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捏造された聖書

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年 1月 9日(木)23時10分8秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/jesus/009.htm

HPはここ

http://www.geocities.jp/todo_1091/

関連:聖書からのイエス像

http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/jesus/index.htm

ナグハマディ文書

http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/jesus/appendix-03.htm

『注1:グノーシス主義は、地中海世界を中心とするキリスト教系のものと、イランやメソポタミアなどの東方に本拠を置く非キリスト教系のもの、2つがあると言われてます。政治的支配が地中海と東方に及ぶと同時に、地域的思想もヘレニズムの影響を大きく受けた結果と思われます。グノーシス主義宗教の一つにマニ教がありますが、この宗教は紀元15世紀まで中国で存続していたようです。

注2:デミウルゴスは、プラトーンの著作である『ティマイオス』に登場する世界の創造者として出てきます。ギリシア語では「職人・工匠」というような意味とされます。プラトーンは物質的世界の存在を説明するために、神話的な説話を用いて記述してますが、この言葉と概念をグノーシス主義派が利用したのでしょう。』

「捏造された聖書」 by バート・D・アーマン

著者はノースキャロライナ大学宗教部長のバート・D・アーマンで、新約聖書、イエス伝、原始キリスト教の専門家学者です。日本語のタイトルがショッキングですが、英語のタイトルを日本語に訳すと「イエスの誤引用ー聖書を改変した人々とその理由の背後にある物語」となり、実は健全かつ学術的な、標準的現代聖書学の成果を書いた本であり、日本語タイトルは売れるような本をと言う思惑から付けられたと想像しますが。著者は聖書の本文批評学の権威です。この本文批評学とは、オリジナルな新約聖書がなくなった今、入手できるものが写本だけという状況、しかもその写本たるや2世紀初頭から16世紀までおよび、ギリシャ語の写本は5700以上、ラテン語ウルガタ写本は万を超える数があり、これらの写本には30万を超える異文(写本により新約聖書の文章が、単語単位あるいは文節単位、あるいは章単位に異なるので、それらを数えるとそれ以上ある)を含む写本を、学問的に比較検討しオリジナルの聖書を見つけ出すという学問分野を言います。

著者は高校生の時に再生体験をした敬虔なキリスト者でしたので、ムーディー聖書研究所に入所に生涯をキリスト教研究に奉げた青年でした。後にビリーグラハムも卒業したホイートンカレッジ(ホイートンで本物のキリスト教徒を見つけるのは至難の業と、著者はムーディーの関係者から忠告された話を書いてますが)に進み、更に本文批評学を研鑽するために、最高権威がいるプリンストン大学神学部(友人からあそこで本物のキリスト教徒を見つけるのは至難の業と言われた話を書いてますが)に進みます。ギリシャ語・ヘブライ語を完璧に学んだ著者は、そこでターニングポイントを迎えます。

著者が敬愛する敬虔なカレン・ストーリ教授のマルコ福音書の釈義の講座で、期末論文を提出した時の話です。マルコに書かれた、イエスの弟子達が安息日に麦の穂を摘んで食べた事を律法学者から非難された時、イエスが弟子をかばうためにダビデの話を引き合いに出しますが、その時の話に出てくる大祭司の名前がアビアタルと書かれていて、これは明らかに父親アヒメレクが正しいのですが、それについて著者はマルコを擁護する論文を書いたのです。しかし、教授から戻ってきた論文には、ただ一行「たんにマルコが勘違いしたのでしょう」。著者は脳髄を直撃するショックを受けたと告白します・・・「あううう~・・・もしかしたらマルコは本当に間違えたのかも!」。

以降彼は眼が見開いたように色々な物が見えるようになったそうです。聖書の矛盾箇所があるのは当然ですが、現存する新約聖書のギリシャ語写本を調べれば調べるほど問題点が出てくる・・・オリジナルが霊感で書かれたと主張するのは良いが、現実にはオリジナルは存在しない、つまりオリジナルを再現できない限り霊感云々すること自体詮無き事だと。オリジナルの複製すら存在しないし、入手できる写本自体は、相当後の時代のものしかない、しかもこの写本群は互いに多くの点で異なっていて、相違点が幾つあるのかすら分かっていない。

著者はここで霊感についての厄介な問題を考えます・・・もしも神がその気になれば奇蹟の一つも起こして、聖書の言葉を同一に保つ事など朝飯前のはずなんだから、神が本当に自分の民に自分の言葉を与えることを欲していたならば、問題なくそうしているはずだ。にもかかわらずそうなっていないのは、神が御言葉を同一に保つと言うことをしてくださらなかった事を意味している。そして神がそういう奇蹟を起こしてくださらなかったと言うことは、それ以前の奇蹟、つまりすなわち御言葉を霊感で人間に与えたと言う奇蹟を信じる理由がない事になる。・・・驚天動地の変化と著者は書いてますが、理知的に判断すれば実際そうなりますね、この辺までは私も共感を覚えますが。・・・更に著者は、聖書は人の書、それぞれが異なる人間の著者、それぞれが異なる時代に、異なる場所で、異なる目的の為に書いたのだ。著者は霊感で書いたと言うだろうが、彼らにはそれぞれの観点があり、独自の信条、独自の視点、独自の必要性、独自の欲求、独自の理解、そして独自の神学があったと。

著者はもちろん聖書に書かれたメッセージへの尊敬の念は持ち続けますが、一方では教父が書いた書物や他の宗教家が書いた書物にも興味を示し、それぞれに書かれた真の意味を考え、学ぶべきものを学んでどう生きるべきかを自分自身で判断するようになります。・・・このあたりになると私から見れば、よくある妄信的キリスト者の一大転換の見本のように思えます、ちょっと極端から極端に走りますね。人それぞれですが、性格的にみると少々単純な面があるかなあなんて思ったりしますが、正直であるのは間違いないでしょう。前述の著者の友人の言葉、「あそこで本物のキリスト教徒を見つけるのは至難の業」・・・圧倒的にアメリカの神学者の場合、当て嵌まるのかもしれません。アメリカの社会では宗教ビジネスと言う言葉が語られるほどですから、なんともはや・・・

話を戻して、以降著者は新約聖書の本物のオリジナルを求めて、写本が如何に書き換えられてきたかを研究します。

最初にユダヤ教の特徴を、書物志向の宗教と定義し、キリスト教もこのユダヤ教の特徴を引継ぎ発展した、これが当時他の宗教との大きな違いだったと述べます。しかし、キリスト教の揺籃期では、下層階層の信徒が多かったので文盲が非常に多かった、ゆえに書物を筆写するに往々にして信徒ではない職業書記者に任せる事が多かったと推定します。この場合の筆写された写本には、書き間違いが多いのですが(単純ミス)、ギリシャ語文自体が分かち書きされていない、大文字だけあるいは小文字だけだったという事も要因にあります。場合によっては1行以上抜かした等も。次に信徒が筆写した場合、写し間違いは少ないが、所属する集団の教義上の理由で書き換えてしまう、あるいは追記削除してしまう事もあった(教義上の意図的改変)。更に、オリジナルの文章の意味が分からなかった、あるいはオリジナルの登場人物がどうしてもそう言ったとは書記者には思えなかった場合、文章自体を意味が通じるように変えてしまった(解釈上の意図的改変)。

こうしてオリジナルとは異なる異文を含む写本が出来上がり、この写本を次に筆写する・・・この歴史が繰り返されて、幾多の写本が残されて行ったとなります。本文批評家はこうした写本を系統樹のように整理する作業を続けて、可能な限りオリジナルを求めていく作業を行っているようです。以下に本文中の例を少し引用します。

例1

マルコの最終章、イエスの復活後の話で

16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
------------------------------------------------------------
◇結び 一◆マグダラのマリアに現れる
16:9 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。

古い写本は16章8節で終わっているのです。以降はかなり後代に追加された文章で、新共同約では結び一結び二の部分が追加されたものとなります。つまりマルコでは、婦人達が驚いて墓から逃げ出し、誰にも言わなかった、怖かったから・・・で終わってます。後の人が、この不可解な終わり方に不満を持ち、追記したらしいのです。でも、このマルコの終わり方はマルコらしい終わり方なのですが、説明はずっと後のページで書くつもりです。

更に

16:17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
16:18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。

これも後の追記となります。異言の根拠となった部分は後の人が書いたもの、また毒を飲んでも害がないのも同様(真似する人はいないと思いますが・・・これがあるんだなあ、アパラチアの蛇使いとか言う宗派が。まあ、毒蛇に噛まれたら確実に死ぬと思います)。

例2

ヨハネ福音書に登場する、有名な姦淫の女の話があります。機知に富んだイエスの行動は、イエスらしいものと思えますが。内容は、姦淫を犯した女を石打の刑にしようとする時、イエスが罪を犯した事がないものは石を投げろと言うと、誰もいなくなり女は助かりますが・・・この話も古い写本にはありません。他の福音書にもありません。面白いことにかなり後の時代に、ルカ福音書にこの話が書き込まれた写本があります。
例3

マルコ
1:40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
1:41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、
1:42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
1:43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、
1:44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
1:45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

41節の「深く憐れんで」は、オリジナルに近いと想定される写本では「怒って」となっています。通常考えると「憐れんで」の方が意味が通じると思われますが(だから改鼠したのだと)、本文批評家の下した結論は「怒って」なのです。更に「厳しく注意して」も「厳しく叱責して」なのだと。

もちろん怒った理由があるのですが、それについては後のページで書くつもりです(少々説明が長くなりますので)。マルコはイエスが怒った事を書くのに躊躇しませんが、マタイとルカはそれを書換え、イエスは憐れみ深い愛するイエス像を創り上げています。しかし、マルコのイエス像が最も真実のイエス像に近いのではないかと・・・私も考えます。これは非常に重要な話なのですが、説明は後のページで。

著者は、他にも色々と挙げていますし、本文批評の歴史も大変詳しく解説しています。一読する価値は十分ある本と言えるでしょう。聖書の真実を見つけていくことは、結構難しいのですが、決して避けて通ることは出来ません。避けてばかりでは、虚像しか見えない事になります。

捏造された聖書の書評

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2008/06/post_9060.html

[書評]捏造された聖書(バート・D・アーマン)

 「捏造された聖書(バート・D・アーマン)」(参照)はいずれ読むんだろうなと思っていたが、ふと思い立ったように読んでみた。面白かった。
cover
捏造された聖書
バート・D・アーマン
 話は、聖書の本文批評学(textual critic)を一般向けにしたものだ。聖書というのは信仰者の多くは神の言葉だと理解しているしそれはそれで信仰の問題だが、信仰といった部分を除いて考えるなら、普通に人間が書いた歴史文書であり、その編纂の歴史というものがある。本書はその新約聖書の部分をまとめたもので、こういうと嫌われるかもしれないが、欧米の知識人と向き合うことがある日本の知識人ならこの程度の内容はざっとごく常識として知っておいたほうがいい。その意味では必読書と言えるかもしれない。日本の現代知識人は奇妙に歪んだ、キリスト教に対する優越心みたいなものを持っていることがあるようだけど、そんなのは欧米人には通じない。むしろきちんと彼らの背負い込んだ知識を理解したほうがいい。
 本書は私にはある意味で運命的な本でもある。個人的な話になるが、私は若いころ聖書学を志していたからだ。歴史的イエスというものに関心を持ち、方法論としてはイェレミヤスが試みていた、アラム語によるQの再現といったいった学問に夢を持っていた。幸いというべきか学部時代に夢は早々に破れ、貯めておいた人文のギリシア語とラテン語の単位は語学に移し、以降学問と信仰というものを分離して生きるようになった。
 そういう個人的な背景があるものだから、「捏造された聖書」のバート・D・アーマン(参照)がその「はじめに」で書かれている、素朴な信仰者がしだいに聖書学によって信仰が揺らいでくる過程は興味深かった。そしてアーマンは私より数歳年上なので同じような時代の中にいたのだろうという共感もあった。
 より聖書を学ぶことで信仰に確たる基礎が築けるのではないか、それは私も経験したが矛盾した営みだった。たしかに、一面では信仰というか確信は深まる。四福音書がそれぞれ違った立場で書かれていることがよくわかるようになり、またパウロ書簡の真偽の区別も付くようになる。だが、それはキリスト教だろうか? かろうじて私は当時八木誠一先生が提示した、信仰のリアリティを元に新約聖書における信仰類型の考え方で矛盾を解決しようとした。しかし、私はやめた。信仰のリアリティはそもそも存在しないのではないか。八木先生もその後仏教に傾倒され、私も結果的に仏教に傾倒していくのだが、その意味合いはかなり違ったものになった。もちろん、先生に自分が及ぶとはまるで思っていない。むしろ、私は神学としてはティリヒの理解を深め、仏教については素朴に道元に思慕を持つようになった。
 私はといえば、学部半ばで挫折したから、ギリシア語で聖書がすらすら読めるというわけではないが、それでも実家にはギリシア語聖書は4、5冊くらいあり辞書も数冊あった。インタリニアー聖書が2冊あり、今でもその気になれば、聖書で、あれここは誤訳かなというところは原典で参照できる。それはある意味で困ったことでもある。アーマンの言葉はよくわかる。彼は学生時代にこう思った。

     ギリシア語の学習はスリリングな体験だった。実際にやってみると、基礎の習得は実は簡単で、つねに私は一歩先の課題を求めていた。とはいうものの、もっと深い面では、ギリシア語を学習したことで、私自身と私の聖書観について若干の問題が生じた。すでに解ってしまったのだが、新約聖書のギリシア語テキストの完全な意味とニュアンスを理解するには、その原語で読んで学ぶ以外に手はないのだ(同じことは旧約聖書にも言える。ということが、後にヘブライ語を学んだときによく解った)。だったらなおのこと、何が何でもギリシア語は完全にマスターしなきゃ、と私は思った。と同時に、これによって私は、霊感によって書かれた神の言葉の意味を完全に理解するためには、それをギリシア語(それにヘブライ語)で研究しなければならないというのなら、そんな古代語なんて読めないほとんどのキリスト教徒は、神が与えようとした言葉を完全には理解できないということになるんじゃないのか?

 私にとってもこれは奇妙な課題だった。私はキリスト教信仰心の乏しい人間だが、部分的には信仰者よりも詳しく聖書を読んでいる。「ああ、それはなんとか聖書の誤訳ですよ、それは加筆部分ですよ」というようなことを平然と言いのけるまでに墜ちていた。悪意すらなかった。私は、信仰者の躓きになるくらいなら黙っているほうがいいとは思いつつ、密かにネットができるようになってからは同種類の異端者を捜した。数名はいた。不思議と数名はいるものだ。

 この問題、つまり聖書学と信仰だが、結局、最近、岡野昌雄先生が「イエスはなぜわがままなのか (アスキー新書 67)」(参照)で優しく説いているように、聖書というのは聖書学なくして読むものだと、というのが私も正しいと思う。ブーバーが旧約聖書の預言者の言葉の残酷さを問われたとき、平然と「預言者が神の言葉を聞き違えたのでしょ」と言いのけたというエピソードがあるが、聖典信仰というのは、単純にSola Scriptura(ソラ・スクリプチュラ)というわけにはいかない。このSola Scriptura問題も、「捏造された聖書」には結果的に書かれているのも興味深かった。プロテストタントとカトリックにとって重要な問題なのだろう。
 「捏造された聖書」を読み進め、私にはいろいろ懐かしい思いがした。私は30年間三位一体問題に苦しみ、10年前にようやく三位一体は異教であるどころか教父たちの恩恵だなと思うに至ったので、本書初期キリスト教異端についても、けっこう平然と、そうだよなそういう異端も出てくるよな、ふんふんと読んだ。
 本書で、いくつか最新の聖書学の知見もリニューした。先日Twitterで、ルカ書と使徒行伝は一冊の本ですよと発言したら、違うかもというレスを貰い、最近はそうなのかと疑問に思っていたが、アーマンは同一作者と見ているようなのでその点の理解は昔のままでいいのだろう。
 私が学んだころの本文批評学(textual critic)はどちらかというと、古代写本関連が重視され、あまりエラスムス編聖書のことは話題にならなかったし、私も関心もっていなかった。どうせ近代の学問の成果ではたいしたことないでしょくらいな気持ちでいた。が、「捏造された聖書」で、私にとって圧巻だったのは、聖書写本の異同の話より、中世から近代における本文批評学の発展の歴史のほうだった。私にしてみれば、真なる聖書なんて問題は30年前に終わっている。信仰者を躓かせるようなこともすべきではない。聖書は妥当なテキストでいいし、ヨハネ書から「罪なきものが石を打て」の挿話を削ることはないだろう。人類がその後にいろいろあって結果的にできた聖書はそれはそれでいいのではないか。
 本書で焦点が当てられているエピソード、怒れるイエスやマルコの結末など、知らない人なら驚くかもしれないし、欧米人などでも一般の人は驚いたからベストセラーになった面もあるのだろう。知ったかぶりするわけではないが私はこの程度の話は知っていた。
 邦題は「捏造された聖書」だが、オリジナルは「Misquoting Jesus」、つまり、「引用間違いで伝わったイエス・キリスト」ということだ。基本はその写本の部分にある。ただ、アーマンはなんとなく明確にしていないが、歴史的なイエスの再構成が原理的にはありえないことはもうブルトマン時代にわかっていることだ。その意味で、本文批評学が微妙に神学を内包してしまう部分もあるので、この分野の知識人ならアーマンの手つきにところどころニヤリとさせられる。
 
 
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