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平城天皇と上皇

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2013年 5月 9日(木)12時09分6秒
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桓武天皇の母親は?

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1685

桓武天皇とは、日本の第50代の天皇。即位前の名は山部親王。

父は光仁天皇(第49代)、母は高野新笠。子に平城天皇(第51代)、嵯峨天皇(第52代)、淳和天皇(第53代)、そして平氏の祖先である高望王など。

参考記事~主基田・悠基田

http://www7a.biglobe.ne.jp/~technoqt/kotoawa.htm

日本の正体

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1689

http://dic.nicovideo.jp/a/%E5%B9%B3%E5%9F%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87

平城天皇(774~824、在位:806~809)とは、日本の第51代天皇である。諱は安殿。

在位3年、四半世紀の治世を展開した父・桓武天皇と平安時代に繁栄をもたらした弟・嵯峨天皇の間に挟まれた、いわば影に隠れた天皇であり、しかも藤原薬子を中心とする政変により憂き目を見て余生を過ごす事となってしまった今日あまり良いイメージの無い天皇である。
誕生~即位

774年8月、当時皇太子であった父・桓武天皇と母・藤原乙牟漏の間に長男として生まれた。
この当時、出自というものは重視され父の桓武自身も母(高野新笠)の身分が高いとは言えず劣等感を抱いていたという。その事も含めてか母は後に皇后として冊立され平城天皇は皇后からの生まれとなり母系の出自は桓武天皇や祖父の光仁天皇以上によかったといえる。

781年に桓武天皇は父・光仁天皇から譲位を受けて正式に即位し1ヵ月後には弟の早良親王を皇太子に命じる。
そしてこの年の12月に光仁天皇は70年の人生を全うして崩御した。

帝の桓武天皇、そして皇太子の早良親王と天皇と皇太子が決定し何事もなく進むと思いきや、藤原種継事件が起こりその関係者として早良親王の廃太子・流罪を桓武天皇が申し付ける事となる。親王は無実を訴えるべく絶食をしたがやがて憤死した。

このような事件が起きた一因に桓武天皇の長男である平城天皇の存在が大きく関わっていた。
平城天皇は当時幼少且つ病弱で早良親王は不幸にもいざという時のための予備的扱いだったといえる。平城天皇が父と共に幾度か国政に関わり政治的立場を確立していくと次第に早良親王の立場は薄れていき、その危機感が周囲を刺激して事件に至ったという。

いずれにせよこの不遇の事件は早良親王の憤死に繋がり天変地異や周囲の人物の度重なる死など、祟りと思われるような出来事に桓武天皇は度々悩んだらしい。

事件が落ち着いた後日、平城天皇は立太子されいよいよ皇太子に任ぜられる。この間、皇太子に仕える人物も決められ中には「皇太子の師」と仰がれるような人物もいた。「平安京造営と蝦夷征伐は国家の事業として大事だ!」VS「平安京造営と蝦夷征伐は金が掛かり負担が増すだけだ!」の徳政論争でお馴染み菅野真道である。平城天皇は彼から帝王学を学んだといわれる。

806年、桓武天皇が崩御し平城天皇は即位。この時に皇太子時代の平城天皇と不倫の仲となり桓武天皇の怒りを買い追放を受けていた藤原薬子が尚侍となって再び戻ってくる。この頃には弟ら(後の嵯峨天皇・純和天皇)はもちろん息子の阿保親王も誕生しており、その後の政変など露知らず国政に取り掛かるのであった。

ちなみに不倫にキレた桓武天皇は唯一妃ではない百済永継とも関係を持ち子供(良峰安世)も生ませている。
愛人を奪われた事、似ている状況があった事、平城天皇は「父上だって…(´・ω・`)」と拗ねたかもしれない。
治世

平城天皇の在位は僅か3年。父の桓武天皇の25年や弟の嵯峨天皇の15年に比べれば少ないのは一目瞭然である。
しかしその少ない在位期間でも積極的に政治を行っていた。

平城天皇のスタイルは地方行政を重んじる政治であった。巡察使、按察使、観察使などを地方に派遣し現地の実情を調べさせて地方の正常化を目指すというもの。これは祖父の光仁天皇に通ずる政策でもあった。

また本来地方で起こった問題は天皇が命令を下し解決に向かわせるが、それは天皇→太政官→それぞれの地方へという形で、命令は太政官が全て把握出来た。平城天皇はこれを天皇→観察使→それぞれの地方へという具合に観察使との連携を強めた。太政官符や詔勅に必要な印を捺す事も太政官から観察使に移ったとされ、太政官全体が把握する事態を合わせて数人の観察使らだけが実情を把握し行政が行われるようになる。

このように個別との関係を強力にして政治に臨むスタイルも平城天皇の特徴であった。

他にも数々の定員の増減や省の併合・釆女(地方豪族出身の女性)の貢献停止・氏女制度改変や兵衛府の改革・少納言増員などの大規模な官制改革を次々に行う。

平城天皇の治世は国司に厳しく農民に優しいという、国民第一の地方行政を展開した。また官僚機構を整理して簡素化を目指した官制改革を行った。桓武天皇の政策と違えどこれはこれでまた評価されるものでもあると思われるが貴族たちからは様々な不満を買ったようで跡を継ぐ嵯峨天皇の政策はこれらを否定するような方向性となる。
譲位

809年4月1日、平城天皇は突然譲位を宣言した。それを受けたのは弟の嵯峨天皇。突然の譲位に嵯峨天皇は驚いていたらしく何度か辞退したもののどうやらエイプリルフールでもなんでもない兄の本気の譲位と悟ったのか、兄の第三皇子であり甥でもある高岳親王を皇太子に立てて正式に天皇に。そして平城天皇は平城太上天皇(上皇)として君臨する事となる。

譲位の理由やそれに至るまでの経緯は様々あるが一説に心身の不良が原因ともいわれる。
政変

その後、平城上皇は平城京への遷都を決起した。-しかしこれが引き金となる―

この遷都に反感を覚えた嵯峨側が慌しくなりいよいよ平城上皇と嵯峨天皇は対立するに至った。上皇の深い愛情を受けていた薬子は二所朝廷の状態を利用し政権を分掌させようと図り、兄・仲成もそれに加担し平城上皇の復位を望んだとされる。このためこの政変は薬子の変と呼ばれるのだが最近では太上制度が王権分掌の原因とされたり、平城上皇の罪を藤原仲成・薬子兄妹にただなすりつけただけとして平城太上天皇の変と呼ばれる事が多くなってきた。

嵯峨天皇は遷都を拒否し伊勢・近江・美濃の三国の関を固め仲成は監禁・左遷を経て射殺され薬子は官位剥奪。平城上皇は怒って軍事行動に出たとされる。しかし嵯峨天皇側の軍事的防備を知った平城一行は勝てる見込みはないとやむなく平城京へ戻り剃髪。薬子は毒を仰いで自殺し政変は終結した。

この政変で平城上皇は政治的立場を絶たれ、第三皇子で嵯峨天皇の皇太子となっていた高岳親王は廃太子に至る。
上皇にしては悲しい末路であるがこの政変はいくつか疑問もあるという。

平安京→平城京への遷都に不満があったとされるがそもそも平安京を都に定めたのは平城上皇
貴族「即位式直後ですが新しい都を造営されてみては?」
平城「新しいのだとお金掛かるから旧宮の平安京にするよ」
一同「おお~、英断ですなぁ!」
これにより平安京が都となるが自分がそう定めたんだから遷都も自由だ!という見解。

平城太上天皇の変といわれるが平城上皇自身が意図して政変を引き起こしたものではなく、悪いのは上皇の政策云々に不満を覚えて勝手に事を進めた嵯峨側であるという見解。

上皇の軍事行動はあくまで脅しのためであり、復権を望もうと強硬手段に出たのではないという見解。

などなどの見方もされるようで、一概に薬子や平城上皇だけが悪いとは言えないかもしれない。

そもそも天皇と上皇は同じ権威を持っており、つまり天皇が二人いるような感じである。最高の権威を持つ人間が複数いれば対立が起きるのはほぼ必然であり、それは平安末期の院政や保元の乱などにも繋がってくる。
太上天皇制は自らもそこに就いた持統天皇の時代から存在したがそのほとんどは摂政のような立場であったりしたので特に目立った対立は起きていなかった。しかしここに至り平城上皇と嵯峨天皇が対立したため太上天皇制の見直しのきっかけにもなったとされる。

色々な見方があるとはいえ、嵯峨側の勝利となってしまったのは事実。平城上皇は平城京で残りの人生を過ごす事になるのであった。
変後

政変で敗北し政治の世界から身を引くことになった平城上皇だが、太上天皇の号は剥奪されていなかった。また高岳親王は四品に叙されてある程度の立場で落着し阿保親王は息子たちの臣籍降下を許可され在原朝臣を名乗る。その中の五男が在原業平であった。
平城上皇自身は東大寺の宝物をいくつか購入出来たりと称号を有していただけにそれなりの扱いは受けていたらしい。

権威はあったため平城京にも仕える貴族などは配置されていたようだ。しかし今更配置され続けても無駄だと思ったのか、823年の嵯峨天皇譲位をきっかけにそれを申し入れた。平城上皇と嵯峨上皇と、二人の太上天皇が存在する事となるのだが、間もなく平城上皇は自らの意思も含めて太上天皇の称号を辞める事となる。

824年7月、平城上皇は51年の生涯を終えて崩御した。諡号は「天推国高彦天皇」
その陵墓(楊梅陵)だが、なんと他人の墓の使い回しらしい。 平城上皇はそれをどう思ったか知る由もないがその屈辱に嘆いたか、「いいよもう…(´・ω・`)」と開き直ったか…
毛利元就との関係

戦国大名として有名な毛利元就だが実は「自分は平城天皇から数えて25代目だ!」と書き残しているという。
元就の先祖で名が知られるのは平安末期から鎌倉時代にかけて源氏の御家人として活躍した『大江広元』だがその「大江」は「おおえの」と読み、桓武天皇から賜った姓。一般的なのはこちらだが他の説に広元の先祖・音人は阿保親王の落胤という説が存在し、それに則って元就もそう名乗ったとされる。真偽は不明だが毛利家に繋がっている可能性も否めない。

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