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わたしたちにできること

 投稿者:狂った詩人  投稿日:2012年 5月19日(土)11時11分17秒
  通報 返信・引用 編集済
  『今癒しやヒーリングが流行っているようだけれども、人間という部分だけを対称にしている、よくて自然から力を得るという程度で、自然自体、全体を治そうとするエネルギーは感じられない。壊れて雨漏りのする屋根はほって置いて、一生懸命壁を直しているかのように。』

注:雷の雷鳴が轟いた翌日清々しい気分になるのはなぜでしょうか?それは空気や人体の歪んだ中性子・分子・原子を矯正してくれるからなのですよ。しかし上昇気流がないと雷はおこらない。渡り鳥が地上に落ちてしまうのはそれが原因と思われます。

http://www.terre.creatorchild.com/index.htm

「無拘束で、継続不可能な現代の農畜産業の成長は、途方もない森林伐採と不注意な農薬使用を促進させた。今日農畜産業は、世界の生態系破壊、種の滅亡のもっとも大きな原因である。農畜産業は地球の全地上面積の三分の一を占め、世界で人間のいかなる活動よりも、多くの土地と清水を使用している。」

熱帯雨林連盟/Rain Forest Alliance
http://www.rainforestalliance.org/programs/agriculture/index.html

 十数年前になるが、日本に住んでいた頃、オーストラリア人の熱帯雨林保護に命をかけていた女性と知り合いになった。彼女はアイスクリームを食べながら、熱帯雨林保護デモを行っていた。とても素敵な女性だった。彼女は熱帯雨林破壊の原因が木材産業にあると信じていた。その時森林が豊富な日本にいた私も、食肉産業、乳酸業が環境破壊に結びついているとは、夢にも思っていなかった。

 その後、ごみごみした日本と違い自然がいっぱいであろうと信じていたヨーロッパに来て、唖然とした。一体何なんだ、これは!ヨーロッパは行けども、行けども永遠に砂漠のような農地が続き、自然と呼ばれるものはほんの少しの山しか残っていなかった。そして日本では見ることのないこの風景が、肉食産業、乳酸業がもたらしたものであることに、この時初めて気づいた。

 乳牛一匹に2~3ヘクタールの農地が必要らしい。食肉産業のためには膨大な農地が必要だ。そしてヨーロッパ人はこの膨大な農地を持ってしても、食べたらず、ヨーロッパの家畜の餌の70パーセントを輸入(明らかに熱帯雨林から)に頼っている。

 熱帯雨林破壊について多くの人は木材産業を責める、ほとんどの環境保護団体は食肉産業、乳酸業が熱帯雨林破壊に繋がっているという問題には触れていない。

 オーストラリア人の友人は彼女が食べているアイスクリームが熱帯雨林を破壊しているのだとは、想像さえしなかっただろう。

 木材産業が熱帯雨林破壊の主な原因(もちろん、原因のひとつではあるだろう)ではないというと、不思議に思う人が多いと思う。しかし、現代の人は木を切ったことがない。木が切られただけでは死なないということを知っている人は、たぶん少ないだろう。木の株の生命力はすごい。私など、畑の近くの木株と何年も戦い続けているけれども、今だに小枝を出してくる。日本は建築原料、暖房、調理、ほとんどの燃料を何百年もの間、木でまかなってきたけれども、日本の森がびくともしなかったことを思い出してほしい。家畜産業が発達せず、外国からの侵入も少なかった日本は、今も欧米人が驚くほどに、森林の多い国である。

 もちろん、熱帯雨林地域の土地層は薄く、壊れやすいけれども、木を切っただけで森が破壊されるということはありえない。それほど生命力の強い木が、ブルドーザーによって、簡単にとりさられ、牧場化、農地化されたとき、地層の薄い熱帯雨林地域の森は死滅し、重い動物に踏まれた土地は不毛化する。

 そして、土地を失い、森を失った人々は、日々の糧を得ることもできないで、飢え、苦しんでいる。

 ハンバーガー1個=二分の一トンの森林素材、だそうだ。
日本人が食堂にはしを持ち込んで、肉ドンを食べても、森は救えない。毎日肉、乳製品を食べている西洋人が日本人の包装紙、割り箸の無駄使いを責めるのはどこかがずれている。もちろん、私は無駄使いを進めているわけではないけれども、本来自然は私たちに必要なものを豊富に与えてくれている。しかし、調和を壊した瞬間に、私たちは自らの資源を破壊へと至らしめてしまうのだろう。

 現代社会は残念ながら、人間の一つ一つの行動が環境破壊に繋がってしまっているという、不思議な状態だ。しかし食肉産業、乳酸業、漁業が実際には今地球上で起こっている環境破壊、汚染、種族の滅亡などの問題の半分近くの原因を作っているということは、あまり話題にされることがない。これらについて様々な情報をここで紹介したい。

 私がここで環境問題を取り上げたのは、動物の権利などというと、今の社会からは相手にされないだろうと思っているからで、私が本当に書きたいことは、人が動物、自然をまるで、所有物のように、魂を持たない物のように扱っていることに対しての憤慨だ。人間と動物、自然、地球との関係を私たちは勘違いしているのではないかと思う。しかしながら、人間から物のように扱われている動物が不幸せなのか、動物を物のように扱う人間が不幸せなのか・・・?

 先進国に住むほとんどの人はまた、後進国の人々のことも、魂を持たない、物のように考えているかのように、地球の人々を遠く離れた場所から見たとき、見えるに違いない。もちろんこれは人間の残酷さからくるのではなく、むしろ私たちの想像力貧困と無知、、自分自身に係わり合いがあること以外のものには、感情を閉ざしてしまう、全体という意識の欠落によるのかもしれない。多くの人は自分自身が買うもの、食べるものが、どういう経過を経て、どういう影響を自然、動物、人間に与えているのかということに対して、まったくと言ってよいほど無頓着だ。

 家の近くに工場ができたと言って文句を言う人は、百貨店に清潔に並べられた商品の後ろに、もうもうと煙る工場の煙があることが、記憶の隅によぎることすらない。中国の急激な産業開発を非難し、酸性雨の責任を中国に負わせている人々は、中国製の商品を利用していないだろうか。また安い賃金で中国に工場を持つ企業の大半は日本、合衆国、ヨーロッパの国々で、ここでもまた、熱帯雨林の問題と同じように、公害と汚染で苦しんでいるのは、中国の一般市民である。日本が国内、海外へむけて販売している、車、オーディオ、電化製品、コンピューターのほとんどは、中国及びアジアの国々で製造されている。

 人々はただすべての責任と力が複雑な政治と企業にあり、個人レベルでは何もできないという言い訳のもとに、店に並ぶものをただ盲目的に、自らの欲望が望むままに買う。しかしながら、政治や企業はただ私たちをコントロールしているだけで、最終的に世界を動かしているのは、絶対的大多数を占める一般市民、一般国民であり、私たち一人ひとりの一票ではなく、私たちの行動が、私たちのお金で買うものが、食べるものが、環境を破壊し、動物を苦しめ、後進国の人々を飢えと死へ至らしめているという事実を否定することはできない。

 特に日本において、それが国内牛であったとしても、家畜の餌はほぼ100パーセント輸入であるだろうから、肉食はダイレクトに後進国の人々が土地を失い、飢え、死亡する原因と繋がっている。反対に私たちが、地球全体の調和の為に、何を買うか、何を食べるか、何をするかを選ぶならば、企業はそれにあった商品を開発するほうが、有利だと方向を変えるかもしれない。

 政治家や企業、陰謀などを責めて、やっつけたところで、また新たな政治家、企業、陰謀がそれにとってかわるだろう。私たち一人ひとりが消費者としての自覚に目覚めることが、人間としての自覚に目覚めることが、何より大事なのではないかと思う。

 たとえば動物実験の為の猫を集めている女性を訴えるため署名を頼まれたことがある。この女性に対する憎しみで人々は興奮していたけれども、たとえこの女性を罰したからといって、動物実験を行っている研究所をひとつ取り壊したからといって、私たちが動物実験によって作られた、薬品、化粧品、たばこ等を買い続ける限り、動物実験はなくならないだろう。

 また、少し離れたところから見れば、猫を売っている女性も、彼女を責めながら、動物実験によって作られたものを使っている人々も、同じように動物虐待に貢献していることには変わりない。

 自然や動物がどうあるべきかという問題でなく、自然環境や温暖化がどうこうというのでもなく、ただ私は、人間の命が動物や自然、同胞、そして自らの命の犠牲の上にしか、はぐくまれていなという現代の文化に、そしてそのような道を選び続ける人々の、無邪気で、気のいい無干渉に、大きな戸惑いを感じている。

 ワンネスという言葉はニューエージっぽくっていやだし、この省略しすぎた言葉は誤解を招きそうだ。しかしすべての全体が部分であり、すべての部分が全体であり、そうしてすべては相互に作用している、この世の中にただひとつとして、相互の繋がりから、独立しているものが存在することは不可能だという事実は否定しようがない。

 たとえば人間の体の中で心臓は部分である。同時に心臓という全体は様々な部分を持っている。人間の体は心臓よりももっと独立した全体であるように感じられるだろうか。パイプで他と繋がっているわけではないけれども、人間のすべての臓器、細胞は、自然というからだ(たとえば)と繋がっており部分である。また地球はより完成度の高い全体のように感じられるかもしれないが、やはり部分としての役割を果たしている。

 マクロの方向に、ミクロの方向に、部分と全体の関係は永遠に続き、これは肉体的な面だけではなく、霊的な、異次元的存在に至るまで続き、そして部分と全体の関係は人間を全体とした場合と宇宙を全体とした場合の差を無意味なものとするだろう。

 人間が自然を破壊する、動物を虐待する時、実際には私たち自身を犠牲にしている、私たち自身との調和を失っている。たとえば私たちの体の中で、ひとつの細胞が他の細胞を破壊し、調和を崩し始めたら、それは病気という形で現れる。

 今癒しやヒーリングが流行っているようだけれども、人間という部分だけを対称にしている、よくて自然から力を得るという程度で、自然自体、全体を治そうとするエネルギーは感じられない。壊れて雨漏りのする屋根はほって置いて、一生懸命壁を直しているかのように。

 人間の病気は地球に影響し、地球の病気は太陽に、そして宇宙に影響するだろう、またはその反対かもしれない。私たちは全体と部分の調和を考えることなく、個人的な、そして全体的な病気を治すことはできないだろう。もちろん、病気の状態を好む、選ぶ自由はすべての存在にあるに違いない。

 もちろん、自分自身を責める、ということはまったく無駄なことだと思う。ではなぜ他人を責めるのだろう?他人を責めることもまた、無利益な、何の創造性もないことのように感じられる。
 
 
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