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こうした最中天皇家は財産を移そうとしていた浅ましさ

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2013年10月29日(火)21時33分57秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://blue.ap.teacup.com/97096856/4758.html

天皇マネーで検索すると33件出てきますのでじっくりお読みください。これ以上書きません。

憲法9条はクリスチャンが作ったのか?

http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11594371421.html

≪園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 より抜粋(4)≫
テーマ:園田義明
(3頁からの続き)


■天皇が父の如く慕った牧野伸顕

1921(大正10)年、元老・山縣有朋(やまがた ありとも 1838-1922)に代わって宮内大臣に就任した吉田の岳父・牧野伸顕(まきの のぶあき 1861-1949)は、宮中グループの中核を担っていくかに見えた。しかし、1925(大正14)年に内大臣となり、1935(昭和10)年12月26日に退官する。

牧野の退官日の様子は『入江相政(いりえ すけまさ)日記 全6巻』(入江為年 監修・朝日新聞社 1990~91年刊行)〔※関連資料(1・2・3・4)〕で知ることが出来る。(中略)昭和天皇は幼時から接してきた牧野を父のように慕っていたのだろう。昭和天皇は声を上げて泣いて牧野との別れを惜しんだ。

この時既に牧野は対米協調派リベラリストの代表格として陸軍革新派将校から命を狙われていた。74歳の老人でさえ排除すべきテロの標的となっていた。翌1936(昭和11)年2月26日、陸軍青年将校が湯河原に身を潜めていた牧野を襲撃する。この二・二六事件で、牧野は孫の和子(1915-1996、吉田 茂の娘で麻生太郎の母)と共に一命を取り留めたものの、陸軍はターゲットを吉田 茂にまで拡げていく〔※関連資料(1・2・3・4)〕。

二・二六事件の責任を取って岡田啓介内閣(1934年7月8日~1936年3月9日)は総辞職し、廣田弘毅内閣(1936年3月9日~1937年2月2日)が誕生する。既に外務省を退官していた吉田は廣田内閣組閣参謀として外務大臣に就任する予定だったが、陸軍の圧力によって阻まれる。代わりに駐英大使に任命され、日本に戻った翌1939(昭和14)年に外務省を正式に退官した。

これ以後、肩書を持たないまま戦争回避に向けて奔走することになる〔※虚構に隠されたエスタブリッシュメント、搾取する側にあるもう一つの「日本」と借金奴隷として搾取される側の一般庶民が暮らす「日本」、閨閥社会、目に見えぬ階級社会の構図等について関連資料(1「二つのアメリカと二つの日本と『自殺する日本』」・2・3・4・5・6・7「敗戦革命」・8重要)〕。


■東京倶楽部の財界人・樺山愛輔

吉田が頻繁に出入りしていたのが東京倶楽部(1884年設立)である。この東京倶楽部の中心人物の一人に樺山愛輔(かばやま あいすけ 1865-1953)がいた。樺山もまたメソジスト派のクリスチャンだった。

樺山も薩摩出身で、父は海軍大将、元帥、文相、内相、海相、初代台湾総督などを歴任した樺山資紀(かばやま すけのり 1837-1922)である。愛輔は米アマースト大学 Amherst College(1821年創立)卒業後、国際通信社、日英水力電気、日本製鋼所、蓬莱生命保険相互、千歳火災海上再保険、千代田火災保険、大井川鉄道などの役員や東京ロータリークラブ(1920年創立、―Freemasonry)の創立会員を務めるなど、まさに当時の代表的財界人だった。

樺山愛輔は満洲事変(1931年)直後に険悪となった日米関係の修復を図るべく渡米。訪問先には米国エスタブリッシュメントが一堂に集う「ボヘミアン・クラブ Bohemian Club(1872年創設、サンフランシスコに本部を構える)」〔※マンハッタン計画及びべクテルとの関係について関連資料(1・2・3・4・5)〕も含まれていた。

しかも、井上準之助(1869-1932)亡き後、モルガン家が築いたJ・P・モルガン J.P. Morgan&Co. の社史に残る名会長トーマス・ラモント Thomas William Lamont, Jr.(1870-1948)との親交を引き継ぎ、戦後は樺山の長男である丑二(かばやま ちゅうじ 1901-)がモルガン銀行東京支店顧問に就任している。

また、戦前からロックフェラー財団 Rockefeller Foundation〔※「財団 Foundation」及び「慈善事業」の意味について関連資料(1・2・3・4・5)〕がスポンサーとして名を連ねる太平洋問題調査会(IPR、1925~1961)〔※関連資料(1・2)〕に関わり、戦後は、薩摩の松方正義(1835-1924)〔※『持丸長者 幕末・ 維新篇』より【系図3―松方正義の閨閥】〕の孫に当る松本重治(1899-1989)と共にジョン・D・ロックフェラー3世 John Davison Rockefeller Ⅲ(1906-1978)の支援を得ながら国際文化会館(1952年創設)〔※国際文化会館―MRA他関連資料(1・2・3・4・5・6・7・8)〕の設立に関わる。

樺山こそがモルガン家とロックフェラー家のエージェントとも言える人物だった。そして、彼は当時であれば間違いなく死刑に相当する重大な国家反逆罪を犯していた。


■御前会議「機密漏洩」事件

樺山愛輔は1941(昭和16)年9月6日の御前会議の内容を、ジョゼフ・グリュー Joseph Clark Grew(1880-1965)〔※John Pierpont Morgan(1837-1913)の従兄弟。『赤い楯』より【系図9】及び関連資料(1・2・3)を参照〕駐日米国大使にリークしていたのである。

このグリューはモルガン家と姻戚関係にあり、グリューの妻・アリス・グリュー Alice de Vermandois Perry Grew(1883-1959)〔※母はリリー・キャボット・ペリー Lilla Cabot Perry(1848-1933)。奴隷貿易・麻薬貿易業者キャボット Cabot Corporation 一族の出身。関連資料(1・2)〕の大叔父は黒船を率いて来航したペリー提督。グリュー家もまた米国を代表するエスタブリッシュメントだった。

この時の御前会議で「帝国国策遂行要領」〔※昭和天皇の戦争責任について関連資料(1・2・3・4・5・6・7・8)〕が決議され、その第1項で10月上旬を目途に戦争準備を完遂することを、第2項で日米交渉の継続を決めているが、この日本人情報提供者は第1項には触れずに第2項のみを伝えている。

グリューが書き残したこの年10月25日の日記を、五百籏頭 真(いおきべ まこと 1943-)の『日米戦争と戦後日本』(大阪書籍 1989年刊行)より見ていこう。



今日、日本政府の最高指導層と接触のある信頼すべき日本人情報提供者が私に面会を求めてきた。彼によれば、この絵内閣総辞職以前に御前会議があり、その席で天皇は軍の指導者達に対し、対米不戦の政策の確認を求めた。陸海軍の指導者はそれに答えなかった。すると天皇は、祖父の明治天皇が追求した進歩的政策に言及して、自分の意向に従うことを陸海軍に命ずる異例の発言を行った。



続けて樺山の、グリューへの依頼内容が記されている。



近衞はこのたび総辞職し、東條自身が組閣した。しかし、天皇は東條に対して、これまでの経緯に捉われず、対米協調を旨として憲法の条草をよく守り、行っていくように、という注意を与え、それを条件として東條の組閣を認めた。東條が現役大将のまま首相となったのは、陸軍を効果的に統制しつつ日米交渉を成功裡にまとめる為である。だから、軍の代表者が首班になったからと言って、アメリカとの対決姿勢を意味すると思わないでほしい。どうかアメリカ政府としては日本との交渉に見切りを付けず、東條内閣とも誠実に交渉をお続けいただきたい。



この文中にある「異例の発言」について補足しておきたい。御前会議終了間際、昭和天皇は懐からこの明治天皇の御製を取り出し、二度朗読した。



四方の海 みなはらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ



更に「私はこの明治天皇の御製を愛誦(あいしょう)し、その平和愛好の精神を自分の心に言い聞かせている」と付け加えた。これが「異例の発言」として樺山からグリューへ伝えられた。グリューは日本人情報提供者との深い友情から敢えて名を伏せた。グリューにとって樺山は宮中グループとの極めて重要な仲介者であったからだ。

また、この樺山が属する宮中グループこそが対日戦後政策を円滑に実現し、良好な日米関係を再構築する上で不可欠な存在と堅く信じた。何としても保護すべき対象だったのだ。この樺山の側近が吉田 茂であった。


■賊軍と「薩土肥」結集の意味

開戦後の翌年(1942年)6月、グリューは交換船で米国へと帰国することになった。

この時、グリューやロバート・クレイギー Robert Leslie Craigie(1883-1959)駐日英国大使と親しくしてた松平恆雄(まつだいら つねお 1877-1949)の娘は、加瀬俊一(かせ としかず 1903-2004)〔※関連資料(1)〕を介して、グリューにはメッセージと共に長い交友関係の記念として宝石箱を、抑留生活がしばらく続くクレイギーには御殿場で手に入れた緬羊(めんよう)の肉を届けさせた。加瀬によれば、メッセージと宝石箱を受け取ったグリュー夫妻は、流れる涙の為に顔を上げられなかったと言う。

グリューに宛てたメッセージの内容は明らかにされていないが、松平は娘に対して「米英両国とも、国交回復の時が必ず来る。『お互い、その時を待ちましょう』と両大使夫妻に伝えては」という趣旨のアドバイスをしたとされる。

もし、松平のアドバイスが娘のメッセージに反映されていたとするなら、当時これまた大問題になっていただろう。何故なら、松平恆雄の娘とは秩父宮妃勢津子(松平節子 1909-1995)であり、昭和天皇の義妹に当るからだ。

当時まだ皇族妃は皇族と華族に限られていた為、彼女は叔父の松平保男(まつだいら もりお 1878-1944)子爵家に入籍した上で嫁いだ。本名は「松平節子(せつこ)」だったが、貞明(ていめい)皇后(九条節子 1884-1951)の節子と同じ字だった為、畏れ多いということで結婚を機に伊勢の「勢」と会津の「津」をとって勢津子に改め、秩父宮妃勢津子となる。

秩父宮妃の会津への強い想いは、宮家へ上がることが家族の自由を奪うことになるのではと泣いて悩み抜いた末に、養育係の口から出た「(家族の)皆様、会津魂をお持ちでございます」の言葉に励まされ、結婚を決意したことからも分かる。

時は1928(昭和3)年1月18日。秩父宮雍仁(やすひと)親王(1902-1953)と松平恆雄の長女・節子の婚約が正式に発表された日、会津では「これで朝敵の汚名も消える」と三日三晩提灯行列が繰り出されたと言う。

実父・松平恆雄は東京帝大法科大学政治学科を卒業後、外務省で天津総領事、欧米局長、事務次官、駐米大使、駐英大使を歴任し、退官後は宮内大臣を務めた。更に戦後は、枢密顧問官を経て初代参議院議長にまで就任した人物である。何と言っても姓が示す通り出身は福島県会津若松市、つまり会津藩最後の藩主にして京都守護職だった松平容保(まつだいら かたもり 1836-1893)の四男に当る。

母・信子(鍋島信子 1886-1969)の旧姓は鍋島、つまり旧肥前佐賀藩主・鍋島直大(なべじま なおひろ 1846-1921)の四女だった。

秩父宮妃は女子学習院(1885年創立)在学中に貞明皇后に見込まれ、結婚に至るまでには貞明皇后の強い推挙があったと言われる。そこには、明治維新時の旧会津藩に対する誤解を解きたいという心遣いもあったとされる。この極めて聡明な貞明皇后の使者として、秩父宮妃誕生の事実上のまとめ役となったのが樺山愛輔である〔※関連資料(1)〕。

秩父宮妃勢津子の誕生は、戊辰戦争(1868~1869)で真っ先に賊軍となった奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟の会津(松平)と、次いで征韓論で敗れて賊軍となった「薩(牧野・樺山)・土(吉田)・肥(鍋島)」の結集を意味していた。

一方で、この秩父宮婚姻問題でも嫌がらせをしていたのが山縣有朋(やまがた ありとも 1838-1922)ら長州勢だった。


■木戸と岸が引き継いだ長州閥

既に肩書を失った吉田 茂は、楠木正成の怨霊に取り憑かれたかのような日本の暴走を、大磯からただ眺めるしかなかった〔※虚構に隠されたエスタブリッシュメント、搾取する側にあるもう一つの「日本」と借金奴隷として搾取される側の一般庶民が暮らす「日本」、閨閥社会、目に見えぬ階級社会の構図等について関連資料(1「二つのアメリカと二つの日本と『自殺する日本』」・2・3・4・5・6・7「敗戦革命」・8重要)〕。

山縣有朋(やまがた ありとも 1838-1922)は「日本陸軍の父」と言われた大村益次郎(1824-1869)の遺志を継ぎ、参謀本部を権力基盤に、「長州の陸軍・薩摩の海軍」という棲み分けを図りながら、「陸軍のローマ法王」として陸軍の前期のほぼ50年間を長州閥で実質支配した。その派閥網を掌握しながら軍のみならず政界にも君臨。「内閣製造者」にして「内閣倒壊者」として桂、寺内、田中政権を生み出していく。

皇室からも忌み嫌われたほどの山縣の権力も、1921(大正10)年の宮中某重大事件で失墜。翌年に死去し、以後、長州閥時代は崩壊していくかのように見えた。しかし、実際には政・官・軍・財へ人材が配置され、2人の人物によって脈々と引き継がれていくのである。

その2人とは木戸幸一(1889-1977)内大臣と岸 信介(1896-1987)〔※関連資料(1・2)、『腐蝕の連鎖』より【系図11-1・11-2―満州利権者と朝鮮窒素と水俣病】〕。両者は「特別な信頼関係」で結び付いていた。

木戸の父・孝正(1857-1917)は、長州閥の巨頭・木戸孝允(=桂 小五郎 1833-1877)の実妹・治子(?-1875)と、吉田松陰(1830-1859)〔※司馬史観―エドウィン・ライシャワー Edwin Oldfather Reischauer(1910-1990)との関係を含め関連資料(1・2・3「この歴史観の核心は、『開国が近代化を齎した』すなわちペリー来航が日本近代化の発端であるとして、アメリカのお蔭で日本は進歩したと思わせることにあった」)〕の親友としても知られる長州藩士・来原良蔵(くるはら りょうぞう 1829-1862)の長男として生まれ、後に木戸家を継いで木戸孝正となった。この孝正と「長州ファイブ Choshu Five」〔※関連資料(1)〕の山尾庸三(1837-1917)の娘・寿栄子(1871-?)の間に生まれたのが幸一であり、その妻・鶴子(1896-?)は日露戦争の英雄、児玉源太郎(1852-1906)陸軍大将の娘である。

木戸幸一こそが長州の血を受け継いでいた。

一方で岸 信介は、関東軍参謀の秋永月三(あきなが つきぞう 1893-1949)らの画策により、商工省公務局長から満洲国に転出。満洲国総務庁次長として宮崎正義(1893-1954、石原莞爾のブレーン)が描いた「満洲産業開発5カ年計画」を実行に移す。

金沢の下級武士の家系に生まれた宮崎は、サンクトペテルブルグ国立総合大学(1724年創立・1819年独立。名称は時代により変更)留学中にロシア革命(1717年)前夜に遭遇し、南滿洲鐵道株式会社(満鉄)〔※関連資料(1)及び『持丸長者 国家狂乱篇』より【図6・7-2・8・10・11・表3・図12-1・12-2・系図2-1・2-2・2-3・3・5】〕きってのロシア・スペシャリストとなる。

宮崎は世界恐慌の最中にあって驚異的な成功を収めたソ連の経済5カ年計画に着目。関東軍参謀の石原莞爾(いしわら かんじ 1889-1949)や戦後国鉄総裁として新幹線建設に尽力した十河信二(そごう しんじ 1884-1981)らと満鉄経済調査会(経調)を発足させ、ソ連の経済5カ年計画を取り入れた日本独自の官僚統制経済システムを企画立案した。

岸と星野直樹(1892-1978、父・星野光多はキリスト教伝道師)〔※『日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰』及び満洲伝道等について関連資料(1・2・3・4・5)〕は鮎川義介(あゆかわ よしすけ 1880-1967、日産コンツェルン創始者、満洲重工業開発総裁他)〔※『持丸長者 国家狂乱篇』より【図8・系図3】〕の協力を得て満洲重工業開発株式会社(満業)〔※関連資料(1・2)〕を設立し、鮎川はここで官僚統制経済システムに修正を加える。末端の下請け産業の底上げを目的とした系列システムを統合させることで、より重層的なシステムに作り替える。満洲を壮大な実験場にしながら、岸は東條英機(1884-1948)に接近、「弐キ参スケ」として結合するのである。

東條英機の父・東條英教(とうじょう ひでのり 1855-1913)は賊軍とされた南部藩士だった。この為、陸軍大学校を首席で卒業しながらも長州閥によって昇進が阻まれ、予備役中将として軍人の生涯を終える。東條の長州への恨みにも似た感情の背景には、父の受けた仕打ちがあった。

東條は永田鉄山(ながた てつざん 1884-1935)、小畑敏四郎(おばた としろう 1885-1947)、岡村寧次(おかむら やすじ 1884-1966)などと共に、陸軍に蔓延(はびこ)る長州閥打倒、国家総力戦体制、統帥権の確立を目指して立ち上がる。一時ではあるが、確かに「官軍」と「賊軍」が入れ替っていたようにも見える。

岸と東條を結び付けたのは、岸の関与した阿片(アヘン)密売によるカネの力であったとする説が今尚語り継がれている。

そもそも「統制」という言葉が法律語として初めて登場するのは、満洲産業開発5カ年計画以前の1931(昭和6)年4月に公布された「重要産業統制法」であった。これを立法起案したのが、ドイツの国家統制化運動を学んで帰国した農商務省時代の若き岸。その実施に当ったのが、岸とその上司であった木戸幸一であったことは『岸 信介の回想』(岸 信介, 矢次 一夫, 伊藤 隆 共著・文藝春秋 1981年刊行)で岸本人が語っている〔※関連資料(1・2・3・4・5Nazio・6・7・8・9)〕。

木戸と岸の「特別な信頼関係」は農商務省時代の上司と部下の関係によって培われていた。

満洲国から帰国した岸は、阿部、米内、近衞内閣の下で商工次官を務め、革新官僚の活動拠点になっていた企画院や陸軍「革新派」と連携しながら革新勢力を形成。満洲産業開発5カ年計画に端を発する戦時統制経済を日本に持ち込もうとする。

岸を中心とする革新勢力の期待を一身に担ったのが、木戸であり、近衞文麿(1891-1945)〔※日本放送協会の第2代総裁として戦前のラジオを独占、ナチスのプロパガンダ放送同様、ラジオ放送を戦意高揚に巧みに利用した人物〕だった。木戸と近衞は京都帝国大学時代からの学友であり、2人は原田熊雄(1888-1946、西園寺公望の秘書)と共に「宮中革新派」を形成。宮中内部の権力を掌握すべく、軍部や右翼と手を握りながら、牧野伸顕(まきの のぶあき 1861-1949)を支えた関屋貞三郎(せきや ていざぶろう 1875-1950)宮内次官を辞任に追いやり、宮中グループの主導権を薩摩から再び奪い取っていた。

しかし、岸は阪急東宝グループの創業者として知られる自由主義経済人であった小林一三(こばやし いちぞう 1873-1957)商工大臣と対立。企画院事件(1939~1941)も重なり、小林は岸に対して「お前はアカ(共産主義者)だ」と辞任を迫った。

このことも岸本人が『岸 信介の回想』の中で触れている。この時、岸解任を決めたのが近衞文麿だった。近衞は木戸と岸を裏切った。これを機に、過激な統制強化に反発する国会や財界は「革新官僚はみなアカだ」と非難し、岸もアカと見なされるようになる。

後に岸は、東條の引きもあって東條内閣(1943年10月18日~1944年7月22日)の商工大臣に就任するも、劣勢への対応策として商工省が廃止、軍需省が新設された際に軍需次官(兼国務相)に降格されたことから東條との関係が悪化する。

サイパン島陥落(1944年7月7日)によって戦争継続が不可能と判断した岸と、本土決戦覚悟で戦争継続を目論む東條との対立が決定的となり、岸の辞任騒動に発展、これをきっかけに東條内閣は総辞職に追い込まれる。

この時、岸 信介の背後から「反東條・倒閣」を指示していたとされる黒幕が木戸幸一(1889-1977)である。近衞内閣(第2・3次近衞内閣:1940年7月22日~1941年10月18日)総辞職後、木戸は内大臣という天皇の「側近中の側近」の立場を利用しながら、皇族内閣に反対し、対米強硬派である東條を強く推した。

昭和天皇への忠勤ぶりが目立つ東條を昭和天皇の意思が直接伝えられる首相に起用することで、戦争回避に道が開ける。木戸のこの甘い判断は、皮肉にも自らが岸を使って東條内閣を崩壊させるという結末を生んだ。

2人揃って楠木正成暴走列車から飛び降りたものの、時既に遅過ぎた。吉田が束ねるクスノキの巨樹が、暴走を食い止めるべく長州包囲網を築いていた。長州の判断の遅れが「陸の長州」の悲劇を生む。戦後「陸の長州」は戦犯からスタートしなければならなかったのである。

〔資料〕日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰 - Wikipedia、他関連資料
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9F%BA%E7%9D%A3%E6%95%99%E5%9B%A3%E3%82%88%E3%82%8A%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%85%B1%E6%A0%84%E5%9C%8F%E3%81%AB%E5%9C%A8%E3%82%8B%E5%9F%BA%E7%9D%A3%E6%95%99%E5%BE%92%E3%81%AB%E9%80%81%E3%82%8B%E6%9B%B8%E7%BF%B0

〔資料〕日本のキリスト教と植民地伝道:旧満洲「熱河宣教」の語られ方(PDF、全44頁)
http://www.meijigakuin.ac.jp/~hongbo/PRIME31Zhang.pdf

〔資料〕『官僚と政治と宗教―「満洲国」官僚武藤富男の事例 1~4』 By 裴 富吉(ペエ・ブキル) 1999年
http://bbgmgt-institute.org/mutou-case.htm

http://bbgmgt-institute.org/mutou.html

〔資料〕アジア・太平洋戦争下の「日本基督教」~伝道活動を中心に~ By 川口葉子(PDF、全21頁)
http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/bitstream/10097/48935/1/1881-0187-2008-4-31.pdf

〔資料〕プロパガンダと情報操作 - LEGACY OF ASHES 2012年2月11日 ※超重要。
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/410.html

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