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モーゼと出エジプトの歴史的背景

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2013年 9月28日(土)22時14分57秒
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  http://www.geocities.jp/kmt_yoko/Exodus.html

モーセと出エジプトの歴史的背景

西 村 洋 子

私は高校生の頃神戸国際開館の地下の映画館で、チャールトン・ヘストンとユル・ブリンナーの『十戒』を初めて見た。ファラオが徹底して悪者にされているにも関わらず、映画の中では最も詳細に古代エジプトが描写されているので、大好きな映画の一つである。

ところが、旧約聖書の中では、エジプトがしばしば触れられているにも関わらず、そんなに詳述されていないのである。そこで、旧約聖書の中でエジプトについて触れられている箇所を以下に列挙してみた。

創世記10章によると、古代エジプトにはノアの息子ハムの子孫が住むとされる。

創世記11章31節から12章によると、アブラム(後にアブラハムと改名)はカルデアのウルすなわちシュメールの都市ウルを出発し、中央シリアの都市ハランに住んだ後、カナーン地方に移動し、さらにネゲブ地方へ移動したところで飢饉に遭い、エジプトに下る。妻サライ(後にサラと改名)が美貌の故にファラオの宮廷に召し入れられるが、主が宮廷中に恐ろしい病気を流行らせたので、ファラオの命令で妻とともにエジプトを立ち去る。

※ 創世記23章1節によるとサライの生涯は127年、創世記25章7節によるとアブラハムの生涯は175年だった。創世記19章17節によるとサライはアブラハムより10歳年下である。創世記12章4節によると、アブラハムはハランを出発したとき75歳だったので、エジプトに滞在中サライは相当高齢だったはず。

創世記39~50章によると、エサウの弟のヤコブ(後にイスラエルと改名)とラケルの息子ヨセフがエジプトに売られ、ファラオの夢を解き、エジプトの高官となる。7年間の大豊作の後、7年間の大飢饉を迎え、食料を買いに来た兄たちと出会い、さらに後に父ヤコブと再会し、110歳までエジプトで生きて、埋葬される。

※ ヤコブは147歳まで生きた。そのうち130年は旅路の年月であったと語っている。

出エジプト記によると、イスラエルの子孫達がエジプト中にあふれ、ヨセフを知らない王によって、ピトムとラムセスの二つの都市の建設を命じられ、その他にも粘土こね、レンガ焼き、農作業などの重労働を課せられる。2章以降ヘブライ人モーセの物語となる。主とモーセの導きで壮年男子だけでも60万人のヘブライ人たちが、エジプトを脱出する。イスラエルの人々は出エジプトまで430年間エジプトに住んでいた。40年間荒野をさまよい、約束の地カナーンの地に到着する。現在出エジプト時のファラオはラムセス2世と言われている。

しかし、古代エジプト人の平均寿命は30歳、ミイラが残っている人々の平均寿命でさえ50歳と考えられているのに、それぞれの登場人物の寿命はみんな100歳以上で、不自然に長すぎる。また、イスラエルの人々がエジプトに定住していた期間も長すぎる。ヨセフの物語とモーセの物語は年代的に近いはずなので、イスラエルの人々のエジプトにおける定住期間は430年よりずっと短いはず。聖書の歴史的解釈には、賛否両論の議論が続けられてきた。

出エジプト後もパレスティナはエジプトの支配下にあり、初期のイスラエル人たちの発展においてエジプトが果たした役割は大きいはず。しかし、聖書以外でイスラエルの人々に言及した史料は第19王朝3代目のファラオ、メルエンプタハのリビア戦勝碑のみ。最後の10行程度に西アジアもエジプトの支配下にあることが宣言されているだけで、そこにはかつてエジプトに定住していたイスラエルの人々の祖先のことや出エジプトについて何も書かれていない。本当にイスラエルの人々が430年間もエジプトに定住していたら、メルエンプタハの戦勝碑以外にもエジプト側の記録があるはず。

実際には後のイスラエルの住民の大部分はイスラエルとその周辺地域で生まれた人々だったかもしれない。おそらく少数のシャス・ベドゥインと呼ばれる人々とアペルと呼ばれる人々を含んでおり、ラムセス時代まではエジプトで生活した経験があったと思われる。彼らは元々半定住・半遊牧の民で、時々ある国の傭兵になったり、山賊になったりした。そして彼らは全員アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフなどの半神話的人物の物語と記憶を共有する。イスラエルの本当の歴史は語られていない。そもそも、メルエンプタハの戦勝碑で言及されている人々が、社会民族的グループなのか、イスラエルと呼ばれる人々と何らかの関係がある地理的呼称なのかすらわからない。

イスラエルとエジプトとの地理的・歴史的・文化的・宗教的近さを物語る聖書の伝統は、エジプトの第三中間期における政治上の通信網に結びついている。イスラエル王国とユダ王国の創設(紀元前931年)は第三中間期と同時代である。ソロモン王に娘を嫁がせたファラオの名前は列王記上(3章1節他)と歴代志下(8章、11章)には書かれていないが、第21王朝6代目のファラオ、サアメン(978~959年頃)だったのではないかと言われている。年代については後述。恐らく聖書という文学作品の始まりは紀元前922年のユダ王国の分離の記憶を背景に持つだろう。 ちなみに、聖書で初めて言及されるファラオの名前は歴代志下12章のシシャクで、第22王朝のリビア人のファラオのシェションク1世(945~924年頃)と同定されている。このファラオによるユダ王国とイスラエル王国に対する戦争の勝利は、カルナック神殿第一中庭のブバスティスの門で記念されている。ここで初めて聖書の記述がエジプト側の史料と一致したのである。しかし、どうしてこの時までファラオの名前が聖書で言及されなかったのか、出エジプトのような重大な出来事でさえ当時のファラオの名前がしるされていないのかについては、まったく不思議としか言い様がない。

古代イスラエルの過去への回顧は族長のアブラハムとヤコブを実際の政治権力の保持者たちと対立する人物として詳述する。族長時代は架空の時代として現れ、主として南のユダ王国における政治的現状に取って代わるものを提供する。ソロモンとその後継者たちがファラオのような圧制者と見られるかもしれないので、出エジプト以前の出エジプト記を読み直すことが必要とされる。出エジプト以前の族長時代の物語の主流は、初期のイスラエル王国の政治権力の誇示に対する文学上の反動と理解されるべきである。

それでは一体モーセと出エジプトの記憶はどこから来たのか? モーセはエジプト人と西アジアの人々との仲立ちをする人物だったかもしれない。というのはラムセス時代には西アジア出身のエジプトの高官の存在が知られているからである。モーセはこのような人々をモデルに作りあげられた人物なのか? しかし、聖書の伝統では、モーセの主な役割は神ヤーウェとヘブライ人たちとの仲裁者であり、聖書以外の情報によって調べることは出来ない。そこでエジプト側の史料から明らかになった本当のエジプトはどうであったのかをエジプト人と西アジア人たちとの関係を通じてお話したい。

古代エジプトの歴史は次のように時代区分される。
初 期 王 朝 紀元前3050年頃~2700年頃
古 王 国 紀元前2700年頃~2190年頃
第一中間期 紀元前2190年頃~2040年頃
中 王 国 紀元前2040年頃~1665年頃
第二中間期 紀元前1665年頃~1570年頃
新 王 国 紀元前1570年頃~1080年頃
第三中間期 紀元前1080年頃~750年頃
末 期 王 朝 紀元前 750年頃~333年
プトレマイオス時代 紀元前333年~30年(女王クレオパトラの死)

出エジプト時のファラオとされているラムセス2世は新王国第19王朝の王で、1304年頃~1237年頃に在位した。エジプトを支配した最初の異民族ヒクソスの年代は第二中間期に相当する。ギーザの大ピラミッドの創建者クフ王は古王国第4王朝の王で、2500年頃に在位した。

エジプトのファラオたちの中で、しばしば伝説や物語に登場するファラオは古王国第4王朝のスネフェル王とクフ王、中王国第12王朝のセンウセレト1~3世、新王国第18王朝のトトメス3世、そして第19王朝のラムセス2世である。これらの王の業績や治世中の出来事がミックスされて、「ファラオ」というイメージが作り上げられている。旧約聖書の中でパロとしか記されていないファラオの場合、特定のファラオではなく、後世の人々の記憶によって作り上げられた「ファラオ」のイメージで語られていると思われる。聖書のような古代の文献を読むときには、史実と記憶とメッセージを分けて考えることが大切である。

エジプトは、西にリビア人たち、東の東部砂漠・シナイ半島・パレスティナにアジア人達、南のスーダンにヌビア人たちを隣人に持ち、彼らと交易を行う一方で、戦争捕虜としてエジプトに多数の外国人たちを連行した。アジア人たちとの接触は王朝統一以前から見られるが、アジア人たちのエジプト国内における存在が問題視されるようになったのは、第6王朝ペピ1世の治世以降(『ウニの自伝碑文』)である。王権が無力になった第一中間期には、エジプトに流入してきたアジア人たちは社会秩序を乱す混沌とみなされる。例えば、第一中間期の文学作品『イプウェルの訓戒』では、「異民族が至る所でエジプト人となっている。・・・国外から来た異民族たちがエジプトにとどまっている。」と記され、『ネフェルティの予言』には「この世は国中に満ちたアジア人たちを養うため悲惨である。人々は国境の要塞をおし破る。」と記され、『メリカラー王への教訓』には「上エジプトとの国境に紛争が生じるとき、略奪に乗りだすのは北の異民族なのだ。だから下エジプトに要塞を築け。」と記されている。

中王国には、エジプト国内のアジア人たちは、第12王朝センウセレト2世時代のクヌムヘテプ2世の墓壁画から知られるように、定期的にエジプトへやってきて交易をする者たち以外に、金属細工師・織物職工などの職人、建設労働者、辺境地の開墾者、傭兵、家内奴隷、通訳などとして、大いに利用された。このようなアジア人たちは戦争捕虜ばかりではなく、水と食料を求めてみずからエジプトに移住してきた者たちや人身売買によってエジプトに売られてきた者たちも多くいた。しかし壁画などの図像ではエジプトに住むアジア人たちはエジプト人のように描かれるので、見分けがつきにくい。古代エジプト語ではアジア人たちはアァムー()と呼ばれる。アッカド語ではアムッルと呼ばれる。彼らはユーフラテス川の西に位置する北東シリアの方向に伸びる山脈が出身地であり、東へ移住してマリ王国、バビロン第一王朝を建国する他、紀元前1900年頃にはシリア・パレスティナに移住して、カルケミシュ、アレッポ、アララフ、カトナ、ビブロス、ウガリット、シドン、ティルス、メギッド、ゲゼルなどの都市国家群を建設する。アブラハムがウルを出発したのは早くても1900年以降のことと考えられており、アムッル人たちの活躍時期と重なる。

第二中間期に再び王権が弱体化すると、西アジアからヒクソスと呼ばれる異民族が軍事的にデルタに侵入し、ついに王朝を創設する。彼らの記念碑は後のファラオたちによってほとんど破壊され、スカラベ型印章ぐらいしか残っていないが、残存している王像の破片からは彼らがエジプトの文化を踏襲したらしいということがわかっている。またエジプト側の記録(『アポピ王とセケネンラー王』、カーナーボン・タブレットとカーメス・ステラ)からは、彼らがエジプトを支配している間、エジプト人たちはデルタで家畜を放牧することができたことやエジプトの学術的なパピルス(例えば数学のリンド・パピルスなど)の写本が作られ続けたことなどが知られ、意外と穏やかな時代だったらしいことが推測されている。しかし、テーベ(現在のルクソール)に追いやられていたファラオたち、すなわちセケネンラー王の息子のカーメス王とアフメス王による解放戦争の結果、新王国が開始される。

新王国第18王朝6代目のファラオ、トトメス3世がシリアへ17回遠征し、エジプトの領土を北シリアのミタンニ王国と接触する地域にまで広げた結果、エジプトはアマルナ国際社会の仲間入りをし、バビロニア、アッシリア、ミタンニ、ヒッタイト、アルザワ、キプロスという6つの大国と積極的な外交を行い、カナーンの40の都市国家群を属国として勢力下に置く。これらの国々と交換された外交文書が、宗教改革者として知られるファラオ、アケナテンの王都アマルナの公文書保管所跡から350の粘土板として発見されている。外交文書には贈り物外交や結婚外交が詳細に語られており、ファラオの宮廷には、例えばアメンヘテプ3世に嫁いだミタンニ王女ギルヘパが317人の女官を伴ったように、外国から嫁いできた王女達とそれぞれの王女のお供の従者たちがひしめき、彼女たちの下には外国の王からの使者達が頻繁に出入りし、また外国の王から挨拶の贈り物として届いたさまざまな産物と言語・習慣・宗教があふれた。例えば、複合弓、二輪戦車、馬、垂直織機、ガラス容器、装身具や金属製の装飾容器、リラやフルートなどの新しい楽器とシリアの音楽、造船技術、ざくろ酒、シリア風の衣装、さまざまな植物、アッカド語の使用、シリアの物語、少なくとも391のセム語からの借用語、シリアの神々(レーシェフ、カデシュ、バアル、アナト、アムッル人の牧畜の神ホロン、ソペド)などである。

このような状況はアケナテンが宗教改革を行っている間も変わりなく続いた。エジプトには戦争捕虜として、近東の大国からの贈り物として、属国からの租税として、奴隷市場を通じて大量の男女の奴隷が流入する。彼らは身体に焼き印を押されるか、あるいは入れ墨をされ、しばしばエジプト領土内を移住させられた。属国の王の子女が人質としてエジプトの王宮に連れてこられ、エジプト流の教育を受けた。奴隷たちは子孫を増やし、さらにまた報酬、贈り物、遺産相続、物々交換によって補充された。しかし、奴隷達は法的権利と財産を持つことを許され、時には優秀な奴隷は主人の養子となって自由の身になり、エジプト人と結婚したり、エジプトの官職に就くことも出来た。アケナテンの宰相はサッカーラで発見された墓からアペルイルという名のシリア人だったことも知られており、ヨセフ物語の原型と言われている。シリア人たちは、軍隊、駐屯軍、神殿や宮殿の工房、王の葬祭神殿、王のハレム、カプと呼ばれる王宮の養育施設で働かされた。職務内容は傭兵、労働者、レンガ工、門番、陶工、石工、大工、船大工、ワイン作り、妾、侍女、歌手、踊り子、織工、通訳、官吏、魔術師、医師、王のお酌係などである。さらにまた国外から商人や夏の間家畜の水を飲ませるために牧畜民がやってきた。

このような状況が中断したのは、宗教改革後のヒッタイト対エジプトの戦争の勃発によるものだった。その直接のきっかけはエジプトの王妃がヒッタイト王に宛てて書いた外交文書だった。エジプト王家に王位継承者がいなかったために、王妃はヒッタイトの王子を要求し、その要求に応じて一人の王子がエジプトへ派遣されたところ、途中で何者かによって暗殺されたために、ヒッタイトが報復戦争を仕掛けたのである。その後第19王朝に入ってからも、セティ1世とその息子ラムセス2世によってヒッタイトとの直接対決が続けられ、その戦いは約70年に及んだ。有名なカデシュの戦いでエジプト軍が敗退したが、ヒッタイトもまた新興のアッシリアに東の国境を脅かされていたことから、互いに同盟を結ぶことになった。これが史上初の平和条約で、ラムセス2世の治世21年のことである。(平和条約の日本語訳はこちらをご覧下さい)。また治世34年にはヒッタイトの王女がラムセス2世に嫁いだ。ラムセス2世が生存中は西アジアに再び平和がもたらされ、第18王朝の時以上にヒッタイト、アッシリア、バビロニアの大国と活発に外交が行われ、大王と呼ばれる所以となる。

セティ1世とその息子ラムセス2世によって西アジアから連行された戦争捕虜の人数は相当なもので、彼らは新しい都ペル・ラムセスの建設のために大量に投入される。戦争捕虜の他にも外交上の贈り物としてそれぞれの大国の辺境地の住民達が大量に相手国へ強制移住させられ、労働力として利用されることもしばしばあった。例えばヒッタイトの王女がラムセス2世に嫁ぐとき、アナトリア北東部のカシュカ人たち500人が花嫁の持参金の一部としてエジプトに連行された。返礼としてエジプトからはスーダンのヌビア人たちがヒッタイトに送られた。しかし、ついにラムセス2世以後のラムセス時代には、外国から嫁いできた王女たちが産んだファラオの息子が即位する事態も起こる。第19王朝のシプタハ王の母スーテリリは、セティ2世の側室で、パレスティナ出身である。またアジア人の高官が王位継承に介入する事態も起こる。セティ2世の正室タウセレトはシプタハ王の摂政だったが、後にファラオとして即位するとき、アジア人の宝庫長バイが協力した。

歴史史料は主に支配者側から書かれたものであり、エジプトへ連れてこられた奴隷達の状況まではなかなか詳しく分からないものであるが、以上のような政治状況がモーセの出エジプトの背景としてあった。

そこであらためて出エジプトの意味を考えてみると、次のようなことが言えるのではないだろうか。旧約聖書は徹底してイスラエルの民が権力を持つことと王国を築くことを戒めており、族長時代を理想として、ファラオの権力を否定している。神が出エジプトの後荒れ野を40年間さまよわせたのも、そのことに気付かせるためであった。神が約束の地を与える約束をしたからと言って、イスラエルの民に王国を築き、彼らの王がファラオのように権力を振るうことを認めたわけではなかった。この辺りのことはモーセの後継者ヨシュアについて書かれたヨシュア記を読むと、一層よく理解できるだろう。

またエジプトとヒッタイトが、長年にわたる戦争を放棄して平和条約を締結したことは、近東のさまざまな民族にとっても有益であり、武力行使が疲弊しかもたらさず、平和な世界を築くには話し合いと譲歩が重要であるということを教えてくれるのである。

ちなみに、2006年10月11・18日(水)にNHK教育TVで放送された「地球ドラマチック 出エジプト記の"真実" 前編・後編」については「西村洋子の雑記帳(2)」をご覧下さい。

西村洋子の雑記帳

http://www.geocities.jp/kmt_yoko/MyNotebook-2.html

古代エジプト研究

http://www.geocities.jp/kmt_yoko/essays.html


キリスト教三位一体と新プラトン主義の流出説
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/28929639.html
新プラトン主義の「一なるもの」というのは、唯一絶対的な神を信じるアブラハムの宗教(一神教)へと結び付いているのだろうか?そして、プロティノスの思想『万物は無限の存在である「一者」から流出した理性の働きによるものである(流出説)。』というのは明らかにカバラの神秘思想に通じるものがある。


すべてのはじまり  ゼロと無限
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/28967050.html
すべてはどのようにはじまったのだろうか?ピタゴラスなどのギリシア哲学者が考えた創世記とカバラ神秘思想で語られる創世記の共通点を描き出す。そして僕達が何気なく使っている「ゼロ」とは何であろうか?


ビックバン と カバラ神秘思想
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/29037488.html
宇宙とは物理学者や天文学者の世界と思われがちだが、宇宙の始まりを考える時、ある意味それは「哲学の領域」になる。ビックバンとは何なのか?カバラ神秘思想が描き出す創世記との奇妙な接点。


カバラ創世記 第二段階 悪の誕生
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/29049134.html
悪とは何か?いつ誕生したのか?神がつくったのだろうか?それらの質問に関するカバラの回答を紹介


カバラ創世記 第三段階 世界の修復
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/29061281.html
4つの層からなる複雑なカバラ神秘思想の構造を紹介。シュタイナー思想の根底にも流れるカバラの世界観


クリフォトの樹  リリスとサマエル
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/29094215.html
実は3つのシリーズのつながる記事。1つは『生命(いのち)の樹の秘密にせまる』。クリフォト(邪悪の樹)はいわば生命の樹の対極にある存在だ。2つめは、『リリスの伝説を追え!』。そしてこの『カバラ神秘思想とギリシア哲学』シリーズだ。オリエントの神々は、クリフォトを構成する邪悪な要素としておとしめられてしまった。リリスの夫とされるサマエルとは何者なのか?

 
 
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