teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]


スレッド一覧

  1. 11(0)
  2. ハーゲンダッツの苦味成分と健康被害(0)
  3. 株暴落を手招きする投資家を絶対許してはいけない!(0)
スレッド一覧(全3)  他のスレッドを探す  スレッド作成

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成

新着順:1314/3535 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

シビュラの託宣と世界の終わり

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年 1月 5日(日)22時13分16秒
  通報 返信・引用 編集済
  シビュラの託宣と世界の終わり

シビュラの託宣で検索すると....

http://angel.ap.teacup.com/applet/gamenotatsujin/msgsearch?0str=%82%A0&skey=%83V%83r%83%85%83%89%82%CC%91%F5%90%E9&x=0&y=0&inside=1

以下の夜明けへの道は難解ですが必読です。基本はギリシャ語聖書にある。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/index.html

シビュラの託宣 序章

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla00.html

シビュラの託宣 1/2

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla01-1.html

シビュラの託宣 2/2

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla01-2.html

シビュラの託宣 第二巻

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla02.html

シビュラの託宣 第三巻 1/4 神について

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla03-1.html

シビュラの託宣 第三巻 2/4

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla03-2.html

シビュラの託宣 第三巻 3/4

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla03-3.html

シビュラの託宣 第三巻 4/4

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla03-4.html

シビュラの託宣 第四巻

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla04.html

シビュラの託宣 第五巻 1/2

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla05-1.html

シビュラの託宣 第五巻 2/2

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla05-2.html

シビュラの託宣 第六巻

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla06.html

シビュラの託宣 第七巻

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla07.html

シビュラの託宣 第八巻 1/2

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla08-1.html

シビュラの託宣 第八巻 2/2

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/sibylla08-2.html

関連記事:ティブルティーナの巫言

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/2445

http://flamboyant.jp/eschatology/esc014/esc014.html

シビュラの託宣は新約聖書外典の1つである。「シビュラ」というのは古代のギリシアやローマで尊敬されていた伝説的な巫女の名で、恍惚状態で未来のことを語ったりする女性予言者である。ギリシアのデルポイにいたというシビュラやイタリアのキュメにいたというシビュラがとくに有名である。ギリシアやローマの人々の間ではシビュラの名はとりわけ知名度が高く、影響力の強い存在だったので、古い時代にはシビュラの名を使った予言集がしばしば編さんされたという。シビュラの託宣もそのような予言書の1つで、ユダヤ教・キリスト教とはまったく関係のないシビュラの名を借りて、ユダヤ・キリスト教的な終末予言を行ったものである。このため、シビュラの託宣の文学形式は、古くからあったシビュラの予言集の形式を踏襲しているといわれる。この形式は、恍惚状態になったシビュラが語った事柄をそのまま写すというものなので、全編がかなり激しい語り口になっている。一例を挙げれば、「うなじの高い堂々としたローマよ。お前にもいつか、天から同じ落雷が落ち、だれよりも早くお前はうなだれるであろう。」(第8巻37-38) (聖書外典偽典6新約聖書外典Ⅰ(教文館/佐竹 明 訳)より引用)という具合で、ときとして呪いの言葉を叫んでいるような印象さえある。
 しかし、シビュラの託宣は1人の人間によって書かれたのではないといわれている。シビュラの託宣は本来は15巻からなり、1~8巻と11~14巻が伝えられている。このうち3~5巻はユダヤ教的な文献で、巻によって紀元前140頃に書かれたものや後120年頃に書かれたものがあるという。残りの部分はキリスト教的だが、これらは2世紀中葉以降の数十年間に、各巻独立に成立したと考えられている。
 そんなわけで、シビュラの託宣全体にはとくに物語的なまとまりはなく、繰り返しも矛盾も多い。以下に述べるのは、シビュラの託宣の中でも印象的な部分をテーマごとにまとめたものである。

■終末が訪れる時期

 終末が訪れるのはローマ帝国の時代である。ユダヤ教・キリスト教の黙示文学では、地上で最後の王国となるのは基本的にローマ帝国とされているが、シビュラの託宣もそのことに変わりはない。ローマ帝国時代のどの時期であるかははっきりしない。3巻では「ローマがエジプトを支配するとき」メシアが来臨し、「三人の人が悲しむべき運命を持ってローマを破滅させる」とされている。ここで「三人の人」といっているのは、紀元前43年に始まった第2次三頭政治を指すといわれている。また、ローマのエジプト支配というのは紀元前30年にオクタウィアヌスがエジプトを征服したことを指すと考えられる。もしそうだとすると、紀元前1世紀には世界が終わることになる。が、第7巻や8巻ではネロ皇帝(在位54~68年)やハドリアヌス皇帝(在位117~138年)も登場する。そんなわけで、世界の終末が訪れる時期を正確に特定することはできないが、おおざっぱにローマ帝国時代のいつかということはできるだろう。
 シビュラの託宣第3巻によれば、地上に登場した最初の王国はエジプトで、それからペルシア、メディア、エチオピア、アッシリア、バビロン、マケドニアと続き、再びエジプトの時代が来た後で、ローマの時代になる。こうして、この世は終末を迎えるのである。

■終末時代に滅びていく都市や国家

 この世の終末は世界的な大事件なので、当然世界の各地で終末の徴である異変が起こるが、シビュラの託宣では、都市や国家を直接に名指しして、その地を襲う不幸を繰り返し語っている。それによると、各地を襲う不幸はおよそ次のようなものである。

バビロン 国中が血で満たされる。

エジプト 国内で権力闘争が起き、離散と死と飢饉に襲われる。

ゴグとマゴグ 多くの黙示文学の中で、メシアに反逆する最後の国とされているが、シビュラの託宣ではこれらの国はエチオピアの川の中央にあるとされている。終末時にはどす黒い血に満たされ、裁きが住むところと呼ばれるという。

リビア 戦争が起こり、悪鬼たちが出没するようになる。さらに、飢饉と疫病が起こり、一人残らず滅びてしまう。

フリュギア 激しい地震が起こり、城壁が倒れる。

ビザンティウム 戦争が起こり、人々がうめき、血を流す。

キプロス 激しい地震で峡谷は崩れ、人々が死ぬ。

キュルノス(コルシカ島)・サルディニア 冬の嵐と神の打擲(地震か?)によって、海の底に沈んでしまう。

シチリア 火山の爆発で焼き尽くされる。

ラオデキア 大洪水が起こって町を洗い流す。

 シビュラの託宣では、この他にも多くの都市や国の不幸を上げているが、それらの土地もここに上げたような不幸に襲われるのである。

■終末の到来を予言する徴の数々

 世界中の都市や国を襲う不幸は、もちろん終末の徴といえるものだが、シビュラの託宣では都市や国家とは関係のない徴についても述べられている。
 最もはっきりとわかる徴には、空に輝く冠に似た星がある。この星は終末が近づいたとき空に出現し、数日間地上を照らすとされている。すると、信仰のある人々には、これが終末の徴だということがわかるので、彼らはみな日頃の行いに気をつけ、神に選ばれるように努力し始めるとされている。しかし、悪い徴も多い。終末が近づいたとき、戦争や飢饉や疫病が人々を襲うというのはありきたりだが、この時期になると子供たちは生まれたときから白髪をしているという。飢饉のためかも知れないが、各地で子供たちが両親を食べるという痛ましい出来事も起こる。最後には、女たちはもう子供を生まなくなってしまい、そうなったときには本当に終末も近いのだという。この頃には、地上に多くの偽預言者が出現し、さまざまな予言で人々を惑わす。ベリアルという悪魔もやってきて、人々にいろいろな徴を見せるという。しかし、たとえこのような時期が来ても、地上で生きている信仰心のない者たちの多くは、それが終末の徴だと悟ることはないとされている。

■わらを食うライオン

 この世の終末の徴となる数々の不幸によって地上が混乱しているときに、天からメシアが降りてきて、地上に幸福な王国を建設することになるわけだが、シビュラの託宣によれば、メシアが登場してからも、地上に完全な平和が訪れるまでにはいくつかの紆余曲折があるらしい。
 東から地上にやってきたメシアは、不信心者や悪しき権力者を殺すことで地上の戦争を終結させる。これによって、地上に平和が回復し、大地も海も豊かになる。ところが、こうして世界が豊かになると、地上の王たちの間に互いを妬む心が芽生え、より豊かな土地を奪うために、無意味な争いが起こってしまうのである。この争いを静めるために、神は天から火の剣を降らす。それから、硫黄や石の嵐を巻き起こす。このような恐ろしい出来事によって、地上の悪は今度こそ壊滅し、地上においてメシアの支配する幸福な永遠の王国が樹立されるのである。
 この王国はこの上なく豊かで善良な世界である。地上からあらゆる争いは消えてしまうし、大地は豊かで穀物は無尽蔵に実り、泉から白く甘い乳が吹き出す。果樹、果実、肥えた羊、牛、山羊などは天から与えられる。争いがないのは人間の間だけではなく、凶暴な動物までがおとなしくなってしまう。肉食であるはずのライオンがわらを喰うようになり、マムシが人間に害をくわえることもなくなるのである。

■静寂に戻る世界

 メシアの王国は永遠といえるほど長く続くが、それでもいつかはその時代は終わり、この世の終末がやってくる。
 この終末は宇宙的規模の終末なので、当然のように宇宙的規模の破滅が起こることになるが、シビュラの託宣はこの出来事についても詳しく語っている。
 それによれば、終末の日になると、空の雲の中に歩兵や騎兵が出現して激しい戦争が起こり、宇宙のすべてが黒い霧に覆われてしまう。ヨハネの黙示録にあるように、この日に天使のラッパが鳴り響くという記述もある。それから、おそらくは溶鉱炉で燃えているどろどろの鉄のような燃える火の川が空から地上に降り注いできて、大地も海も川も何もかも滅ぼしてしまうのである。しかし、これでも破壊は終わらない。この日に起こる破壊は徹底的なもので、この世のすべてが消えるまで続く。つまり、空気、大地、海、火といった要素的なものまでが最後には消え失せてしまうのである。世界は完全な無秩序になり、どんな物音も聞こえなくなる。こうして、古い世界はなんの痕跡もなく消え失せてしまうのである。

■冥府の門を開けて死者を復活させる天使ウリエル

 世界に完全な終末が訪れたとき、最後の審判を受けるためにすべての死者たちが復活する。シビュラの託宣には、このときに活躍する天使たちとして、バラキエル、ラミエル、ウリエル、サミエル、アザエルの名が挙げられている。なかでも最も大きな活躍をするのはウリエルで、この天使が絶対に開くことのない黄泉の扉の鋼の巨大なかんぬきを壊し、死者たちを復活させるのである。それから、他の天使たちも一緒になって、死者たちを神の前に連れていくのだという。死者が復活するときには、神によって、死者たちが生前に持っていた魂、息、すべての関節、骨、肉、腱、血管、皮膚、前髪などが与えられる。したがって、死者は生前と同じ姿で復活することになる。
 シビュラの託宣は古代のギリシアやローマの人々を読者として書かれているだけに、黄泉から復活するものの中に、ティタンやギガス といったギリシア神話に登場する神や怪物の名も上げられている。
 最後の審判は悪人ばかりでなく、善人や義人を含めたすべての人間が受けるものなので、復活して神の前に連れて行かれるものの中には、旧約聖書に登場する偉大な人々の名も含まれている。それは、モーセ、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨシュア、ダニエル、エリヤ、ハバクク、ヨナといった人々である。
 このようにして、すべての死者が復活し、神の前に連れて行かれ、そこで最後の審判が行われるのである。

■3倍にもふくれあがる悪行

管理人注;これは仏教でいう「六道輪廻」に通じるものである

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93

閻魔様の前で嘘はつけない

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%96%BB%E9%AD%94%E6%A7%98%E3%81%A8%E5%9C%B0%E7%8D%84&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=

ダンテ神曲(聖なる喜劇)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%9B%B2

地獄の門

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%8D%84%E3%81%AE%E9%96%80

地獄界の構造

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/163.html

 終末に起こる最も重要な出来事である最後の審判は神とメシアであるキリストの前で行われる。神が玉座に着くと、その右側にキリストが座し、その背後に多くの天使たちが控える。

 この審判によって悪人たちは永遠の地獄に、善人たちは永遠の天国に送られるというのは当然のことだが、シビュラの託宣には地獄に送られる人間の種類について具体的にたくさんの例が挙げられている。その人間とは、以前に悪事を行ったもの、殺人を犯したもの、犯罪を知っていたもの、嘘つき、泥棒、道楽者、寄食者、姦通者、悪い噂をたてるもの、乱暴者、無法者、偶像崇拝者、神をなおざりにしたもの、涜神の徒となったもの、敬虔なものから略奪したもの、長老や執事でありながら不正な裁判を行ったもの、尊大なもの、高利貸し、などなどとなっている。こうした者たちが、最後の審判によって地獄に送られるのである。彼らを地獄へと運ぶのはやはり天使の仕事で、このとき天使たちは炎を放つ鞭と火の鎖を持ち、罪人たちを壊れることのない枷でしっかりとしめつけて、真夜中に地獄に投げ込むのだという。そして、地獄に堕ちた者たちは、火で焼かれたり、渇きや暴力で罰を与えられ、自分たちの行った悪行の3倍分も苦しむことになるのである。
 これに対して、善人たちが赴く天国は苦しみのない場所で、酒、蜜、乳に溢れた場所だとされている。そこでは財産も共有なので、土地を区切る柵もなく、貧乏人も裕福な人も、身分の高低もなくなっている。結婚とか死も存在せず、売ったり買ったりもない。一日は十分に長いので、日の入りも日の出もなく、どういうわけか春夏秋冬という季節も存在しないという。こうして、人々は何の心配事もなく幸福に生きるらしい。

エウジェニオ・ガレン『ルネサンス文化の中の魔術と占星術』

http://blog.livedoor.jp/yoohashi4/archives/51363778.html

十九世紀以降の歴史学の大部分、啓蒙主義的合理主義以降、ルネサンスとは純粋理性、デカルト的(合理主義)、科学的なものと、隠された力、生命ある諸天と諸事物の魂の、古代中世の暗愚な迷妄のかずかずからの離別の出発点、と解されてきた、とブルクハルトは言った。それは普遍形相から横溢するすべてを拒絶し概念的階層秩序のうちに纏められた非歴史的で確固とした構造をもつ宇宙、という保証を破壊する。それは肉と情念を逃れ、生命のあらゆる誘惑に目を閉ざして普遍理性という非人格的な理拠ヘと帰還する純粋に観想的な人、という観念を破壊する。図式化し得る構造化された世界のうちを動く人という図式に対し、ヘルメス的な(晦渋な)理想が称揚される。そこでは、意志、はたらき、行為が諸々のかたちを産み出しては解消し、無限の可能性という未来に向かって限界もなしに開かれ、思いのままに創り、生起し、動く。はたらきかける人とはまさに、無尽蔵の可能性としての宇宙普遍に照応するのだから。そこには賢明さをもって屈服し得ないような力、うち克つことのできない運命、われわれのことばを理解しない星辰、われわれの役に立たぬ力などというものはなにもない。無限の生きた統一性のうちに、じつにあらゆる限界が砕け散る。
ブルーノはまたその有名な一節で、賢者とは諸概念という死んだ障壁のうちにすべてを閉じるのではなく、創造者の潜在力を一となし、また自ら創造者となって、宇宙普遍の生命ある無限を見出すために探求する者のことである、と教えている。こうしてアクタイオンはディアナを追いかける。しかし彼がその裸体を想いみて純然たる観想に入るとき、犬たちが彼を八つ裂きにしてしまう。

「犬たち、神的なことがらの思惟の数々はこのアクタイオンを貪り食らう。彼を...諸感覚の惑乱という結ぼれから解くように。そこにはもはや孔から、窓から眺めやるようなディアーナの姿はない。だが、壁は地に薙ぎ倒され、一瞥のうちにすべての地平が見渡される。そこではすべてが一として眺められ、もはや差異や数多の、種や理拠の区別は見えなくなる。それがモナド、あらゆるものとしてあるということの真の本質である」。

人の無限の潜在力は行為(アクト)(16)の全一性のうちに蝟集する。ここに賢者は星辰を司り、魔術師は諸元素をかたちづくる。これが存在と思惟の一性、現実存在(リアリティー)の完全なる開示である。これこそが、ルネサンスが人の称揚のうちに加えた魔術擁護の意味するところであった。
(了)

(16) *アクタイオンの頭、アクトとして行為を示唆するブルーノ式の言語遊戯。

ベリアルについて

http://www5.cncm.ne.jp/~ryuji-t/kenkyu/berial.htm

前200年頃『申命記』第13章13~14(日本聖書協会訳『聖書』より)
 よこしまな人々があなたがたのうちに起って、あなたがたの知らなかった「ほかの神々に、われわれは行って仕えよう」と言って、その町に住む人々を誘惑したことを聞くならば、あなたはそれを尋ね、探り、よく問いたださなければならない。
 これはモーゼが長々と語ったことばの一つ。欽定英訳では「Certain men, the children of Belial, are gone out from among you, and have withdrawn the inhabitants of their city, saying, Let us go and serve other gods, which ye have not known,Then shalt thou enquire, and make search, and ask diligently; and, behold, if it be truth, and the thing certain, that such abomination is wrought among you」となっており、「children of Belial」が「よこしまな人々」と訳されている。

前200年頃『士師記』第19章22(日本聖書協会訳『聖書』より)
 彼らが楽しく過ごしていた時、町の人々の悪い者どもがその家を取り囲み、戸を打ちたたいて、家のあるじである老人に言った、「あなたの家にきた人々を出しなさい。われわれはその者を知るであろう」
 これは、あるレビ人(イスラエル部族のひとつ)たちがギベアに行った時、そこに住む老人に宿を借りたが、ギベアの町の人々はレビ人たちを 出すよう、老人に迫った時のセリフ。欽定英訳では「Now as they were making their hearts merry, behold, the men of the city, certain sons of Belial, beset the house round about, and beat at the door, and spake to the master of the house, the old man, saying, Bring forth the man that came into thine house, that we may know him」となっており、「sons of Belial」が「悪い者ども」と訳されている。ちなみにレビ人の妾だけがギベアの町の人々に差し出され、朝まで辱めをうけたあげく、主人であるレビ人に 十二切れに断ち切られて殺されている。

前200年頃『サムエル記上』第10章27(日本聖書協会訳『聖書』より)
 しかし、よこしまな人々は「この男がどうしてわれわれを救うことができよう」と言って、彼を軽んじ、贈り物をしなかった。しかしサウルは黙っていた。
 これも同様に欽定英訳では「But the children of Belial said, How shall this man save us? And they despised him, and brought no presents. But he held his peace」となっており、「children of Belial」が「よこしまな人々」と訳されている。『旧約聖書』でのベリアルは、人々の心に宿った邪悪な心の象徴である。

前2世紀頃『ヨベル書』第1章(日本聖書学研究所訳『聖書外典偽典4』より)
 彼らにまっすぐな魂をつくってやってください。ベリアルの霊が彼らを自由にあやつって、彼らのことをあなたの前で謗ったり、彼らを罠にかけてすべての義からそれさせ、彼らがあなたに見放されて滅びることのないように。
 第15章にも「ベリアルの子」という表現があるが、両方ともイスラエルの民を異教徒に改宗させる存在となっている。

前1世紀頃『宗規要覧』第1章(日本聖書学研究所訳『死海文書』より)
 また共同体の規律に入る者はみな神の前で契約に入って、すべて彼の命じ給うたように行い、ベリアル支配下いかなる脅威や恐怖や試練や試みにも彼のもとを離れないようにしなければならない。
 以下、『死海文書』からの引用が続くが、『死海文書』では悪魔の名にベリアルが当てられており、大活躍?している。「共同体」所謂「クムラン宗団」の者達は、神と契約を結び、神の敵対者であるベリアルから遠ざからねばならない。

前1世紀頃『戦いの書』第13章(日本聖書学研究所訳『死海文書』より)
 また亡びのために敵意の天使ベリアルを作り、その罪と闇のはかりごとによって、悪を行わせ罪を犯させ給うたのもあなたである。そして彼に割当てられた霊、すなわち破滅の天使たちはみな、闇の掟によって歩み、みなこれに憧れる。
 この『戦いの書』は別名『光の子らの闇の子らに対する戦い』といい、「光の子」らと、ベリアルの支配する「闇の子」らの戦いを描いたもの だ。全体的には軍事的規律について書かれている。「光の子」らと「闇の子」らは3回戦い、最初は「闇の子」らに押されるが、4回目で神の秘策によって打ち 勝つという。

前1世紀頃『感謝の詩篇』第3章(日本聖書学研究所訳『死海文書』より)
 そしてベリアルの奔流はアバドンに突入し、淵の深みは泥を吐き出す轟音でざわめく。地は世界に臨んだ禍いのために叫び、その深みはいっせいにうめく。地上の者はみな気が狂い、大いなる禍いの中に亡び去る。
 アバドンは『ヨハネの黙示録』に登場する地獄の淵で、まさに原黙示録といった光景。『感謝の詩篇』では、この他にも、ベリアルが行う悪戯が、いくつか具体的に書かれている。

前1世紀頃『ダマスコ文書』第4章(日本聖書学研究所訳『死海文書』より)
 ベリアルの三つの網のことであって、それらについてはヤコブの子レビが言ったように、彼はそれらの中にイスラエルを捕えて、それら三つの種類の義として彼らの前に設けた。第一は姦淫、第二は富、第三は聖所を汚すことである。
 『ダマスコ文書』には、ベリアルがイスラエルの人々を堕落させる様子が描かれている。

?年『十二族長の遺訓』ベニヤミン(日本聖書学研究所訳『聖書外典偽典5』より)
 だから子供たちよ、お前たちに言おう。ベリアルは自分に従う者に剣を与えるのだから、彼の悪を逃れよ。そしてその剣は七つの悪の母である。まず心はベリアルをとおして理解する。だから第一にねたみ、第二に破壊、第三に患難、第四に補囚、第五に欠乏、第六に混乱、第七に荒廃がある。
 この一節は、真野隆也『堕天使』で そのまま引用されているため、ネットでもよく見かけられるものだ。『十二族長の遺訓』では、ベニヤミンだけでなく、全編にわたってベリアルの名が出てく る。まず長男ルベンは「姦淫」を「ベリアルのつまずき」とし、ベリアルを「姦淫」に当てはめている。次男シオメンも同様、「姦淫こそが悪の母であり、神か らひき離し、ベリアルに近づける」と言う。三男レビは七つの天界のうち「第三の天には、迷いとベリアルの霊に復讐するために、審判の日のために整えられた 軍勢がいる」、「そしてベリアルは彼にしばられ、彼は彼の子らに悪霊を踏みつぶす力を与える」という。縛られたベリアルはどうなるか、四男ユダは言う、 「そこにはベリアルの迷いの霊はいない。永遠の火の中へ投げ入れられるからである」と。この他にもベリアルの名は出てくるが、多くは審判の時まで人々を迷 わせ姦淫させ、最後に天の軍勢と戦う存在であり、このあたりは『死海文書』とかなり共通している。八男ナフタリは「魂と同様にことばも、神の律法かベリアルの律法かどちらかのうちにある」と言い、ベリアルと神を同格に見ている。

55年『コリント人への第二の手紙』第6章15(日本聖書協会訳『新約聖書』より)
 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。
 使徒パウロが、コリントの教会へ送ったとされる手紙。キリストに敵対する存在として。ここでもキリストと同格に見られている。

1世紀頃『預言者イザヤの殉教と昇天』第4章(日本聖書学研究所訳『聖書外典偽典別巻2』より)
 さて、ヒゼキヤならびにわが子ヨセブよ、このときこそはこの世の完成のときである。それが完成されると、大いなる君にしてこの世の王たるベリアルがおりて来る。彼はそれができたとき以来これを治めててきたのであるが、その彼が人間、不法の王、自分の母の殺害者――この王はそういう者なのである――の姿をとって彼の大空から降りてくる。
 これより前の第1章から第3章にかけては、マナセ王に取り憑き、悪行を行ったことが書かれているが、第4章は黙示録的な内容となってい る。ここではベリアルがこの世の支配者であったこと、その後「一三三二日ののち、主がその天使たちと聖徒たちの軍勢をともなって第七の天の栄光をもって第 七の天から到来され、ベリアルとその軍勢もろともゲヘナに曳きこまれる」とされる。

1世紀頃『預言者の生涯』ダニエル(日本聖書学研究所訳『聖書外典偽典別巻1』より)
 北方に煙がのぼればバビロンの終わりが到来する。火のように燃えれば、全地の終わりである。南方に洪水が起これば、イスラエルの民はその故郷の地へ帰るであろう。血が流れれば全地にベリアルの殺戮が起こるであろう。
 これはダニエルが残した預言。この少し前にはネブカネザル王が家畜の姿となったとあり、それを「ベリアルのくびきの下」と表現している。 また、ダビデの預言者ナタンの項でもベリアルは登場し、「ダビデがベテシバのことで罪を犯すであろうと予見したので、彼にこれを知らせようと道を急いでい たところ、ベリアルがこれを妨げた」という。

130年頃?『シビュラの託宣』第3巻(日本聖書学研究所訳『聖書外典偽典3』より)
 その後セバステの輩からベリアルがやって来る。彼は山々の峰を起 こし、海や、大きな、火の燃える太陽や、輝く月をとまらせ、死人を起こし、多くのしるしを人々の間で行うだろう。しかし、それらは彼にあって実りなきもの となり、かえって人々を迷わせており、将来も多くの者、すなわち信仰のある者や選ばれたヘブル人や不法な者や、まだ神のことばを聞いていない他の人々を迷 わすだろう。しかし、大いなる神の脅威が迫り、大浪によって火勢が地を訪れる時、その火勢はベリアルも、彼に信頼を置くすべての傲慢な人々も焼くだろう。
 この『シビュラの託宣』は旧約聖書偽典であるにもかかわらず、ギリシア神話の神々の名が多数登場する。それに混じって、ベリアルも登場。ここでは、どうも終末の時に現れる、アンチキリスト的な人物として描かれているように思える。

2世紀頃『シビュラの託宣』第2巻(日本聖書学研究所訳『聖書外典偽典6』より)
 しかし、予言者たちに代わって偽りのものたちが地上にあらわれ予言をするとき、 刈り集めの時は近い。それからベリアルが来、人々に向かってたくさんのしるしをするだろう。そのとき、選ばれた、敬虔な聖徒たちの間に混乱がおこり、また 彼らおよびヘブル人に対する略奪がおこるだろう。
 『シビュラの託宣』には新約聖書外典版もあり、こちらにもベリアルが登場し、やはりアンチキリストとして描かれている。

1338年グレゴリオス・パラマス『聖なるヘシュカストのための弁護』第1部第3問(上智大学中世思想研究所訳『中世思想原典集成3』より)
 すなわち彼は自然的認識で自然を超えるもの観察し、自然的理性や肉の哲学で、 「聖霊においてのみ知らされる神の深さ」や霊的でキリストの知性をもっている人にのみ知られる聖霊の賜物を探求し、示そうと無遠慮にも考えている。愚かに も彼は神の敵となり、――不幸なことよ――ベリアルのように善き聖霊の業と恵みを無視し、「霊を通して、神から私たちが恵みを受けていることを知るために、神の霊を受ける」者たちに反対する。
 グレゴリオス・パラマスはビザンティンの神学者。これは神学書なので、じっくり見当しないと理解できないのだが、自然的理性や肉の哲学、ギリシア又はヘレニズム的なもの?を追求するものは、神の敵でベリアルだとしている。

1486年シュプレンゲル&クラメル『Malleus Maleficarum』Question IV(JD訳)
 彼はまたベリアルと呼ばれ、それは服従または支配されない者を意味している。というのは、彼は支配されることに逆らって、戦うことができるからだ。
 これは日本では『魔女への鉄槌』と呼ばれる、魔女狩りテキスト。その中に悪魔に関する簡単な解説がある。ここではベリアルは、支配されざる叛逆天使として描かれている。何気にかっこいい。

1587年『実伝ヨーハン・ファウスト博士』(松浦純訳『ドイツ民衆本の世界3 ファウスト博士』国書刊行会)
 さて、ベリアルは、毛むくじゃらで炭のように真っ黒な熊の姿でファウスト博士の前に現れたのだったが、耳は上に高く立ち、その耳も鼻も燃えるように赤い。長い歯は雪のように白く、しっぽは三尺ほどもある。肩には翼が三つついていた。
 このあと7人の悪魔(ルチフェルベルゼブブアシタロテ、サタン、アヌービス、デュティカヌス、ドラフス)が登場するのだが、ベリアルはこれら7悪魔の頭目としての、8番目の存在になっている。

1667年ミルトン『失楽園』第1巻(岩波文庫)
 天から墜ちた天使のうち、彼ほど淫らで、また悪徳のために悪徳を愛する不埒なも のは他にはいなかった。彼を祀る神殿も、彼を崇めて香を焚く祭壇も、設けられなかった。にもかかわらず、神の家を淫欲と暴力をもって完膚なきまでに荒らし たエリの子のように、祭司たちがひとたび背神の徒と化したとき、このベリアルほど、いたるところの神殿や祭壇で頻々と祀られた者もいなかった。
 という風に、悪魔の中でも最も邪悪な堕天使とされているが、第2巻目ではベリアルが演説を行うシーンもある。ベリアルは「他人の耳を擽る術が見事」とされている。

1812年コラン・ド・プランシー『地獄の辞典』ベリアルの項(床鍋剛彦/講談社)
 ベリアルは美しい天使の姿で、火の車に乗って現れることもある。話しぶりは穏和で、人に地位や寵愛をもたらし、友情を長続きさせ、有能な召使いを世話してやる。
 プランシーの悪魔事典では、何気にいいひとだったりする。

1860年エリファス・レヴィ『魔術の歴史』第三之書第三章悪魔について(鈴木啓司訳/人文書院)
 ベリアルは永遠の反抗と無秩序の神である。これらはいずれも、消え入りそうな理性が抱く死に憑かれた想像物である。この理性は己の死刑執行人に一気に片をつけて責苦を終わらせるため、卑劣にも彼を崇めたてまつるのである。
 当然、エリファス・レヴィ(1810~1875)の時代には、悪魔は妄想の産物、悪徳の擬人化とされている。ベリアルが反抗の神なのは、『Malleus Maleficarum』を参考にしたのかもしれない。

管理人注:「だが塔が倒れ、人々の言葉がばらばらになったとき、死すべき者たちで全地は満ち、王たちによって分かたれた」
(『シビュラの託宣』第3巻)。バベルの塔への言及。

http://

 
 
》記事一覧表示

新着順:1314/3535 《前のページ | 次のページ》
/3535