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衣装をつけろ(道化師)

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2013年10月21日(月)23時08分17秒
  通報 返信・引用 編集済
  口を開いてあれやこれや喋って,自分が疑いようのない馬鹿だということを証明するよりも,黙っていて,他人に愚か者(道化)を見るような目で見られた方がよい。<ジム・ロジャーズ>

http://www31.atwiki.jp/oper/pages/2712.html


芝居をするのか! こんな錯乱の中で

俺には分からんぞ 何を言うのか 何をするのか

それでもやらなきゃならんのだ.....

しっかりしろ!

あゝ! お前は男だろ? お前はそうパリアッチョさ

衣装をつけるんだ 化粧をしろ

客は金を払って 笑いに来るんだからな

たとえアレッキーノがお前の(注)コロンビーヌを盗んで行っても

笑えパリアッチョ..............

みんな拍手喝采だ!

笑いに変えるのさ 苦悩と涙を

作り笑いの中に すすり泣きと痛みを隠して

笑え パリアッチョ

砕けたお前の愛のために

笑うんだ

お前の心に毒を注ぐその苦しみを
............

コロンビーヌとは

http://www6.atwiki.jp/karakuri/pages/50.html


フランシーヌ人形

http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%8C%E4%BA%BA%E5%BD%A2


元ネタはデカルトの夭折した娘?

http://dic.pixiv.net/a/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%8C%E4%BA%BA%E5%BD%A2


今から200年前フランス、キュベロンのクローグ村外れの館に一人の男が住んでいた。
村とは交流もなく、村人も気味悪がって近づくこともなかった。
だがある日男はフランシーヌ人形と4体の動く人形を伴い村を襲撃した。
村人が人形たちに次々と惨殺されていく様を男は笑いながら見ていたが、フランシーヌ人形はただじっと惨劇を見つめているだけだった。
村を滅ぼしても結局フランシーヌ人形は一度も笑うことはなく、男はそれに失望し、フランシーヌ人形の首を絞めて去って行った。
フランシーヌ人形は男が残した研究を元に疑似体液を作り出し4体の人形に与え再び動かした。
そして自分が笑えなかったから捨てられたのならば、一緒に笑える方法を探してほしいと訴えた。
こうしてフランシーヌ人形と4体の人形たちは笑う方法を探して旅に出た。
旅の中新たに仲間を作り出して次第にその数を増やし、「真夜中のサーカス」と呼ばれる大集団にまでなった。

彼女は「真夜中のサーカス」の団長であり、アクア・ウイタエによって作られた唯一の人形で、ゾナハ病を止める方法を知る唯一の人形でもある。
頭には創造主によってモデルとなった女性が遺した毛髪が植毛されている。
「フランシーヌ人形を笑わせる」ことこそ自動人形が唯一存在する理由であり、彼らを動かす機構である。
それ故に自動人形たちは彼女を絶対的女神のように崇拝し、彼女の命令は絶対に逆らえない。
しろがね」たちにとってこの人形を破壊することが最大の目標であり、「真夜中のサーカス」を壊滅させる唯一の方法だと考えている。
人間の生き血を啜り、ゾナハ病をばら撒く自動人形の首領であるため、いかにも邪悪な存在であるかのように思われているが、実は彼女自身は人間に対して悪意はない。
人間を苦しめているものの、それは創造主の男がそうやって笑わなかった彼女を捨てたためであり、それが笑う方法だと思い込んでいるに過ぎない。

物語中の「しろがね」と「真夜中のサーカス」の最終決戦にて、ついに鳴海が4体の人形をも退けフランシーヌ人形の前に立った。
この戦いで大多数の自動人形を破壊したが、同時にほとんどの「しろがね」も戦死してしまった。
志半ばで倒れていった多くの「しろがね」たちの無念と想いを背負い、自らも大きな代償を払ってやっとそこに立った鳴海
だがフランシーヌ人形の最後の告白はその全てを無残に打ち砕くものだった・・・。

元ネタはおそらく、哲学者デカルトが夭折した愛娘を模したフランシーヌ人形。デカルトはこの人形を肌身離さず持ち歩いてかわいがったが、スウェーデン行きの船で水夫に悪魔の人形と間違えられて海に捨てられてしまった。




『道化の涙は血の涙という。 "道化とは完全な認識を得ようとする人間のことだ"。神にもっとも近づいた時のあり方だが、"しかし、人間は神ではない。賢明な道化はそのことを知っている。だから道化にできるのは、あたかも自らが神であるかのように、あたかも自らが世界の究極の意味を知っているかのように振舞うことだけである。あらゆる道化につきまとう演技性はこうして生まれてくるのではないか。フェステやタッチストーンは、あるいはハムレットやフォールスタフは、愚者ないし狂人を演じているにちがいないが、彼等はまた神をも演じているのである"。(喜志哲雄「シェイクスピアの道化」)』


4分9秒....................

These Puppet are told what to do.Very rare do they talk about selling their souls to Satan,and talking about the Illuminati would get them killed. If asked about either,they deny it or avoid talking about it.

これら人形たちは何をするのかを言われている。非常に稀にだが魂を悪魔に売ることやイルミナティを語る時,彼らの命は奪われる。いずれにしてもその二つのうちの一つを尋ねられたら無視するか否定することだ。



この世界の仮説

http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/kasetsu/0000.htm


この世界には、なぜ、《自己》と《外界》について認識する能力を持った個体が存在できるのだろうか。この問題に理論的に答えようとする哲学の徒は、必然的 に方法論的な障害に突き当たることになる。すなわち、問題を定式化することそれ自体が、きわめて困難だという事実である。
 理論的な定式化の際に範型として用いられる自然科学の手法においては、一般に、必ずしも明示されない「暗黙の前提」がいくつも導入されている。認識能力 を取り上げようとするとき障碍になるのは、おそらく「学問的な記述の対象は、表現空間内部に並存し得る要素の集合として表記できる」という前提だろう。こ れは、客観性を保証するための自明の前提として、通常は無批判に受け入れられる。最も典型的なケースは、古典的な物理学に見られるように、3次元の座標空 間内部にさまざまな物体が存在するという表記法である。よりソフィスティケートされた諸学においては、集団遺伝学のように、座標空間内部の不要な要素を捨 象して遺伝子のみを学問的対象として抽出したり、マクロ経済学のように、企業や消費者などの経済単位が活動する領域として抽象空間を措定するなど、多様な ヴァリエーションが見られる。
 その内部に複数の対象が並存するような特定の「表現空間」を前提とする記述は、科学的方法論に基づいて学問を構築する上で、きわめて有効に機能する。だ が、《自己》と《外界》について論じようとするとき、この記述法を用いること自体、問題のポイントを見失わせる結果をもたらす。その理由は、《自己》と 《外界》では、それを記述するのに必要な表現空間の構造が根本的に異なっている点にある。《外界》に関しては、個物が並存する一様な空間を基本フレームと して記述することが可能である。しかし、《自己》を記述しようとすると、その世界におけるさまざまな事象――記憶表象や知覚、観念連合など――を、「私 の」という相の下に、非一様な“遠近感”をもって描出するしかない。これは、《外界》の表現空間が有する一様な構造と著しい対照をなす。こうした構造上の 差異は、《自己》と《外界》を関連づけようとするとき、いっそう際だってくる。すなわち、実感として《自己》が閉じた自立的な世界を形作っているにもかか わらず、《外界》の記述においてこれに相当するのは、数多く存在する知的生命体の中の1個体の“内面”という1部分でしかない。表現空間の構造的差異を無 視して、《自己》と《外界》を統一的に記述しようとする――例えば、「中枢神経系がこれこれの状態になったときに、しかじかの意識が派生する」というよう に――と、一般に、《自己》の有する本質的な特性が黙殺される結果となる。
 少なからぬ哲学者が、こうした問題は、近代的な科学的方法論の限界を示すものと解釈している。現に、フッサールは、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現 象学』において、主観的な経験に“理念の衣”を被せる「物理学的客観主義」が、感性的・身体的世な生活界の豊穣さを忘失させる危険を持つことを指摘し、 「現象学的還元」のような客観主義とは異質の方法論が必要であることを説いている。
 しかし、こんにちに到るまでの科学の驚異的な成功を考えると、《自己》と《外界》の関係を解明しようとする試みに対して、科学が全く無力であるとは、に わかには信じがたい。少なくとも、「表現空間」の構造上の差異に起因する問題に限っては、科学的方法論の手法に基づいて、矛盾を解消することが可能だと思 われる。
 この論文では、こうした観点から、《自己》と《外界》をどのような空間で表現するかという問題に絞り込んで、両者を調和的に記述することを可能にする枠 組みを提示するものである。この議論において鍵となるのが、空間の次元数である。通常の表現空間は、比較的小さい次元(座標空間の場合は3次元)を有する と考えられている。この場合、空間内部に存在するいくつかの個体は、同一の次元内部に並置させられるため、《自己》のような閉じた構造を持つ「部分」を構 成することは困難だった。だが、きわめて高い次元数を持つ空間においては、その内部に、閉じた「部分空間」を想定することが可能になる。《自己》と《外 界》とは、きわめて高い空間次元を持つ単一の世界を、異なるアスペクトにおいて記述したものと解釈することができる。
 断っておくが、この論文は、これまで誰も提唱しなかった「新説」を提唱するものではないし、従来の科学ないし哲学の学説に本質的な修正を加えることすら意図していない。援用される科学理論も、大半が定説として科学者に受容されているものばかりである。 筆者の目的は、あくまで、ある解釈の下に世界の姿を描き出そうとすることにある。

現代においても、人が世界の何たるかを知ろうとする努力は、いまだに「群盲象を撫でる」の域を脱していない。確かに、人類は、自然現象を記述する有効な科学理論を数多く獲得してはいる。だが、その内容は、必ずしも日常的な直観や宗教的な信念と相容れるようには見えない。このためか、科学に対する不信感や嫌悪感を耳にする機会も多く、科学が解明し得ない超常現象への関心も、TVや週刊誌などの大衆的マスメディアにおいて根強い。科学が提供する世界像は、一般の人にとっては、何か「しっくりしない」ところがあるようだ。譬えて言えば、科学の描く世界〈象〉が「壁のようなもの」であるのに対して、日常的直観は、それが「柱のようなもの」だと訴えているのである。
 これから私がしようとしているのは、この矛盾の劇的な解消ではなく、「柱のような」足の上に「壁のような」胴体が乗った〈象〉の似姿をデッサンすることである。このような折衷案とでも言うべき描像は、科学的知見や日常的直観をほとんどそのままの形で採用し、ある解釈を媒介として両者を強引につないでしまうことによって得られる。ただし、この仮説は、単純で合理的だが、それなしには胴と足がバラバラになってしまう重要な役割を果たしている。
 もしかしたら、私が描き出す〈象〉は、足が3本しかなく、胴体から直に鼻が突き出ている異形の怪物かもしれない。だが、それはそれでかまわないと思う。「足は4本あるはずだ」とか、「鼻と胴体の間に頭があった方が良い」との批判をもとに、描像を修正することは常に可能だからだ。悲しむべきは、「人間は盲だから〈象〉そのものについて語ることはできない」と賢しらに決め込む態度である。世界は峻厳にして近寄りがたいが、あらゆる解釈を受け付けぬほど茫洋としてはいない。世界について合理的に語ることを可能にする解釈を思いつく限りは、その妥当性を検証してみることが、「知を愛する者」の勤めなのである。



管理人注:「万物をお創りになる者の手を離れるとき、全てはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる」 JJ ルソー(1712-78)

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/216.html


どこかの誰かが言っていました...『人はなぜ、ジグソーパズルをするのだろう?
数多くのヒントを基に全体像を想像し、構築する。
完成した・・そのときの歓喜が人々を魅了するのだ。

思考とはそうしたもので、誰が誉めてくれるわけでもない。
このとき誰かに正解を教わったら・・・こんなにくだらないことはない。
正解を求める力こそ・・求道心にも似た・・真理を求める心なのだ。

簡単に正解を与えられて満足する、一般人にはならないほうがいい。
真実は・・・どんな答えであれ・・・あなたの出した答えこそが・・・正解なのだから。真 実は言語では表せないのですからね。』ウラジミール・ジャン・ケラビッチはその著「死」の中でいっている。

「アダムは自分の裸体を悟り善と悪の区別を意識し,同様に歳 をとってゆく人間は知らないことを何か習うのではなく,新しい次元の中で,新しい照明のもと 悲しい真理を発見するのだ」

としてもそういう「知を愛する者にとって」真理を求める求道心は大事だ。






このエンドゲーム1ではビルダーバーグ=世界統一政府のミスリードがなされているしそうそうアレックスジョーンズも登場する。偽擬似論・偽正論もあるというタビストック式偽旗理論。

色々な覚醒したブロガーが出てきています。皆がそうなれば何も起きないということです。

http://kabukachan.exblog.jp/20828153/

ついでに......マンホールの蓋が丸いのはなぜだろうか?

http://www.rd.mmtr.or.jp/~bunryu/manhole2.shtml

ビル・ゲイツの「パズル面接試験」
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マイクロソフト社(1975年創業、社員5万人)では、毎月、1万通以上の履歴書が届く中から有望とされた人に対して詳しい電話聞き取り調査がなされ、さらに選別された人が本社で1日がかりの面接を受ける。(マイクロソフト社の社員の半数はインド人?)

人の能力で「知識」と「知能」のどちらが大事か?ソフトウェアのように技術進歩が極めて速い業界では「知能」を重視することが常識である。ところが、日本では技術進歩の早い業界でも、知能を重視する採用はほとんどなされていない。知能重視選抜で有名なのが、「才能ある労働力こそ資産」だといっている米国マイクロソフト社である。

マイクロソフト流のユニークな人材採用試験の方法は「パズル面接」といわれている。それはパズルを取り入れたもの。面接でのパズルの中身は公表されていないが、インターネット上では多くの実例が明らかにされている。代表的なものをいくつか示すと。

問1.鏡が上下は逆転せず、左右だけ逆転させるのはなぜか?
問2.マンホールのふたが丸いのはなぜか?
問3.車のドアの鍵はどちらに回すのがよいか?
問4.M&Mチョコレート(マーブルチョコのようなもの)はどうやってつくるか?
問5.アイスホッケーリンクの総重量は?
問6.世界中のピアノ調律師の数は?
問7.富士山をどう動かしますか?

これらのパズルには正しい答えがあるものも、無いものもある。面接は、応募者1人に3人以上の社内の優秀な人材が順次担当し、即時に電子メールで評価を次の担当者へ連絡する。
こういった特定の専門分野に限らない一般的な「問題解決能力」を測る試験は、マイクロソフトや他の技術系企業、ウォール街の採用面接においてお決まりのものとなっている。

では、なぜ「パズル面接」をおこなうのか

このようなパズル面接では「間違った不採用はあっても、組織にとって致命的となる間違った採用はない」とされる。

競争力が問われる業界の会社は、「(1)頭は良くても何もできない人、(2)何かはするが頭は良くない人、を避けよ」と考えている。(1)の人は、博士号を持っていても実務能力がないので、誰にもいうことを聞いてもらえない。(2)の人は、何かはするがばかげたことをして、他の人が後で尻拭いをしなければならない。

これらの人を避け、「頭が良くて、しかも何かをする人」を選ぶのは難しい作業だ。論理パズル面接が役立つのは、パズルを解く力(=論理と想像力によって問題を解く力)を調べるのに、他の試験よりは優れているからだ。「論理パズル」は技術革新を要する会社ならどこでも直面する問題を、コンパクトに示している。

千葉大学工学部講師 弁理士 豊田正雄氏「米国産業復興の秘密はパズル面接から?」
http://chizai.ne.jp/cz_site/column_200308.html より

管理人注:余談ですが昔のお話........ある学生が広告会社の面接に行くと.....試験官は「ここに輪ゴムがある。有効的な使い方を述べよ」と。学生は慌てず騒がず長々とウンチクを披露した後でこう言います。「インポ矯正にいいです」と。その学生はその場で採用試験に合格した。(良い子に適当でない表現があります)

ユングとティベット密教

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/276.html

出る杭は打たれる

http://kizuki99.com/codependence.html

http://

 
 
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