teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]


スレッド一覧

  1. 11(0)
  2. ハーゲンダッツの苦味成分と健康被害(0)
  3. 株暴落を手招きする投資家を絶対許してはいけない!(0)
スレッド一覧(全3)  他のスレッドを探す  スレッド作成

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成

新着順:1337/3559 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

ルネッサンス文化の中の魔術と占星術

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年 1月 6日(月)23時50分8秒
  通報 返信・引用 編集済
  その1

http://blog.livedoor.jp/yoohashi4/archives/51343309.html

トマソ・カンパネッラはその著『諸事物と魔術の意味について』に記している。

「知識ある者たちが自然を模して成すところあるいは知識のない民ばかりか一般市民にも知られぬ業によって自然を補って成すところのすべては魔術の業である。先に述べた知識の数々ばかりか、あらゆることが魔術に使われる。アルキティウスが自然に居るもののごとくに飛ぶ鳩を造ってみせたのが魔術、ゲルマンの皇帝フェルディナンドの時代、あるドイツ人が巧みに鷲を造りまた造った蝿を自力で飛ばせたのも魔術である。つまりそれを業として理解せぬかぎりそれは魔術であり、そう理解すればそれも卑俗な知識に過ぎない。
火縄銃の火薬の発明や印刷術も魔術的なことであり、磁石もそうである。しかし今日では皆、そうした業を卑俗なものと心得ている。こうして時計も機械装置術もたちまち尊重されなくなり、村に鐘を響かせるばかりである。しかし自然学や占星術や信仰のことがらというのはなかなか明かされることのないものである。古人たちはそれを(魔術の)業として一括したのだった」(1)。

カンパネッラはここで厳密に三つのことを識別している。第一に、現実存在(リアリティー)の構造を探求するすべての知識は魔術に用いられる。魔術とは自然にはたらきかけることのできる技術を介して自然法則に手を加え、自然本性を変じる実践活動であるから。第二に、魔術師が神か悪魔かででもあるように纏ってみせる神秘的な暈光こそ、あらゆる知識の発展を妨げるものである。第三に、それにもかかわらず最大の問題として、より深秘なる業の数々は一般の理由づけから逃れつづけ、いまだ神秘なる〈魔術〉のヴェールを被ったままであること。
こうしてわれわれは魔術の、そしてそれと切っても切れない仲にある占星術の復権の緒に就く訳である。人間活動のうちにあって魔術の業は中心的な位置を占めることになる。カンパネッラが謳いあげた有名な詩句にあるように、人の神々しい可能性の模範のごときものとして。人‐宇宙の中心とはまさに、諸事物の秘密のリズムをとらえた人が自ら至高の詩人となるというにとどまらず、儚い紙のうえにインクでことばを書きとめるばかりか、神のごとくに宇宙という偉大な生きた書物に現実の諸事物を組み込む、ということである。

その2

http://blog.livedoor.jp/yoohashi4/archives/51344988.html

近代文化の黎明にあたり魔術という主題がもった意味を適切に評価するためには、なんといってもそれが中世にわたりずっと広範な問題を抱え込んだものであったということに留意しておきたい。それが文明の日陰から光のもとにもたらされ、新たな相貌を得て、あらゆる偉大な思索家、知識人たちに採りあげられ、清められる。そうこうするうち皆それに憑かれてしまった。たとえレオナルドのような人物が、降霊術(ネクロマンツィア)をおこなう不用意な愛好家たちを激烈に非難したのであったにしても。著名なものに限っても、マルシリオ・フィチーノはその生についての書のかなりの部分を〈魔術〉に捧げ、ジョヴァンニ・ピコはその毅然たる弁明においてこれを扱い、ジョルダーノ・ブルーノは魔術師とは業を実修することのできる賢者である(2)と言い放った。またブルーノはその『魔術論(テーゼス・デ・マジア)』で、諸存在の階段という古くからの序列と事物への神の影響の数々について語りつつ、この階段を駆ける二つの運動が指摘され、天へと昇り、事物に結びつき、逆性を調和させ、この世の諍いを調停し、諸元素を協調させる魔術的活動が強調される。奇跡をはたらきつつ、人々の心を魅了し誘惑し、地上の国を根底から革新するであろうものこそが魔術である、と。
フランシス・ベイコンが魔術‐錬金術について教えたところからは、知識を力として観念する彼の方法が、自然の表現(ことば)に耳を傾けそれを習得することによってたちまち自然に命じ、自然を働き者の召使と化す活動手段となされているところが垣間見える。ケプラーは諸天球の旋回を霊たちの導きとして観たのであったし、占星術師たちを非難したピコに対して憤懣を漏らしたりもしている(3)。ライプニッツはルルスとブルーノのカバラ学的諸玄義の跡を追い、すべての秘密をあばく論理の鍵を求めた。そしてまた厳格で冷徹なデカルトもまた、こうした形跡の埒外にあった訳ではない。彼は若い頃からネッテスハイムのコルネリウス・アグリッパの書冊を翻き、〈大いなる業(アルス・マグナ)〉の夢の内実を探し求め、ルルスの計算術のうちに知の〈驚くべき基礎(フンダメントゥム・ミラービレ)〉(「すべての問いを解く一般術」(4))を捉えようとしたのだった。しかし彼はこうした〈悪書〉のすべてを、こうした〈悪しき業〉のすべてを棄てることになっても、生命の秘密を死体のうちに探し、長寿法を求め、死に打ち勝つ手段を探して息むこともない。
カルダーノ、デッラ・ポルタ、アグリッパ、パラケルススその他は言うに及ばない。みな高名ながら晦渋、魔術を知識に還元しようというカンパネッラのプログラムに沿って尽力したのだった。ただしこの還元を誤解しないようにしよう。つまり、周縁に残されたままになっている諸兆候を単純素朴に伝統的な論理の枠組みへと回収することによって、ついに不分明で悪魔的な力への暗愚な呼びかけから清められることになる、などと考えてはならない。いずれにしてもそれは直線的な展開ではなく、現実存在(リアリティー)および知識に対する観方、人というものについての解釈はたしかに拡大していくのだが、基本的には同じものでありつづける。

その3

http://blog.livedoor.jp/yoohashi4/archives/51346570.html

しかし真実はおそらくこれとは異なっている。人というものの展望あるいは幻視(ヴィジョン)のありかたの根本的な変化、それにともなう存在とのかかわり、つまり邪で悪魔的なものとして放逐され、断罪され、悪魔払いされてきた幅広い主題群を成すところのものは、まずその豊穣さをあらわすとともに純化されることになるのだが、本来意味していたところが失われることはない。ここに、ルネサンス期の数多くの討究に認められる慎重な議論、つまり真の魔術と偽の魔術、真の占星術と偽の占星術、真の錬金術と偽の錬金術をめぐる論議がある。これは人による自然の支配という新たな道を拓くことになるものであるから。まさに中世神学が対決することを辞さなかったすべてとかかわりそれらを連繋しようとする志向は、ここでふたたび、それが必然であったにしても、ルネサンス期に深い亀裂をあらわすことになる。
しかしここでたちどまってみる必要がある。十五世紀、人についての新たなイメージが自覚され、ヘルメス・トリスメギストゥスというしるしのもとに特徴的な広がりを得ることになる。そしてそれはすでにヘルメス的な諸著作に明記されてあった指針にしたがって造形されていく。ここに妥当性をもって、それどころかまさに適切に、『ピマンデル(ポイマンドレース)』、『アスクレピウス』、その他の神学的著作群を一方に、夥しい魔術的‐錬金術的論考群をもう一方に、明確な区別が措かれる。もちろんそこには前者をその深みで後者の隠秘(オカルト)的、占星術的、錬金術的伝統に結びつける微妙で深甚な類縁性があることを忘れてはならない(5)。そこには、宇宙は生きている、すべては隠された照応関係、隠秘な親和力によって成り立っている、すべては霊的な諸存在に浸されている、という両者に通底した想念がある。すべては隠された意味を負ったしるしの数々として鏤められている(あるいは隠されたひとつの意味がかずかずの兆候(しるし)へと屈折せしめられる)。そこにあって、すべての事物、一々の個別存在、あらゆる力はいまだ意味のない理解されない声のようなものである。中空に懸かったことば。どんなことばもこだまし夥しく反響する。そこにあって、星辰の数々はわれわれに気配を伝え、お互いにしるしを交換し、お互いに見つめ、われわれを眺めやり、お互いに聞き耳をたて、われわれの言うことを聞いている。宇宙は膨大無辺の多声で多様な話し声に満ちており、時に低く、時に高く、時に囁くように、時にあからさまに語る。――そしてその中心に人がいる。驚くべく何にでも成り得る存在。どんなことばを語ることもでき、なんでも造ることができ、一々の祈願に応えるあらゆる文字(記号、護符、カラクテール)を描き出すことができ、あらゆる神を呼び出すことができる(6)。

その4

http://blog.livedoor.jp/yoohashi4/archives/51348273.html

『アスクレピウス』のすばらしい巻頭のことば。その調子はすでに古代の教父たちを誘惑したものであった。彼らは無益にもそれを調伏しようと試みたのだったが、ここにふたたび厳かに響きわたる。「人こそが大いなる奇跡である。誉め崇めよ」と。地と天の間にあって不滅の、この地上にあるすべてのもののうち唯一、彼方へと跳躍できる者。生気を与える火のように(「活きいきと上へ向かって」(7))。そして自らのはたらきによって地を治め、諸元素に挑み、悪魔たちを知り、霊たちと交わり、すべてを変容させ、神々しき容貌をかたちづくる者。不滅の神々は天から降り、画家が彼らに与えたその容姿に嫉妬する、と詩人は謳うことになる。不変の諸物の間にあって、人は定まるところなき炎。すべてを燃やし、燃やし尽くす。すべてを蝕み、生まれ変わらせる。あらゆる相貌をもつ故に、いかなる相貌もない者。形相(かたち)なきもの。すべての形相を溶かし、すべてのうちに生まれ変わる故に。すべてを持ちすべてを自らのものとする者。それゆえにこそムーサイたちの合唱が人々に降る、とは『アスクレピウス』の一節である。ここ、この世の音楽的な収斂にこそ、真の創造たる真の詩(8)の領土があるから。
アウグスティヌスは『神の国』に悲しいヘルメスの預言を録している。「エジプトよ、エジプトよ、汝の神々はただ寓話の中の記憶にとどまることだろう。遥か後の裔たちには信じることもあたわず。黙した石に刻まれたまま。人々は息をひきとり、神々は嘆きつつ帰天する」。しかしここに古の叡智は蘇える。シエナ大聖堂のモザイク床に堂々たる姿で描き出されたエジプトの預言者は、この賢慮の帰還の目に見える証言となっている。またその前に、偉大なるマルシリオはその書冊の数々をラテン語に訳し、その友トマソ・ベンチはそれをラテン語からトスカナ語に移した。人文主義の最初から、三重に偉大なる者のことばは人を讃えるものたちにはよく知られたものであった。厳格なサルターティも彼の前に跪き、穏健なジャンノッツォ・マネッティもラクタンティウスを介して彼を喚起している。そしてフィチーノが大いなる企てを成し遂げる。『ピマンデル』の翻訳はイタリアばかりかヨーロッパ中に広まり、ヘルメスの秘された玄妙な教えは鎖を解かれたように、新たな崇拝を生むこととなる。詩人たちはラテン詩に入念に仕上げ、偉大な領主(マニフィコ)ロレンツォ・デ・メディチも俗語で謳った。靴職人の哲学者ジェッリは感興溢れるフィレンツェ人の対話を著す。十五世紀末の歳月、その熱烈な弟子のひとりはキリスト教の首府の辻々で、司祭の式服を纏い、奇妙な儀礼をもって彼について説き、祈りのことばや宣伝ちらしを配って歩いた。大聖堂の数々の彫像に刻まれ、ローマで崇められ、フィレンツェで歌われ、いろいろなアカデミアで議論され、トリスメギストゥスは高名な大学の講壇からもその声を響かせることになる。大学教授たちは時代の嗜好と要請に応え、講義での論題に加えた。政治家も宗教者も弁論を美しく飾るため、もはやアリストテレスや教会博士たちのことばではなく、彼のことばをとりこんだ(9)。

その5

http://blog.livedoor.jp/yoohashi4/archives/51349818.html

こうしてすべてヘルメス的な調子で織り上げられた人の姿こそが、《調和の君主》の説教となる。なぜなら人であることのしるしとは、宇宙の中心存在であるということにとどまらず、諸形相の圏域を超えて、まさに自然本性をもたぬことにおいて自然本性そのものの主たることにあるから。自然本性をもたぬとは、完璧な自由に到達しているということである。諸形相の世界のすべてを人が圧伏してあるかのように。ここで人が世界を超えるとは、悪魔的なものに向かって堕落するという意味であるとともに、知性をも超えた神性へと上昇するという意味でもある。人というものの奇跡的な性格は、数々の事物に規定されてある諸圏域の中央にまさに宙吊りになっているという固有性にある。そこではある意味ですべての自然本性、すべての個別存在、すべての限定的な理拠が彼の意志決定に懸かっている。人はすべてを壊滅へと引き込むことも、すべてを自由な変容へと解放することもできる。事物というものはすべてそれぞれの条件のもとに固定され、そのままに在ったものであり、また在りつづけるであろうものである。石、動物、植物、自らの天球を旋回する星辰。しかし人はすべてでありうる無であり、未来へと向かってさしだされている。人間性とはすでに与えられたある自然本性のうちにではなく、その成すところ、その選択するところにあり、彼は現実の枠組みを超えていくものとしてある。彼の貌なき貌はその成すところの業にあり、この業こそがものごとを決定する(諸事物を規定する)のであり、世界にはたらきかけることによって世界に跡を刻む、つまり世界をかたちづくりつつ、世界を改変していくのである。魔術の主題のうちに何度も、人の、アダムの望みによってこの世は滅びあるいは甦り、悪魔の国あるいは神の国が生まれるというモチーフがあらわれるとき、そこにはある正確な意味が込められている。人をも含むある秩序のイメージが、人間以下のかたちなきものつまり悪魔と、絶対の無限つまりあらゆる繋縛からの解放すなわち神へと引き裂かれて、人はそこで諸形相(かたち)と秩序とを神のうちなる個別存在の数々へと高めることも、異常な、怪物的な、混沌とした晦冥のうちに転覆することすらできる、と。真の魔術あるいは自然魔術から儀式魔術を分けようとする議論は、秩序を昇階するために用いられる業を罪深くかたちない深淵へと向かって降る業から護ろうとしている。いずれにせよ、人の現実存在(リアリティー)の曖昧さはその存在をある可能性へと向かって据え、存在の無尽蔵の豊かさを讃えるうちに啓かれてゆくところにあり、ひとたび定められ(限定され)永劫に確固不動のものとしてあるのではなく、常に自らを賭してその限界へと向かうものとしてあるところにある。

その6

http://blog.livedoor.jp/yoohashi4/archives/51351595.html

中世と新時代の距離は、閉じられた非歴史的な、非時間的な不動の、可能性のない確固と定められた宇宙と、無限に開かれ、すべてが可能性としてある宇宙のあいだにある距離にも等しい。前者にあって、魔術師とは平穏で完全な世界の秩序を傾けようとする悪魔的な誘惑に過ぎない。それゆえこれは論駁され、訴追され、火刑に処された。魔術は人にふさわしい知識の埒外へと繋がれ、ただかたちなきもののうちに堕ち、悪魔の誘惑に耳傾けること、これはおそろしい誘惑である。確たる秩序の神学として、ある時期アリストテレス主義のうちに晶化した中世哲学、それと魔術のあいだには和解の余地はなかった。神学は人というものを種的不変性のうちに無化することを選ぶだろう。人を自然の秩序から解くことによって、かえってはたらきそのものとしてある人という難題が呈されるところに起こる躓きを知りつつ、その暫定性を論難することによって。神学は歴史と自由を無化する確固たる理拠を採るだろう。自由とは宇宙の構造を危険にさらしてやまないものだから。
こうした神学の立場とまったく一貫して、中世、魔術や占星術は悪魔的なものの支配する領域であり、理拠の秩序の境界を彷徨うものだった。諸形相(かたち)の世界の外へ放逐されつつ、理拠の境界の内側にはたらきかける。諸元素にはたらきかけることで、偶然に見出される可能性が人の活動にある種の微光をもたらすことになる。これが〈諸体験〉の知識、〈実験〉の科学であった。諸々の個別存在の秩序階梯、理拠の階梯においては、一々の可能性は枯渇する。未来はその総体が過去のうちに糾合される。体験とは或る無意味である。厳密なる演繹推論の連鎖は、諸個別存在の総体性を残りなく包摂し尽くすものであるから。それゆえ、体験的な偶然性は理拠に下属するものとしてより他ありようがない。主の世界とは隅々まで清潔に整えられた家であり、体験とは悪の棲み家である。それゆえそれはこの世のはじめ、地の底へと放逐されたのであり、この世から遠ざけるために地獄へ堕されたのである、と。論理の卓越、数学の特権的性格は、宇宙の〈先験的な(ア・プリオリ)〉条件として置かれることにより、人、歴史、そしてついには神そのものをまで破壊する危険を冒すこととなる。あるいはすくなくとも、アブラハムの神、イサクの、ヤコブの、天にまします神、ペルソナとしての神、人となりたまうた神を。永遠の旋転のうちに区分される宇宙に対抗して、魔術師がはたらく悪魔(ダイモン)たちの圏域がある。理拠というリアリティーから放逐された魔術師は、変じてやまぬ亡霊(ファンタスマ)たちのもとへと逃れ、影を召喚し、諸天に恐ろしげな神々を眺め、人の奥底に暗く混濁した力を感じとる。魔術が断罪されたのは、人間以下の魔術、降霊術(ネクロマンツィア)の時代に一致する。占星術が断罪されたのは、審問占星術(アストロロギア・ユディツィアリア)と儀式魔術(マギア・チェリモニアーレ)の共謀に一致する。じつに古くから諸天に棲むおそろしい容貌をした闇の諸力は、祈祷と儀礼によって、かたちなく混濁した世界の深みから押し寄せるこれまた暗い諸力にはたらくよう誘導することができる。占星術あるいは土占い(ゲオマンツィア)の実修の幾つかには、無意識説に似たところがあり、力づくで埋葬された世界で入念に仕立てられたあらゆる神話を背負っている。こうして神学が理拠をもって悪を非実在性へと追放するうち、それは秩序という壁(バリアー)をも揺るがすこととなり、魔術はそこに根ざし、そこにつけいり、そこに試み、それを自らに利することになる。不動の種という純然たる階層秩序に接合されている生きてあるものの諸形相(かたち)を前に、魔術は奇妙な婚姻を試みる。怪物じみた交接と悪魔的なものの生成を(10)。水晶のように純粋透明な諸天球の完璧で均一な循環の下にあって、占星術師はそこに邪悪な光の照射を垣間見る。惑星の諸力を燃やし尽くす太陽、諸星辰がその軌跡に残していく致命的な発散物。ある宿にあって笑う星辰、別の宿にあって泣く星辰、恐ろしい目つきの身の毛もよだつ獣たち、猛り狂った光の闘いを繰り広げる獣帯の怪物たち。奇妙な身なりであらわれる神々、炎のような目をした黒いエチオピア人たち、麦穂の束を抱えた貞潔な乙女たち。「獣帯には三十六の神像(イメージ)あるいは星位(アスペクト)があり...白羊宮の第一のアスペクトに昇るのは、立位で純白の衣装をまとい帯を締めた、赤い目の堂々とした憤怒質の黒い男の神像...第二のアスペクトには女の姿が昇る。赤い上着に白い下着を纏い、片方の足を前に踏み出している...第三のアスペクトには白い男が昇る。その容貌は蒼白で、髪は赤く、手に赤い腕輪をして木製の杖をもっている。なにやら焦燥にかられ怒っている様子」。神像のなかでメルクリウスは「鷲の脚、頭に冠毛のある孔雀に跨り、片手に炎をもつ男」(11)。

(10) こうした記述は偽プラトン主義的な『ヴァッカの書Liber Vacca』や有名な『ピカトリクスPicatrix』(フィレンツェ国立図書館写本II, iii, 214とMagl. XX.20をわたしは閲覧した)のものである。
(11) これらデカノの神像(イメージ)群はコルネリウス・アグリッパ(『隠秘哲学de occ.philos.』,II,37)から適宜採用したもの。ジョルダーノ・ブルーノの『イデアの影De umbris idearum』がこれに拠っている点は興味深い。だがもっと基本的なテクストのひとつとしてアルブマセルの『序論Introductiorum』がある。《oritur inprimo eius decano [Arietis], ut Perse ferunt, femina cui nomen splendoris filia…》。イブン・エズラはアルブマセルに拠っている。またピエトロ・ダバノはエズラに拠っている。

その7

見つかりません

その8

http://blog.livedoor.jp/yoohashi4/archives/51355368.html

占星術批判で繰り返し言われるのは、〈誕生という主題〉あるいは誕生の瞬間か受胎の瞬間の天の状態が存在のすべてを条件づけるというのは、人をものに堕しめることである、という異論である。しかし事態はしばしばそうは運ばないし、占星術師たちの天空をガリレオ以降の機械論的天体という考えのもとに理解することもできない。かえって占星術は人の自然本性化、世界の完全な人化のほうへと向かうものであるのだから。霊(スピリトゥス)たちが棲む天球ではすべてが生きており、それはひとを抑圧する自然本性であるというよりも、諸星辰、天の宿の数々を動かす不滅の生命あるものたちとの継続的な交換、永劫の会話によって人が肥大膨張したものである。われわれの運命そのものもまた、一度にすべて分配されてあるのではなく、区々の時を宰領する神性の衆合から分かち与えられるものである。こうした時の宰領者たちは、諸元素を統括する諸々の力に命令を下す、あるいは秩序を与える神的諸原理のごときものとしてある。ここには機械論的天空に代えて、それにも劣らない神話学がある。つまり算術的計算と定量的関係の代わりに、勧請(命令)と祈祷、襲撃と防御、ある種の典礼と修辞がある。賢者は諸星辰を支配する、とは占星術便覧(マニュアル)の巻頭に繰り返し録される格言である。なぜなら、賢者は星辰から人へ降る方向性を、人が星辰へと上昇する運動へと逆転してみせるのだから。彼は多様な力のせめぎあいと平衡に発する可能性の一角を利するだけではなく、賢明な方策をもって星辰の神的な潜在力を説伏してみせる。
ここでは誕生日占いに拘泥するのでなく、〈機運(エレツィオーネ)〉(13)と〈運勢(インテロガツィオーネ)〉(14)について著されたもののひとつを開いてみることにしたい。人というものはある行為を成すにあたって、出発すべきかどうか、結婚すべきかどうか、町を新設すべきであるか、王国を築くべきであるか、確信が持てない。そこで彼は占星術師か土占い師のもとへと赴く。〈ジェニトゥーラ〉あるいは天の象限に運命的な時点を読み取る誕生日星占いは彼の運命を決定している。あるいは――これを忘れてはならない――彼のからだや感性、気質はそれに方向づけられている。彼の霊的生命の基層は、階層秩序におけるその高貴さからしてそれに服す訳ではないが、ただ身体器官、自然本性といった要素によってあらかじめ条件づけられている。さてそこで、彼は自然本性か彼に課すところに限界づけられたこうした全般状況にあって、はたしてある行為をうまく成し遂げることができるかどうかを知りたい、と思う訳である。

(13) *elezioni機運、ある行為をはじめるにあたって、もっとも適した時宜を定めること。
(14) *interrogazioni運勢、ある行為をはじめるにあたって、その進捗をめぐって答えを与えることを承認すること。

その9

http://blog.livedoor.jp/yoohashi4/archives/51357648.html

占星術師は何をするのか。彼は、諸星辰の注入影響が深いところで力を及ぼすということを知っている。宇宙のあらゆるところにある自然本性の傾向性が、忠言を期待する者のうちにも、忠言を請われた占星術師自身のうちにも、あるひとつの深みで響きをあげる。彼はこうした指導的な宇宙の力があらゆるところにはたらいているのを知っている。あとは星の声に耳を傾けるばかり。しかしこの声を聞きとめるためには、声そのものを黙らせなければならない。観念(受容)の限界に諸元素の運動が生じるままにしなくてはならない。こうして、問う者のうちで意識の澄明な制御(コントロール)は宙吊りにされ、ある種の直感的予知(抜け目ない手段)にまかせて砂粒に跡を印させ、適当な手段を介して諸星辰を支配する方法が彼に示唆される。それによって状況が確かなものとなるように。
地上の神ででもあるかのように賢者は自然本性の諸秩序を知り、それらを自らに従わせ、それらを凌駕する。
敬虔なフランチェスコ会修道士ロジャー・ベイコンやローマ教会枢機卿ピエール・ダイイ、あるいは深く正統信仰に就くドメニコ会修道士トマソ・カンパネッラのような人々が、宗教星占い(ホロスコープ)のような不敬な説を受け容れた、つまりこの世の宗教があれこれ移り変わることを、預言者たちの到来が惑星の大合あるいは太陽より上位にある諸惑星の交会によって定められていると信じた、ということは歴史家たちを驚かせる。だが、そうだとしたら、天にまします父は、その子の誕生を指示してみせるように自然本性の諸力を方向づけることができなかった筈があろうか。ひとつの星辰が東方の博士たちに告げしらせたように。占星術師にとっても魔術師にとっても、自然本性はすべて合一し、人と共謀するものである。人は魂(アニマ)の深みを精査することで、それを祈祷や妖術によって自らに役立つように折伏することができる。その溌剌たる造形力の柔軟さを利することによって。

その10

http://blog.livedoor.jp/yoohashi4/archives/51358720.html

魔術的な薬(魔法の薬)というものは、この点で啓発的である。医者は深みの諸力を、隠された力能を嵩じさせ、病人の〈諸霊〉を高揚させ、諸器官を変じ癒すために、数々の〈護符(イメージ)〉や祈祷を用いる。十七世紀末まで大学の医学の講壇に君臨することになる諸書を著した偉大な医者アヴィセンナは、魂(アニマ)は万能であり、ことば(呪文)、しるし(護符)、象徴(印形)の数々は健康を援け壮健さを与え得るものである、と繰り返し説いた。熱烈なサヴォナローラ主義的敬虔の信奉者で高名な医者にして自然学者であったアントニオ・ベニヴェーニは、修道士ドメニコ・ダ・ペッシャはいろいろ患者を治癒してきたが、特に患者と一緒に祈り患部に十字のしるしを切ることによって大学者ロベルト・サルヴィアーティを癒した、と語っている。敬虔なるフィチーノもまた医者として、占星術師たち医師たちがキリスト教信仰とは別に十字のしるしに帰した重要性を実践に結びつけることに躊躇はなかった。ベニヴェーニ、フィチーノ、そしてポンポナッツィは、アヴィセンナやロジャー・ベイコンについて言及しつつ、この現象を適切な手段を介してはたらく焦燥感の緊張あるいは〈諸霊〉の圧力(神経の緊張あるいは血の圧力)として解釈した。それは身体諸条件を変じさせることができ、諸霊を服従させることのできるものであるのだ(血の問題であるのだ)、と(15)。
中世に神学化された幻視(ヴィジョン)の知解の基本構造は、ふたたび近代の過激な合理主義において観られることになるところと同じく、現実を裁断して、生命の闊達な造形力の柔軟さを論理の枠組みに諸概念を固定する。魂に対するからだ、、理性に対する情念、霊に対する自然、厳密に均質な諸法則に対する奇蹟の不合理さ、冷めた知識と行為の熱さ。一方、魔術‐占星術の立場は総体の共鳴と統一性を前提とするものだった。そこでは最も遠い星辰の瞬きがこの世の最も秘められた場所にまで反映し、またそれが逆に最も遠い星辰にまで反射する。こころのどんな動きも無限に振動し反響しつづける。そこには深い分割は存せず、生命の総体が生き生きした流れとなって照応する階調をなしている。

その11

http://blog.livedoor.jp/yoohashi4/archives/51360318.html

十四世紀初頭、占星術師にして医師であったピエトロ・ダバノは、観相学(フィジオノミア)の知識が容貌に映された内心を観ることを、目に見えるもののすべてが隠された意味をあらわしているのだということを教えた。彼は書いている。「われわれがそれにふさわしい実修をなすならば、諸星辰はわれわれのこころを鎮め、われわれのうちに援けと好意としてはたらくだろう」。一五〇九年、イザベラ・デステが夫の幽閉に心痛めていた折にペッレグリーノ・デ・プリシャーニが彼女に宛てたことばは、この高名なる占星術師が『調停者(コンチリアトーレ)』から引いてみせたものだった。

「ギリシャの王たちは彼らの事跡に神の恩顧を得たいと思う時には、龍の頭(昼夜平分点)を可能なかぎりユピテル(木星)に合わせるか、ユピテルが好ましい形姿(星座)とよい角度になるように、そして月がユピテルと合にはいり、あるいは東の地平線(アセンダンス)にあるユピテルに発して龍の頭の形姿(星座)と親和する時に、神に望みが適えられるようにと願上したものです...神のご加護、そして占星術師たち賢者たちが何度も貴女様に言上してまいりました浄福なる星座の力強い慰めと励ましが、何年も何年も待ちうけてきたところがこの土曜日にあたります...先に申しましたところの土曜日、貴女様が熱烈な献身とともにお祈りなさるならば、そして所定の時間に跪き、掌を合わせ、視線を天に挙げ、〈改心の祈り(コンフィテオール)〉を誦しつつこころから告解をなさいませ。その後、こころを尽していと高き永遠なる神にお願いなさい。どうか愛する夫を健全な姿でお返しください、と。この願いを三度繰り返し唱えなさい。そうすれば近日中にきっとそれは叶えられることとなりましょうから」。

このように占星術的な実修は、できごとのすべてが厳格な仕組みのうちに組み込まれ、厳密に定められた運命に支配されている、とみなすところからは随分かけ離れたものであることが分かる。勧請がおこなわれ、魔法がつかわれ、護符がつくられる。なぜといって、すべては生きており、魂を授けられており、すべてが連動しているから。そして人は、神の生き生きした主宰、生命ある廷臣たちつまり諸星辰を介して神を召喚することができる。中世魔術の最も有名な便覧(マニュアル)のひとつには、王たちの厚意を得るための諸実修に先立って、次のような太陽への祈りが載せられている。「おお、汝、天のそれも特に諸星辰の、諸惑星の根源よ、聖と崇められ...汝、この世の光よ、われ汝のすべての名をもって汝に懇願す...汝に光と生命を与えたものに誓って嘆願す」。

その12

http://blog.livedoor.jp/yoohashi4/archives/51362089.html

諸事物のうごきさだまらぬ生命に目もこころも開きつつ、最も熱烈な占星術や魔術の擁護をなしたのがひとりのフランチェスコ会士、ロジャー・ベイコンであったのも、おそらく偶然のことではない。そこでは現実諸存在(リアリティー)との最終的な関係は人格(ペルソナ)的な関係であって、数や理拠、大きさの尺度にあるのではない、と考察がめぐらされている。兄弟たる太陽(ソーレ)と姉妹なる月(ルナ)、兄弟たる狼(ルーポ)と姉妹たる鷲(アクィラ)。兄弟も姉妹もみな創造された個別存在である。すべてにとって神は父である。ここでは論理的本質の綾が、あらゆる可能性すべての確信に向かって開かれた新たな実在への賭けとしてあらわれる。ルネサンス期のすべてを覆いニュートンの物理学があらわれるに到るまで広がりつづける説、カンパネッラが響き豊かな詩に編みあげた説。これによるなら、すべては生きており、魂を与えられており、流動し、かたちを変えかたちづくられるものである。それは宇宙は無限、真の絶対、内も外もあらゆる限界、すべての障壁から解放されてある、と言うに他ならない。これについてはまさに、ジョルダーノ・ブルーノが崇高な表現をしてみせることになる。この世のすべての壁は突き崩されるであろう、と。この崩壊およびすべての怪物たちの追放(密売、知らぬ間の浸透)とは、生命とその諸根源を堅固な概念の城という障壁の外へと追放することではなく、宇宙の形相と質料を一にした生命衝動の統一性を要請することであり、限界のない自由の可能性を、自ら秩序づけそこにたちあがる力の流れを、生命が尽き静止してしまったような存在ではない存在をかたちづくることである。これはまた限定された不活性な本質の観照の拒否であり、知り成す活発な活動、すべてを限りなく変容させる魔術に供する知識のことである。

「これが諸感覚を開き、霊を偉大なる知性を満たす哲学...われわれのためにだけではなくまさに実体のため死んだものならざる存在を見出そう。実際、それが実体的に減少することはなく、すべて無限の空間を駈けめぐりつつ、相貌を変える...諸事物の無限の多様性を簒奪し消耗させる目的も終局も、周縁も壁もない。じつに土と海こそが豊穣であり、太陽の熱こそが永劫であり、猛火を永遠に供給しつづける。そして穏やかな海には水分を。無限の質料からは常に新たに夥しく生じるのであるから」。

〈質料(マテリア)〉ということばをそこに見つけても欺かれてはならない。われわれがそのうちに生きる無限、またわれわれのうちに生きる無限は「質料(マテリア)ではない。なぜといって、それはかたちづくられていないし、かたちづくることのできるものでもないから。限界がなく、限界づけられていないから。それは形相(フォルマ)でもない、なぜといってそれは形相化しないから...しかしそれは形相ではないにもかかわらず、まさに形相そっくりであり、質料でないにもかかわらず、まさに質料のごとく、魂でないにもかかわらず、まさに魂に見紛うようなものである。なぜなら、それは全であり、なんでもあり得るのだから」。一なるもの、無限、生きてあるもの、絶対。

その13

http://blog.livedoor.jp/yoohashi4/archives/51363778.html

十九世紀以降の歴史学の大部分、啓蒙主義的合理主義以降、ルネサンスとは純粋理性、デカルト的(合理主義)、科学的なものと、隠された力、生命ある諸天と諸事物の魂の、古代中世の暗愚な迷妄のかずかずからの離別の出発点、と解されてきた、とブルクハルトは言った。それは普遍形相から横溢するすべてを拒絶し概念的階層秩序のうちに纏められた非歴史的で確固とした構造をもつ宇宙、という保証を破壊する。それは肉と情念を逃れ、生命のあらゆる誘惑に目を閉ざして普遍理性という非人格的な理拠ヘと帰還する純粋に観想的な人、という観念を破壊する。図式化し得る構造化された世界のうちを動く人という図式に対し、ヘルメス的な(晦渋な)理想が称揚される。そこでは、意志、はたらき、行為が諸々のかたちを産み出しては解消し、無限の可能性という未来に向かって限界もなしに開かれ、思いのままに創り、生起し、動く。はたらきかける人とはまさに、無尽蔵の可能性としての宇宙普遍に照応するのだから。そこには賢明さをもって屈服し得ないような力、うち克つことのできない運命、われわれのことばを理解しない星辰、われわれの役に立たぬ力などというものはなにもない。無限の生きた統一性のうちに、じつにあらゆる限界が砕け散る。
ブルーノはまたその有名な一節で、賢者とは諸概念という死んだ障壁のうちにすべてを閉じるのではなく、創造者の潜在力を一となし、また自ら創造者となって、宇宙普遍の生命ある無限を見出すために探求する者のことである、と教えている。こうしてアクタイオンはディアナを追いかける。しかし彼がその裸体を想いみて純然たる観想に入るとき、犬たちが彼を八つ裂きにしてしまう。

「犬たち、神的なことがらの思惟の数々はこのアクタイオンを貪り食らう。彼を...諸感覚の惑乱という結ぼれから解くように。そこにはもはや孔から、窓から眺めやるようなディアーナの姿はない。だが、壁は地に薙ぎ倒され、一瞥のうちにすべての地平が見渡される。そこではすべてが一として眺められ、もはや差異や数多の、種や理拠の区別は見えなくなる。それがモナド、あらゆるものとしてあるということの真の本質である」。

人の無限の潜在力は行為(アクト)(16)の全一性のうちに蝟集する。ここに賢者は星辰を司り、魔術師は諸元素をかたちづくる。これが存在と思惟の一性、現実存在(リアリティー)の完全なる開示である。これこそが、ルネサンスが人の称揚のうちに加えた魔術擁護の意味するところであった。

 
 
》記事一覧表示

新着順:1337/3559 《前のページ | 次のページ》
/3559