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火野葦平河童曼陀羅

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2013年12月 3日(火)12時11分17秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2012/07/post-d032.html

2012/07/21
火野葦平 河童曼陀羅 テクスト化始動

火野葦平の43篇からなる河童作品集「河童曼陀羅」のテクスト化を始動する。
現在、5本目のアンガジュマン(自己拘束)である。

管理人注:なんでこんなところでフランス語を使うんだ,馬鹿野郎が。英語ではエンゲージメント。


Kappamandara
河童曼陀羅   火野葦平

[やぶちゃん注:本作品集は火野葦平(明治四〇(一九〇七)年~昭和三五(一九六〇)年)がライフ・ワークとした河童を主人公とした原稿用紙千枚を越える四十三篇からなるものである。四季社より昭和三二(一九五七)年に刊行された。底本は昭和五九(一九八四)年国書刊行会が復刻し、平成一一(一九九九)年に新装版として再刊された正字正仮名版を用いた。

 火野葦平は福岡生まれ。戦前、家業の沖仲士の組頭「玉井組」を継いで、若松港湾労働者の労働組合を結成するなど労働運動にも取り組むが、検挙されて転向、昭和十二(一九三七)年の日中戦争出征前に書いた「糞尿譚」で翌年の第六回芥川賞を受賞、報道部へ転属となる。戦地から送った従軍記「麦と兵隊」で一躍人気作家となり、太平洋戦争中も各戦線で従軍作家として活躍した(攻略直後の南京入城ではそこに至る進撃路に於いて捕虜が全員殺害される様子を手紙に書いているという)。戦後は戦犯作家のレッテルを貼られ公職追放、戦争責任を厳しく追及されたが、自伝的長編「花と竜」、自らの戦争責任に言及した「革命前後」等で再起、再び流行作家となった。昭和三五(一九六〇)年一月二四日、自宅書斎で心臓発作により死去と報ぜられた。しかし、十二年後の昭和四七(一九七二)年の十三回忌の際、遺族によりアドルムによる睡眠薬自殺であったことが以下の遺書ととともに公表された(近親や弟子らは自殺であることを知っていた)。

死にます。

芥川龍之介とはちがうかもしれないが、或る漠然とした不安のために。
すみません。
おゆるし下さい。

さようなら。
昭和三十五年一月二十三日夜。十一時。あしへい。


沖仲士玉井組組長『男の中の男』玉井勝則、享年五十三歳の自死であった。

高血圧症による右目眼底出血などから鬱病を発症していたとされるが、彼の自殺は六〇年安保に向けて騒然としていた世情とも関係があると言われている(以上の彼の事蹟の記載についてはウィキの「火野葦平」や嵐山光三郎「追悼の達人」などを参考にした)。火野葦平の著作権は既に消滅している。ブログ版では傍点「ヽ」は下線に代えた。一部篇末に私の注を附したものがある。]

関連記事

http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/cat23265608/

新月   火野葦平

 或る義理がたい一ぴきの河童が、飛沫をちらしてがうがうと鳴る溪流のほとりにたたずんで、すつかり途方にくれてゐた。うつろに眼をみはつてぼんやりと水面をみつめてゐる。その靑褐色のとがつた細い顏は苦痛のいろをたたへ、ときどきいらだたしげにきちきちと嘴を鳴らし、甲羅の音がするほど深くためいきをついた。ひどく疲れてゐる樣子で、かたはらの岩のうへにおいた濡れ藁の籠と、しだいに酉にかたむいてゆく夕日とをなんども見くらべては、かくしきれぬ焦躁の色をあらはした。抱いてゐる瘦せた膝頭はすりむけて血がながれてゐるが、ぬぐふ氣力もない樣子である。膝頭のみでなくて、身體の數箇所に怪我をしてをり、背の甲羅も一枚?げおちてをれば、皿をつつむ毛もすりきれて、使ひ古したたわしのやうになつてゐた。釣瓶落(つるべおと)しの夕日の速力に、河童の焦躁はさらにはげしくなるやうに見うけられた。……

[やぶちゃん注:「たわし」は底本では傍点「ヽ」。以下、同様。]

 しばらくつづいた雨のために、千軒嶽に源を發する目痛川(めいたがは)は三倍の水量となり、ながれは五倍のはやさとなり、曲り角では岩をけづりとつてゆくやうな激湍(げきたん)のなかに魚をとることは、さすがの手練(しゆれん)の河童にとつても、十倍の困難さとなつてゐた。ふだんでさへ、斷魚溪(だんぎよけい)などと人間の名づけてゐる急滯であるから、このすさまじさのなかにあつては魚とても粉碎されてしまふやにおもはれる。とはいへ、この溪流の唯一の淵となつてゐる中流のよどみに避難してゐる魚類もすくなからずあつて、その底までもひびいてくる川のとどろきにおびえながらも、水量の減退を靜かに待つてゐた。このやうな場所を河童が見のがすはずはない。ながくこの溪流を棲所(すみか)としてゐる河童には、一切の外界の影響にともなふ環境の變化について、知るところは十分であつた。かくて、すでに彼は數十日前から、水中に潛行して、魚類を攻撃しつづけてきた。しかしながら、彼の目標がつねに鮒(ふな)に集中されてゐるために、彼の事業はただちに困難に逢着した。鯉、鮎(あゆ)、鮠(はや)、岩魚、さては鯰(なまづ)山椒魚(さんせううを)まで、この避難所にむらがつてゐたが、鮒の數はさして多くはなかつた。さうして、その數すくない鮒は河童のために、毎日五ひきづつ捕獲され、いつか淵からほとんど姿を消すにいたつた眼を光らせた河童が頭の皿の緒をひきしめながら水中を游弋(いうよく)してくると、多くの魚たちは恐怖のために右往左往する、陽の光がとほしてきて幻燈繪(げんとうゑ)のやうな紺碧にいろどられた水中を、赤、靑、黑、とりどりの魚たちが花びらをまきちらしたやうにはげしく旋囘した。その騷ぎに、水藻は大風に吹かれたやうにざわめきうねつて搖れなびいた。魚の口からはきだされる白い水泡がくるくると舞ひながら、數珠(じゆず)つなぎになつて水面へのぼつてゆくが、水中の活劇のためにかきみだされて、水晶玉をふきあげたやうに散亂した。魚たちは危險からのがれるために淵を出ようとはかつたけれども、鱗をはぎ、肉をくだいてしまふやうな急流にはでることができず、あまりひろくない淵のなかだけを必死になつて逃げまはるのが關の山であつた。さうして、幾ひきかの不幸な魚が河童の食餌となつた。

[やぶちゃん注:「千軒嶽」先行作にも出るが不詳。そこを水源とする「目痛川」も当然、不詳。]

 この恐怖は日課となつて、魚たちを襲つた。ところが、おなじ慘劇が數日くりかへされたのち、魚たちは河童の來襲についての不思議な特徴を知るにいたつた。河童の來襲の時間もほぼ一定してをり、且つその攻撃もまことに整然とした規律にもとづいてゐることがわかつた。河童は淵の魚顆のうち、ただ鮒にだけしか眼をつけなかつたし、それも五ひきを得れば、見むきもせずにさつさと離水してしまふのだ。しかも、彼はそれを自己の食糧としてゐる樣子はなく、岸の岩のうへにおいた濡れ藁の籠のなかに五ひきの鮒を入れると、それを片手にぶらさげて、いづくにか立ちさつてゆくのであつた。さうして、一日に一度しかこないので、河童の去つたあとの淵には安堵の空氣がただよひ、河童の規律ある不思議な行動についでのはてしない論議がはじまるのであつた。鯉、鱸(すずき)、岩魚、山椒魚など、おのおのの立場からさまぎまの解釋をこころみ、したりげに自説を主張したりもしてみるのであるが、所詮は揣摩臆測(しまおくそく)にとどまつて、たれもが肯定できるやうな説をなすものはなかつた。

 このやうな論議のいかんにかかはらず、ただひとつ否定することのできない眞實は、毎日、五ひきの鮒のいのちが犧牲にされるといふことである。最初の驚愕にひきかへ、その理由は不可解にしろ、河童のねらふところはただ鮒ばかりであると却つて、他の魚たちはやうやく愁眉をひらいた。いつ氣がかはるかも知れないといふ不安はあるにしても、まづさしあたつて危險はないとかんがへるにいたつた。そこで河童の足音がきこえてきても、魚たらは以前のやうに狼狽しなくなつたし、なかには好奇心をもつて河童の行動を觀察する餘裕のあるものもでてきた。これに反して、鮒たらの恐怖と戰慄とが絶頂に達したことはいふまでもない。おそろしい河童の唯一の目標が日分たちであるときづいたときの鮒たちの驚愕を、なんにたとへればよいのであらうか。毎日仲間の五ひきづつが減つてゆく。さうして、河童の來襲がつづくかぎり、いつの日にか、仲間が全滅することは必至の運命であつた。今日一日をまぬがれたものも、明日のいのちを約束することはできない。仲間の多いあひだは、生存の公算も多かつたが、しだいに仲間が減るにしたがつて、鮒たちの恐怖はいよいよふかまり、もはや絶望となつた自分のいのちをいかに處理すればよいか、茫然自失して、なにをかんがへる氣力もなく、ただ不意昧に水に浮いてゐるのみであつた。強力な河童にたいしてなんら防禦の手段はなかつた。攻撃することなどおもひもよらず、ただ遁走して一身の安全をはかるほかはなかつた。多くの他の魚たちとて、大同團結してみたところで、蟷螂(たうらう)の斧にすぎない。しかしながら、鮒の危險にたいして、同情してゐるのやら、面白がつてゐるのやら、とりまいて傍觀してゐる他の魚たちの態度に、鮒ははげしい憤怒を感じてゐた。いかに強力とはいへ、相手は一ぴきではないか。平和のときばかりが友だちではない。危險のときに助けあはなくて、なにが友だらか。數千の魚が團結してたたかへば、なかには山椒魚や鯰のやうな強いものもゐるのだから、闖入者(ちんにふしや)をたふすことができはしないかと、ときに口角に泡をふいて難詰してみたこともあつたが、自分たちにはいまのところ直接の不安はないと見きはめてゐる他の魚たちは、他人のために無駄な抵抗をして怪我でもしてははじまらぬとうそぶいてゐるばかりであつた。さうして、確實に一日に五ひきの鮒が滅つていつた。やがて、鮒のすがたが點々とまばらになつたとき、つひに、のこつた鮒たちは絶望の勇氣をふるひおこして、この淵から脱出をした。しかしながら、それは死の淵から、あらたなる死のながれにでたにすぎなかつた。いつ減るともみえぬはげしい本流は、まるで鋭利な刀物を間斷なく下流にむかつて放出してゐるに似て、淵からでた鮒を容赦もなく切斷した。このやうなあからさまな危險にもかかはらず、鮒たらはつぎつぎに淵をでた。さうして死んだ。他の魚たらはその無謀を笑つたけれども、鮒たちの悲しさは、坐して瓦のごとく死するよりも、萬一をたのんで淵をでるよりほかはなかつた。さうして、その冐險ののちに、脱出に成功し、どこか岩と岩とのあひだのささやかな場所に安住の地を見いだした鮒も、わづかならずあつた。

 淵には怯懦(きようだ)なる鮒のみのこり、河童からさらはれた。淵から鮒のすがたが減ると、自然の結果として、はじめのほどはみじかい時間にさして苦勞もなく五ひきの鮒を得てゐた河童が、しだいにその日課に困難の度を加へてきた。五ひきを得るのにながい時間を要するやうになり、はてははたしてその五ひきを得ることができるかどうかとあやぶまれるやうな日が重なつた。明瞭に河童は狼狽し、いらだたしげに水中を游弋しはじめた。焦燥にみちた眼をせはしげに八方にくばつて、狂氣のごとく右往左往した。そのときには、攻撃の規律はみだれ、戰鬪の樣式も昏迷してゐた。鮒のたくさんゐるあひだにはのんきにしてゐた他の魚たらは、その河童の狂亂した行動にふたたび不安がきざし、とつぜん攻撃目標がかはるのではないかと、戰々兢々とするやうになつた。河童ににらみつけられると氣が遠くなるおもひがした。ふたたび、魚たちは河童の來襲とともに、みづからのいのちをまもるために、淵中にあぶくを水晶玉のやうにまきららしながら、逃げまはるやうになつた。しかし、河童は氣のかはる樣子もなく、腹だたしげににらみつけはするが、鯉にも、岩魚にも、鯰にも手をふれようとはしなかつた。さうして、ひどく落膽した樣子で、淵を出、力なく空の濡れ藁籠をさげて、憤然と去つていつた.........以下省略

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