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桓武(かんむ)天皇の母親は?

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2013年 4月 4日(木)10時59分7秒
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  関連記事.......

Behind the Myth

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/225.html


日本書記など理解された上級者はこの小林恵子(やすこ)さ んの本はいいと思います。1978年の論文「天武天皇の年齢と出自について」(東アジアの古代文化16号)をまとめた内容で.......泉湧寺が天武系 の天皇を祀っていないことが明るみに出ている。なぜ天武系は皇統から排除されるのか。それは天武と天智が本当は兄弟ではないというだけではなく,百済王の系譜を引く天智に対して,天武は森羅系渡来人だったから,という。「日本の正体」99~に詳しく出ている。

日本の正体

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=


の二つがよくまとまっています。

http://yokodo999.blog104.fc2.com/blog-entry-796.html

http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2185.html


なぜ天皇家は伊勢神宮を避けるのか

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/414.html

外国から来た天皇家

http://www.google.co.jp/search?source=ig&rlz=1G1GGLQ_JAJP345&q=%E5%A4%96%E5%9B%BD%E3%81%8B%E3%82%89%E6%9D%A5%E3%81%9F%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%AE%B6&oq=&gs_l=


阿修羅のコメントが面白い

http://www.asyura2.com/12/senkyo129/msg/821.html


桓武天皇=日本根子皇統弥照尊(やまとねこみすまるいよよてらすのみこと)(第五十代)桓武天皇(続日本紀による)

母権的天皇文化と父権的天皇制

http://d.hatena.ne.jp/antares/20110124

上記管理人が書いた『父と子と聖霊のキリスト教三位一体と無双陰陽(PSコスミクス)原理』

http://d.hatena.ne.jp/antares/20130326

無双陰陽理論とは何か?管理人は全くわかりません(笑)

http://d.hatena.ne.jp/antares/20130405

無双陰陽原理の説明

http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1922.html

『近代の狂気は、陽=頭=自己を中心としたことに拠る。デカルトの「コギト・エルゴ・スム:我思う故に我在り」はこの原理原則である。
 D.H.ロレンスがそれを逆にすべきであると述べていた。即ち、「スム・エルゴ・コギト:我在り故に我思う」であるが、正に、天才的洞察である。結局、陽の光とは、陰の闇から生まれるのである。陰陽論が陰から始めるのは、正しいと言える。』

本論はここから....

http://www.asyura2.com/0510/senkyo16/msg/1242.html

「桓武(かんむ)天皇の母親は百済(くだら)王の子孫(しそん)」だからですかね?
http://www.asyura2.com/0510/senkyo16/msg/1242.html
投稿者 Sun Shine 日時 2005 年 11 月 22 日 18:32:12: edtzBi/ieTlqA

(回答先: 日本の右翼は、朝鮮半島人 投稿者 ブッシュ親子の自作自演テロの11 日時 2005 年 11 月 21 日 21:06:23)

桓武天皇で検索すると6件出てきます

http://angel.ap.teacup.com/applet/gamenotatsujin/msgsearch?0str=%82%A0&skey=%8A%BA%95%90%93V%8Dc&x=0&y=0&inside=1


日本の天皇家は、朝鮮半島からの渡来人であるということは「日本民族学会」や「日本歴史学会」では定説となっている、ということを「日本民族学会」の会員から聞いたことがあります。言われてみれば納得がいきます。なぜなら、昔、日本に文化をもたらしたのは、中国人や朝鮮半島人だったのですから。

だから、日本の右翼は天皇に対する思い入れが強いのでしょうかね?

http://www.blu.m-net.ne.jp/~tashima/c5.html(削除)

桓武(かんむ)天皇の母親は百済(くだら)王の子孫(しそん)

 2001(平成13)年12月23日、天皇陛下(てんのう へいか)が68歳の誕生日に先立つ記者会見の席で、「桓武天皇(かんむ)の生母(お母さん)は百済(くだら)の武寧王(ぶねい)の子孫(しそん)であると『続日本紀』(しょくにほんぎ)に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と述べられたことがありました。


武寧王(ぶねい)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AF%A7%E7%8E%8B


武寧王陵(ムリョンワンヌン)

http://bell.jp/pancho/travel/korea-2/buneio_ryo.htm

寧王が我が国とも通交していたことを証明する資料が、王陵の中にあった。王と王妃の木棺の材質を調査し たところ、世界的に1科1属1種だけの高野槇(コウヤマキ)であることが判明した。高野槇は非常に堅くて湿気に強く、若干の香りもある最高級の木材であ る。この木は降水量が600~1200mm程度と豊富な日本の南部高地地帯のみに自生する。近畿の古墳で確認されている木棺は、ほとんどが高野槇である。 武寧王陵の2つの木棺に日本特産の木材が使われている点を見ても、我が国と百済との交流が当時しきりに行われていた様子を伺い知ることができる。』

 古代の天皇家には朝鮮系の人たちもいたということですが、これは韓国人のあいだではすでに多くの人が知っていることでした。でも天皇陛下が、たくさんの日本人記者がいる前で述(の)べられたということで韓国では大きく報道(ほうどう)されました。

 古代日本における文明開化の主役は、朝鮮半島から渡ってきた人たち「渡来人」(とらいじん)でした。朝鮮半島からは多くの渡来人が日本に渡ってきましたが、そのとき新しい文化や技術も日本に持って来ました。例えば、酒つくり、仏像(ぶつぞう)つくりなど、半島から渡ってきた渡来人たちによってもたらされたものです。

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 桓武(かんむ)天皇は平安時代(794~1192年)最初の天皇で、在位期間は781~806年です。桓武天皇は人心の一掃(いっそう)のために784年、平城京(へいじょうきょう)から長岡京(ながおかきょう)に都(みやこ)を移しました。でも都づくりの責任者・藤原種継(ふじわらの たねつぐ)が暗殺(あんさつ)されたり、水害の危険も多いため長岡京を都とするのをあきらめました。

 平安京は、現在の奈良市の西方にあたります。長岡京は、現在の京都府長岡市付近です。(管理人注:平安とはシャロームのこと)

 794年、都を平安京(へんあんきょう)に移しました。平安京は、現在の京都市です。ここは1869年(明治2年)に明治天皇が東京に遷都(せんと 都を移す)まで、1000年以上ものあいだ日本の首都でした。

 桓武天皇は光仁(こうにん)天皇の第一皇子(おうじ)で、お母さんは高野新笠(たかのの にいがさ)という渡来人の子孫(しそん)です。高野新笠の父親は和乙継(やまとの おとつぐ)といい、百済(くだら)系の渡来人です。『続日本紀』(しょくにほんぎ)によれば、「和(やまと)氏は百済の武寧王(ぶねいおう ムニョンワン)から出た百済王族である」ことを明らかにしています。

 百済の武寧王は6世紀前半の百済王で、在位期間は502~523年です。この時期に王族の人たちが日本に渡って来たとすれば、和(やまと)氏は200年以上も前に渡ってきた渡来人ということになります。


『続日本紀』(しょく にほんぎ)延暦8年12月28日条

「皇太后姓は和氏、諱は新笠、贈正一位乙継の女(むすめ)なり。母は贈正一位大枝朝臣真妹なり。后の先は百済武寧王の子純?太子より出ず---- 皇太后曰く、其れ百済の遠祖都慕王は河伯の女日精に感じて生めるところなり、皇太后は即ち其の後なり。」
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 古事記中巻の応神天皇の項(要約)

 この天皇の世に、新羅人が渡ってきました。----池では百済の池(奈良県北葛城郡広陵町百済の地)を作りました。---- 百済の国王、肖古王(百済第6代の近肖古王)が雄馬1頭、雌馬1頭を阿知(阿直岐あちき)に託して、天皇に貢上しました。また、太刀(たち)や大きな鏡なども貢上しまし
た。

 天皇が、「もし賢人がいたら貢上するように」と百済の国に要望があり、その言葉に従って貢上した人の名は、王仁(わに)という人で、この人は論語10巻、千字文1巻、あわせて11巻の書物を貢上しました。

 また、工芸の専門家で韓鍛(からかぬち)の技術を持つ卓素(たくそ)という名の人、機織りの技術を持つ西素(さいそ)という名の人の貢上もありました。

 それから、泰(はた)の造(みやつこ)の祖先にあたる人、漢(あや)の直(あたへ)の祖先にあたる人、酒を醸造する技術を持つ須須許理(すすこり)という名の人なども渡って来ました。

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 このような記述(きじゅつ)からわかるように、日本に論語(ろんご)や漢字文化を伝えたのは、朝鮮系渡来人であったことがわかります。また多くの先進技術が、朝鮮半島から人とともにもたらされたということもわかると思います。もちろん古事記には記載(きさい)されていませんが、稲作(いなさく)の技術も朝鮮半島からもたらされたというのが、最近の定説(ていせつ)になりつつあるようです。

 酒造りを日本に最初に伝えた人は、朝鮮からの渡来人で須須許理(すすこり)という人です。これも古事記の中に記述されています。

 この酒という漢字は「さけ」と読みますが、さけという読みは朝鮮語のようです。酒は麹(こうじ)を発酵(はっこうくさらす)させて造ります。朝鮮語では腐(くさ)らすを「sag サック」といいますが、これが「さけ」になったようです。

http://homepage2.nifty.com/nextgate/side_e_5.htm

桓武天皇 (かんむてんのう 50代 737~806 在位781~806)

 小学校の歴史で習う天皇はそう多くありません。桓武天皇はその数少ない中の一人ですので、ご存知の方も多いと思います。鳴くようぐいす平安京に遷都をした天皇、坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北地方を平定した天皇として有名です。平清盛に代表される桓武平氏の祖としても知られています。イメージとしては、積極的に政治に関わった天皇、日本には珍しい専制君主、というところでしょうか。私は、この天皇のキーワードとして、「帰化人」と「怨霊」の二つを挙げたいと思います。

 桓武天皇は諱(いみな)を「山部(やまのべ)」といいます。母は高野新笠(たかののにいかさ)、百済系帰化人の家系出身です。先だって今上天皇が記者会見の席上で、「皇族にも韓国の血が入っていて、親しみを感じる」と言って話題を呼びましたが、あれはこの高野新笠のことを指しています。山部皇子は帰化人の血のせいか体格がよく、「天姿嶷然(ぎょくぜん 堂々として背が高いこと)」と形容されました。

 父である光仁天皇(こうにんてんのう 49代 諱は白壁<しらかべ>)は、皇位からは遠い生まれでした。山部の生まれた当時は天武天皇の子孫が次々と天皇の位についた時代で、天智天皇の孫にあたる白壁王に皇位が回ってくる可能性はほとんどありませんでした。山部は官僚として、大学頭(文部科学大臣みたいなものか)などを歴任します。しかし、天武系の女帝、孝謙(称徳)天皇(二回即位しているので諡号が二つある)が後継者を定めないまま亡くなると、天武系皇族に天皇としてふさわしい人物がいなくなりました。道鏡事件があったあとで、もう女帝はこりごりだというムードもあったでしょう。そこで、藤原百川(ふじわらのももかわ)という貴族が白壁王を後押しして、即位にこぎつけたのです。しかしそれでもまだ山部は皇位から遠い存在でした。

 光仁天皇には天武系の妃がいました。聖武天皇の皇女である井上内親王(いのへないしんのう)です。前王朝との連続を示す存在であり、光仁天皇が即位するに当たっては、彼女の存在が大きかったのは疑いありません。よって、皇后には井上内親王が立ち、皇太子には井上内親王所生の皇子、他戸親王(おさべしんのう)が立てられました。しかし、この井上内親王、ある事件を起こして皇后の座から引き下ろされます。それは何と、光仁天皇を呪い殺そうとしたとの疑惑です。それと同時に他戸親王も皇太子の座を追われます。二人は配流、幽閉され、そこでほぼ同時期に亡くなります。これによって、ついに山部が皇太子に立てられたのです。井上内親王と他戸親王の悲劇は、山部を擁立しようとした藤原百川らの謀略だと現代では考えられています。また、当時既に37歳であった山部自身が関与していた可能性も少なくないと私は思います。他の多くの天皇と同様、桓武天皇も自らの手を汚して天皇の地位を手に入れたと言えるでしょう。井上内親王の死後すぐから天変地異が相次いだことを史書は伝えます。これは井上内親王の怨霊化を暗示します。

 山部は皇位につくにあたって、わざわざ辛酉(かのととり)の年を選びました。これは中国の辛酉(しんゆう)革命説(=天命を受けた者が辛酉の年に立つという説)にちなんだものです。即位した当時から強いリーダーシップを発揮した天皇は、文官の菅野真道、武官の百済王俊哲などの帰化人系氏族を積極的に登用しました。前述の坂上田村麻呂も帰化人系氏族出身です。彼は先帝の時代に失った多賀城を奪回したばかりか、東北地方全体をほぼ平定し、先住民の英雄アテルイを捕らえて殺害するという功績を上げました。天皇はのちに天神を祭る儀式を在位中に2度も行い、また、「続日本紀」(しょくにほんぎ)40巻の編纂を成し遂げます。これらはすべて中国の皇帝を意識した政策であり、帰化人の影響を強く受けたものだと言えるでしょう。

 さらに、新都「長岡京」を造営しました。強大になりすぎた旧来の仏教勢力や天武系の勢力と決別して、新しい国づくりを宣言するために、母の生家である帰化人系氏族の根拠地に都を作ったのです。天皇は造営を急ぎ、即位から3年後の甲子(きのえね)の年(784年)に遷都を強行しました。これも中国の甲子革命説(=辛酉の年に立った人に天命が下るのが甲子の年だという説)に従ったものでした。また、井上内親王謀殺後に相次いだ天変地異を避ける意味合いもあったかもしれません。しかし、この遷都がまた次の悲劇を引き起こします。

 ところで、桓武天皇の皇太子には、実弟の早良親王(さわらしんのう)が立ちました。桓武天皇の皇子がまだ幼かったこと、早良親王は仏教勢力と縁が深かったので、調整役として期待されたことがその理由として挙げられます。さて、長岡京の造営を指揮していたのは、天皇最大の腹心であった(百川はもう死んでいる)藤原種継という貴族なのですが、彼は遷都から2年後に長岡京で暗殺されました。その犯人として、既に故人であったあの大伴家持をはじめ、大勢の反対グループが処断されました。しかし、驚いたことにその総元締めは皇太子である早良親王だったというのです。桓武天皇に反対する勢力に担がれ、天皇の位を奪おうとたくらんだとされ、早良親王は幽閉されました。そして、親王は無実を主張し、自ら食を絶ち、ついに亡くなってしまいました。これも天皇の周囲にいる重臣の陰謀だという説が有力です。自分の息子に皇位を継がせたく思い、仏教勢力が邪魔になった天皇の意思も加わってのことだと私は思います。

 皮肉なことに、早良親王は死後に影響力を強めたと言えるかもしれません。代わりに皇太子に立ったのは桓武天皇の皇子である安殿親王(あてしんのう のちの51代平城天皇)ですが、彼は非常に病弱でした。占い師にその原因を占わせてみると、「早良親王が怨霊になって皇太子を苦しめている」というのです。確かに早良親王は怨霊になった、と思われる根拠はありました。その死の直後から、天皇の側室(まだ30歳だった)、母の高野新笠、31歳だった皇后が相次いで亡くなり、次いで、痘瘡が大流行したのです。さらに、長岡京では洪水や放火などが続発し、それがすべて早良親王の怨霊のせいだとされました。人心は不安定になり、天皇自身も怨霊におびえたようで、ついに長岡京は廃されることになりました。怨霊の都、不吉な都として、わずか10年でうち捨てられたのです。

 次に都として建設されたのが平安京です。これまた帰化人系氏族の根拠地に近く、また中国の道教でいう「四神相応の地(北に山、南にくぼ地、東に流水、西に大道がある地は神が宿り、栄えるということ)」であるのはけっして偶然ではないでしょう。天皇の意気込みを感じさせます。しかし、怨霊は天皇を解放しませんでした。宮中の怪異は続き、800年には富士山が大爆発をしました。現代の我々からしてみればただの天災ですが、当時は天皇の不徳や怨霊が天災の原因だと真剣に考えられていました。天皇は同年、井上内親王に皇后号を贈り、早良親王に「崇道天皇」という天皇号を贈りました。生前即位しなかった者に位を贈るのを「追尊」と言いますが、追尊することでなんとか怨霊の怒りを鎮めようとしたのです。

 にもかかわらず、どうも怨霊の勢いは止まらなかったようで、その後も種継暗殺事件や井上内親王事件に連座した者を釈放したり復位させたりすることが続きます。井上内親王の父、聖武天皇の御陵に鎮めの使者を送ったりもしています。最晩年の天皇は、ついに二大事業である東北討伐と平安京の造営そのものをやめてしまう命令を出します。かつて恐れを知らなかった専制君主の面影は、晩年の彼からはうかがい知ることができません。

 しかし、天皇個人の感慨とは別に、彼が打った布石はその後確実に生きてきます。平安京は千年の都となり、東北を得たことで国力は増大し、国史編纂事業は次代への架け橋となりました。特に、天皇の晩年に遣唐使として唐に渡った空海と最澄は、おそらく天皇の期待通りに、奈良の仏教に代わる新しい国家仏教を開きました。桓武天皇は怨霊に追い回されるような生涯を送りましたが、中国的な専制君主としての功績は歴代天皇中1、2を争うものです。そして、後世にはその功績が称えられたのです。

女系相続を認めると..........

http://homepage2.nifty.com/nextgate/side_e.htm

まず、方針を決定しているのは皇室典範です。現在の皇室典範は、法律と同じ手続きで改正できるので、改正はそう難しくはありません。次に、どんな方法があるのかを考えてみます。

1 側室制度を認める。
2 養子を認める。
3 旧宮家を復活させ、継承者を増やす。
4 女帝を認める。

 1は、象徴天皇制下では認められないでしょう。天皇は国民の象徴ですから、その家庭も日本の家庭の象徴でなくてはならず、「円満なご家庭」(を演出するの)が現在の路線で、これは多数の国民に受け入れられています。そこに側室制度を復活させるのは一種の自殺行為です。

 2は、どこから養子を取るかという問題が生じます。縁もゆかりもない家からとることは考えづらいので、実質上3と異ならないでしょう。

 3の旧宮家復活について。現在の「男系の男子」という原則を貫くのならば、これがもっともありうる解決策だと思われます。皇族から一旦外れてから復帰して天皇の位についたのは宇多天皇(59代)だけで前例が少なく、また復活させる旧宮家の範囲が難しいという点もありますが、前者にはこだわる必要がなく、後者も対応できる範囲だと思われます。

 しかし、それ以外にも問題がないわけではありません。まず、敗戦に伴って消滅した宮家はすべて「伏見宮(ふしみのみや)」系の宮家です。伏見宮家は室町時代の崇光天皇(すこうてんのう 北朝3代)に遡ります。よって、例えば皇太子の跡を仮に旧久邇宮である久邇家の某氏が継承するとすると、皇太子からは実に38親等という非常に遠い親戚関係です(もっとも久邇家は昭和天皇の皇后、香淳皇后の実家なので母系では7親等)。これで果たして世襲といえるのかどうか。次に、仮に旧宮家の一部を復帰させたとしても、側室制度もなく晩婚傾向も変わる保証がなく、男子不足は解消されるとは限らないので、根本的な解決にならないという点です。さらに、皇族でなくなってから60年が経とうという今、果たして「なり手」があるのか、という問題もあります。

 4の女帝について。女帝を認めること自体に異論がある人はあまりいないのではないかと思います。最近の世論調査でも7割以上の人が女帝を認めるとしています。女帝を認めなくなったのは明治時代のことで、それまでには10代8人の女帝が存在しました。ただし、今までの女帝は、全員が皇族なのはもちろんのこと、元皇后や有力皇族の未亡人か独身の皇族に限られていました。以下に検証します。

33代    推古天皇    敏達天皇の元皇后
35・37代 皇極・斉明天皇 舒明天皇の元皇后
41代    持統天皇    天武天皇の元皇后
43代    元明天皇    草壁皇子の未亡人(文武天皇への中継ぎ)
44代    元正天皇    独身 草壁皇子の子(聖武天皇への中継ぎ)
46・48代 孝謙・称徳天皇 独身 聖武天皇の子(天武=持統系最後の一人にして外戚が藤原氏)
109代   明正天皇    独身 後水尾天皇の子(外戚が徳川(源)氏)
117代   後桜町天皇   独身 桜町天皇の子(後桃園天皇への中継ぎ)

 なぜこうなるのか。女帝が独身であった理由は、まず、女帝の配偶者が強大な権力を持つのを防ぐためです(道鏡事件が起きていますが)。そして、天皇の位を「男系が継ぐ」という原則のためです。女帝が皇族でない男性と結婚して子供を産んで、その子を天皇の位につかせたら、皇族ではない男親を持つ天皇が誕生することになります。すなわち、女系の天皇が誕生することになり、これを未然に防ぐためです。

 男系が継ぐという原則を守るかぎり、女帝の子は天皇になれないということになる。つまり、女帝を認めても、男系にこだわる限り、皇族男子がいなくなった後の天皇家はあと一代、または皇族女子がいなくなるまでしか続かないということになります。ですから、天皇家を続けるために女帝を認めるかどうかという議論の実は、女系相続を認めるかということにあるのです。

 女系相続を認める、つまり男系相続の原則を破棄するとなると、これは天皇家始まって以来の大きな方針転換です。「万世一系」の危機を感じる人も多いことでしょう。以前宮内庁の長官がその旨の発言をして物議をかもしたこともあります。どう考えればいいのでしょうか。

 先に現実的な問題を考えてみましょう。まず、憲法上の天皇の職務で、女帝や女系相続で問題となるものはありません。次に、女帝の配偶者が強大な権力を持つかというと、現代においてはまずそんなことはないでしょう。最大の問題の一つは、女帝の配偶者の法的な地位の問題です。それは、「皇配」とでもなんとでも称して、宮号を与えれば問題ないでしょう。イギリスの現女王、エリザベス2世の夫君は「エディンバラ公」という称号を与えられています。法整備をして周知徹底すれば、なじむと思われます。

 やはり問題は実務よりも理念にあると思われます。千年以上続いてきた伝統を我々の手で変えてしまっていいのかどうか。

 先ほども述べましたが、継承の規則が定められたのは明治時代です。古代からの慣習を踏まえて様々な草案が出されました。その中には「男系が絶えたら女系が継承する」(旧宮内省制度取調局)としたものもあったのです。しかし、井上毅という人が中心になって、「男系の男子」に限定したようです。井上は、「古来の女帝は中継ぎに過ぎず、例外的存在であったこと」「フランスやドイツでは女王が認められていないこと」「女帝は独身でなければならないが、それは『天理人情』に反すること」などを理由に、女帝を認めないことにしました。この原則を、敗戦後も憲法改正後もなんとなくそのまま使っているのが現在の制度なのです。

 そして、太平洋戦争を境に日本社会は大きく変わりました。戦後の民法改正は日本社会にとって史上最大の改革の一つでした。「家」制度を否定した諸規定は徐々に浸透して、両性の平等や婚姻の自由は日本社会の共通認識となりつつあります。男系相続へのこだわりもずいぶん薄れてきたと言っていいでしょう。日本社会が変わった以上、その象徴である皇室が変容するのは理の当然ではないでしょうか。

 私が考えるに、やはり女系相続を認める方が現実的で国民の支持を得やすいでしょう。すべて丸く収まるという解決ではありませんが、女系相続を認めた方が、皇室の継続にも資すると思われます。実現すれば、規定にもよりますが、皇室は愛子内親王をはじめとして一度に9人の若い後継者を持つことになります。明るい話題だと言えましょう。

管理人注:話は簡単ではありません。天皇マネーのぶん取り合戦なのです。渡来人を愛子内親王の配偶者にするとかね。

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