少し修正したようです。
 現在はつぎのようになっています。

【ボールを押さえている三本足の烏は、中国の古典にある三足烏と呼ばれるもので、日の神=太陽をシンボル化したものです。日本では、神武天皇御東征のとき八咫烏が天皇軍隊の道案内をしたということもあって、烏には親しみがありました。】

 つまり、日本神話の〈八咫烏〉の話を加えてはおりますが、それと〈三足烏〉とが等しいとは書いておらず、それとは別に〈八咫烏〉の話が神話にある――としているのです。
 これは、ここまでの著者の文献調査と矛盾しない書き方ではありますが、なにか釈然としません。
 言い訳しているように見えます。

 著者としましては、日本サッカー協会への抗議は、「日本神話も書け」というのではなく、

「日本のサッカー協会なのになぜ外国の伝説を採用するのか」

 ――の一点に絞るべきだと考えます。
(もし抗議するなら、の話です)

 日本サッカー協会の創始者が熊野出身だったので〈三足烏〉を協会のマークにした、という事らしいのですが、日本らしいマークは他にいくらでも有ると思うからです。

http://

 
 
》記事一覧表示

新着順:2091/3558 《前のページ | 次のページ》
/3558