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国鉄三大怪事件

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2013年11月 1日(金)21時54分55秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://www2u.biglobe.ne.jp/~akiyama/no113.htm

鹿地亘とOSSで検索すると.........

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%B9%BF%E5%9C%B0%E4%BA%98%E3%81%A8OSS&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt

日本の黒い霧 鹿地亘事件

http://www.geocities.jp/t_shimizu2003/kiri_7_2.html

第113回 鹿地亘事件と「国鉄3大怪事件」(2005・7・28記)

 「戦後60年」の夏、この60年間に発生し,迷宮入りした事件のあれこれに思いをめぐらせた。なかでも、敗戦4年後(1949(昭和24)年)の夏に起こった「国鉄(現JR)3大怪事件」~下山事件、三鷹事件、松川事件~とは一体何だったのか、と改めて思う。このころの日本は占領下で、米ソの冷戦が次第にエスカレートし、民主化を目指したGHQの占領政策が「逆コース」をたどりはじめた時期にあたる。

 この年10月1日、中国では毛沢東主席が北京・天安門広場で中華人民共和国の成立を宣言した。そうした国際情勢の下で起こった事件だけに、作家松本清張氏は『日本の黒い霧』(文藝春秋)のなかで、共産勢力にブレーキをかけるために起こした「占領軍の謀略」だと唱えている。

 「国鉄3大怪事件」の2年後には、GHQの諜報機関キャノン機関による鹿地亘拉致監禁事件が発生し、1年後、救出されるというSFまがいの事件が起きた。まず、鹿地亘事件の場合からみてみよう。

●鹿地亘(かじわたる)事件

「ちょうど江ノ電の鵠沼(くげぬま)付近の道路にさしかかりましたとき、1台の軍用車がうしろからやってきて、軍用乗用車です。ヘッドライトに目がくらんで、私はちょっとそれを避けようとしたとき、いきなり横づけにされて、中から5,6人の制服、私服の軍人がおどりかかって、ものをいう間もなく殴り倒されて、両手をうしろにねじ上げて、車に引きづり込まれました。」(衆議院法務委員会議事録第10号1953・12・10)

 これは占領下の日本で実際にあった話である。拉致されたのは、プロレタリア作家で中国共産党、ソ連共産党幹部と通じていたといわれる鹿地亘氏(当時48歳で、結核の転地療養のため鵠沼に住んでいた。)。

 拉致したのはGHQの諜報機関(通称G2)のひとつで、ジャック・キャノン中佐の率いるキャノン機関(メンバーは25人とも。キャノン中佐は1981・3故郷テキサス州の自宅で66歳で自殺)。ここの任務は、主としてソ連スパイの摘発、ソ連スパイを寝返らせてアメリカの2重スパイに仕立てる作業を担当していた。占領期間中は、逮捕状なしで拘束しても違法にならず、こうしたことが可能だった。

 鹿地氏が冒頭の国会証言のようにして拉致されたのは、1951(昭和26)年11月25日だった。それから1年余り経った1952(昭和27)年12月7日午後7時、鹿地氏は東京・神宮外苑の路上に放り出された。この間、キャノン機関の本拠地だった本郷ハウス(米軍に接収された東京・湯島の旧岩崎別邸)などを転々とさせられ、結核の治療(新薬ストレプトマイシンなどの投与)を条件に2重スパイを強要されていたようだ。しかし、キャノン機関は日本の独立前に閉鎖され、キャノン中佐自身も帰国し、鹿地氏は別の情報機関に移されていた。

 鹿地氏が救出された陰には、キャノン機関でコック(ハウスボーイともいわれる駐留軍要員)をしていた山田善二郎さん(当時23歳。現在、えん罪事件の被害者を支援する国民救援会会長)の働きがあった。山田さんが鹿地氏を知ったのは鹿地氏が自殺未遂を起こしたときだった。介抱にあたったとき「内山様 信念を守って死にます。時計は1時を。看守の方にご迷惑をお詫びします。」という遺書があったのを忘れなかった。(遺書のあて名にあった内山氏とは鹿地氏が上海時代を通じて親しかった内山書店の内山完造氏のこと。)山田さんはそのころから救援の手を差し伸べるようになり、命の危険を感じながら家族や内山氏あての手紙を預かって、届けるようになる。手紙には監禁場所などが書かれていた。

 手紙を受け取った内山氏は、鹿地夫人とともに人権問題で活躍していた弁護士の猪俣浩三衆議院議員(左派社会党)に「鹿地氏の救出と山田さんの保護」を相談した。猪俣議員は密かに齋藤昇国家地方警察本部長と面会し、鹿地氏が米軍に監禁されていることを伝え、救出を依頼した。猪俣議員は後にこの時の様子を次のように証言(1982年)している。

「あなたがね 快く引き受けてくれれば、それは私は何もいわんのだが。引き受けられないのかと言ったら、『引き受けるわけにいかない。努力はするからー。ただ、私には頼んだことは黙っててくれ。』そればかり再三念を押すのだ。そこで私は六感でパンときたんだ。この男はみんなよく知ってんだと。アメリカともつうつうなんだと。これはこの男に頼んだってラチはあきはせんと。だから冒険ではあるけれども一か八かやってみるより仕方ない。」

(『鹿地亘事件~アメリカ情報機関の謀略~』NHK教育テレビ2000・2・29放送)

 こうして、猪俣議員は鹿地氏が拉致監禁された事実を世間に公表し、世論に訴えることを決断した。1952年12月6日朝、猪俣議員の自宅には大勢の報道関係者が集まり、その場で山田さんが事件の生々しい経過を詳しく説明した。その日の夕刊各紙はこの事件を大々的に取り上げた。このころ、鹿地氏の身柄は沖縄にあったが、翌12月7日、立川基地に移送され、その日の夜、神宮外苑で解放されたことは既に記した。

 この監禁事件は、日本が独立国になった(1952・4・28)後も継続していたため主権侵害の疑いが生じ、国会で取り上げられた。しかし、審議の途中で鹿地氏が2重スパイだったことを証言する証人(三橋正雄氏)が現われたり、監禁中に書いたという2重スパイを認める「自供書」の存在が明らかにされたりした。さらに、1958年2月26日の衆議院法務委員会に駐日アメリカ大使館の名前で不法監禁を否定する文書が提出されるに至って、焦点は監禁事件から鹿地氏の2重スパイ事件に移った。鹿地氏は電波法違反で在宅起訴され、それから17年後の1969年に東京高裁から無罪判決が出るまで裁判で争うことになる。その後、鹿地氏は1982年7月26日、79歳でこの世を去った。

 それにしても、鹿地氏を救出した山田善二郎さんの命懸けの人助けがなければ、米諜報機関の謀略が白日の下に曝されることはなかっただろう。キャノン中佐の自殺の原因は知る由もないが、暗部を仕切るキャノン機関としては大失敗したことになる。



●「国鉄3大怪事件」

 いまだに真相がわからない「国鉄3大怪事件」とは、どんな事件だったのか。以下、発生順にかいつまんで振り返ってみる。

(1)下山事件

 1949(昭和24)年7月5日、国鉄下山定則(しもやまさだのり)総裁(47歳)が行方不明になる。翌日未明(6日午前0時19分ごろ)、国鉄常磐線北千住ー綾瀬間の線路上(足立区五反野南町)で自他殺不明の轢死体で発見された。

 国鉄職員は当時、満鉄(南満州鉄道)からの復員組を加え、戦前の3倍の60万人に上っていた。GHQは吉田内閣に対して9万5千人を整理(首切り)するように指示。国鉄当局は下山総裁が行方不明になる前日(7月4日)、労働組合に第1次首切りの対象者として3万700人に通告していた。

 行方不明だった下山総裁の遺体発見は波紋を呼び、他殺説、自殺説が乱れ飛んだ。こうしたなかで、遺体を解剖した東大医学部の古畑種基教授(法医学の第一人者)が、「死後轢断」との解剖所見を明らかにしたことから他殺説が急浮上した。

 ある者は、共産主義勢力に破壊的な打撃を与えるため、GHQと日本の右翼組織が仕組んだ仕業だと謀略説を唱え、ある者は人員整理に反対する共産党・労組左派の犯行だとする説を唱えた。

 その一方、 自殺説は、下山総裁の事件直前の不可解な行動(替え玉説もあり)を捉え、人員整理に悩んだ末の自殺だとしている。松川事件の元被告(無罪)だった佐藤一氏は『下山事件全研究』の中で、長年の調査の結果、「初老期のうつよる自殺」と見ている。

しかし、下山事件は、いまなお、自・他殺不明の未解決のままだ。



(2)三鷹事件

 国鉄当局が6万3000人の第2次解雇を通告したした3日後の1949(昭和24)年7月15日午後9時24分、国鉄中央線三鷹駅車庫から、突然、7輌編成の無人電車が暴走。前の3輌が車止めを突破して駅構内を突っ切り横転して、駅前交番や周囲の建物を壊して止まった。この事故で、住民6人が死亡、怪我人多数が出た。

 警察は、国労の拠点だった三鷹電車区の10人を逮捕した。しかし、1審の東京地裁は共同謀議を「空中楼閣だ」として、10人のうち共産党員9人に無罪、非党員の検査係(29歳)1人に無期懲役の判決(1950年8月11日)を言い渡した。

 控訴審の東京高裁判決(1951年3月30日)では、検査係は死刑、他の9人については「共同謀議は証拠不十分」として全員無罪とする。最高裁では8対7のきわどい差で上告を棄却(1955年6月22日)したため、検査係は無罪を主張し、再審を申し立てたが、1967年、病死した。真相は闇の中である。

(3)松川事件

 1949年8月17日午前3時9分、福島県内の国鉄東北線金谷川ー松川間のカーブで、青森発上野行きの旅客列車の機関車が脱線転覆、続いて4輌が脱線した。この事故で、機関士と2人の機関助士の3人が死亡したが、機関助士の1人は「列車妨害だ」と言いいながら息絶えたという。乗客にけがはなかった。警察の現場検証の結果、線路脇の田んぼから金梃子(てこ)やスパナ、犬釘(くぎ)が見つかり、仕組まれた脱線転覆事故であることがわかった。

 警察は別件逮捕した少年の「自供」から国労、東芝労組の共産党員ら20人を次々に逮捕した。福島地裁の1審判決(1950年12月6日)は、5人に死刑、5人に無期懲役、10人に懲役3年6月~15年とした。その後仙台高裁の2審で3人の無罪が確定。残りの被告17人は上告審、差し戻し審を経て、最高裁の再上告審(1963年9月12日)で全員の無罪が確定した。検察の「共同謀議」説が被告のアリバイ証明で、完全に崩された結果の無罪だった。真犯人は見つかっていない。



●真相は永久に解明されないのか

 3っの事件とも占領軍の謀略だとする松本清張氏は『日本の黒い霧』の「あとがきに代えて」のなかで次のように書いている。

「最初から反米的な意識で試みたのでは少しもない。また、当初から『占領軍の謀略』というコンパスを用いて、すべての事件を分割したのでもない。そういう印象になったのは、それぞれの事件を追及してみて、帰納的にそういう結果になったにすぎない。」と執筆の意図を述べ、さらに「・…これらが結果的に民主勢力への制動機の役目、つまり、日本における共産勢力の『暴動性』を『警告』した事件であった。・…」として、結論としてこれらの事件で利益を得たのはGHQであるとしている。

 また、春名幹男著『秘密のファイル~CIAの対日工作~』(新潮社)は、松川事件などについて吉田茂元首相が『回想録』の中で「その真相は必ずしも明白でなく、したがってその悉くを共産党に結びつけることは正当とはいえない。」と述べていることに注目している。しかし、「米国立公文書館の吉田ファイルには、CIAがなお公開を拒否している秘密文書が13ページある。」と春名氏自らの調査結果を紹介している。

 さらに、春名氏は、キャノン機関の上部組織だったというJSOB=合同特殊工作委員会の事務局長役の人物に会った機会に「国鉄3大怪事件」について質問したところ、ノーコメントで、しかも「関係書類は全て廃棄した」と答えたという。そうしたことから「未知の秘密工作組織に関する文書が残されている可能性は小さいだろう」とみている。

 自らも「下山病」にとりつかれたと称した齋藤茂男氏(故人)は『夢追い人よ』(築地書舘)のなかで、「下山事件の確たる真相は、私にはわからない。しかし、あの事件が起きた1949年の夏が戦後の歴史と、日本人の民主主義への希求とをねじ曲げ、ねじ伏せた政治的な夏であったことは、確かなことのように思われる。そのとき、歴史の流れを誰が、どのように変えようとしたのか。」と同時代を生きた者の疑問を投げかけている。

 柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』(祥伝社)は、帯に「私の祖父は実行犯?なのか」とうたって、この夏、刊行された。450ページにのぼるこの作品には、齋藤氏らが下山事件の関係者として肉薄した数々の人物が登場している。

 こうしてみると、「国鉄3大怪事件」も鹿地事件のような謀略だった可能性が捨てきれないが、真相は永久に解明されないのだろうか。#



このビデオは国鉄関連ではありませんが,この時の人体実験の資料がその後の生物兵器に繋がって行ったのは間違いないことです。731舞台は戦犯にはなりませんでした。日本人の闇がここに見られます。戦後の厚生省は彼らの生き残りが中心となっていった。
 
 
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