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平安京と方位線

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2013年 3月20日(水)14時43分59秒
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  http://www012.upp.so-net.ne.jp/houi/heiankyo.htm#heiankyo

共鳴力を高めると意識が進化する。

http://web.archive.org/web/20080222084251/http://www6.ocn.ne.jp/~aber7/new_page_145.htm


白峯神宮についてもう一ついえることは、下鴨神社と東北30度線、上賀茂神社とその神体山の神山と南北線をつくり、賀茂神社と結びついていることである。上賀茂神社については、平安神宮と西北60度線をつくり、神山は近江神宮と西北30度線をつくる。

白峯神宮―下鴨神社(E0.064km、1.77度)の東北30度線
白峯神宮―上賀茂神社(W0.025km、0.42度)―神山(W0.149km、1.55度)の南北線
平安神宮―上賀茂神社(E0.110km、1.13度)の西北60度線
近江神宮―神山(E0.040km、0.42度)の西北30度線

 井沢元彦『逆説の日本史 2』によれば、崇徳上皇を祭神とする白峯神宮と明治天皇の即位式・明治改元とは密接に関係しているという。慶応四年(1868)八月二十六日に明治天皇の勅使が讃岐の崇徳上皇陵に派遣され、新宮を建立したので長年の怒りを鎮めて京にお帰り下さい、という宣命を読み上げられた翌日の二十七日に明治天皇即位の礼が行われ、さらに崇徳院の霊が京都に到着し、天皇がこれを拝した九月六日の二日後の八日に明治への改元が行われたというのである。井沢元彦氏によれば、即位も改元も崇徳院のスケジュールにすべて沿っていたというのであるが、それらのことは七月十七日の江戸を東京とする詔書と九月二十日の東京行幸のための京都出発の間に起こったことであり、あるいは東京行幸も京都への崇徳上皇霊の到着を待って行われたということなのかもしれない。
 井沢元彦氏によれば、会津はまだ開城しておらず、榎本武揚率いる幕府海軍も健在である多忙で重大な時期に、明治天皇や側近の公家たちががわざわざ崇徳天皇陵まで勅使を派遣したのは、怨霊鎮魂の為であるという。白峯神宮や水無瀬神宮など明治初期の神社が崇道神社の方位線上に造られたことなど、あるいはこのことと関係してるいのかもしれない。また、その宣命には、明治天皇の周囲が、孝明天皇の死を、崇徳天皇の祟りと関連させて考えていたことがあらわれているというが、孝明天皇の死の直後から暗殺説が流れていたというから、その噂を打ち消す意味もあって、孝明天皇の死と崇徳上皇の祟りとをことさら強調しようとしたのかもしれない。
 ただ、明治天皇やその側近の公家たちが怨霊、とくに崇徳上皇の怨霊を恐れていたとしても、白峯神宮の創祀と明治天皇を巡る井沢元彦氏氏の指摘する意図的なスケジュールの調整をみると、明治天皇あるいは明治政府には、孝明天皇の遺志を継いで崇徳上皇を祭祀したという以上の、白峯神宮へ崇徳上皇が鎮座することへの何か強いこだわりがあったように思える。いくら孝明天皇の遺志に従って崇徳上皇の霊を京都に迎えるとはいえ、即位式の日程を合せることまでやるだろうかという疑問も生じる。孝明天皇にとっても崇徳上皇の怨霊を京都で祭祀することはそれほど重要な意味を持っていたとも思えないし、公家の中でも、岩倉具視のような人間が怨霊に怯えていたとは考えずらい。
 崇徳上皇は「皇を取って民となし、民を皇となさん」という呪詛の言葉を残して死んでいったという。明治天皇すり替え説があるが、もしそれが本当だとすれば、南朝の後裔とは称しているが、実際には民としかいいようのない人物が、睦仁親王とすり代わって明治天皇となったということになる。それは、「民を皇となさん」という崇徳上皇の呪詛の成就であり、崇徳上皇の呪詛のおかげで天皇になれたということでもある。もしそうなら、白峯神宮の創祀は崇徳上皇の怨霊への恐れよりは、崇徳上皇の怨霊へのお礼という意味合いだったことになる。さらにいえば、勅使大納言源通富に読み上げさせた宣命では、先帝である孝明天皇の遺志を継いで、崇徳院の霊を慰めようと清らかな新宮を建立したということの他に、この頃官軍に刃向かう陸奥出羽の賊徒をすみやかに鎮定し、天下が安穏になるよう助けてもらいたい、といったことが書かれており、さらなるおねだりも忘れなかったということになる。
 もし本当の明治天皇が殺されていたとしたら、その遺体はどう処理されたのであろうか。そこらへんの路上に投げ捨てられたという可能性もあるが、おそらくそれなりに埋葬されたであろう。その場合、孝明天皇陵に密かに埋葬されたということはないだろうか。もしそうなら、孝明天皇陵の南北線上に正確にあるのが明治天皇陵ではなく昭憲皇太后陵であることも、意味をもっていることになる.............

 空海が愛宕山や出雲大神宮・籠神社を重視したということは、クナトノ大神を意識していたということになるのかもしれない。そのうちでも、出雲大神宮と関係が深いということは、あるいは出雲大神宮が阿波一宮の大麻比古神社と方位線をつくっているということも影響しているのかもしれない。大麻比古神社は阿波に属するといっても、讃岐にすぐ接する場所にあり、空海の出身地とされる讃岐一帯の信仰も集めていたと考えられるのである。空海は佐伯氏といわれるが、天狗山と東北60度線をつくる宮島の厳島神社は安芸の佐伯氏が勧請したといわれ、同じく天狗山の西北45度線上にある大麻比古神社も讃岐の佐伯氏と関わりが深かった可能性もあるわけである。高野山は大麻比古神社の神体山の大麻山の東西線方向に位置している。ただ、東西線をつくるかどうかは微妙である。空海の意識の中に大麻比古神社もあったとすれば、出雲大神宮の南北線と大麻山の東西線は、もう少し南の笠松峠辺りで交わるが、その近くの山頂に奥の院にあたるような重要な堂宇が建てられてもよさそうである。もっとも、探知型で考えれば、大麻山の東西線上に空海は高野山を開いたといってもいいのかもしれない。大麻山・大麻比古神社は出雲の熊野大社の神体山の天狗山とも西北45度線をつくっていたが、天狗山の西北30度線が高野山近くを通る。それは、大麻山と高野山との東西線よりもっと微妙であろう。5.5kmも離れているということは、さすがに数字的には方位線をつくっているというのは無理なのかもしれない。笠松峠よりさらに南を通るということになるが、笠松峠辺りに重要な堂宇があれば、その堂宇と方位線をつくるとみなせたかもしれない。笠松峠辺りを重視していないということは、空海がクナトノ大神を意識したとしても、それは出雲まで射程に入れていたということでもないようである。もっとも、日本一の霊能者といわれる空海のことであるから、探知型で考えれば5、6㎞の距離は問題ではなかったということもありえるかもしれないが、とりあえずは、空海がクナトノ大神を意識したとしても、それは平安京周辺のクナトノ大神であり、精々大麻比古神社辺りまでとするべきかもしれない。

大麻山―高野山金堂(N2.973km、1.73度)の東西線
天狗山―高野山金堂(E5.500km、1.21度)の西北30度線

 乙訓寺は空海の関係する寺では、出雲大神宮と方位線をつくらない。その方位線上には山住神社・笑原神社の他に八王子山があり、乙訓寺は長岡京大極殿より正確に八王子山の東北45度線上に位置する。

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