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捏造された聖書の書評から

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年 1月10日(金)17時42分37秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://homepage3.nifty.com/iranoan/essay/book/201302210.htm

関連書評

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/2455

センセーショナルな書名になっているが、捏造というより新約聖書ので行われた改竄・改変について次の順で述べられる。

    新約聖書がどの様に成立したか?
    なぜ改変が生じるのか
    現在の印刷物としての聖書は、どの様に成立したか?
    改竄を見抜く方法
    →これにともないイエス像が変わる 3 例
    神学的理由による改竄
    ※他宗教との論争ではなく、キリスト教内の解釈論争による
    →異端と正統を分ける
    社会的理由による改竄
    聖書に限らずテキストを読むとはどういう事か?
    →読んでいる人自身が、新たな解釈を施すことに他ならない

敬虔なクリスチャンにとっては、驚きやひょっとすると怒りすら覚える書かも知れないが、少なくとも宗教とそれを研究する学問を分けられる人には、キリスト教をより深く知るために役立つ本。

まず、著者がどの様にしてその道に進んだのか? が書かれている。

    そんなわけで私は新約聖書の写本に興味を持つようになった。十八だった、ムーディでは、「本文批評」と呼ばれる学問分野の基礎を学んだ。「本文批評」というのは、原文に改竄を加えたた本を分析し「オリジナル」な言葉を再現するという学問を意味する専門用語だ。だが私はまだこの学問に携わる準備ができていなかった。

    その前にまず、新約聖書のオリジナルな言語であるギリシア語を学ぶ必要があったのだ それと、それ以外の古代語、たとえばヘブライ諮 (キリスト教で旧約聖書の言語) やラテン語も必要になるだろ。さらに、他の学者たちの意見を知るためには、ドイツ語やフランス語など現代ヨーロッパの言語も不可欠だ。まさに前途遼遠ってやつだ。

P.12

ここで私は、新約聖書のオリジナルの言語がギリシア語だとどういった点から類推されているのだろう? イエスや周りの人々が使っていたのは、アラム語若しくはヘブライ語と考えられているのに…と思ったのだが、現存する最後の新約聖書は古代の口語形式のギリシャ語 (コイネー) なんですね。←本筋と関係なので、隠してある

そして著者は次の様な結論に至る。

    ギリシア語の学習はスリリングな体験だった。実際にやってみると、基礎の習得は実は簡単で、つねに私は. 一歩先の課題を求めていた。とはいうものの、もっと深い面では、ギリシア語を学習したことで、私自身と私の聖書観について若干の問題が生じた。すぐに解ってしまったのだが、新約聖書のギリシア語テキストの完全な意味とニュアンスを理解するためには、その原語で読んで学ぶ以外に手はないのだ (同じことは旧約聖書にも言える、ということが、後にヘブライ語を学んだときによく解った)。だったらなおのこと、何か何でもギリシア語は完全にマスターしなきや、と私は思った。と同時に、これによって私は、霊感によって書かれた神の御言葉としての聖書という理解に疑問を抱かざるを得なくなったのだ。というのも、もしも聖書の言葉の意味を完全に理解するためには、それをギリシア語 (それにヘブライ語) で研究しなければならないというのなら、そんな古代語なんて読めないほとんどのキリスト教徒は、神が与えようとした言葉を完全には理解できないということになるんじやないのか? ということはつまり、霊感によって書かれた教義というものは、それらの言語を学ぶだけの知的能力と暇があり、テキストを原語で読むことのできるエリート学者のためだけの教義ということじゃないか? だっだら、聖書の言葉の神の霊感によって書かれたなんて主張に何の意味がある? だってほとんどの人はその言葉自体にアクセスできず、ただオリジヂルの言葉と全く関係のない、たとえば英語みたいな言語への不細工な翻訳に頼るしかないっていうのに。

P.14-15

ここで、この点は殆どの宗教の聖典に当てはまる。唯一イスラム教は、アラビア語版のみが正しく、ほかの言語は翻訳ではなく、解説書扱いなので、若干異なるが、成立当時のアラビア語を理解できる人が少ない点であまり変わりがない。

ここまでの流れで、元々敬虔なクリスチャンで、聖書の正確さ、神聖を信じていた著者が、より深く知るために学んだ結果、この様な本を書いている点を非常に面白く感じる。

またこの本を手にとる人は知っているだろうが、改竄以外にも現在の多くのクリスチャンが誤解しがちな事実の指摘も忘れない。

    今日のキリスト教徒の多くはたぶん、新約聖書の正典はイエスの死後間もなく、何となく自然に決まったのだろうなんて考えているかもしれないが、それは全くの誤解だ。というかむしろ、歴史上、今の新約聖書の二十七篇こそが真の新約聖書である―それより多くも少なくもない―と最初に決定したキリスト教著述家はピンポイントで特定することができる。意外に思われるかもしれないが、このキリスト教徒が活動していたのは四世紀後半、すなわち新約聖書の諸文書それ自体が書かれてから三百年近くも後のことだ。この著述家とは、有力なアレキサンドリアの司教で、名はアタナシウス。西暦三六七年、アタナシウスはエジプトの教区内の教会に向けて、年次司教教書を書いた。その中で彼は、どの本を正典として教会で朗読すべきかを指導したわけだ。彼は現在の新約聖書に収録されているのと同じ二十七篇を挙げ、それ以外のすべてを排除した。この教書こそが、現在の二十七篇を新約聖書として規定した、現存する最古の資料だ。だかこのアタナシウスも、完全にこの問題を解決したわけではない。実は論争はその後も何十年、というか何世紀も続いたのだった。私たちが新約聖書と呼んでいる諸文書が正典としてまとめられ、聖書と見なされるようになるのは、それらの本自体が最初に創られてから実に数百年後のことなのだ。

P.51

    当時は新約聖書などというものはなかったのだ。確かに当時、後に新約聖書に含まれることになるすべての文書はすでに書かれていたが、それ以外にも数多のキリスト教文書があり、そしてそれらもまた、イエス自身の使徒が書いたものとされていたのである―私たちの知るものとは別の福音書、言行録、書簡、そして黙示録が多数存在し、それらは扱に新約聖書に収録されることになる諸文書とは全く違う観点を提供していたのだ。実を言うと新約聖書自体、神を (あるいは神々を) 巡るこのような闘争の中から現われたのである。つまり数多の諸宗派の中で最大の信者を集めたたったひとつの宗派が、どの文書を聖書正典に含め、どれを棄てるかを決めたのだ。とはいうものの、二、三世紀にはまだ、全キリスト教徒が合意する正典などは存在しなかった―それに、全キリスト教徒が合意する神学も。その代わり、あったのは幅広い多様性だ。多様な宗派が多様な神学を主張し、その主張を支える多様なテキストが存在していた。そしてそのすべてが、イエスの使徒によって書かれたとされていたのだ。

p.196-197

こうしたことがあり、更に次のことからも改竄が有るのは当たり前に思える。

    マルキオンは、このようなイエス理解をバウロその人から教えられたと信じていた。だから当然、彼の正典には、彼が入手することのできた十篇のパウロの書簡 (「牧会書簡」) と呼ばれる『テモテヘの手紙一、二』と『アトスヘの手紙』を除く、新約聖者に収緑されたパウロ書簡のすべて) が入っている。さらにまた、パウロはしばしば「福音書』に言及しているので、マルキオンは自らの正典の中にひとつの福音書を含めた―今で言う『ルカによる福音書』の異版だ。それだけ。マルキオンの正典は、全十一編。旧約聖書はなく、ただ一篇の福音書と、十篇のパウロ書簡だけから成っている。だか、話はこれで終わらない。マルキオンは彼の信仰理解―知らない偽りの信者たちが、これら十一篇の書物を複製する際 あちらこちらに少しずつ余計なことを書き加えてきたと考えた。その内容を彼ら自身の信仰、例えは旧約の神とイエスの神か同じものだという「誤った」考えに合わせるためだ。そこでマルキオンは彼の正典十一篇に「修正」を加え、旧約の神への言及、真の神が世界を創造したという記述、あるいは律法に従うべきであるという記述などを削除した。

P.48-49

更に、これは現在正統・異端どちらにされているに関わらず起きるため、状況は次の様なものであり、この過程は、その後の改竄と同じ仕組みなのだ。

    「異端者」に対するこのような非難―すなわち、彼らは聖書の文言を自説に合うように改竄しているという非難―は、初期キリスト教著述家の間にはひじょうによく見られるものだ。とはいうものの、ここで注目すべきことは、最近の研究の結果、現存する写本の証拠を見る限り、状況はむしろ正反対だったということだ.実際には正統教会に関わっていた書記たちの方が、しばしばテキストの改竄に携わっていたのである。それは時には異端的教義を主張するキリスト教徒に「誤用」される可能性を根絶するためであり、また時には彼らが唱道する教義にテキストを適合させるためだった。

P.73

実際の改竄の発見方法は、(引用は前後するが、) 次の方法がとられているそうだ。

外的証拠

        古ければ正しい可能性が高いが絶対ではない
        多ければ良い訳ではない
        ∵間違った写本が偶々多く写本されることがある
        広い地域で見つかるものは良い
        これらのことから信頼できる部分が多い写本は、全体の信頼性も高い

    →こういった結果から、一致する部分の範囲によって、どれが元になった写本なのか? を系統分けできる

        ベングルによるもうひとつのプレイクスルーは、私たちの手許にある大量の異文よりもむしろ、それを含んでいる大量の文書自体に関するものだ。彼は、複製された文書というものは当然ながらその元になった底本に最もよく似ているし、同じ底本から作られた他の複製ともよく似ているということに気づいた。つまり、数多い写本の中には、お互い同士で似通っているものとそうでないものとがあるということだ、ということは、すべての現存する写本は、一種の家系図のような関係に並べることができる。それによって、似通っている写本のグループとそうでないグループを一覧することができるというわけだ。これは実に有益な情報だ。というのも、理論的にはその系統樹を遡って行けば、共通の祖先である源に辿り着くことができるからだ。あなたと同じ姓を持つ他州人との共通の祖先を捜す作業に似ている。

    p.146
内的証拠

        単語、文体が他の箇所と違うのは×
        解りやすい、教義に一致する異文は改竄されている可能性が高い

            書記がテキストを改竄するとき、彼らはそのテキストをより良くしようとする傾向がある。誤りと思われる箇所を発見すればこれを訂正するし、同じ物語に二通りの話があるのを見つければ、辻棲を合わせようとする。自分たちの神学的見解に相反するテキストに遭遇すれば、これを改変する。つまり、あらゆる場合において、最も古い (つまり『オリジナルな』) テキストが述べていることを知るためには、その逆をやれば良い。誤りが正されたり、話の辻褄が合わされたり、神学的に好ましいものに改変されている文は捨てて、その逆を取るべきだ。すなわち、『理解困難』な文の方を採用するのである。あらゆる場面で、より理解困難な文の方が、平易な文より有望である、というわけだ。

        p.145

こういった作業によって、よりオリジナルに近い聖書を見つけ出す作業を通して、次の点が興味を引いた。

『「仮現論」に反対する立場』p.208~
    この説において、聖書に含まれる福音書にも、イエスの死が人類全体の贖罪を意味しないという異なる説、いわば異端が内在することになる点。
『女性の役割についての論争』p.228~
    どの宗教も当初は男女平等であっても、時代が下がると女性の地位を下げるのだな。ごく最近まで。
『ユダヤ人と聖書のテキスト』p.237~
    ここでは、「なぜイエス死後の数十年で反ユダヤになったのか? イエスはユダヤ人であるにも関わらず。」が述べられているが、次の思考法はユダヤ教と同じではないか。

        イエスをメシアと呼ぶことは、ほとんどのユダヤ人へにとって、これ以上にもないほど滑哨なことだっただろう。イエスはユダヤ人の力強い指導者ではない。弱く無力な、取るに足りない人間に過ぎない―そして現実の権力者であるローマ人が考え出した、最も屈辱的かつ苦痛の大きい方法で処刑された。なのにキリスト教徒は、イエスがメシアであったと言う。彼の死は誤審ではなく、また予期し得なかった出来事でもなく、神の摂理なのであり、それによって彼は世界に救済をもたらしたのだと。

        イエスに関する自分たちの見解をユダヤ人に説こうとしても、全く相手にされないという現実を前に、キリスト教徒はどうしたか? 言うまでもなく、間違っているのは自分たちの方だなどと認めることはできない。では、自分たちは間違っていないとしたら、誰が間違っているのか? ユダヤ人だ。ひじょうに早い段階から、キリスト教徒たちは次のような主張をし始めたーキリスト教徒のメッセージを拒絶したユダヤ人は頑迷固階なかつ無知蒙昧な民族であり、イエスに関するメッセージを拒絶することによって、ユダヤ教の神自身が彼らに与えた救済をも拒絶したのだ、と。

書評 その2

http://booklog.kinokuniya.co.jp/kato/archives/2007/05/post_72.html

きわものめいた題名だが、原題は Misquoting Jesus(間違って引用するイエス)で、まっとうな聖書文献学の入門書である。

 新約聖書については、日本でも田川健三の『書物としての新約聖書』や加藤隆の『新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか』のようなすぐれた入門書が出ているが、ちょっと敷居が高い印象があった。本書はアメリカ人の聖書学者がアメリカの読者に向けて書いた入門書なので、巧みな話術で飽きさせない。

 アメリカは進化論を学校で教える是非が裁判になる国で、聖書を一字一句すべて真実と信じこむ人がすくなくない。著者のアーマン自身、ハイスクール時代にキリスト教原理主義にかぶれ、原理主義ゴリゴリの神学校に進んだという。ところが聖書文献学の授業を受講し、聖書は筆写に筆写を重ねて伝わる中で多くの異文が生まれていたこと、しかも意図的な改変や加筆まであったことを知り、愕然とする。イエスや使徒の言葉が正しく伝承されていなかったとしたら、聖書を金科玉条とする原理主義は土台から揺らいでしまう。信仰の危機に直面した著者はさらに研究を深め、ついには原理主義から転向する。

 それゆえ、本書は原理主義的な読者をかなり意識した書き方になっている。語り口はあくまでざっくばらんだが、その下には論争家の鎧が隠れている。

 キリスト教原理主義者を相手に、いきなりここは後世の改竄だなどとやったら、そこで本を閉じられてしまうだろう。著者はキリスト教はどのように広まったのかと、搦手から話をはじめる。

 初期のキリスト教はユダヤ教の新興宗派であり、離散ユダヤ人の間で信仰されたが、しだいにユダヤ人以外、多くは貧しい虐げられた階層に広まっていき、4世紀にはローマ帝国に公認されるまでになる。

 使徒の手紙はイエスの死の10年後くらいから、福音書は30年後くらいか書きはじめられたと考えられている。初期のキリスト教には教会はなく、最初はユダヤ教のシナゴーグを借りて、ユダヤ教徒の関係が悪化してからは裕福な信者の家で密かに集会を開いていた。集会では読み書きのできる信者が使徒の手紙や福音書を読みあげたが、そうした文書類は信者の中の読み書きのできる者がボランティアで書き写したものであることがわかっている。

 ローマ時代、読み書きのできる者はすくなかった。文書を専門的に筆記する書記という職業もあったが、キリスト教の文書が専門の書記によって筆写されるようになるのは4世紀以降と推定されており、最初の300年間は素人によって書き写されていたらしい。その結果、夥しい写し間違いが生まれた。

 著者はどのような手続で後世の改変や加筆と判断するのかを噛んで含めるように説明した後、いよいよ神学的改竄という微妙な問題に踏みこむ。語り口はざっくばらんながら、地雷原を歩くような緊張感が伝わってくる。アメリカの聖書学者は大変である。

書評 その3

http://moroshigeki.hateblo.jp/entry/20080913/p1

スキャンダラスな、あるいはオカルトな連想を招く邦題であるが、原題はMisquoting Jesus: The Story Behind Who Changed the Bible and Why (Plus)で、書いた人はバリバリの文献学者。本の内容も、聖書の伝写とそれを復元しようと試みた聖書学者のお話。全体として著者の立場が「テキストを読むということは、必然的に、テキストを改変するということなのだ」(p. 275)というものなので、オリジナルはこれだー!みたいなマッチョな論述になっておらず、信頼感が持てる。訳も、ちょっと山形浩生風で、読みやすい。

聖書学は言わば西洋の文献学を生み出し、鍛えた場である。特に、聖書の文献学が、「ただ聖書のみ」というスローガンのもとカトリックから独立したプロテスタントと、それを攻撃するカトリックとの論争の中で発展したというのが面白い。聖書の様々な異なった写本が発見されると、カトリックはここぞとばかりプロテスタントを批判する。聖書のオリジナルは失われたので、聖書だけに頼ることはできない。信仰の基盤は使徒の時代から続くカトリック教会のなかにこそあるのである、と。

    プロテスタントの聖書理解に対するこのような理路整然たる論難は、学界ではひじょうに深刻に受け止められた。一七〇七年に〔三万カ所の異文を載せた〕ミル版が出ると、プロテスタントの聖書学者たちは現存する写本の実態を認識し、自らの信仰理解の再考と防衛に迫られた。もちろん「ただ聖書のみ(ソラ・スクリプトゥラ)」という観念を捨て去るわけにはいかない。彼らにとって、聖書の言葉は依然として神の御言葉の権威を担うものだった。とはいうものの、ひじょうに多くの箇所でその言葉が実際には何だったのかが判らないという状況にどう対処すればよいのか? ひとつの解決策は、本文批評の技法を発展させることだ。そうすれば、当代の学者たちがオリジナルな言葉を再現し、信仰の基盤は再び盤石なものとなるだろう。このような神学的課題を背景に、主にイギリスとドイツで、有用かつ信頼しうる手法を開発する努力が行われたわけだ。 (p. 137)

方法論的な問題についてもこの本には書かれており(『捏造された聖書』 - leeswijzer: boeken annex van dagboek参照)、どのように分析すべきか(してきたか)という実例も豊富に載っている。ただし、写本の系統をどのように判定するかというカール・ラハマンらの方法については、さっと紹介する程度なので、ちょっと残念(無いものねだりというやつですな)。

以下、へぇ~と思った点を抜き書き。

その1。古代において「ギリシア語が書ける」ということは、現代のそれとは規準が違う。紀元2世紀のエジプトの役人であるペタウス君の話:

    …彼は、自分でちゃんと解った上で文言を綴っているのではなく、たんに前の紙の字形を見ながら写しているだけなのである。明らかに彼は、自分が書いている単純な単語の意味すら理解していない。にもかかわらず、彼は正式な村の書記なのだ! (p. 54)

ははは (^_^;; でも、重要な話だよな、これ。

その2。キリスト教は、ローマで公認される前にかなり迫害されたというけど、それに関する常識は間違ってるよ、という話:

    多くの人は意外に思われるかもしれないが、キリスト教自体には、当時においても何ら違法性はなかったのだ。キリスト教は別に非合法な宗教というわけではなかったし、キリスト教徒も地下に潜伏したりする必要はなかった。迫害を避けるためにローマのカタコウムに潜んだりとか、魚のシンボルなどの秘密のサインを使ってお互いを見分けたなどという話は、たんなる伝説に過ぎない。 (pp. 249-250)

じゃあなぜ迫害されたのだろうか? それは、キリスト教徒は、当時の一般の人にとって相当怪しかったからである:

    …しばしば言われるのは、キリスト教徒が夜闇に紛れて集まり、お互いに「兄弟」「姉妹」と呼び合い、接吻の挨拶を交わすというものだ。また、その礼拝では神の子の肉を喰い、血を飲むという。これを聞いて人はどう思うだろうか? まあ、最悪の状況を想像していただければ、当たらずといえども遠からずだろう。異教徒たちの主張によれば、キリスト教徒は近親相姦(兄弟姉妹による性交)と幼児殺害(子殺し)、そして人肉食(その肉を喰い、血を飲む)の儀式を行う。…キリスト教は極悪にして破廉恥なカルト宗教と見なされたわけだ。 (pp. 251-252)

だから、迫害したのは、一般市民。現代の新興宗教叩きとあまり変わりませんなぁ (^_^;;

その3。パウロの共同体においては、女性が大きな役割を果たしていたという。そのような聖書中の記述は男尊女卑の立場からよろしくないと思った書記たちによって改竄されたらしいが、それはともかく、パウロの次のような態度を著者は「アンビヴァレント」だと言う。

    …パウロは男と女の関係において、社会変革を促していたわけではない――キリストの名において、「奴隷も自由な身分もない」と宣言していながら、奴隷解放を促しはしなかったように。その代わり彼は、(神の国の到来までの)「時は短い」のだから、誰もが産まれ持った自分の役割に満足すべきであり、地位の変化を求めてはならない――奴隷であろうと自由人であろうと、既婚者であろうと独身であろうと、男であろうと女であろうと、と言うのだ(『コリントの信徒への手紙一』七章一七-二四)。 (p. 231)

これは、所謂“批判仏教”の立場からは、決して「アンビヴァレント」なことではなく、むしろ当然ですな。平等思想がかえって、現実の差別状態を是認してしまうというのは、洋の東西を問わないということか。

書評 その4

http://gospels.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/post_2f89.html

 原題の直訳は、「イエスの誤引用―聖書を改変した人々とその理由の背後にある物語」。それを翻訳にあたって『捏造(ねつぞう)された聖書』と改題したのはまだいいとしても、「『ダ・ヴィンチ・コードが語らなかったキリスト教の聖典をめぐる新事実』」「葬り去られたイエスの物語」というキャッチコピーのついた帯付きで売り出す出版社の姿勢には、訳者もちょっと困っているのだろう。「内容は実に健全かつ学術的で、スタンダードな現代聖書学の成果を解りやすく伝えるものになっています」といういい訳を、わざわざ「訳者あとがき」に残している。

 実際、著者のバート・D・アーマンは、新約聖書の本文批評の分野では教科書的地位を占めているブルース・M・メツガーの『新約聖書の本文研究』(第3版・増補版による邦訳は、日本基督教団出版局から橋本滋男氏の訳で出ている)の第4版における共著者にもなっているくらいだから、本物の研究者なのだろう(失礼!)。ちなみに、著者はこの本を、メツガー氏に捧げている。また、氏のことを「ドクター・ファザー」と呼んでいるらしい。訳文に、時折、アメリカ文学に登場する主人公のせりふみたいな言葉が出てくる点を除けば、帯のコピーから連想されるようなスキャンダラスな記述は見られない。今回、サイトの移行にあたり、一般的にはなじみのないこの分野の、貴重な「一般人向けの本」として、ここで紹介したいと思った次第。

 エラスムスによる初のギリシャ語印刷聖書や、ティッシェンドルフによるシナイ写本の発見など、多くの内容はこの本以外でも読めるといえば読めるのだが、初期キリスト教における「書物」の重要性や、写本の作られ方の説明も含め、これだけの内容を知ろうとすれば、これまではかなりのお金と手間がかかっていたのは事実だ。そういう意味では、「そういう本としては世界初のものだと思う」という作者の自負は、決しておおげさとも言えないだろう。

 例えば、次のような逸話・・・ヴァティカン写本(写本記号B)が、2度校訂を経ているのは有名な話だ(ちなみに、ネストレ等では、その校訂の過程を「B*]「B1」「B2]という記号で表している)。その「ヘブライ人の手紙」1.3の部分では、原本が「力ある言葉によって万物を顕す」とあったのを、より一般的な「万物を支える」と書き直した第一の校訂者に対し、第二の校訂者が「万物を顕す」と戻し、欄外にこう書き加えているという。

「阿呆かお前は! 元のままにしておけ、勝手に変えるな!」

 この話も、メツガー氏の上記本に、思慮のある写字生による本文の「意識的な変更」の例として手短に紹介されてはいたけれど、アーマン氏の今回の本の方がずっと印象的に書けている。ちなみにアーマン氏は、「この写本のこのページをコピーして、額に入れて机の前に飾っている」というからなかなか泣かせる。

 もし、新約聖書の本文批評に興味を持った方がいたら、気軽に手にしてみるとよいと思う。きっと得られることは多いと思う。ただひとつ、多くの興味ある異読箇所に言及しているだけに、聖句索引がないのが惜しい。本格的な註もちゃんとついているのだし、もしかして、原著にはあるのかな?(2200円+税)

書評を纏めてみるとこんな具合か

https://www.google.co.jp/search?num=50&q=%E6%9B%B8%E8%A9%95%E3%80%80%E6%8D%8F%E9%80%A0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E8%81%96%E6%9B%B8

下記はパウロの生涯やイエスの実像などのHPの管理人さまです。

http://www.geocities.jp/todo_1091/

ひょっとして林久治さん?

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%9E%97%E4%B9%85%E6%B2%BB&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=

遠藤周作かく語りぬ

http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=YsO09mCsKboJ&p=http%3A%2F%2Fwww015.upp.so-net.ne.jp%2Fh-hayashi%2FD-4.pdf%E2%80%8E&u=www015.upp.so-net.ne.jp%2Fh-hayashi%2FD-4.pdf#search=%27http%3A%2F%2Fwww015.upp.sonet.ne.jp%2Fhhayashi%2FD4.pdf%E2%80%8E%27

著者の遠藤周作氏(1923-1996)は東京生まれ。幼年期を満州の大連で過ごし、神
戸に帰国して、11 歳でカトリックの洗礼を受けた。慶応大学仏文科卒。フランス留
学を経て、1955 年「白い人」で芥川賞を受賞。一貫して日本の精神風土とキリスト
教の問題(「沈黙」など)を追及する一方、ユーモア作品(「おバカさん」など)、
歴史小説(「侍」など)も沢山ある。1995 年、文化勲章受章。

PDFの方が読みやすいかも?

http://search.yahoo.co.jp/search?p=http%3A%2F%2Fwww015.upp.so-net.ne.jp%2Fh-hayashi%2FD-4.pdf%E2%80%8E&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=

 
 
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