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最後の男

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2013年10月20日(日)23時26分56秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://7thsu.blog.fc2.com/blog-entry-39.html

OWOが形作ろうとする世界に対する、くっきりとした行程表を提供する有名な本はありますか?

管理人注:OWO=Old World Order

関連記事:

http://armageddonconspiracy.co.uk/The-Last-Man%281187244%29.htm

フランシス・フクヤマ「歴史の終わりと最後の男」の論評 その1

http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/d1ebec2c008c1d80c027eec5737c7abd

論評 その2

http://blogs.yahoo.co.jp/ritournelle1837/5739927.html

歴史の終わり

冷戦の余波で出てきた時、フランシス・フクヤマの歴史の終わりと最後の男は驚異だった。
ソ連圏はOWOをほとんど通さなかった。
それが崩れた時OWOが入ってきた。
悪名高い『オリガルヒ』(もしこれまでで影のグループがひとつでもあったら)はロシアの最も有利な天然資源を掌握する権利を正当なお金と影響力で適切な時に正しい位置にあった。石油、ガス、鉱物、金属。
彼らの富と力は息をのむようだ。
モスクワは今OWOパワーの中心としてニューヨークに匹敵する。

管理人注:オリガルヒと新興ユダヤ人

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/544.html

共産主義の崩壊は、OWOの手口を示しています。
OWOは失敗した体制へ移動しないで強制収容所を準備しません。
彼らは鎖でつなぐ、鞭打つ、監禁するという意味において住民を奴隷にはしません。
彼らがすることは、すぐに自分自身のために最も貴重な資源を取得して、それから民主主義と市場の力に彼らの実証済みの数式を実装する。
彼らの西のよく似たもののようなロシア人は、現在ショッピングモールの素直な消費者である。
うまくやることができない人々は、一日中ウォッカを飲む。誰も気にしない。
ブッシュはイラクで同じことをしようとしました。
(イラクの経済に注ぎ込まれた大部分のお金はブッシュとチェイニーの富裕層、企業の友人の手に終わりました。)
シーア派イスラム教がOWOに抵抗したので彼は失敗しました。
専制政治の異なるタイプ、黒を着たアヤトラとイマームが適用されます。

イラン人(シーア派イスラム教徒)は、イランのシャー(イラン国王)の形をしたOWOを打ち倒した。
シーア派イラク人はサダム・フセイン(スンニ派イスラム教徒)を倒そうとしたが、西によって裏切られた。
人々はかつてサダム・フセインがアメリカ政府とともにイランと戦った年に人気があったことを忘れがちである。
同様に、アフガニスタンの武装勢力(将来のタリバン)とオサマ?ビン?ラディンは、アフガニスタンがソ連の占領中のアメリカの同盟国であった??。
シーア派イスラム教徒とは違って、スンニ派イスラム教徒はOWOへはるかに多く配置されている。
腐敗したサウジ王室を見てください。
ドバイのような国の高級ショッピングモール、豪華なホテルを見てください。

福山の論文では、共産主義の終わりが西部の政治的、経済モデルを採用し、全世界につながるだろうということでした。
アメリカが導くと皆が従うでしょう。
どんな対立もありません。
大きなイデオロギー闘争という意味で歴史は終わりがきました。
西洋の民主的な市場資本主義、OWOの権力基盤は至る所で誇らしげです。
OWOは彼らが常に希望した障害物で全世界を支配します。
「新世界秩序」はない。つまり単に旧世界秩序は最大限の限界まで拡張した。

福山はほとんど正しかったが彼はイスラム教を見落した。そして西とイスラム教の対立が何とかして解決されるまで、歴史は今のところOWOのために終わりません。
福山もイルミナティを見落しました。
歴史は遠くから行われる!
OWOは彼らの関心において世界を手にすることを妨げる。

福山は「最後の男」に言及しました。これはすべての大きな戦いが終わった歴史の終わりに存在する人のタイプです。
最後の男は「(without a chest)思いなしで」誰かです。
彼は弱々しいゾンビで些細な懸念と満足に取り付かれた男で、取るに足らないマテリアルを必要とする。
彼は、壮大な展望、気高さ、精神性を持ちません。
彼は危険を取らずに、こそこそと自分のためにできるだけ多くを取得しようとする可哀想な策士です。彼は地味で臆病です。自己の利益が全てです。

「最後の男」は、民主的な選挙で投票して、退屈な9時-5時の仕事を維持して、買い物に行きジャンクフードを食べてジャンクなテレビセットを見る、彼のスポーツチームを見に行く人です。
最後の男はすでにここにいる。彼は典型的な西洋の消費者です。

福山はヘーゲルの「マスターとスレーブの弁証法」に言及する。
我々はこの弁証法がどのように展開したかについて既に知っている。

管理人注:(Master)主人と(Slave)奴隷の弁証法の解説

http://d.hatena.ne.jp/mmmmaolin/20091116/1258387209

OWOはマスターズで私たちの残りは奴隷です。
確かに、我々は綿畑や砂糖農園で働いていません、しかしそれでも我々はなお奴隷です。
奴隷制度はあなたが少数派を支持して大衆を罰するようになっているシステムに協力する時です、そして、あなたは大衆の1人であり少数派によって演じられていることは間違いないことである。
どうしてそんなに受動的なのですか?
どうしてそれを我慢するのですか?
あなたはそれについて何をしていますか?
奴隷は選択の余地がないと考えるのでそれに協力する人々です。
選択は常にあります。

福山の本を読んで、OWOがどのように動作するかについて学び、自分自身について学んでください。

手遅れではない。
遅すぎるということはない。
そして我々に勇気があるならば、我々はすべて最初の男になる機会があります。

論評 その2から全文

今日はアメリカの政治学者フランシス・フクヤマが1992年に出版した著書
『歴史の終わり』をご紹介したいと思います。

冷戦直後、この本は世界的センセーションを引き起こしましたが、現在では
ほとんど忘れさられてしまっているといっていいかもしれません。

僕はフクヤマのテーゼに対して懐疑的ですが、現在でも彼の議論は僕たちに対して
大きな衝撃力と挑発力を持っていると思います。

以下に『歴史の終わり』の内容をまとめてみたいと思います。

出典:フランシス・フクヤマ(渡部昇一訳)『歴史の終わり』(三笠書房)1992.(Fukuyama, Francis: The End of History and the Last Man. New York Free Press, 1992.)

フランシス・フクヤマ氏プロフィール

1952年アメリカ・シカゴ生まれ。日系三世。コーネル大学に於いて西洋古典学で学士号を取得。ハーバード大学に於いてソ連外交と中近東問題で政治学の博士号を取得。1979~1980年,1983~89年,1995~96年にはワシントン・D・Cのランド研究所研究員。1981~1982年,1989年にはアメリカ国務省の政策立案スタッフ。1996~2000年ジョージ・メイソン大学教授を経て、現在ジョンズ・ホプキンス大学ポール・ニッツスクール教授。

 『歴史の終わり』以外の主要著作として,The Great Disruption. Human Nature and the Reconsitution of Social Order. New York Free Press, 1999.〔(鈴木主税訳)『「大崩壊」の時代――人間の本質と社会秩序の再構築』(早川書房)2000.〕,Our Posthuman Future. Consequences of the Biotechnology Revolution. New York Farrar, Straus, and Giroux, 2002. 〔(鈴木淑美訳)『人間の終わり――バイオテクノロジーはなぜ危険か』(ダイヤモンド社)2002.〕などが挙げられる。

『歴史の終わり』の概要

1. 人間にとって「普遍的な歴史」とは何か

1. 1. 歴史には終わりがある

●カントは1784年に表した『世界公民的見地における一般歴史の構想』のなかで,普遍的歴史という概念 を提唱し,歴史には人間の潜在能力の中に秘められた最終目標としての終点があると考えた。この最終 目標とは人間の自由の実現であり,公正な市民機構と不可分に結びつく。

●ヘーゲルは,精神(人間の集団的意識)の自己展開としての普遍的な歴史について記述した。ヘーゲル は歴史の進歩は人間を対立や革命や戦争に導く情念の盲目的な相互作用から生まれると考えた。歴史は 絶え間ない抗争のプロセスを通過し,政治のシステムは内部矛盾のために崩壊し,より矛盾の少ない体 系が登場するのだが,その体系もまた新しい別の矛盾を生み出す。(歴史の弁証法)

●ヘーゲルは,歴史のプロセスには終点が存在し,近代的な立憲国家の中での自由の実現がその終点であ ると考えた。

1. 2. 1806年のイェーナの会戦で歴史は終わった

●ヘーゲルは,1806年のイェーナの会戦(ナポレオン対プロイセンの戦い)でナポレオンが勝利し,歴史 が終わったと宣言した。この宣言が意味するのは,もっとも進歩的な国々の中に近代自由主義国家の基 礎をなす自由や平等の原理が見出され実現されてきたこと,自由主義+民主主義より優れた社会的・政 治的制度はありえないことを意味する。

●自由主義とは,確固たる個人的権利,政府支配からの自由を認めた法原則のことであり,民主主義とは 全ての市民が政治的な力を共有できる権利のことである。

●アレクサンドル・コジェーヴは,1930年代に行った一連の講義において,ヘーゲルの主張は正しく,世 界史はこれまでいろいろな紆余曲折を経てきたが,実際上は1806年のイェーナの会戦で終わったと主張 した。1806年以降に世界で起こったさまざまな戦争や革命は「世界史の調整作業」にすぎない。

●コジェーヴによれば,フランス革命の諸原理が完全に実現したのは第二次世界大戦後の西欧諸国,高い 物質的豊かさと政治的安定を手にした資本主義・民主主義体制においてである。

2. 歴史を動かすエネルギーとしての「認知を求める闘争」

2. 1. 動物の自然的欲求と人間の欲望との間の差異

●動物の行動は自己保存のための本能に基づき,食物,睡眠,生命の保持などの自然的欲求の充足のみを 求める。動物の行動は自らの物質的な性質と周囲の自然環境によって決定され,物理学の規則によって 動くようプログラムされた機械と変わりはない。

●人間は一面では自己保存のための動物的本能を備えている。しかし,人間が根本的に動物と異なるのは 「社会的存在」であるというところにある。人間は他の人間が欲することを欲し,他の人間から必要と され認められることを欲する。他者から認められるために,人間は自己保存の本能から逸脱することが ある。

●ソクラテスは魂の三分説を唱えた。第一には外界にある何かへいやおうなしに駆り立てていく直接的な 欲望(飢えや渇きなど)があり,第二には理性があり(水が汚れているからのどが渇いていても飲まな い),第三には自尊心にかかわる「気概」(thymos)がある。ヘーゲルの言う認知への欲望は「気概」 をその土台にしている。

2. 2. 主人と奴隷

●人間は他の人間に自分の価値を認めさせようとして戦いを挑み,自己保存の本能から逸脱して自分の生 命をあえて危険にさらす。(最初の人間)

●戦いの一方の側は,暴力的な死の恐怖に直面すると死を選ぶよりは奴隷として生き残ることを決心し相 手を主人として認知し,主人と奴隷の主従関係が生まれる。

●奴隷は暴力的な死を恐れて手放した人間性を労働を通じて取り戻す。初めは主人の命令によって働くに 過ぎないが,やがて自分が労働を通じて自然の物質を別なものへと変えることの出来る事実を発見し, 自分が自然の制約を越えた自由で創造的な力をもっていると悟るようになる。奴隷は自由の理念を抱  き,死の恐怖を克服し,革命を起こして主人に挑戦する。(フランス革命)

●自由主義+民主主義の社会において普遍的な認知の形態が達成され,奴隷と主人の区別が消し去られ, それまでの奴隷は自分自身の主人となる。

3. 歴史の終わりと最後の人間

3. 1. 共産主義の崩壊による歴史の終わり

●歴史とは,自らの普遍性を主張する異なったイデオロギー同士のグローバルな闘争に存する。

●ファシズム国家は,「支配者民族」が「劣等民族」を支配できる権利を持つというイデオロギーのもと に,効率的な政治権力,大衆政党,人間生活の全面的な管理を通じて世界支配を目指したが,1945年に 敗北した。ファシズムは外部からの軍事力によって打倒されたが,実は軍事と戦争優先の政策のおかげ で必然的に国際体制との闘争に足を踏み込み自滅したのだと言える。

●共産主義の中央計画経済は,重工業に変わって情報,技術的知識,サービスの役割が重要になる脱工業 化の時代に適応できなかった。脱工業化時代の経済システムが持つ複雑性とダイナミズムは政策決定の 分権化と市場重視の方向を不可避とする。

●共産主義の敗北によって,イデオロギー闘争は事実上終局に達した。今後も局地的な戦いはあるかもし れないが,自らの普遍性を主張するイデオロギー同士の闘争は起こらないだろう。したがって,歴史は 自由主義+民主主義の勝利によって終わったと言える。

●以後世界は,自由主義と民主主義を採用し歴史から脱した地域(脱歴史的世界)といまだ歴史にしがみ ついている地域(歴史的世界)の二つに分かれていくことだろう。歴史世界では宗教的民族的衝突が繰 り返され,紛争や暴動を続けていくことだろう。脱歴史的世界は歴史的世界の脅威から身を守るのと同 時に,歴史的世界へ自由主義+民主主義の大義を普及させてゆくことに関心を払うようになるだろう。

3. 2. 最後の人間 (The last man)

●コジェーヴは,人間とは認知をもとめる闘争の中でのみ人間として存在しているのでり,歴史の終わり において普遍的な認知の形態が達成されてしまったら,人間は本来の意味での人間ではなくなると考え た。人間は物質的充足の中で何の緊張もなく生きる動物に近い存在となる。(アメリカン・ウェイ・オ ブ・ライフ)

●歴史の終わりは芸術と哲学の終わりである。新しい時代の精神の息吹をとらえてそれを形象化するよう な偉大な芸術家は消滅する。哲学も,ヘーゲル哲学の体系が真理の位置を占め,ヘーゲルと違った何か 新しいことを語ることは不可能となる。コジェーヴは哲学者として教壇に立つことをやめ,ECの官僚と して働くことに余生を捧げた。

●コジェーヴは,1959年に日本を旅行し,脱歴史的世界を生きる人間には,動物化以外に「スノビズム」 というもう一つの生存形態があることを発見した。日本の芸術(茶道,華道)はいかなる歴史的内容と は無縁の純粋に形式的なものである。

●脱歴史的世界を生きる人々は,経済活動,政治活動,スポーツなどにみずからの「気概」を発揮するた めの場を見つける。

4. 終わりに

2001年9月11日にアメリカで同時多発テロが起きた際,歴史が終焉したというフクヤマの主張は大きな批判にさらされました。

しかし,フクヤマは2001年10月11日付の『ウォール・ストリート・ジャーナル』に「まだ歴史は終焉したままだ」という論説を寄稿し,「歴史の終わり」とは深刻な大事件をふくめたさまざまな出来事が終わったということを意味するのではなく,自らの普遍性を主張するイデオロギー同士の闘争の終焉と,自由主義+民主主義以上の普遍的かつ合理的なシステムはもはやありえないということを意味するのだ,と述べています。

イスラム原理主義は,自らの普遍的な正統性を主張することが出来ずに自暴自棄的な抵抗をしているのに過ぎず,いずれ近代化の波に呑み込まれてしまうだろう,とフクヤマは考えています。

フクヤマの議論はヨーロッパ中心主義的で,その歴史観も目的論的で単線的なものですが,自由主義+民主主義以外の現実的で有効的なオルタナティヴを見いだせずにいる僕たちに対して,大きな挑発力と衝撃力を持っていると言えるでしょう。

論評 その1から 全文

「歴史の終わり」と「最後の人間」をめぐって
    ――2004年の世界から『歴史の終わり』を読む
長野一哲

万人に受け入れられる本など、この世に存在しない。 どんなに言葉をつくしても、人には伝わらないことがある。 でも、そんなことを気にしていたら、とても本など書きあげることなど出来ないだろう。自分の考えを信じて、ただ言葉を紡いでいく。物を書くとはそういうことだ。 著述という作業は、もしかしたら「命がけの跳躍」とも言える、偉大な行為なのかもしれない。あらゆる批判・誤読への恐怖を振り切って、えいやっ!と跳ぶ。あらゆる本がそうであるように、この『歴史の終わり』もまた、フランシス・フクヤマが果たした、そんな跳躍の記録である。

1989年の夏、ひとつの論文が発表された。フランシス・フクヤマによる「歴史の終わり?」(『ナショナル・インタレスト夏季号』)である。 歴史とはイデオロギーをめぐる争いであるから、その闘争が終わる時に歴史は終わる――。ソビエト連邦を筆頭とした共産圏が息も絶え絶えだった状況下におい て発表されたこの論文は、フクヤマが当時アメリカ国務省の政策立案スタッフであった事も関係し、自由主義陣営の(もっとはっきりと言えばアメリカの)勝利 宣言として世界に受け止められた。

その後の世界情勢は、まるでこの論文をなぞるかのように変化していくことになる。発表直後に東欧諸国が民主化へと進みだし、1991年にはソビエト連邦が ついにその姿を消した。そんな状況を予見したとして、このインパクトのあるタイトルを持つ論文とそれを著したフランシス・フクヤマという名前は世界を席巻 していく。 その論文をさらに深めていったものが、本書『歴史の終わり』である。

では、これから論を進めていく前に、フクヤマがここで使用する「歴史」という言葉の意味をもう一度確認しておこう。 先程も述べたがフクヤマのいう「歴史」とは、社会形態が発展していく過程においておこる争いであり、それは「異なるイデオロギー間におけると対立と闘争= 歴史」という意味として捉えるのが妥当である。この考えは、すべては弁証法によって発展していくとしたヘーゲルの考え方に立った歴史観であり、フクヤマは この考えのもとにソビエト連邦をはじめとする共産主義陣営の崩壊によって、自由主義・資本主義が社会形態における弁証法の最高段階に達したために、歴史は 終焉したという結論に達したのである。 だから、注意しなくてはいけないのは「歴史の終わり」という言葉はあくまで人間社会の進歩システムが終結したという意味であり、間違っても冷戦終結後の世 界において事件、出来事が起きなくなる(!)などというものではないということである。フクヤマ自身も本書冒頭で述べているが、89年の論文に対する批評 の中には「歴史」という言葉をぼくたちが普段使っている意味のまま読んだ上での批判が多々あったという。 フクヤマはそんな断りを述べた上で、「歴史が終わった後の世界」を次のように分析していく。「政治闘争が終焉した冷戦後の世界において、国家間における対 立というものはなくなり、それは経済的分野においてのみ存在するようになり、人々は安堵と退屈のうちでニーチェの言うところの「最後の人間」へといたる。 もちろん各地において宗教や民族といったものの違いを中心にすえた紛争が起こるかもしれないが、それらの概念は民主・自由主義にインパクトを与えるほどの ものなどではなく、民主・自由主義が一番合理的な政治体制であるという事実は揺るがない。もちろん現状の民主・自由主義社会において問題がないわけではな いが、それらの問題は民主・自由主義が本来持っている原理が正常に機能していないためであり、要するにそれは私たちの側の問題であって、原理的な欠陥では ない――」。

以上が本書におけるフクヤマの論旨であるが、この本が著されてから10年余り後の世界を生きているぼくたちは、必ずしも冷戦終結後の世界がフクヤマの予測 していたとおりに進んできたのではないことを知っている。

フクヤマは各地で民族紛争の原因となっている民族や宗教という価値観は、民主・自由主義社会に影響を与えないと語っているが、2001年のアメリカ同時多 発テロを境にして暴走をはじめたアメリカ・ブッシュ政権の動きを見ると、果たしてこの分析は正しいものだったのだろうかと思えてくる。なぜなら、この民 族・宗教を前面に押し出した一派によるテロ攻撃によって民主・自由主義のリーダーであるアメリカは、人命や物的な損失とともに、「民主・自由主義」にまで も大きなダメージを受け、以後その原理を変質させ、また同時に「反民主主義勢力」との闘争(つまり「歴史」)を繰り広げていくことになるからである。

民主主義の変質の過程は、ブッシュ政権のイラク戦争へと突入へ向けての動きにおいて、特によくあらわれていた。民主主義は多数決の原理にものづくものであ るが、今日のブッシュ政権は自分の都合のよいところしか、その原理を行使していないことは、誰の目からも明らかである。言うまでもなく、民主政治の根幹を 成すものは対話であり、それは多数決の原理と反対意見の尊重である。

だが、イラク戦争へといたるまでの過程において、国際世論の多くを占めていたものは武力行使に反対するものであったにもかかわらず、ブッシュ政権は自分と は異なる意見を尊重することをせずに、なりふり構わず自分の意見を押し通して戦争まで始めてしまった。多数派の意見、あるいは反対意見に対して耳を貸さな いこと。もちろんこれらの権力の暴走がブッシュ政権や、あるいはそれに追随する政権のみが有する固有の欠陥であると信じたいが、同時多発テロ以降の民主主 義世界において、このような変化が起きたことだけは確かである。

このように考えると、フクヤマが89年の論文と92年の著書で分析した結果は2004年の今日の時点から見てみると、必ずしも未来を予見しえたものではな いような気がしてくる。民主・自由主義は民族や宗教という価値観によって大きなインパクトを受けて変質し、反民主主義勢力との闘争という形で歴史は動きつ づけている。これが、今日の世界であり、フクヤマの論旨とは大きくことなる状況である。俗な言いかたをすれば、フクヤマは「はずれた」のだ。

では、ならばこの『歴史の終わり』というフクヤマの仕事は、まったく無駄なものだったのだろうか?そう問いかけられたら、僕は、そんなことはまったくな い、と答えるだろう。それどころか、僕はこの本は今日にこそ十分読みこまれるべき価値を有していると考えている。

今日にこそ十分読まれるべき価値を有しているものとは何か。それは、本書の中で「歴史の終わり」とともに論じられている「最後の人間」に対する論考の中に ある。 本書の原題は『The end of history and the last man』、つまり『歴史の終わりと最後の人間』である。邦訳のタイトルが『歴史の終わり』だったこともあり、当時から「歴史の終わり」ばかりに注目が集ま りがちで「最後の人間」の部分は論じられる機会もまた少なかったが、僕はいまこそ、ここに注目してみたいと思う。

冒頭でも触れたが、「最後の人間」とは、主体性を失った消費を繰り返すだけの存在に落ちた人間を意味するニーチェの言葉である。フクヤマは歴史が終焉した 後の世界において人間はこの「最後の人間」の段階に達し、ただ自分の快楽を追い求めるだけの存在と成り果てると分析しているが、この歴史の終焉の後に最後 の人間が出現するというこの考えは、フクヤマの師筋にあたるフランスの思想家、アレクサンドル・コジェーブの考えにもとづくものである。
冷戦終結後の世界を概観してみると、この「最後の人間」に限れば、フクヤマの分析はズバリ現状を予見したものではないかと思えてくる。ここでは手近な例と して、現代日本社会を取り上げて「最後の人間」が出現したさまを確認してみよう。

日本社会がいままでになく閉塞感に満ちたものとなってしまったと論じられるようになって、もうずいぶんになる。それは長引く不況が原因というよりももっと 本質的なもの、言うなれば日本人そのものの性質が変わってしまったことによって生まれたものであるような気がしてしまうのは、僕だけだろうか。

そんな日本人を変質させた大きな要因として考えられるのが、この何年かのこの国の政権が行ってきた政治手法である。近年、多くの議論を重ねてしかるべき重 要法案が満足な審議もされないままに成立してしまうという状況が、あまりにも目につきはしないだろうか。そこには一度選挙で多数の支持を得た後ならば、た とえどんなに世論が反対しても自らの政策をゴリ押ししてもなんら問題はないという、権力者の驕りがはっきりと見える。そのため、議会における審議など、 あったものではない。審議とは少数意見を少しでも政策にくみ上げるために必要な行為であるにもかかわらず、今日においてはまったくその機能は果たされてい ない。議会がただのセレモニーとしての場所でしかないような気がしてならないのは、僕だけではないだろう。

そのような政治状況下において、国民は自分たちが政治決定の過程から切り離されてしまったと感じるようになり、政治への不信はいつしか無関心へと変化し まったことは、想像に難くない。今日の政治はすべてが出来レースのように見えてしまった日本人は、それゆえにそれぞれが好む小さな世界、居心地のいい空間 へとひきこもり、それぞれの無風状態の空間で場当たり的な消費に興じることで現実から目をそむけていくという、そんな傾向が強くなってきたのではないだろ うか。無力感から意図的に社会との関係を絶ち、ただ消費に明け暮れる。これこそが今日の日本社会の姿であり、またフクヤマの言うところの「最後の人間」の 姿に他ならない。

また、この数年の間、日本社会はタコツボ化が進行したと言われることが多いが、このタコツボ化の進行こそ、この社会が「最後の人間」で溢れていることを証 明するものであると思われる。何故なら価値を同じくするもの同士が集う空間=タコツボは、「最後の人間」にとってもっとも居心地のいい空間であるからだ。 タコツボ化の進行は、「個」を必要なときだけつなぎ合わせるインターネットの存在によってさらに加速が加えられていると見るべきであろう。アクセスした先 には常に自分と価値を同じくする人のみが存在するから、より徹底した情報の消費を行うことが出来るインターネットという空間は、まさに「最後の人間」が生 きる空間である。フクヤマは「歴史の継続」を予見することは出来なかったが、一方ではしっかりと未来を予見していたのだ。

だが、ここでひとつ問題が浮上することになる。それは、確かに最後の人間は出現したけれど、その出現に至る過程がフクヤマの予想とは決定的に異なるもの だったということである。

フクヤマは歴史が終わった後の社会に「最後の人間」が出現すると論じていたが、今日の社会に溢れる「最後の人間」が出現したのは決して「歴史が終わったか ら」ではなく、民主主義の機能が暴走し、政策決定の場と国民の世論が乖離してしまった結果から生まれた政治的無力感によるものである。 「歴史」が終わらなかったにもかかわらず、今日の世界は「最後の人間」で溢れている。この事実をどう評価するべきなのだろうか? 人によって意見はさまざまであるだろうが、僕としては「最後の人間」の出現を指摘し、それを論じたことだけでも、このフクヤマの著作は大いに評価すべきで あると思う。論文においては、問いを立てることそれ自体が根源的な行為である。また、冒頭にも述べたとおり、書くという行為は間違いや批判を恐れない「命 がけの跳躍」なのだ。多少その姿が不恰好であったからといってそれを批判するかのような読みかたは、研究者でもない一読者である僕の場合、しなくてもいい のではないかと思うのが、僕の正直な感想である。

『歴史の終わり』はヘーゲル的歴史観に貫かれて書かれたものだが、そもそも書くという行為そのものがヘーゲル的な行為であることに、いまさらながら気付く。問いを立て、それを立証していく。反対の批評が出て、それを受けて論を深め、あるいは自説を修正し、新たなる著作に向かっていく。この動きは書くということとともに、僕たちが本を読むときの姿勢にも通じるものだ。いうまでもなく、読むことと書くことは、密接に関係しているのだ。

書くことと読むこと。それは、自分の考えを深めるため、また問題点をはっきりさせるために必要な行為であり、言い換えるなら、僕たちは物事を純粋化するた めに繰り返し書いたり読んだりするのだ。またそれは人間には備わっているが他の動物にはない本能、探究心に立脚したものであり、その意味で人間が人間であ ることの証明とも言える深遠な行為であるといえよう。

こころの奥から、声が聞こえてくる。純粋化せよ!高みへと上れ!そんな本能の願いを受けて、書き手は再び著作へと向かい、僕たちもまた新しい本に手を伸ば すのである。

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