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キリスト教の光と影

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2013年12月25日(水)14時11分31秒
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  異端尋問と魔女狩り

http://www.ozawa-katsuhiko.com/10christ_hikari/christ_hikari_text/christ_hikari11.html

管理人注:地動説で検索すると9件出てきます。(ページ②)

http://angel.ap.teacup.com/applet/gamenotatsujin/msgsearch?0str=%82%A0&skey=%92n%93%ae%90%e0&inside=1

『キリスト教は天動説(管理人注:地球は宇宙の中心にあって,太陽や月や星がこの地球の周りを回っているのだと信じていました。これをアレクサンドリアの占星学者・天文学者プトレマイオスの天動説と呼んでいます。天動説に対して地動説を考えたのはコペルニクスです。コペルニクスは16世紀初頭のカトリック教会の大管区長ですから,神様の宇宙論を出してきたわけです。いわゆるコペルニクス的回転と呼ばれ,太陽を中心としてその周りを地球をはじめとした惑星が回転しているとする地動説です。その100年後にガリレオは公然と地動説を唱えたため,宗教裁判にまでかけられました。そのガリレオ(1546-1642)はイタリアのフィレンツェで望遠鏡による観測で1640年,木星の周りを回る四つの惑星を発見して,コペルニクスの地動説を裏ずけた。参考までに宗教裁判にかけられたガリレオはそのバチカンの脅しに自説を覆してしまったとのことですよ)の時代のものであり実体は以下のような解釈が成り立つのは当然だろう。

 「それからあの賢く抜け目のない男が現れた,神々への恐れを最初に発明した男が......。彼は一つの物語を,とても魅惑的な教えを案出し,いつわりの伝説のベールで真理を隠した。彼は恐ろしい神々の住まいを語る,回転する天球の,雷鳴が轟き稲妻の恐ろしい閃きが目をくらませるところ.......。こうして人々の周りに恐れの縄を張り巡らした。崇高なところに住む神々で彼らを取り囲み,呪文で魅了し,ひるませてーーーーそして無法が法と秩序に変わったのだ」<クリティアス>

 彼はプラトンの曽祖父であるが,詩人であり,人民を「説得する」ために,すなわち脅迫して服従させるために宗教を作り出した賢くもずるい男を讃える(管理人注:讃えられているのは弁証法の父ヘラクレイトスのこと)。クリティアスの見解では,宗教とは偉大で賢明な政治家の堂々たるうそに他ならない, と。(カール・ポパー)』

はじめに
 中世カトリックの腐敗、というと「異端審問」「魔女狩り」「免罪符」があげられます。いずれも「神に仕える者」とは思えない犯罪的行為であり、歴史的にも最大の犯罪の一つに数えられるようなものです。こんなものが何故行われることになったのか、ここではそれを見ていきます。

「異端審問」
 カトリックにおける敵意者に対する取り締まりの方法の最大のものが「異端審問」と言われるものでした。一般に有名なものとして「ガリレオ」の「地動説にたいする審判」があります。
 この「異端審問」というのは「異教徒」に対するものではなく、同一宗教内における「正統に対する異説に対する裁判」という意味となります。ですから、「正統」のあり方によって「異端」も異なってきます。キリスト教史というのは、実にこの「正統」の立場の獲得の「闘争史」と呼べるようなものでした。
 ですから、ある思想があったとして、その思想の内容と『聖書』の記述の整合性など殆ど問題にされず、自分たちの集団だけの理解、自分たちの集団の勢力の増強だけにこだわって論争をはじめ、それは「政治的な勢力争い」となって、政治的に弱い方が負けた場合にその集団は「異端」とされてしまったわけです。
 そんな具合なので、勢力的に対等の戦いとなった場合は、引き分けて両者ともに併存となりました。「伝統的な正教」に対する「ローマ教会の離反」の場合も、ローマ側がゲルマン諸侯のバックに勢力が強く、むしろ伝統教会を凌駕するような形で併存していきました。近代の「プロテスタント」も、はじめの頃はカトリックの激しい弾圧にあいましたが、ローマ教会に離反する諸侯の後ろ盾で台頭できて、ここも併存となりました。いずれにせよ、異端騒動において『聖書』が基準とされるということなどなかったのでした。

 キリスト教というのは、「一つの理解、一つの儀礼」にこだわったため、とりわけ「排他的な性格」をもつことになりました。そのため、「異端騒動」は初期時代からありました。しかし、初期の場合は「宗門からの破門・追放」といったものでした。それが中世の「カトリック」において、カトリックの教えに則っていないと見られた人々に対する残虐な「拷問・死罪」という、およそイエスの教えとはかけ離れた犯罪的なものとなっていったのでした。

「中世カトリックにおける異端審問」
 カトリックにおける「異端審問」というのは、従来の「問題が起きた時の不定期のもの」とはことなり、「制度化」されたものとなります。そのきっかけは、12世紀後半におきた「カタリ派」や「ワルド派」といった運動と言われます。こうした運動が勢力を増大していくのに危機感を覚えたバチカンは、1184年に教皇ルキウス3世によってヴェローナ会議において「審問制度」を制度化し、司教による異端容疑者の探索を定めます。さらに1215年にラテラノ会議において「異端審問の手続き」がさだめられ、1231年、教皇グレゴリウス9世は、教皇の直接的な権限として「異端審問制度」を制定したのでした。
 これは教皇直属でしたから、教皇に反対する者はすぐに「異端」として処分されるような性格のものとなり、教皇の権力のさらなる絶対化へとつながるものでした。教皇はその審問官として、絶対服従を誓っている「ドミニコ会修道士」を任命し、後に「フランシスコ会修道士」も加わります。カトリックにおける修道院というのは、正教のように神のみを求めて異境に離れるといったものではなく、教皇に直属したものであったことがこうした事態を生んでいるわけで、実際教皇になるのはこうした修道院で権力を握った者たちだったのです。
 異端の探索は熾烈をきわめ、修道士はその探索に血道を上げていきました。教会や司祭からの申し出ばかりでなく、信徒からの「密告」を奨励し、その証言が証拠として採用されました。密告者は保護されたために「個人的恨み」による虚偽の申し出が頻発したと考えられています。こうして異端審問にひっぱりだされたらほとんど最後で、拷問も許可されていましたから自白が強要され、しばしばそのまま拷問で殺されていったとされます。
 罪に問われたのは、初期の時代のような教会教義に反する意見だけ、というわけではなく、教会に対する礼儀作法、礼拝の仕方、民間信仰的とか、何でもありといった様相になっていったとされます。
 ガリレオの場合のように、罪状が「科学的な主張」として明らかな場合の方がむしろ幸いであり、この場合はその科学的主張を撤回するという宣誓で許されました。ガリレオ(1564~1642年)の場合ですが、1616年に最初に問題にされましたが、地動説を言わなければ良いということで許されています。しかし1633年に再び『天文対話』を著して地動説と天動説を対比させて天動説の誤りを主張したため、今度は許されませんでした。確実に聖書の誤りを主張した形になっているからです。ただしガリレオは「地動説は捨てる」と誓うことで死刑は免れ終身刑となり、さらに減刑されて終身自宅に監禁となりました。
 科学者の場合は学説が自分の生き方そのものと関係しないのでその学説をやめるといえましたが、自己及び自己の生そのものと関わる哲学的な思想の場合はそういうわけにはいかないので、教会教義に対する思想家の多くが死罪にされています(哲学者ジョルダーノ・ブルーノなどが典型)。
 今日でも問題になる「進化論」はどうだったのかというと、これはすでに1800年代という近代であったために科学の進歩も相当に進んでいて、バチカンといえどもすぐさまこれを弾圧というわけにもいきませんでした。結局、ブスブス何かと口出ししましたが公の弾圧とはならず、1996年に教皇ヨハネ・パウロが「我々はその学説を認めないが、学問上でならそういう学説があっても良い」としました。しかし、矢張り、これに反発するキリスト教右翼も多く、特にアメリカはキリスト教右翼が強いため、学校でこれを教えないというところも多くあります。
 さらに、有罪とされた時の処罰のあり方ですが、軽ければ聖地巡礼による浄化、あるいは改悛の印としての十字架の着用となり、さらには「監禁、投獄」、最終的に「極刑」は火あぶりとなりました。このとき財産没収も行われ、その極刑や財産没収は世俗の司法が携わったようですが、財産にかかわって教会との癒着などがあり、道徳的退廃はひどいものになっていったとされます。
 時代がさがり、教皇の権威が下がってくると同時にこの審問も基盤をうしなっていったと一般にいわれますが、実際にはただ「むちゃくちゃで無秩序な異端狩り」となっていっただけの話で、それは「魔女裁判」などに引き継がれて歴史的にも類を見ない残虐なホローコストが教会・教皇の名前において行われていたのでした。
 ちなみに、スペインでの「大審問官」と称されている「トルケマダ」は、教皇の下での審問を上回る歴史的に筆舌につくせないほどの残虐を極めたものとして有名となっていますが、これは教皇直属の異端審問とは別個に設定されていたものです。ただしもちろん教皇の認可の下にであったことはいうまでもありません。これは当初は「改宗ユダヤ人」にたいする審問機関としてはじまり、強大な権力のもとに南米はじめスペイン植民地におけるカトリック支配の最大機関として機能して原住民を弾圧していきました。これが廃止されたのは19世紀になってからのことなのでした。

魔女裁判
 「異端審問」と並んで悪名高いのが「魔女裁判」と呼ばれているものです。この場合、「魔女」の概念は「キリスト教の概念」でのものであり、ギリシャ・ローマや北欧神話での「魔女的存在」は別にします。
 ただし、これらの存在、特に北欧神話のそれは「魔女」の概念の形成に大きな影響を与えていたであろうとは推定できます。ギリシャ・ローマの魔女的存在については、当時は全く知られていなかった筈です。ちなみに、ギリシャ神話での名高い「魔女」はホメロスの『オデュッセイア』に登場する「キルケー」などで、彼女は薬物を用いてオデュッセウスの部下たちを豚などの動物に変えてしまったりしていますが、これは中世キリスト教世界での魔女と変わりないのが興味深いです。ローマ時代のものでは、プリニウスが「飛行する女」のことを『博物誌』に述べていますが、これも中世的な魔女像と重なっています。このように古代の時代から「魔女的存在」は想定されていたわけですが、キリスト教の時代になってこれらの存在がすぐさま「裁判にかけられる」という事態にはなりませんでした。

キリスト教初期の魔女的存在に対する態度
 キリスト教の初期の時代からこうした「魔女的存在」に言及する教父たちがいたことは知られています。しかし、彼らの場合は、むしろこうした「魔女的存在」を否定することに重点があったようで、そうした「異教的な存在」に惑わされるなという筆致であったと考えられます。従って、そうした存在を想定してそれを迫害するという、日本の民話にもあり世界的に観察される、「異教的態度」をとってはならないとしています。要するに中世的に言えば「魔女裁判」などしてはならない、ということになります。もちろん「異教的な存在を認めている」ということになってしまうからです。
 これはキリスト教の立場からは正当な態度であり、「魔女裁判」というものはキリスト教の立場からも相当に「逸脱した」ものだと言えるのです。
 ですから、800年にキリスト教を受け入れたゲルマン・フランク族の王「カール一世(大帝)」は、魔女を想定して迫害するものに対する「処罰」の法令を発布までしているのでした。これはゲルマン民族のもっていた北欧神話が「魔女的存在」を認めていたため、それを特定の女性に託して迫害が行われていたということを推測させます。カールは「キリスト教」になった限りはそうした存在を認めてはならない、としたわけでしょう。
 従ってまた、11世紀になりますが、教皇グレゴリウス7世は、暴風雨や病気などの災害の原因として「魔女的存在」を想定して、そうした魔女と見られた女性を迫害することを禁じる命令を出しています。

中世の「異端審問」と「魔女裁判」
 これが一転して「魔女裁判」などということになったのは、むしろキリスト教の退廃が原因であったとすら言えるわけでした。つまり、キリスト教がしっかりしていれば、従来のように「異教の魔女的存在」など否定して、それでかまわなかった筈だからです。
 もう一つは社会の疲弊があげられるでしょう。今日でもそうですが、社会が疲弊してさまざまの災厄が生じてくると、社会不安から「迷信」やら「新興宗教」やらがはやってくるわけです。西欧人はもともとがゲルマン人の神話(北欧神話)の世界の人間で、キリスト教になっても彼らの祭儀を巧みにキリスト教の祭り(たとえばクリスマスなど)に装って保ち続けた民族ですから、かれらの神話に登場する「魔女的存在」もずっと保ち続けて、社会が不安になるとそれが何かと顔をだしてくることとなったでしょう。
 魔女裁判は13~14世紀頃から盛んとなって17世紀まで続くのですが、時代的に「異端審問」と重なっているわけで、時代の荒廃が伺える時期でした。こうした中で1258年、1320年とローマ教皇は「異端審問の中で魔女裁判を正当とする」としてきたのでした。
そして、有名なのが1486年に出版された『魔女の槌』とよばれる著作でした。これは「魔女」を定義し、裁判のやり方を詳細に述べたものです。方式は「異端審問」に準じたもので、「逮捕」から「尋問」「証人」「判決」までの手続きを述べています。被疑者となった女性は、裸にされ、牢獄につながれ、魔女であるとの白状を迫られ、白状しなければ「拷問」とおきまりの手続きでした。
 この著作の後たくさんの「魔女論」が書かれることになり、1500年代には「魔女狩りの専門家」まで出現して各地を歩いては魔女を告発して多くの女性を死に至らしめていくことになりました。裁判も熾烈を極め、たとえば、被疑者となった女性を後ろ手に縛って水中に沈め、浮き上がったら有罪となる、といったやり方など良く知られています(この場合、浮き上がらないとは「溺死」を意味しますので、浮いても死、浮き上がらなくても死という、どうやっても死ぬことになるという、およそ人間とは思えない裁判のやり方でした)。一般には有罪とされると「火刑」となり、有名な「ジャンヌ・ダルク」も1431年、「魔女」ということで火刑となっています。
 魔女裁判の記録は膨大なものが残り、無実の罪で殺されていった多くの女性たちの怨念の記録となってきます。人々はすべておびえ、他人を密告して保身を計り、噂を流して自分は隠れ、こそこそと生きていくしかありませんでした。こうした事態を研究者は「社会的ヒステリー」と呼んで「社会のせい」としていますが、これを推進していたカトリック・バチカンの罪はどういうわけが今日に至ってもほとんど追求しません。
 これにはルターたちプロテスタントも「魔女裁判」を推進していたという事実もあるからです。従って、要するに「社会全体の風潮だった」とするわけでした。もちろん、中には「社会の体質」の他に、「歴史的状況」を問題にしたり、「宗教の持つ体質」を問題にしたり、「カトリックの体質」を問題にしたり、「キリスト教というものの体質」を問題にしたり、あるいは「男性の体質」を問題にしたり、「女性の体質」を問題にしたりといったアプローチもありますが、いずれにせよこの問題は「カトリック」「プロテスタント」という今以て世界の多くの人々に権威となっている宗教が絡んでいるため取り扱いが難しく、将来的課題となっているようです。

魔女のイメージ
 上記の魔女裁判を通して形成されていった「魔女のイメージ」というものがあるのですが、実はこれは複雑です。
古代世界にあった「魔女的存在」には「醜い風貌」「老婆」のイメージもある一方で、「妖精的な美しく可憐な少女」「知性的で美しい女性」「妖艶な女性」などなど多様です。
 しかしまた、近代での童話での魔女は「白雪姫」で有名なように「醜い老婆」となっています。そして、これが一般的な魔女のイメージかと思われます。しかし、現代での映画・テレビなどに登場する「魔女」は「素敵な女性」「かわいい女の子」などとなっています。
 こうしたさまざまの姿でイメージされる「魔女」ですが、中世での魔女のイメージは外見のイメージはあまりはっきりしていません。内容が問題だったからでしょう。
 そこでの魔女はとにかく「悪魔」との関係が重要となっています。彼女たちは「悪魔と契約」し、あるいは「悪魔と性交」して「悪魔的力」を得、それによって疫病や不作、災厄を社会にまき散らすとされます。姿としては、箒にまたがって空を飛び(動物や棒状の物であることもある)、使いの動物(鴉、猫、山羊など)を持っており、深夜に森や山で「魔女たちの集い(サバト)」をひらいてそこで「悪魔」と関係を持ち、反キリスト教的な儀礼を行うとされます。彼女たちの力としては、「姿を変える」「姿を消す」「薬を作る」「予言する」「死者と交流する」などとなっています。

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