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ベクテルの秘密ファイル

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2013年11月24日(日)17時36分53秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://www.asyura2.com/2002/war12/msg/147.html

関連記事:世界最大の個人企業ベクテル社

http://blog.goo.ne.jp/yamanooyaji0220/e/6dfdb79366b1ea5a23762771ee6c2e82

「ベクテルの秘密ファイル」 Laton McCartney著 (訳・広瀬隆)1988年刊 より
 CIAの一機関ベクテル
 きっかけはサウジアラビア
 ベクテル社はCIAに対してさまざまな面で協力したが、初めのうちはそれが些細なものと見えた。確かに最初はその通りだった。
 ベクテルのCIA協力活動は、第二次大戦後間もなく、ほかの地域と平行しながらサウジアラビアではじまった。当時、アメリカは中東にふたつの大問題を抱えていた。第一は、イランの隣接地域に戦後早くも圧力をかけはじめたソ連だったが、この問題は、現地の内乱とCIAが仕掛けたクーデターによってほどなく解決することができた。第二に、当時イギリスの委任統治下にあったパレスチナに、国家建設をめざして大規模な移民を開始したユダヤ人の問題だった。どちらの動きも一触即発の危険な火種を宿していたため、一九四七年に入って、ベクテルはアメリカ政府に手を貸すことにしたのである。
 この年ベクテル社は、サウジアラビアのラスタヌーラに建造した精油工場に、アメリカから派遣された私服の海軍士官が数人、駐在することを認めた。この士官の表向きの業務はサボタージュの監視だったが、やがて本来の任務が情報収集であることが分ってきた。ここで得られた情報は、ベクテルがひそかにラスタヌーラに建設した海軍情報センターに送られた。
 この土地が緊張するにつれ、ベクテルはCIAの惰報収集のため社員を提供するほど活動を広げていった。一九四八年七月半ばの活動がその一例で、インターナショナル・ベクテルの人事担当重役バズ・クラークは、ダーランにあるアメリカ公使館付の情報将校ダン・キャットリンを、ベクテルのトラック部隊に引き合わせた。一カ月半にわたって砂漠を走り続け、到着したばかりの部隊だった。
 当時アラブ側は、赤子同然のユダヤ人国家を壊滅するため、着々と攻撃を進めていたが、攻撃に必要な石油タンクが、イスラエルの飛行部隊の手で次々と爆破されていた。キャットリンはベクテルのトラックの運転手一人ずつから、砂漠を走行中に目撃したイスラエル飛行部隊の動向や、石油タンクの被害状況を聴き出し、ここで得た豊富な情報を、直ちにジェッダ駐在のCIA副支局長フランシス・メロイ大佐に送った。キャットリンの報告書にはこう記されている。

 ---ユダヤ側はヨルダン国境にあるガソリン・タンクを爆破。大型タンク一基、小型予備タンク一基が完全に破壊された。被害規模は、最低二十万ガロンに達するだろう。
 この報告書に、明らかにベクテル重役陣から聞いたと思われる次のような話が添えられているのである。

 ---サウジの国王は、第一線での援軍の再編を図っている・・・そのため、シオニストがヨルダンの移動式燃料庫を発見して爆破するのは難しいだろう。サウジ陸軍に石油を送る新しい七十六センチのパイプラインを敷設するよう、サウジ国王がインターナショナル・ベクテルに再要請している。今のところ、ベクテルは何も行動に移していない。
 ベクテルのサウジ・プロジェクト主任トマス・ボーマン自身も、何か重要な情報を入手した場合は、アメリカ政府に通報していた。例えば、一九四七年十月十四日、彼はCIAのメロイに、パレスチナ国境における問題を次のように知らせた。
「昨日、この地にいるアラブ人から、事態が非常に危ないという情報を得た。このジェッダという男は、流暢な英語を話し、頭の回転も大変早い。ジェッダによれば、『ご存じないかもしれないが、アラブ陸軍は国境に向け、北に移動している。パレスチナが分割される事態になれば、直ちに攻撃に移れるよう、全軍が集結を図っている』という」

 政府転覆
 国務省の資料によれば、ボーマンはサウジ側に物資を供給した疑いを持たれていたようである。ことにベルギーに飛んで武器の買い付けと船積みを手配した疑いが濃厚で、ボーマン自身はこれを否定したが、現にベルギー製の武器がサウジの兵器庫に運び込まれていたのである。国務省の報告書には、このなかに「ベルギー製のずんぐりした鼻先をした製品のライフル銃」が含まれ、「最近船積みされた証拠に、グリースのついた工作部品も混入していた」とある。
 ベクテルにとっては、この兵器がイブン・サウド国王や問題のスレイマン蔵相との関係改善に役立ち、当時、アラブに傾いていた国務省は、この兵器を問題にしなかった。アメリカが深刻に受け止めていたのは、ソ連がこの紛争に介入し、アメリカの石油供給路を支配する事態だった。そのため国務省は、ベクテルとアラムコに対し、サウジアラビアとバーレーンにあるすべての精油所と油田に爆破装置を仕掛けるよう要請した。
 国務省の極秘書類によれば、「ソ連が敵対行動に移った場合」に、全施設を爆破させるためのものだった。この計画は国家安全保障会議の反対で実現しなかったが、最終的には、一九四八年に中東戦争が起こってもソ連は介入しなかった。
 戦争自体はアラブ側の敗色が濃くなり、その後、シリア政府はイスラエルを支援したアメリカに激怒し、ベクテルが建造するパイプラインがシリア国境を横断することを許可した協定を、破棄してしまった。これでベクテルは、何百万ドルもの損害を受けるはずだった。ところが一九四九年、CIAが支援するクーデターでシリアの文民政府が倒れ、アメリカの利権に有利な軍事独裁政権が新たに成立した。こうして間もなく、ベクテルはシリア横断のパイプライン建設の許可を得たのだが、このクーデターは、ベクテルにとってまことに都合のいい時期に起こっている。ところがベクテルは、この政変への関与を一切否定しているのである。
 当時の国務省の文書には、ある”多国籍企業”が反乱軍に武器と資金を援助したことが大きな要因となって、シリア政府が転覆した、と記されている。また、サウジアラビア駐在アメリカ公使、J・リーヴズ・チャイルズによれば、その”多国籍企業”はインターナショナル・ベクテルの可能性が最も高いという。
 ごく控えめに見ても、ベクテルがCIAに深く関与していたことは確かだ。その関係を証明するものとして、元アラムコの幹部マイケル・チェニーの著作がある。サウジアラビアに十年滞在したのち、一九五〇年代にアメリカに帰国し、中東での体験を記した作品である。
 チェニーはCIAの実力をきわめて低く見ている。サウジにおけるCIAの活動は、「プリンストンかエールを出たばかりのうぶな若者のようで、中東に関しては初歩的な知識さえ持っていなかった」と批判し、ただひとつおこなわれた現実的で効果的な情報活動は、ある”大きな民間企業”によるものだった、としている。当時のサウジアラビアで該当する企業と言えば、インターナショナル・ベクテルだけだったのである。

 ダレス兄弟との絆
 一方アメリカでは、ステファンの妻ローラの叔父でベクテル重役のジョン・シンプソンが、ダレス兄弟との絆を深めていた。ことにアレン・ダレスは、ニューヨークでシンプソンの住むブロックに高級住宅を買い、シンプソン家の晩餐にしばしば顔を出していた。一九五一年、ちょうどイランから追放されたブリティッシュ・ペトロリアムが南イエメンのアデン精油所建設をベクテルに依頼した直後だったが、シンプソンはダレスに会った。ベクテル社がイランの開発で学んだことを説明したのである。
 翌一九五二年十一月三十日、ダレスはすでにCIA副長官に任命されていたが、ふたりはサンフランシスコで再会した。朝鮮で重傷を負った息子を見舞うため現地へ向かうダレスが、途中で立ち寄ったのである。ベクテル重役の報告書によれば、身内の不幸にもかかわらずダレスはシンプソンとの再会を喜び、イランに貯蔵されている莫大な量の石油をモサデク政権がソ連に輸出しようとしているのではないか、とふたりが深刻な議論を交したという。この会議でダレスは、ある調査を引き受けてくれるかどうかをシンプソンに尋ねた。ロシアまでパイプラインを建設する技術的ノウハウを、イランが持っているかどうかの調査だった。二週間後、シンプソンは回答を書き送った。


 ---われわれが議論した例の件について、またわが社の組織が情報や意見を持っているかどうかについて、ステファン・ベクテルと話をしました。援助できることは何でもしようという私の意見に、彼も完全に同意しています。わが社には、きわめて有能な社員がいます。あの地域にかなり長いあいだ駐在した経験を持つ者ですが、この件について特に注意を払うよう、この男に指示しておきます。この地域や問題について、最もくわしいわが社の仲間たちと連絡を取ってくれるでしょう。全力をつくして、最高の知恵を絞り出すつもりです。
 シンプソンが書いた”きわめて有能な”男とは、ベクテルのパイプライン部門の主任であるジョージ・コリーJr.副社長だった。コリーがベクテルのエンジニアを使って調査した結果、イランはロシアまでパイプラインを建設する能力がある、という結論が出た。最悪の事態を考えたCIAが、間もなく、”トロイの木馬作戦”を立てた。一九五三年にCIAの力でクーデターが起こされ、シャー・レザ・パーレビが王位に復権したのである。
 こうした策謀だけでなく、ンンプソンとダレスは世間話めいた手紙もやりとりしていた。ダレスの手紙は多くが悲観的なもので、あるときは次のような手紙を書いた。

 ---私の見る限り、極東、インド、インドネシアなどの全域で、われわれはこれまでの勢力を失いかけているようだ。しかもこんな状況だというのに、何も有効な手を打っていないとしか言いようがない。
 シンプソンは励ましの言葉を書いて、何とかダレスの気持を引き立てようとした。一九五四年六月、当時すでにCIA長官になっていたアレン・ダレスがジョゼフ・マッカーシー上院議員の批判を受けたとき、シンプソンは滑稽な調子で次のような手紙を書いた。

 ---君が過去、現在を通じて共産党員であったことは一度もないと、私が請け合うよ。この明快な私の所信を表明すればきっと大いに慰めになるだろう。こういう試練のときには、友人との信頼関係が一番だからね。冗談はこれぐらいにしよう。君が部下の組織のたるみを見過ごしたという話に、私がどれほどむかつき、腹を立てたかは、とても言葉で書けないほどだ。このように襲いかかってくる虫ケラを許すようなことを、われわれが何かやってきたのかね。理解できないことだ。君のために乾杯だ、アレン。わが国とわれわれすべてのために、君が素晴らしい貢献をしていることに自分で大いに満足してくれるよう願っているよ。
 ダレスがこの思いやりに感激したのは明らかだった。このあとさまざまな形で、シンプソンに情報を漏らしはじめたのである。たとえばソ連領空を侵犯したスパイ用のU2型機が撃墜された直後、ダレスはロンドンでシンプソンに会った。朝食を共にしながら、この飛行機の実際の任務をくわしく教え、アメリカが所有するU2型機の数も明かしてしまった。当時アメリカでは、U2型機は気象情報収集のために飛行したのだと声明していたのだから、これは高度な軍事機密に属することだったのである。
 一九五八年七月、ジョージ・コリーがイラクで誘拐され、殺害されたときにも、ダレスはベクテルに協力した。「友人の情報によれば、コリーはまだ行方不明だが、捜査を続行中。キリアン(ベクテルの重役、ルー・キリアン)夫妻は避難機第一号にて脱出せり」と、ダレスは一九五八年七月二十日にシンプソン宛てに電報を打った。

 国務長官ダレス
 シンプソンはアレンの兄、国務長官ジョン・フォスター・ダレスともかなり親しくしていた。一九五三年九月中旬、イランでクーデターが起こって間もなく、ニューヨークのウォルドーフ・アストリア・ホテルのカクテル・パーティーで、ふたりは世界問題を議論し、中東では信頼できる情報が乏しいことを話し合った。そのあとシンプソンは、ステファン・ベクテルに会話の内容を伝え、ダレス長官に提案しようということになった。国務長官に宛てた一九五三年九月二十九日付の手紙で、シンプソンは次のように書いた。

 ---ステファンと先日の件を話し合い、結論に達しました。それをここでお伝えします。わが社の組織は、ご存じの通り世界じゅうのかなり広い範囲にわたって、エンジニアリングと建設の仕事をしています。現在も将来も、両半球のさまざまな地域でプロジェクトを進め、首脳部は色々な国における資源と輸送について、かなりの知識を持っています。この種の件について、あるいは別の問題に関して、国務省に情報を提供したり協力できるかも知れません。政府機関より大きな設備がありますので、民間のほうが機能を果たしやすいこともあるのではないでしょうか。
 それから三日後、ダレス長官からシンプソンに宛てて、申し出に感謝する旨の書簡が届き、「機会が訪れたときにお願いしたい」と記してあった。
 その機会がすぐに訪れた。アラムコの政府担当重役ウィリアム・マリガンによれば、一九五〇年代半ばのサウジアラビアにおけるアラムコとベクテルの活動は、「CIAの任務を負っていた」という。
「CIAは(ベクテルとアラムコに)支部を置くよう依頼したわけではなかったが、ベクテルはその役割を喜んで引き受け、必要とあればどのような支援もした」と、マリガンは一九八七年のインタビューで答えてくれた。
 当時アラムコのサウジアラビア担当重役で、のちにアラムコ会長となったフランシス・ジャンガーズは、しばらくすると、ベクテルやアラムコで活動するCIA要員が多くなり過ぎたため、情報があふれ、しかもそのほとんどが矛盾したり間違っていると、CIAに不満を伝えた。ジャンガーズは次のように思い出を語った。
「CIAの連中にこう言ったんですよ。『こちらは援助もするし、そちらに必要なことは何でも教えるが、指揮系統をひとつに絞って仕事をするべきだ』とね」
 CIA当局も早速この進言に従い、ベクテルとアラムコ双方に派遣されたメンバーを統括する連絡官をひとり任命した。

 秘密工作
 ベクテルがこの地域でのビジネスを広げるにつれて、CIAの活動範囲も広がっていった。公開資料によれば、ベクテルはリビアにおいてCIAに特別の便宜を計り、一九六三年から一九七〇年にかけて、ふたりのCIAメンバーに、ベクテルの労務部門で”隠れみの”の仕事を与えたという。この件をベクテルは否定しているが、ベクテルの元社員複数の証言があるのだ。
 通常、こうした秘密工作はきわめて慎重におこなわれた。しかし必ずしもすべてがそうだったというわけではない。プリンストン大学に所蔵されているアレン・ダレスに関する資料には、ダレスからシンプソンに宛てた一九六二年一月付の書簡がある。ここには、ジェンス・シェブセンという名前のCIAメンバーに秘かに職を与えてくれ、という依頼が気軽に書かれている。この男に与えられた”マニュファクチャラーズ・ハノーバー銀行ロンドン支店の幹部”という職責は、組織統合の際に消滅している。しかもシンプソンが喜んでこの依頼を受け、ベクテルのロンドン支社の役員、リン・コファムと協力して準備する、と約束しているのだ。
 CIAの活動を秘密にするかどうかといったことの承認作業は、直接ステファン・ベクテルがおこなった。勿論、彼自身も情報局とは別のつながりを持っていた。一九五一年三月、ベクテル社の中東グループがパイプラインを地中海に向けて敷設していたとき、ベクテルはアジア解放委員会(National Committee for a Free Asia---NCFA)の創立委員となった。共産主義と戦い、自由企業を援助する組織である。
 アレン・ダレスが考えついたこのNCFAは、のちにアジア財団と名を改めるが、この委員会には、ヘンリー・カイザー、ソーカル会長のR・G・フォリス、パンナム会長のジュアン・トリップなど、ベクテルの友人や仲間が会員として名を連ねていた。アジア基金のメンバーは、数々の情宣活動にも共同で資金援助をしていた。最も有名なのはラジオ・フリー・アジア(RFA)で、これはラジオ・フリー・ヨーロッパの極東版といったものだった。
 一九六七年、アジア基金がCIAの出先機関であると報道され、アジア基金の理事たちも、ラジオ・フリー・アジアの資金や活動がCIAによるものであることを認めた。その後、アジア基金は活動の舞台であるインド、タイ、その他の国々で活動を禁止された。
 シンプソンの報告によれば、アジア基金への参加は、ベクテルとCIAが手を組んだ数多くの活動のひとつにすぎなかった。ステファン・ベクテルは、アレン・ダレスの要請で、ビジネス・カウンシルとCIAの仲介役を務めたこともあり、この立場から、ビジネス・カウンシルの委員が海外で拾ってきた豆情報を、定期的な報告書の形でCIAに提供した。さらに、ステファンやアライド・ケミカル会長のジョン・コナーなどの委員は、海外出張から帰国したあとCIAの事情聴取に応じていた。
 こうした協力の見返りとして、政府は海外活動に重要な特別情報をステファン・ベクテルたちにしばしば提供したのである。一例が、この評議会の記録にある。一九六四年から翌年にかけて、CIA長官になったジョン・マコーンと、駐インドネシア大使ハワード・ジョーンズは、密かにステファン・ベクテルらのビジネス・カウンシルのメンバーを非公開の会議に招き、急速に悪化するインドネシア情勢を説明した。ビジネス・カウンシルのメンバーが率いるベクテル、テキサコ、ソーカルなどの企業は、インドネシアで大規模な事業を進めていたため、スカルノ大統領が、アメリカ企業を国有化するのではないかと大きな不安を抱いていた。
 この会議のあと、ステファン・ベクテルはマコーンとジョーンズに感謝の言葉を述べ、インドネシアの事業に細心の注意を払った。一九六五年十月、どれほどのCIA出身者が投入されたか分らないが、CIAによるクーデターが起こってスカルノが追放され、スハルトが大統領の地位についた。スハルトはアメリカ企業を大いに歓迎したのである。
 こうした形で、ステファン・ベクテルとジョン・シンプソンは、ハイレベルのCIA関係者と接触していたが、現実の商売では、ある幹部役員を通じてワシントンと結んでいた。それはロンドン仕立てのスーツに身を包んださっそうたる人物、C・ストリブリング・スノッドグラスといういかめしい名前を持つ男だった。

 ドゴリヤー使節団の面々
 ウェスト・ヴァージニア出身のスノッドグラスは、アナポリス海軍兵学校に入学、第一次大戦中に実戦を経験していた。一九二七年、海軍を除隊してロンドンヘ渡ってから、数社の大手石油会社のコンサルタントとして働いた。やがてそのうちの一社、スタンダード石油カリフォルニアにベクテルを紹介され、アメリカに一時帰国したときベクテルと頻繁に会った。その後この友情が、両者にとってきわめて有益なものになったのである。
 一九三九年、ヨーロッパで戦争が勃発しようとする頃、スノッドグラスはアメリカに帰って、海軍情報部のイギリス担当デスクを務める上級”民間士官”として軍務についた。しかし一九四二年、石油に注目していた海軍は、石油に関心の高いスノッドグラスをハロルド・イックスの戦時石油局に転出させた。
 やがてスノッドグラスはそこで海外部門のボスになり、その能力を見込んだイックスが極秘使節団のメンバーに任命した。全世界の石油埋蔵量を調査し、戦争のために開発計画を立てるという任務を帯びて、一九四三年、スノッドグラスは調査に出発した。
 戦時石油局の副局長補佐であるエヴェレット・ドゴリヤーに率いられたこの使節団は、ドゴリヤー使節団と呼ばれ、のちにアメリカ石油業界で重要な役割を演ずる人物が大勢入っていた。
 スノッドグラスのほか、ソーカルをやめたのちスタンダード石油ニュージャージー(現エクソン)の社長となったラルフ・デイヴィス、テキサス・オイルをやめたのちアラムコで国務省とCIAの窓口主任になったジェームス・テリー・デュース、元ユニオン石油カリフォルニア重役で、一九三八年にベクテル・マコーン社の処理技術担当重役となったアール・ガードなどである。
 ガードはこの局で経済部門のボスだったが、ドゴリヤー使節団が一九四二年八月末、メキシコに到着したときに手腕を見せた。使節団は空港でアメリカ大使ジョージ・メサースミスの出迎えを受けた。この大使は、使節団のためにメキシコの高級官僚との会合をセットし、メキシコの油田や工場を調査できるように準備していた。
 ガードはここの調査内容について、国務長官コーデル・ハルにくわしく報告し、ひそかにベクテルにも知らせたのである。ベクテルは使節団がアメリカに帰国している数日のあいだにハル長官と会い、ベクテル・マコーン社がメキシコの石油基地を発展させることを申し出た。
 こうして六週間後の一九四二年十月、ガードがメキシコ油田開発の必要条件をドゴリヤーに報告して一カ月後である。同じガードが今度はベクテルの重役として、ドゴリヤー使節団の調査にもとづく技術研究レポートを、メキシコのシェル石油会社---コンパニア・ペトロレラ・ラ・ナシオナル---に提出した。
 ワシントンのショーラム・ホテルの一室にアメリカ人弁護土をひとり置いていたこの石油会社は、そのレポートを検討し、アメリカから二千八十万ドルの投資を確保して、新しい精油所とパイプラインの建設をベクテル・マコーンに依頼したのである。
 一方、スノッドグラスも無駄に時間を過ごしていたわけではなかった。一九四三年十二月、ドゴリヤー使節団の仲間数名とともに中東に出かけ、石油埋蔵量を調査するため三週間にわたって滞在した。その中にスマートな国務省高官、アルジャー・ヒスも入っていた。
 その結果、石油が大量に発見されたため、「アメリカの国家安全保障は、中東の石油を確保できるかどうかにかかっている」という結論の報告書が提出され、このときスノッドグラスが、その内容をベクテルに知らせた。この報告書は、特にサウジアラビアに重点が置かれ、サウジ王国の石油生産能力を探るためアメリカ政府は直ちに行動を開始すべきだ、と勧告していた。実はスノッドグラスが草稿の大半を書いたこの報告書こそ、ベクテルとアラムコが手を組んだ出発点だったのである。
 スノッドグラス本人は、戦争が終るまで戦時石油局の海外精油部門のボスをつとめ、陸軍や国務省と協力して、石油プラントをサボタージュや敵の攻撃から守るための計画に専念した。石油局の記録によれば、スノッドグラスは「敵地の精油所について地図などの資料を備えた軍事機関」を設立し、爆撃に必要な情報を提供した。また、どのような精油所が残っているかという情報も把握していたので、陸海双方の軍隊と連絡を取り、「敵軍に占領されたプラントを取り戻す秘密作戦」を練った。
 しかしスノッドグラスが最も活躍したのは、油田の現場である。ドイツの降伏後、ドイツに飛んで石油資産を押さえ、太平洋戦に使うために蔭で動いたのが、スノッドグラスだったのである。

 情報員という仕事
 戦争が終ったため、戦時石油局も消滅した。しかしスノッドグラスには仕事が待ち受けていた。ステファン・ベクテルがサウジ蔵相スレイマンに宛てた紹介状によれば、スノッドグラスは「サウジアラビア王国およびその他全域の業務に関して、サウジアラビア政府とインターナショナル・ベクテルのあいだに生ずるあらゆる問題と交渉を担当する重役代表」に任命されたのである。
 それがスノッドクラスの肩書だったが、事実、その機能を果たした---CIAに対しても、ベクテルに対しても---中東の情報員としての「機能」、である。
 ワシントンでその窓口となったのは、当時、国務省でサウジアラビア部門を担当していたリチャード・サンガーだった。スノッドグラスはサウジアラビアにおけるベクテルの活動を定期的にサンガーに報告し、逆にサンガーからは、ベクテルに有益な情報が送られてきた。
 間もなくスノッドグラスは、それ以上の便宜を計るようサンガーに申し入れた。最初は小さな頼みだった。たとえばサウジアラビアの石油輸送量についてくわしい調査をするので、アメリカを出発するベクテルのエンジニア一行のため航空券を手に入れてくれ、というような話だった。
 しかしやがてスノッドグラスの要求は、少しずつ高度なものに変り、接触を求める相手もかなりきわどい人材になってきた。そのひとりが陸軍省の情報担当局長S・F・チェンバレン将軍だった。この男が一九四七年六月にサウジアラビア東部の秘密航空調査の結果をベクテルに提供し、ベクテルがそれを直ちにサウジ政府に伝えたため、戦争に備えて道路の建設が強力に推進されたのである。
 サウジアラビアの活動から、スノッドグラスがまことに有能な人材であることが分り、ベクテルは財界情報を収集する任務を与えて、ヨーロッパとアメリカにも派遣してみた。
 一九四六年四月、ヨーロッパでの特別緊急任務を終えたスノッドグラスは、ベクテルやライバルに関連する八件以上の重要プロジェクトについてくわしく記した手紙を、ベクテルに送った。そのなかに、フランスのルアーブルにある石油燃料工場、スイスで計画されている一連のセメント工場、イギリスのサザンプトンの精製工場、ベルギーの発電所、ヨーロッパ大陸全体に点在する巨大石油プロジェクトなどが示されていた。彼はわずか二十四時間でこれを調べ上げたのである。
 スノッドグラスは、CIAの仲間から政冶情報を収集する能力も抜群だった。朝鮮戦争が勃発した直後の一九五〇年七月、サウジアラビアの情報源から暗号解読電報を受け取ったスノッドグラスは、その資料をベクテルに回送した。以下がその内容である。

 ---ジェッダのアラブ人および現地に駐在するほかのアラブ諸国の外交官のステートメントから判断すると、朝鮮半島への国連の介入に対するエジプトの反対は、残念ながら好感をもって受け入れられているようだ。できればサウジアラビアやレバノンが国連を支持してくれるとありがたい。パレスチナにおいて国連やアメリカから痛めつけられた体験を持つアラブにとって、朝鮮での国連の活動も南朝鮮住民の願望に反するものではないか、という不安があり、中立主義が叫ばれている。ヴォイス・オブ・アメリカなどの宣伝活動を利用すれば、アメリカのために国連があるのでなく、アメリカの軍事援助を南朝鮮の人間が望んでいるという証拠を示すことができるだろう。イラクとヨルダンの政策は、イギリスの圧力に左右されるだろう。残念ながら、ジェッダのイギリス人には「自分の戦争」という意識がなく、「朝鮮におけるアメリカ人の小さな戦争」と皮肉をこめて呼んでいる状態である。
 ベクテル自ら情報収集に乗り出す
 スノッドグラスの諜報活動に刺激されて、ステファン・ベクテルも自ら情報収集活動に乗り出した。一九五〇年十月にはテヘランに飛んで、アメリカ大使館から手に入れた次のような情報を、スノッドグラスにも渡した。これは明らかに、セオドア・ルーズヴェルト元大統領の孫カーミットから得た情報だった。カーミットは中東におけるCIA活動の主任で、のちにモサデク政権を倒したあのクーデターを計画した人物である!

 ---テヘランにいる友人は、世界規模の動きを画策しない限り、北方の隣国(ソ連)が南への実際行動をとることはないだろうと言っている。つまり連中は現地に入って待機してはいるが、自分たちが行動を起こせば世界的プログラム(第三次世界大戦)を誘発することを自覚しているようで、それがあらゆる局面に表われている、というのだ。友人が一番心配しているのは、輸出入銀行の動きが鈍いことだ。ぐずな官僚主義に苛立っている。これは皮肉な話だ。ワシントンで何かをしようとすれば必ず問題があることは、誰よりも彼自身が一番よく承知しているからだ。いずれにしろ、こちらはテヘランで快適な旅ができた。ここの状況が思ったほど悪くなかったことが救いだ。
 ベクテルの判断は、部分的には正しかった。ソ連軍は、イランに侵入すれば世界大戦の引き金になるぞとアメリカから強い警告を受けて、国境直前で足踏みしていた。ところがイランの内部は悪化の一途をたどっていた。
 一九五一年にはモサデクがますます圧力を強めたため、ほかの石油企業と一諸にスノッドグラスも帰国した。ベクテルから一年の休暇をとって政府の任務に戻ると、国防石油局の海外活動を担当する主任になったが、彼の初仕事は、ワシントンにやって来たイランの指導者モサデクと協議することだった。
 一九五一年十月二十六日のスノッドグラスの日記には、”社会主義者のモサデク首相は石油企業に特に恨みは抱いていないようで、イラン政府が支配している限り、イギリス人はイランの石油を汲み上げて輸送することができよう”と書かれている。アメリカについては、”平和を維持するリーダー”というモサデクの言葉が記されている。
 しかしモサデクの好意だけでスノッドグラスの上司が満足するはずもなく、その後ほどなく、CIAが”トロイの木馬作戦”を実行に移したのである。
 スノッドグラスはすぐワシントンに戻って、石油の供給源を探したり、国家安全保障会議やCIAの説明会にしばしば出席するなど、モサデク攻撃に協力した。勿論ベクテルとも連絡を取り続け、アメリカ政府の中東石油タンク建設計画について情報を流したり、始動しかけている精油プロジェクトについてメモを送り、ベクテルに貢献した。実際、ベクテルがのちに建設したプエルトリコの精油工場は、スノッドグラスの情報による成果だったのである。
 政治的な秘密情報も同じようにベクテルに流れ続けた。一九五二年十二月三十一日付のインターナショナル・ベクテル副社長ヴァン・ローゼンダールヘの極秘書簡がその一例で、そこには、アメリカとの友好を求めるモサデクの必死の努力も失敗に終るだろう、という情報が記されていたのだ。

 ロビー活動
 一九五二年、スノッドグラスはベクテル社の非公式ワシントン派遣員という任務を終え、コンサルタントとして会社に戻った。今度は新しいポストでの立場を生かし、ベクテルが事業をおこなっているサウジアラビアなどの産油国について情報を集めた。それを情報関係者に流しながら、ワシントンでサウジ関係のロビー活動に入ったのである。一九五四年、マッケイ内務長官がスノッドグラスを二十一人のメンバーからなる軍事石油委員会の委員に任命したが、これはアメリカの国防問題に影響する石油とガスについて、政府に勧告する組織だった。こうしてスノッドグラスは、ワシントンに本社を置く国際コンサルタント会社をいくつか設立し、ベクテルがその顧客となったのである。
 新しい仕事に入ったスノッドグラスは、全世界を股にかけて活躍した。一九六〇年代初期にはパキスタンに突然現われ、天然ガスの開発を政府に勧告するかと思えば、イランにやってきてパーレビ国王の”エネルギー・コンサルタント”として報酬を受け・・・シリアやニュージーランド、オーストラリアでは、石油や銅の生産について調査し・・・一九七二年にはオマーンでサルタンの石油問題顧問に任命され・・・同時にヨルダンのフセイン国王のもとで天然資源担当顧問としての任を果たす、という具合だった。そのあいだ絶えずCIAとベクテルに情報を流し続けたのだ。
 スノッドグラスのような顔の広い代理人を何人も抱えたお蔭で、ベクテルの事業はいよいよCIAの活動そのものになってきた。その代理人のなかに、”国際コンサルタント”として一九七八年にベクテルに入社した元CIA長官リチャード・ヘルムズがいたのである。
 ベクテル社はまるで”政府の友人”のように振る舞い、秘密主義とひそかな情報収集に熱中しながら、ビジネスの計画を立てていった。情報の大部分は、CIA、国務省、商務省、国防総省の友人から提出されたものだった。それが政治、軍事、経済、テクノロジーに分類され、極秘の報告書として毎週まとめられた。
 報告書のなかで特に機密性が高いものとして、アフリカに関する一九七六年十月一日付のレポート「目的---アフリカ全大陸におよぶ新しい大事業の開発」と題するものがあった。報告書の書き出しは、「ローデシアはごく近い未来、ブラックになる」とあった。

 ---黒人による支配をめざす大きな衡突が発生し、それが続く・・・南アフリカ在住の白人は、ゲリラ活動と市街戦によって権力を保持するだろう。遠い将来には、支配地域が分割され、黒人が部分的に支配する・・・米ソは、軍事的、政治的な理由から、アフリカのホーン地帯(ソマリア、エチオピア、アファルス、イサス)を引き続き支配しようとする・・・アラブのオイルマネーが黒人社会に流れる可能性が論じられているが、アラブとアフリカ黒人社会が強く結びつくことはないであろう。
 そのあと報告書は、この状況をいかに活かすべきかという点に筆を進めている。

 ---アメリカに協力する者を発掘し、商務省、農務省、国務省の人材育成に今まで以上の努力を傾ける必要があり、エンジニア部隊の育成にもある程度の力を注がなければならない・・・首府ワシントンはニューヨークの国連を利用してアフリカ代表との接触を続ける・・・アフリカのホーン地帯にベクテル開発社が進出する必要はない・・・今後の人材は、フランス語の能力に重点を置くベきである・・・スーダン、エジプト、アルジェリア、セネガル、ナイジェリアに対しては、ベクテル開発社が引き続き進出し、技術援助を続ける。
 ベクテルの首脳陣に回覧されたこの種のレポートは、いまのアフリカ報告書に見られるように、会社の経営戦略を決定するものであった。ベクテルが実に的確なタイミングでさまざまの地域に進出できた理由も、これで理解できよう。
 ベクテルとCIAの友好は、どちらにも都合がいいものだった。実際、過去何年にもわたってCIAとベクテルは大発展を遂げ、その後も長い歳月、栄光の時代が続いた。この友情は、ステファン・ベクテルにとっては例の通り、まことに「いい商売」だったのである。
 
 
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