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清朝宝物の運命

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2013年 3月21日(木)11時44分52秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://2006530.blog69.fc2.com/category10-2.html

世界近現代史における満洲(現在は中華人民共和国の東北地区)の意義について本稿が述べた先月号に、奇しくも山浦嘉久(『月刊日本』論説委員)も之に触れている。三月二十六日の韓国海軍哨戒艇「天安」の沈没事件に関して国際軍民合同調査団が発表した「百三十トン級の小型潜水艇から発射された大型魚雷による」との見解に対し、「北朝鮮がその種潜水艇を保有しているとしても、かかる大型魚雷を発射するのは不可能で、人間魚雷か某国の最新技術を使うしかない」との某軍事筋の指摘を挙げつつ、真相不明のこの事件により、アメリカの国際戦略が一歩進んだと説いた(『満州のイスラエル-誰が「天安」を沈めたか-』)。

 確かに、国際軍民合同調査団が事件の元凶と看倣した北朝鮮では、事件直後の五月に金正日総書記が倉皇として訪中し最新鋭戦闘機の供与など軍事援助を要請したが、拒否された。また、北朝鮮が韓国に向けて頻りに事件の合同調査を呼び掛けているのも、不意討ちをした側としては極めて不目然な対応というしかない。因みに、第三国のロシアも真相不明との立場で、韓国との合同調査を望んでいることも、事件の複雑さを暗示している。

 ところが、真相不明の本事件により自国の安全保障の切実さを眼前に見せ付けられた日本では日米軍事同盟上の懸案たる普天間問題が一瞬で吹き飛び、従来標榜してきた下級メーソン的夢想が破綻した鳩山首相は辞任を余儀なくされた。逆に韓国では、北朝鮮の関与を疑問視する声が高まって対北強硬路線の李明博政権が統一地方選で敗北し、米朝野合に対する現政権の障碍性が大幅に減じることとなった。米朝野合の目的は、謂うまでもなく中華帝国の封じ込めにあるが、その先に「新満洲国」の建設という遠大な計画があり、中東問題の根本的解決としてイスラエル共和国の満洲移設を果たすための橋頭堡が北朝鮮だと、山浦は説くのである。

 日本陸軍の「河豚(ふぐ)計画」は、欧州のユダヤ難民を満洲に迎え、以てソヴィエト・ロシアに備えることを目的としたが、結局実行に至らず、欧州のユダヤ難民は、バルフォア宣言によりパレスチナの地を与えられて現在のイスラエル共和国を建てた。そこが原住アラブ族の居住地だったために生じたパレスチナ問題は、時間の経過とともに悪化するばかりである。翻って「河豚計画」を診れば、当時の北満黒龍江省の地は元来満洲族の土地で原住人口が少なく、漢族の移住者も未だ希薄であった。

管理人注:河豚計画

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%99%B8%E8%BB%8D%E3%81%AE%E3%80%8C%E6%B2%B3%E8%B1%9A%EF%BC%88%E3%81%B5%E3%81%90%EF%BC%89%E8%A8%88%E7%94%BB%E3%80%8D&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=


日本通として知られるアメリカラビマーヴィン・トケイヤーが同計画に関する研究書を執筆した際に、この喩えを借りて『河豚計画(The Fugu Plan)』と題したことから、「河豚計画」と通称する。ただし同書によれば、この語は当時も非公式に使われていたという。(Wiki)

幻に終わった河豚計画

http://aizax.fc2-rentalserver.com/repo5/051219.html


 満洲政権が当地に漢族を移住させたのは、やはり帝政ロシアに備える住民の壁を意図したものだから、当地に新イスラエルを建てる計画は、パレスチナヘの強制的移住に比べて格段の合理性があった。要するに「河豚計画」とは、満族政権に替わった日本が、漢族に加えてユダヤ族をも誘致しようとした案である。今日の論者は「河豚計画」を日本陸軍の立場からのみ論ずるが、根底にグレイト・ゲーム即ち地政学的発想があるのは当然のことで、しかも一神教内の対立を絡めた発想者は、どうみても海洋勢力の本宗たる在英ワンワールド以外には有り得ない。

 在英ワンワールドの傘下で世界政略の一翼を担った明治日本は、東アジアにおける対露防衛を担当し、日清・日露両戦役で見事その重責を果たした迄は良かったが、その後は海洋勢力内での軋轢が生じ、米英両国と対立することとなった。折から重工業化に向けて進み出した日本資本主義は、地下資源が豊富な満洲を自家薬籠化することを熱望する一方、農業社会からの脱皮の過程で発生する過剰人口を送りこむ植民地の必要を感じていた。由来、交易と投資を以て植民地を商業主義的に間接統治する海洋勢力の本筋に対し、大量の殖民により原住民を同化・消滅せしめ、その土地を奪って直接支配するのが大陸勢力の伝統的戦略で、その本宗がロシアと黄河流域の農牧勢力である。日本が満鉄によって南満洲を間接統治したのは、海洋勢力の本家イギリスのインド支配に範を採ったもので、児玉源太郎の命により其の青写真を描いたのが上田恭輔であった。

 台湾政策においても、総督制による植民地制を採りながら現地民の甘薯栽培を保護したのは、そもそも台湾政策の根本を建てた高島鞆之助と樺山資紀が、在英ワンワールドの伝令使・杉山茂丸を通じて海洋勢力的統治策の根本を理解していたからであるが、その知識と知恵が朝鮮半島経営には生かされなかった。原因は幾つかあるが、一つは朝鮮総督府を独占した長州陸軍閥の総帥たる山県有朋が、親露的かつ親大陸勢力的性格が濃かったことであろう。之が陸軍の悪しき伝統となり、満洲事変後の満洲政策を左右して、石原莞爾が折角建てた海洋勢力的構想を変改・破壊してしまったのである。

 時制を辛亥革命に戻す。時の陸軍参謀総長・奥保鞏大将(小倉)が、長州人事により翌年一月に長州の長谷川好道大将に交替した。参謀次長・福島安正中将は信州人だが長州閥に近く、部下で欧米情報と支那情報を管轄する第二部長が肥前出身の宇都宮太郎少将であった。近来発表の『宇都宮太郎曰記』が明らかにしたのは、明治三十年大尉参謀の宇都宮が、来るべき曰露戦に備うべく高島鞆之助中将を参謀総長に就ける目的で、橋口勇馬大尉と「起高作戦」企て、陸士四年先輩(旧制三期)の上原勇作大佐に協力を仰いだ事である。下って明治四十四年八月、参本第二部長・宇都宮少将は、長州人ながら陸軍改革に熱心な陸士一年後輩の田中義一少将と組んで上原陸相の実現を図り、ほぼ成功を信じていたものの、寺内陸相が側近の石本新六を陸相に就けてしまう。ところが石本が急死、いよいよ上原に陸相の座が回ってきた四十五年四月、宇都宮は、同志で親友の上原が陸相に就き陸軍が長州支配を脱したと歓喜の声を挙げている。

 『宇都宮太郎曰記』の解題で桜井良樹(*『日記-2』の解題者)は、「宇都宮は、上原の政治的参謀の位置にあった」とするが、それ以上立ち入らないのは学校史学の限界であろう。宇都宮が上原の股肱として尽したことは、上原系事業のミノファーゲン製薬が、後に子息・宇都宮徳馬に与えられたことでも分るが、その宇都宮にして、高島鞆之助と上原勇作との間の極秘関係をどの程度まで知っていたのか、分らない。ともかく『宇都宮太郎曰記』の明治四十五年一月分は、前月号で述べた第一次満蒙独立運動を、当時の陸軍参謀本部が工作していたことを如実に示し、二月二曰には不曰蒙古へ派遣される旧友・守田利遠大佐が来宅し、宇都宮は任務の大体を告げたとある。参謀次長・福島安正の関東都督転任が四月二十五曰に決まり、二十二曰(*5月22日)にその赴任を新橋駅に見送った宇都宮に、福島は「西国寺首相から、蒙古の事は自分が一切処理するようにとの内訓を受けた」と伝えた。満洲の事は当然関東都督の管轄だが、蒙古のことは参謀本部が直接経営する方が良いと考えていた宇都宮も、政府の方針には従うと決めた。

六月八曰、宇都宮は上原陸相を訪れ、「満蒙における承認条件の最低限(支那分割私案の追加条項)及び満蒙探検隊につき」具申し、同時に満蒙探検に派遣する曰野強中佐に任務の概要を与えた。これより前の五月二十一曰、参謀本部は歩兵中佐・曰野強を、蒙古人の宗社党領袖・升允の許に密派することを確定し、その後宇都宮は曰野に何回も会い、重要な訓示を秘密裏に与えたことが分る。

 九月二十一曰(*二十日)、倉知外務次官を訪れた宇都宮は、満蒙事業につき交渉し、対支那処置に及んだ後、関東都督府事務所を訪れ満蒙処分案につき意見を述べた。内容は、既に上原陸相に提出したもので、満蒙における我が地歩を進めることと、鄭家屯(タイシャポー)事件の賠償と死傷損害に対する相当の処置の必要を述べた。同二十八曰、関東都督福島安正中将から第一次満蒙独立運動中止の命令が突然下り、奉天特務機関長・高山大佐は同曰付で守田大佐に更迭された。中止の理由を福島は、外交上の必要から蒙古工作中止の閣議決定がなされたと説明したが、宇都宮曰記には何の記載もない。革命直後は粛親王を担いで満蒙独立を画策した参謀本部も、中華民国の分割を嫌う英国の意志が外務省から伝わってくると、粛親王の計画は時に利あらずとの見方が生じ、折しも張作霖が奉天の軍権を握ったのを奇貨とし、之を支援して裏面から操縦しようとの発想が芽生えて奉天派を成した。

 京都皇統の中心で皇室外交を実践していた堀川辰吉郎は、弱冠にして孫文の秘書となったが、一方では張作霖にも慇懃を通じ、子息・張学良と義兄弟の盟を交わした。孫文の漢族自立革命と、醇親王の張作霖利用による満洲保全策は、どちらも満漢分離を前提としたもので、本来少しも矛盾しない。そこで醇親王は、極秘扱いの「乾隆秘宝」の存在を辰吉郎に明かし、両人は之を張作霖の軍費に充てることを決断した。時期は恐らく大正三~四年ころである。

 折から民国では北洋軍閥の総帥・袁世凱が権力を掌握し、帝政を復元して自ら皇帝に即こうとしたので宗社党と関東軍内の旅順派を剌激した。袁世凱は五年六月六日に急死するが、裏では孫文革命党を支援する辰吉郎の手が動いたと言われている。

 大正五年年末から六年初にかけて、張作霖が奉天北陵の秘納庫を襲い「乾隆秘宝」を強奪したことが演出されたが、強奪でない証拠は、接収が七回に分けて行われ、満鉄調査役兼総裁特別秘書・上田恭輔がその都度立ち会っていることである。上田は接収の都度、満鉄製図技師の三井良太郎に四百五十点もの古陶磁の克明な絵を描かせたが、強奪ならばそんな悠長なことをする筈がない。絵を描く時間が必要で、接収に七日も掛けたのである。

大正三年以来大連に住んでいた大谷光瑞師が、手下の上田恭輔に立会を命じたわけで、目的は「乾隆秘宝」の中でも価値の高い古陶磁のカタログ作成と、「乾隆秘宝」の預け先となった張作霖の監視であろう。大谷光瑞師は西本願寺の実質法主ながら、京都皇統の辰吉郎を補佐する立場として、この工作を企画したのである。張作霖が強奪した形の「乾隆秘宝」の中の「奉天古陶磁」を、上田恭輔が寄生先の満鉄を利用して倣造を始めたのは接収直後の大正六年で、九年春になり関東軍参謀長・浜面又助が倣造陶磁を関東軍の戦略として利用することを立案した。六年に粛親王と宗社党を担いで第二次満蒙独立事件を企てた関東軍旅順派は、粛親王に対して戦費補償の責任を負い、その履行に腐心した浜面が、たまたま満鉄の倣造工作を知り、それなら宗社党にも幾分か権利があると考えて、倣造工作の分け前に与ることを陸軍中央に具申した。

 参謀総長・上原勇作も表向きは賛成したらしく、九年春に陸軍中央で正式に認可されたが、奉天派の上原参謀総長は、奉天特務機関を新設して腹心の貴志彌次郎少将を機関長に補し、張作霖との懇親と「奉天古陶磁」の換金による張作霖の軍資金作りを命じた。その際、個人付特務の吉薗周蔵に、浜面案の妨害を秘かに命じたのは、浜面の真の狙いが倣造品よりも「奉天古陶磁」そのものにあると察したからと考えられ、元々は光瑞師の示唆ないし要請と思われる。

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