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エジプトにおけるユダヤ人とキリスト教

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2013年 9月28日(土)22時37分5秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://www.geocities.jp/kmt_yoko/JewsChristianity.html

エジプトにおけるユダヤ人たちとキリスト教

  西 村 洋 子

今回上記のテーマで調べてみようと思った理由は、第一にかつてエジプトから出ていったユダヤ人たちがなぜ再びエジプトに住み着いたのか、第二にグノーシス派とコプト教は同じなのかそれとも違うのかについて知りたかったからである。そこで、ギリシア・ローマ時代のエジプトの宗教事情について調べたところ、新しい知識がたくさん得られたので、ここにまとめてみようと思う。

まず第一の疑問について。バビロニア(カルデア王朝)の最初の王ナボポラッサルは紀元前612年にアッシリアの都ニネヴェを征服、紀元前610年に北シリアのハランで最後のアッシリア人たちを駆逐、そして息子のネブカドレツァル2世が、紀元前605年の即位直前に、シリアのカルケミシュで、アッシリアを援護するためにやってきたエジプト王ネコ2世(第26王朝)の軍隊を破り、シリア・パレスティナを完全に支配下に収めていた。ユダ王国のヨヤキム王は三年間バビロニアに朝貢したが、紀元前602年にネブカドレツァル2世に背き、次のヨヤキン王、ゼデキヤ王も同様だったので、ネブカドレツァル2世はついに紀元前586年にユダ王国の都エルサレムを陥落させた。そして紀元前587年に有名なバビロン捕囚が起こる。このような政治状況下でエジプトに避難していたユダヤ人たちがいた。というのは、ネコ2世が即位後アッシリアの衰退に乗じてイスラエル・ユダ両王国を制圧し、紀元前609~605年の約4年間レヴァントにエジプト帝国を建設していたからである。預言者エレミヤ自身もエジプトに亡命したユダヤ人の一人だったが、彼の預言書第44章1節には「エジプトのミグドル、タフパンヘス、メンフィスならびに上エジプト地方に住む、ユダの人々」への言及がある。

エレファンティネに大きなユダヤ人共同体が存在したことは紀元前5世紀に年代づけられるエレファンティネ出土のアラム語パピルス(ブルックリン博物館所蔵)によって知られる。アラム語はペルシア帝国の公用語であり、このパピルスが書かれた当時エジプトはペルシア帝国の支配下にあった。パピルスの詳細についてはEdward Bleiberg, Jewish Life in Ancient Egypt : A Family Archive from the Nile Valley, Brooklyn, 2002.を読めば分かるのだが、ユダヤ人たちはシリア人とアラム人出身の傭兵隊に加わってエジプトの南の国境を防衛していた。彼らは律法に反してエレファンティネに神殿を建て、そこで神を礼拝した。また唯一神であるべき神に「天の女王」と呼ばれる配偶神を置いた。さらにそれらの神々とともに、エレファンティネで信仰されていた「第一カタラクトの守護神」クヌムにも敬意を払った。ちなみに、クヌムは牡羊の頭部を持つ男性の神として表現され、牡羊はクヌム神の聖獣であった。紀元前5世紀以後のエレファンティネにおけるユダヤ人とエジプト人の関係については不明だが、何か問題が起こったに違いない。というのは、エレファンティネのユダヤ人の神殿は一度破壊されているからである。

紀元前3世紀の始まりにエジプトはプトレマイオス朝の支配を受ける。それはマケドニア系ギリシア人の王朝で、アレクサンダー大王の武将で、エジプトのサトラップ(総督)だったプトレマイオスが創設した。プトレマイオス朝はパレスティナを支配し、紀元前587年の亡命者達の子孫のエジプトへの移住を奨励した。その結果、王都アレクサンドリアはディアスポラ(バビロン捕囚後、パレスティナから離散したユダヤ人たちの住んだ土地)の最も重要な中心地の一つになり、15~20万人のユダヤ人がいたと言われている。紀元前2世紀の中頃にはデルタのテル・エル・ヤフディエにもユダヤ人共同体が設立され、神殿が建設された。ユダヤ人兵士達はファイユームのいくつかの村に土地を与えられた。またユダヤ人たちは上エジプトのあちこちに定住した。共同体にはシナゴーグ(礼拝場所)があり、プトレマイオス朝の保護を受けていた。そのことはシナゴーグのギリシア語の奉献碑文に王、王妃、その子供たちの名前が現れることから分かる。ユダヤ人たちは宗教的アイデンティティーを維持したけれども、ギリシア語を話し、ギリシア名を採用した。エジプトのユダヤ人たちは主に兵士として、また官僚、警察官、職工、農夫として、エジプト社会によく組み込まれていた。

そして、モーセ五書がギリシア語に翻訳された。伝説によると、プトレマイオス2世はこの翻訳のためにエルサレムからアレクサンドリアに72人の長老達を召喚したので、ギリシア語訳旧約聖書はセプトゥアギンタ「七十人訳聖書」と呼ばれる。このことはフラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』(ちくま学芸文庫から2000年に出版された日本語訳の第四巻26-27ページ)に記されている。フラウィウス・ヨセフスはエルサレム生まれのユダヤ人であったが、ユダヤ戦争の間ローマ帝国に協力したため、ウェスパシアヌス帝、ティトゥス帝、ドミティアヌス帝(紀元後69~96年)に厚遇され、ローマで『ユダヤ戦記』と『ユダヤ古代誌』を著した。これらはユダヤの歴史を知る上で貴重な史料となっている。モーセ五書のギリシア語訳の必要性が生じたのは、ギリシア語がエジプトに定住するユダヤ人たちの公用語になり、シナゴーグの典礼習慣の中でギリシア語の使用が確立されたためである。さらにこの翻訳によって、異教徒達がヘブライ語の聖書に接することを可能にし、ユダヤ人共同体の周辺に改宗者が現れた。大変面白いことに、プトレマイオス時代に旧約聖書のヨセフの物語を潤色してギリシア語で書かれた『ヨセフスとアセナト』で、ヨセフと結婚したヘリオポリスの神官長の娘アセナトがユダヤ教への改宗を告白させられている。ちなみに、ヘリオポリスは太陽神ラーの信仰地である。このように、旧約聖書の周辺ではユダヤ・ヘレニズム文学が発展させられ、キリスト教聖書正典に組み込まれたものもあれば、聖書外典・偽典にとどまったものもあった。他方、紀元前2世紀にユダヤ人とギリシア人との間に諍いが現れた。フラウィウス・ヨセフスが反ユダヤの中傷に応えて著した『アピオン反駁』によれば、ギリシア語で『エジプト史』を著したエジプト人の歴史家マネトーンは、ユダヤ人はファラオがエジプトから駆逐したつまはじき者たちの子孫であると主張した、という。

プトレマイオス朝の保護を受けてこれまで順調だったユダヤ人たちの状況は、ローマがエジプトを征服するやいなや、一転して悪化した。ギリシア人たちにはローマ市民権が与えられたのに対し、ユダヤ人たちにはローマ市民権が与えられず、人頭税や労役を課せられた。ユダヤ戦争(紀元後66~70年)でエルサレムの神殿が破壊されたのに伴って、紀元前2世紀に建設されたテル・エル・ヤフディエの神殿も閉鎖された。さらに、ウェスパシアヌス帝によってローマ帝国内の全ユダヤ人に賦課金が課せられた。ユダヤ人たちのローマ帝国に対する憎悪が高まった。紀元後115年のトラヤヌス帝の時代にリビアのキレネでユダヤ人の反乱が起こり、エジプト、キプロス、メソポタミアにまで広がり、民族主義的・救世主信仰的性質を帯びた。アレクサンドリアでは騒乱はすぐに鎮められたが、エジプトの農村部で激しくなり、最初はギリシア人とユダヤ人の単純な争いだったものが、エジプトにいるローマ軍を巻き込んだ本当の戦争になった。戦争は二年間続き、エジプトのユダヤ人共同体はほとんど全滅させられた。そのため、紀元後117~270年の間エジプトにユダヤ人はほとんどいなかった。キリスト教がエジプトに普及したのはこの期間だった。

再びエジプトにユダヤ人たちが現れたのは、紀元後270~272年のパルミラによるエジプト支配の時だった。彼らはヘブライ語を話し、聖書に由来した名前を持った。しかし、紀元後391年にテオドシウス帝がキリスト教をローマ帝国の国教と定めたため、新しい問題が起こった。紀元後415年にアレクサンドリアの司教キュリロスはキリスト教徒達にユダヤ人をアレクサンドリアから追い出すように命令し、シナゴーグとユダヤ人居住区は破壊された。それでも紀元後642年のイスラームによるエジプト征服まで4万人のユダヤ人がアレクサンドリアで繁栄した。

このようにして、ユダヤ人たちはプトレマイオス時代にギリシア文化との同化に成功し、ユダヤ教を世界中に広める機会を得たにも関わらず、その後のローマ帝国とキリスト教徒たちによる迫害のため、再び独自の宗教と慣習に固執せざるをえなくなったのである。しかし、迫害されてもなお繁栄し続けるユダヤ人たち、とは恐るべし!

これで、ユダヤ人たちが再びエジプトに住み着いた理由がわかった。

次に第二の疑問について。エジプトにキリスト教を伝えたのが誰かは残念ながら知られていない。前述した通り、紀元後117~270年の間エジプトにユダヤ人はほとんどいなかったので、最初にキリスト教が普及したのは異教徒の間にだった。ここが問題であった!

1945年に上エジプトのゲベル・エル・ターリフの崖のふもとの岩陰で、エジプト人農夫が13の革綴のコプト語の古写本が収められた壺を発見した。いわゆる「ナグ・ハマディ文書」である。その内いくつかは燃やされたり失われたりしたが、残りはすべてカイロのコプト博物館に収蔵され、発見後約60年経った今も研究が続けられている。荒井献氏による日本語訳が岩波書店から1997~2002年に出版されているが、その内容はキリスト教とは似て非なる宗教の教理だった。すなわちグノーシス派の教理である。ちなみに、コプト語とはエジプトのキリスト教徒たちによって使用された古代エジプト語で、文字はギリシア文字から借用され、ギリシア語にない音を表すために7つの文字が追加されている。文章は象形文字(ヒエログリフ)ではなくアルファベットのみを使って表記される。紀元後最初の数世紀の間にエジプトに広まったグノーシス派は多数の知的流行を採り入れた。

グノーシス派の教義の特色は次の3つである。

1. 物質の非難と拒絶。超越神と下級の創造神の仕業に過ぎない宇宙創造との対立を暗示する二元論。すなわち、この宇宙は超越神よりもずっと下級の神によって創造された物質世界であるというのである。

2. 超越神から流出したソフィアの一部があらゆる人間の中にあり、再び超越神と結合することに憧れる。すなわち、私たち人間はそういう意味で超越神の子らなのである。

3. 自己認識は人間の変容を引き起こす。すなわち、私たち一人一人が超越神の子であることを認識すれば、物欲にとらわれた生活から解放され、幸福を得ることが出来るという。そして、その自己認識を促す救済啓示者がイエス・キリストなのである。

このような教義のため、グノーシス派はローマ・カトリックによって異端とされ、ナグ・ハマディ文書は隠された。昨年話題になった「ユダの福音書」もこのようにして隠されたグノーシス派の写本の一つである。その結果エジプトの初期キリスト教についてほとんど何も知られてこなかったのである。

管理人注:ユダの福音書~ナグハマディ文書

http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-130.htm

『ユダの福音書』は、初期キリスト教父であるエイレナイオスの『異端反駁』 (180年頃)[1]にてグノーシス主義異端の書として言及されていたものである。その記述によれば、イエスを裏切ったイスカリオテのユダが実はイエス・ キリストの弟子の中の誰よりも真理を授かっており、「裏切り」自体もイエス・キリスト自身が主導したものであるという........荒井献は正統的教会によって、「裏切り者」「密告者」の元型にまで貶められていたユダ像は『ユダの福音書』では「福音」の伝達者として高く評価されていると指摘する。荒井献(プロフィール)はユダのこの文書による「復権」の意義は、正統的教会が罪を負わせ教会から追放しようとしたユダをイエスの愛弟子として取り戻したことにあるとする。(Wiki)。

ローマ・カトリックの教義がキリスト教の公式の教義として定められた後も、神学論争が続いたことは、周知の通りである。アレクサンドリアの聖職者アリウスによって引き起こされた神学論争に対して、紀元後325年にニカイア公会議で採用された信仰告白は、私たちが聖餐式のたびに唱えるあのニカイア信条(下記参照)である。その後もアレクサンドリアではアリウス派と反アリウス派の争いが続いた。最終的にテオドシウス帝がニカイア公会議での決議を支持して、神学論争は一応終結したのだが、5世紀の中頃にアレクサンドリア司教ディオスコロスがキリスト単性論を主張したために、再び神学論争が起こった。この教理は紀元後451年のカルケドン公会議で非難されたが、司教達も信徒達もディオスコロスを支持したため、ついに6世紀に分派が認められた。キリスト教史初の分裂である。現在エジプトのコプト教会、エチオピア教会、シリア教会の一部はキリスト単性論である。

さて、エジプトのキリスト教の特色は修道生活である。その模範となったのが、3世紀中頃の隠修士アントニウスで、彼は自分の家族と財産を捨て、最初は故郷の村からそう遠くない砂漠の墓地で、次に紅海に近い東部砂漠で、苦行と悔い改めを行い、悪魔と戦い続けた。ただしここでいう悪魔とはかつて古代エジプト人が神々として崇拝したエジプトコブラ、サソリ、ライオン、牡牛などである。まったく気違いじみている! このような慣習は3世紀の終わりに始まり、4世紀にエジプトで普及した。数人の隠者たちが半共同生活を行い、ふだんはそれぞれの独房で生活し、祈りと典礼の時に集まった。さらに紀元後323年にパコミオスがタベンニシというさびれた村に最初の修道院的共同体を設立し、共同体の宗教生活の規則を作った。紀元後340年頃にはその近くにパコミオスの妹マリアが女子修道院を二つ設立した。修道士たちはその中で労働、祈り、訓練を行った。礼拝堂の周囲にはパン作り、料理、診療などに使う建築物が建てられた。パコミオスの修道院には後に何千人という修道士たちが住んだ。5~6世紀には修道院は畑を所有し、小作農と職工達を雇う経済の中心地となった。ローマ帝国によるキリスト教の迫害と殉教の時代が終わった後、修道院生活はエジプトのキリスト教内だけではなく、諸外国のキリスト教の共同体にも広まった。この現象は当時の精神性の発展における禁欲的側面を特徴づけている。修道院生活は現代の東方教会やローマ・カトリックに受け継がれ、いくつかの修道院(アブ・メナ、聖カテリーナ修道院など)は世界遺産にも指定されている。ちなみに、コプト教会は20世紀の終わりにキリスト両性論に戻ったことを付け加えておく。

これで、グノーシス派とコプト教が別物であることが分かった。

最後に神戸神愛教会の引退牧師、鴾田將雄先生から頂いた「世界教会会議」の樹木図を示しておく。これはカルヴァンの生地、フランスのノワイヨンにあるカルヴァン記念館に展示されていたものを鴾田將雄先生が書き写されたものである。貴重な資料を提供していただき、ありがとうございました。

古代エジプト資料館

http://www.geocities.jp/kmt_yoko/

ユダの福音書Ⅰ~ナグ ハマディ文書~

■チャコス写本
 ユダは、主イエスを銀貨30枚で売った罪で、2000年の呪いがかけられている。今でも「ユダ」は裏切り者の代名詞だ。ダンテの「神曲」によれば、歴史上の裏切り者たちは地獄の最下層を流れる嘆きの川「コーキュートス」に氷漬けにされているという。シーザーを裏切ったブルータス、そして、ユダもその一人だ。だが、ユダの呪いはもうすぐ解けるかもしれない。エジプトで発見された古文書によって。

 1978年、エジプトの洞窟で、古いパピルス文書が見つかった。エジプトで古美術商をいとなむハンナは、このパピルス文書を手入れ、一儲けをもくろんだ。ところが、間の悪いことに、転売する前に盗まれてしまった。その後、ハンナはこの文書をなんとか取り戻したものの、買い手はなかなか見つからない。法外な高値をふっかけたからである。

 2000年4月、スイスの古美術商チャコスはこのパピルス文書を購入し、アメリカ・アイビーリーグの名門エール大学に鑑定を依頼した。結果、伝説の「ユダの福音書」が含まれていることが判明した。驚くべき発見だったが、その後も、無知な古美術商の手に渡り、パピルスは劣化しつづけた。紙に記された情報は、光にさらすだけで薄くなり、消えていく。さらに、紙媒体の寿命も温度と湿度次第。条件が悪ければ、700年で朽ち果てる。

 昔、八重洲ブックセンターの1階に、「パピルス」を売っていた。マニアックな風貌のおじさん店長によれば、これはエジプトで売っている「お土産物」とは別物、正真正銘のパピルスだという。「正真正銘」の意味をはかりかねたが、熱意にほだされ、3枚ほど買った。表には古代エジプトの神々が描かれ、触ると、いかにもパピルスっぽい。薄くのばしたセンベイのようで、鋭く曲げると割れそうだった。

 じつは、パピルスも紙媒体の1つで、紙の弱点をすべて備えている。つまり、温度・湿度次第で、劣化が加速する。ちなみに最適な条件は、温度25℃、湿度55%だという。ところが、先の古美術商はパピルス文書を冷凍保存していたという。マグロじゃあるまいし。結局、この古美術商は代金が払えず、パピルス文書は、再び、チャコスの元にもどった。以後、このパピルス文書は「チャコス写本」とよばれるようになった。古美術商チャコスの功績が認められたのである。もちろん、先の冷凍保存の古美術商の名はどこにもない。

 2001年、チャコス写本の所有権は、スイスのマエケナス古美術財団に移り、2002年から復元作業がはじまった。24年間もひどい扱いを受けた写本はボロボロだったが、熱心に修復が進められた。そして、2006年に作業が完了し、全体の85パーセントが復元されたという。その成果は、日本でも「原典 ユダの福音書」(※)として出版された。

■ユダの福音書
 チャコス写本は、古代エジプトのコプト語で書かれ、全文66ページで、4つの文書からなる。
1.ピリポに送ったペテロの手紙
2.ヤコブ
3.ユダの福音書
4.損傷が激しく、題名も消失

 上記の1.と2.は、1945年に発見された「ナグ ハマディ文書」にも含まれるので、新しい発見とはいえない。価値があるのは「3.ユダの福音書」、歴史上初めて確認されたからだ。そのため、この写本は「ユダの写本」ともよばれる。じつは、「ユダの福音書」のウワサは、チャコス写本が発見される前からあった。

 フランスのリヨンは、古代よりキリスト教色の強い町である。一時期、キリスト教の大司教が為政者だったこともある。紀元2世紀、このリヨンの司教エイレナイオスは、有名な「異端反駁(いたん はんばく)」を著したが、その中に、奇妙な一節がある。

 他の誰も知りえない真実に到達しているのがユダであり、それゆえ、彼は裏切りという神秘を完遂することができた。地上と天上のあらゆるものは、ユダによってひとつに混ざり合ったのだという。そしてこのグノーシス派の一派はその教えのよりどころとして、「ユダの福音書」と題される文書をねつ造したのである(※)。

 「裏切りという神秘」?いかにも神秘主義的な言い回しだが、内容は衝撃的だ。
・ユダは、ただの裏切り者ではない。
・ユダは、この世界の真実を知る人物で、特別の使命をもっていた。
・グノーシス派はユダを崇拝し、「ユダの福音書」なる書をねつ造した。

 これは、我々が知るユダではない。また、「ユダの福音書」にはユダの秘密が記されていることも示唆している。皮肉なことに、司教エイレナイオスは、「ユダの福音書」を封印しようとして、逆に、その存在を知らしめたのである。その伝説の「ユダの福音書」が、ついに発見された?この世界に身をおく宗教学者なら、さぞかしドキドキしたことだろう。

■キリスト教異端
 ところで、司教エイレナイオスは、何のために、「異端反駁」を書いたのか?グノーシス派を、邪悪で危険な異端として糾弾するためである。ここで、グノーシス派とはグノーシス主義を信奉する一派で、キリスト教世界では超弩級の異端とされる。キリスト教の異端とは、悪魔信仰のように分かりやすいものから、儀式の方法、神学論争まで含む。要は、キリスト教正統派が認めないものすべて。

 キリスト教の異端騒動で、歴史上有名なイベントが「ニカイア公会議」だ。325年、時のローマ皇帝コンスタンティヌス1世によって開催され、主題は大胆に、
「イエス キリストは神性をもつか?」

 この会議で、アレクサンドリアの司祭アリウスはこう主張した。
「神は絶対の存在であるがゆえに、始まりはなく、生まれることもない。しかし、キリストは生まれた者であるゆえ、神と同一ではない。キリストは神の子、つまり神の意志によって存在するのであり、それゆえ、神のような絶対的な神性をもつものではない」

 異教徒でもスンナリ入る明快さだ。これに対し、アレクサンドリアの主教アタナシウスはこう反論した。
「父である神と、子であるキリストは、同じ神性をもつ」
これは、父と子と聖霊の3つの位格が1つとなって神の存在とする「三位一体」を支持するもので、以後、キリスト教の正統派となった。一方、アリウスは異端の烙印を押され、リビアに追放された。

 アリウスは、主観でしか確認できない「神」を、客観的に理解しうる「絶対の存在」として定義し、理屈っぽい連中の非難をかわしている。さらに、彼が採ったのは「普遍的な因果法則」のみ。一方のアタナシウスは、父と子と聖霊という「主観でしか確認できない事象」を大前提にしている。

 アリウスの思考軸は「真実」で、アタナシウスのそれは「イデオロギー」にみえる。さらに、アリウスの起点は「疑う」で、アタナシウスの起点は「信じる」。たぶん、アリウスは学者で、アタナシウスは信者だったのだろう。

 17世紀の偉大な科学者にして、人々をして、
「これ以上近づきえないほど、人間が神々の世界に近づいた」
と言わしめた偉大な論文「プリンキピア」の作者アイザック ニュートンもアリウス主義の信奉者だったが、それもうなずけるというものだ。

■ナグ ハマディ文書
 話を、キリスト教グノーシス派にもどそう。グノーシス派にくらべれば、アリウス派の異端などかわいいものだ。グノーシス派は、新約聖書のみならず旧約聖書までかみついている。唯一絶対の創造神さえあざ笑っているのだから。

 この異端の聖書は、1945年、上エジプトのナグ・ハマディ村で見つかった。宗教学者たちを興奮させた「ナグ ハマディ文書(ナグ ハマディ写本)」である。そのほとんどが、グノーシス主義の文書で、暗中摸索状態だったグノーシス主義の研究を大きく前進させた。そのため、宗教考古学史上、20世紀最大の発見と言われている。

 キリスト教の聖書は大きく2つある。ユダヤ教の聖書「旧約聖書」と、キリスト教オリジナルの「新約聖書」だ。旧約聖書は、アダムとイブの天地創造から始まり、古代ヘブライ人の歴史や思想が記されている。一方の新約聖書は、イエス キリストの言行が中心。ただし、イエス自身による書はなく、すべて使徒たちが書いたものである。

 新約聖書は、「4福音書」、「使徒の言行録」、「使徒の手紙」、「ヨハネの黙示録」で構成される。文書は、全部で27。この中で特に重要なのが、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの「4福音書」である。このすべてがイエスの言行録で、 キリスト教徒にとって信仰の道標になっている。

 ところが ・・・ キリスト教の聖書はこれだけではなかった。

 イエスの死後、キリスト教は急拡大し、1~3世紀にかけて、多数の聖書が生まれた。それを苦々しく思ったのが、キリスト教正統派である。ここで、正統派とはキリスト教における勝ち組で、本来の「正統」を意味するわけではない。具体的には、ペトロ(ペテロ)を筆頭とするイエスの「12使徒」から現在のバチカンに到る本流をさす。

 彼らは、玉石混合?の聖書の中から、先の27の文書を選び出し、正典とした。これが、新約聖書である。それ以外の聖書は外典とよばれ、焼かれるか、書き写される前に朽ち果てた。それゆえ、外典が現代まで生きのびるのは奇跡に近い。その奇跡の1つが、ナグ ハマディ文書である。

 ナグ ハマディ文書は52の文書を含み、大きく4つに分類される。
1.キリスト教系の文書(グノーシス版・新約聖書)
2.ユダヤ教系の文書(グノーシス版・旧約聖書)
3.ヘルメス文書(古代エジプトの神秘主義思想で、占星術、錬金術を含む)
4.その他(プラトンの著書など)

 以上の4つの文書に共通するのが「オカルティズム」である。ただし、ここでいう「オカルティズム」は、本来の「隠されたもの」の知識体系をさし、世間を騒がすカルト集団とは関係ない(直接的には)。簡単に言えば、この宇宙には物質世界と霊世界があり、後者に重きをおく思想(ちょっと簡単すぎるか)。

■埋めたのは誰か?
 ナグ ハマディ文書は壺に入れられ、土の中に埋められていた。一体、誰が、何のために埋めたのか?壺の中には、プラトンの著書まで入っていたという。2000年前、ナグ ハマディ村の村民が、プラトンを愛読していたとは思えない。発見現場近くに、キリスト教の修道院があったらしいが、それと関係があるかもしれない。

 紀元6世紀、キリスト教最古のベネディクト修道会が創設された。多数の修道院が建設され、修道士たちは、日々祈りと労働に勤しんだ。その労働の一つが写本の制作だった。新約聖書を中心に、神話や歴史書、たとえば、カエサルの「ガリア戦記」も書き写されている。つまり、修道院は、人類の 「知識の宝庫」だったのである。その中に、グノーシス派の書があったとしても不思議はない。

 ところが、先の「ニカイア公会議」で勝利したアタナシウス派は、その後、徹底的な焚書を実施した。エジプト中のキリスト教会に、正典以外のすべての聖書を焼きすてるよう命じたのである。もし、ナグ ハマディ村の修道院がグノーシス派だったとしたら?あるいは「隠れグノーシス派」の修道士が紛れ込んでいたら?異端の修道士が、異端の書を後世に伝えるために、土に埋めたとしても不思議ではない。

《つづく》
参考文献:
(※)「原典 ユダの福音書」ロドルフ・カッセル、マービン・マイヤー、グレゴール・ウルスト、 バート・D・アーマン編集/日経ナショナルジオグラフィック社

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