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南朝革命

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2013年10月23日(水)15時57分2秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://blog.goo.ne.jp/worldhiker/e/16fac8037b36908fa2fac115c012b46b

明治維新は無血革命だったか

注:
南朝革命」 とは (天皇の地位を北朝から南朝が奪取する革命)

小野寺直(南朝天皇の正統派
で今日では日了法皇と名乗る)を検索すると2件出てきます。胡錦涛はちゃんと知っているのですよ。

Wikiによれば....『本因妙大本尊という板本尊が、彼らの信仰の対象である。小野寺直こと日了によって開かれ、今日では日了法皇と名乗るに至っている。かつて冨士大石寺顕正会の前身である妙信講と法論対決をおこなった。彼らによると、日蓮の後継者は日目であり、日目の進言により後醍醐天皇が日蓮・日目の教えに帰伏し、後醍醐天皇の勅願に依って富士山本門寺が開山されたとしている。したがって、彼らの主張によれば、日蓮の遺命である本門戒壇はすでに存在していることとなる。彼らは、日蓮正宗大石寺は、焼失したのち別の寺として再建されたものであり、日蓮の法脈は伝わっていないとしている。彼らは、八尺瓊勾玉を所持していると称している。これは皇位の象徴であり、古来皇族の中に於いて、この神璽を継承した者をもって天皇と称したのである。「日本国の正当な皇統である大覚寺統当主である富士山本門寺、日了法皇の所持する所である。」とし、日了は事実上天皇を名乗っている。』

本因妙大本尊を検索すると.......

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%9C%AC%E5%9B%A0%E5%A6%99%E5%A4%A7%E6%9C%AC%E5%B0%8A&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=

ニューヨーク・タイムズはかつて報道した.....日本には二人の天皇がいると。

http://angel.ap.teacup.com/applet/gamenotatsujin/msgsearch?0str=%82%A0&skey=%8F%AC%96%EC%8E%9B%92%BC&x=0&y=0&inside=1

創価学会ニセ本尊

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%9C%AC%E5%9B%A0%E5%A6%99%E5%A4%A7%E6%9C%AC%E5%B0%8A%E3%81%A8%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=

 明治維新が「無血革命」と言われているのはなぜ?と家族から聞かれた。海外の友人を交えて日本の歴史について話していたときである。どうやら学校で無血革命と習って、明治維新は平和革命と思っていたらしい。日本では、受験教育にターゲットを絞って学校教育が行なわれていることが多いから明治維新以降の近・現代史は「受験に出ない」と言ってスキップされることが多い。因みに受験のために必須科目の世界史がスキップされていたというニュースがあったのはごく最近のことだ。

 江戸開城が「無血開城」であったのは事実である。勝海舟の働きによって、徳川が「江戸城死守」という作戦を取らなかったからだ。明治維新の期間をペリー来航(1853年)から西南戦争(1877年)までというスパンで考えると分かるが、無血どころではない謀略あり、陰謀あり、暗躍あり、弾圧あり、暗殺あり、虐殺あり、復讐あり、テロあり、裏切りあり、故なき自決あり、地方の反乱あり、農民一揆ありの血を血で洗う内乱の惨状が数え切れないほどあったのである。極めつけの悲劇的惨状が会津戦争(1868年)であった。今でいえば子ども達の犠牲である。だから、会津の人々は今でも薩長政府を許していないというエピソードが沢山ある。

 半藤一利が『「皇国史観」は「薩長史観」』と述べた意味について考えてみる。
 明治維新は外様であった薩摩長州を中心とする西に位置する諸藩が、徳川の味方であった譜代が多かった東に位置する諸藩との権力闘争であったものが、西側が勝ち組となった。その間、薩長政権という旗印ではなくて「天皇親政」や「尊王」を掲げて勝ちを収めた。薩長が掲げた、岩倉具視のアイディアで偽造を疑われている「錦の御旗」(朝敵を討つ際の官軍である証明、誰もが反対できぬという証明の旗)という旗印で別(水戸)の「尊王派」であった徳川慶喜とその家臣が自分達は朝敵か!?という驚きで、腰砕けになった鳥羽伏見の戦いはその典型である。

 先述したような血を血で洗うような状況の中で、何が善悪で何が正不正か分からぬ動乱期、実際に「天皇」を掌握するということもあったのではないか。実際に「掌握」するとは、単に幼少の天皇を後見して教育し、新政府のいうとおりに動く天皇を育成する道もあろうが、最初からいうことを聞く天皇を天皇の地位につけるという道もあったということである。『「玉」を握っている』という会話が勤皇派志士の間で交わされていたそうである。孝明天皇の実子であるかどうかの明治天皇のアイデンティティが問われる取り換えばや物語があるのだ。マイナーな一部の陰謀論的歴史記述であるかもしれない。半藤一利は、そこまで言及してはいない。しかし、孝明天皇暗殺説を採るならば、その後の天皇は果たして?という究明に及ばざるを得ないのではないか。

 南北朝時代というのを国民は習っているはずだ。天皇の血統をめぐって「南朝」と「北朝」があると。孝明天皇は北朝系の天皇であった。しかし明治天皇は南朝系の天皇なのではないかという疑惑である。もし取り換えばや物語が本当にあったとするなら、その後の歴史が氷解すると思ったことが3点ある。
 一つは、明治天皇自らが伊藤博文首相暗殺の直後「南朝が正系である」という言明を行なったということ→明治天皇が北朝系ならなぜそんなことを言うか不明である。
 二つは、小学校の国史(日本歴史。昔はこういった。)の教科書記述をめぐって国会で「南北朝正閏論」(正統のものと正統のものでないものをはっきりさせる論議)の激論が起こったこと→教科書では北朝の万世一系説を採っていた。天皇が北朝なら、なぜそんな議論が起こったか不明である。
 三つは、近代化を図ろうとしながら、「天皇」だけは「現人神」としてアンタッチャブルな聖域としたか→やましいことがないならアンタッチャブルにする必要がない。「大日本帝国の最高権力者」であるとするだけで済む。

 もしこういうことが本当であったとすれば、明治維新は、天皇の歴史における「南朝革命」(天皇の地位を北朝から南朝が奪取する革命)でもあったということである。しかし、現在、このことはオフィシャルには認められていない。明治天皇の、それを公表したいという悲願はうやむやにされたまま、天皇は「北朝系」のままにされている。戦前の「万世一系(天皇家はただ一つの血統である)」という宣言が崩れるからに違いない。

 この場合、薩長の「尊王」は「自分が担いだ天皇を尊重する」という意味になる。明治天皇を「神」扱いで作った「皇国史観」は、薩長の自分の「天皇」を担いだ際の隠密行動を隠蔽するに格好の史観であったという意味で「薩長史観」なのである。勤皇の志士達は、師に当たる萩の吉田松陰の教えに従ったと言われている。教えの一つが、秘密裏にするとは言っていないかも知れないが「南朝革命」であった。長州は、長い間、南朝系の末裔を匿(かくま)っていたそうだ。孝明天皇の子どもと同じ年恰好の末裔がいたそうだ。そういう意味を込めてこそ、半藤一利の「皇国史観」は「薩長史観」との規定が意味を持つ。なお、半藤一利は、維新前後の天皇のことを勤皇の志士らは「玉(ぎょく)を掌握している」と言っていたと述べている。心底天皇を尊敬し、真に力を持たせた天皇に従って政道を行なう場合の天皇の言い方は「王(おう)」と言うという説がある。

 明治維新のこういう明暗の中で取り入れた西欧化がどういう意味を持つのか、今後、時間をかけて探っていく。異文化研究は、しかく自分の国の歴史を細かく知ることに繋がるとは自分でも驚きであった。

山岡荘八さんは偉かった?

http://blue.ap.teacup.com/asakawa2005/83.html

『日本人が知らない「人類支配者」の正体』(太田龍・船井幸雄、ビジネス社)を読んだ。
 日本史の近現代に興味があって読んだが、第6章(最終章)だけ特に興味深かったので、以下に抜粋。

■明治天皇(北朝系)はなぜ、南朝系天皇とすり替えられたのか

・孝明天皇弑逆事件を無視して維新史は語れない

《船井幸雄》
  太田さんの『長州の天皇征伐』という本は実によく判りました。
孝明天皇と、その子・睦仁天皇(北朝系)の暗殺と、大室寅之祐(南朝系)のすり替え説は十分理解できます。
 ・・・戦時中、学校の教師が天皇の御真影を捧げ持ってくるとき、それに最敬礼しないとぶん殴られた時代でした。
「天皇は現人神だ」などと非常識なことばかり言われました。
「上官の命令は天皇の命令と心得よ。これは絶対の命令だ」とか、いまの北朝鮮以上の無茶苦茶なことがまかり通っていた時で、どうしてこんなに変な世の中を日本人は作ったのかと、心ある人は誰でも思うような時代でした。
 私らの年配で旧制中学に入った人間で、心底から天皇制が好きな人はあまりいません。
 口では言いませんが、天皇制には違和感を持っている人が大半でしょう。私は人間としての明治天皇も昭和天皇も大好きです。
 しかし、戦前のような天皇制は大嫌いです。

 しかも誰が考えても北朝系の明治天皇がどうして南朝を正当化したのか、あるいは明治天皇の后の照憲皇太后がどうして皇后でありながら皇太后と称され、明治神宮の祭神となっているのか疑問に思っていました。

《太田龍》
 ・・・当時、京都の公家は東京に来ておりましたが、京都にもずっといろいろなつながりを持っていました。
 明治22年ごろは、まだ幕末のことをよく知っている人たちがたくさんいて、その内幕と真相を京都の公家のみならず庶民もよく知っていたわけです。

 孝明天皇(1831-1867)を弑逆して後の天皇をすり替えたという秘密は、公然と語ることはできないけれど、皆知っていたわけです。
 それらの事件に関わった人たちが華々しく大仕掛けに明治憲法を制定しましたが、せいぜい持って5代ぐらいだろうと予測していたわけです。
 ・・・1918年に徳富蘇峰が『近世日本国民史』を新聞に連載し、のちに単行本として出版しました。
 全100巻のつもりで明治時代のことを書くつもりが、明治の前の戦国時代、豊臣時代、徳川時代だけで30巻位、そのあと孝明天皇の時代が30数巻あるのです。
 だから、明治時代の歴史を研究する時に孝明天皇の時代が非常に重要だということに気がつくのです。

 ・・・・
 徳富蘇峰は昭和初年に、孝明天皇を平安神宮に合祀すべきだと運動を行ないます。
 それからいろいろな動きがあって、昭和13年に孝明天皇を平安神宮にお祀りすることになりました。
 孝明天皇については、明治、大正を通してずうっと国家、政府の指導者はできるだけ隠して触れないようにしてきました。
 孝明天皇の歴史と記録が出版されたのは敗戦後になってからです。

 孝明天皇は36歳で亡くなっています。
 天然痘による病死というのが公式な記録ですけれど、その時点から、病死ではなく暗殺という噂が飛び交って、しかも内情を知る人たちは、岩倉具視(1825~83)が手引きし、伊藤博文(1841~1909)が長州の忍者を使って暗殺を実行したという話しが伝えられてきました。
 そのことは、敗戦まではまったく触れることのできないタブーでした。

 しかし、敗戦後になって、いろいろな作家が推測とか、記録を探すようになって書くようになりました。
 私の知る限りでは、もっとも明確に暗殺の可能性を書いたのは山岡荘八さんなのです。
 山岡荘八は『徳川家康』全26巻を書きました。
 そのあと『徳川慶喜』『明治天皇』の6巻ずつ全12巻を書いています。
 それを執筆していくうちに、孝明天皇暗殺を示唆するような文章に行き当たったのです。

■長州藩によってすり替えられた、もう一人の明治天皇

 日本の歴史では、国家は公明正大というか正直、誠を基本的な思想としてきました。
 また、指導者に要求される道徳、倫理でもありました。
 ところが幕末においてはそれが根本的に覆されて、朝廷では岩倉具視とか、長州や薩摩とかの勢力が西洋風のマキャべリズム、権謀術数を是とするような邪悪な風潮が入ってきました。
 そのことを山岡荘八は書いています。

 それをもっとも深く掘り下げたのは、『裏切られた三人の天皇』という本を書いた鹿島昇さんです。
 ・・・・孝明天皇と、その皇太子・睦仁親王(1852~67?)、この睦仁親王は孝明天皇が崩御された後にすぐ、天皇に即位します。
 ところがこの睦仁親王もまもなく殺されて、実際に明治天皇と称されている人物は長州藩が連れてきた南朝の末裔である大室寅之祐(1850~1912)、この3人のことです。

・幕末維新革命の真相

 ・・・・サッスーンの代理人としてグラバーが登場します。
 この長崎に来た武器商人トーマス・グラバーは、日本を支配するためには武家政権が最大の障害であり、武士の支配の総元は徳川幕府だと認識します。
 徳川幕府の統治を完全に転覆しないと日本は自分たちのものにならない。
 そこに、嘉永6、7年(1853~54)、アメリカのペリー艦隊が来て、無理に日本を開国させ、欧米列強が日本に入り込みます。
 グラバーは日本の武家の政治を転覆するためにいろいろな策謀を巡らします。
 ところが、孝明天皇は朝廷と武家と一体になり、日本全国民が一致して西洋の不当な侵略、日本支配に対抗して、日本を守らなければならないという公武合体策を唱えます。
 そして、孝明天皇の妹宮である和宮が14代徳川家茂(1846~66)将軍に嫁ぎます。
 これでは埒が明かないというので、グラバーは薩摩と長州に内訌して、薩長の軍隊と徳川の軍隊を全面的な内戦に持ち込んで、日本を中国のようにバラバラに解体する植民地支配を目論んだのです。
 その最大の障害が孝明天皇だったわけです。

・・・・
 そして、慶応2年12月25日(西暦では1867年1月)に孝明天皇弑逆事件が起こりました。
 翌、慶応3年(1867年)1月9日には睦仁親王が践祚(天皇の位を受け継ぐこと)し、さらに、慶応4年(1868)8月27日に即位式をあげ「明治」と改元されました。

 ところが、この睦仁天皇も16歳くらいでしたが、言うことを聞かなかったのです。
 英国の手先の薩長になびかず、徳川幕府と朝廷が一致して日本を守るという孝明天皇の政策を改めなかったのです。
 そこで、睦仁天皇も邪魔だということで弑逆されて、行方がまったくわからなくなったのです。
 ・・・・
 大室寅之祐という名前を睦仁にすり替えて詐称しているからです。

 日本が孝明天皇弑逆事件の真相を明らかにして、それ以降の日本には歴史的正統性が存在しないということを明確に日本人が認識する・・・ということが必要ではないかと思うわけです。

http://

 
 
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