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秘録・日本国防軍クーデター計画

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年 1月30日(木)12時12分47秒
  通報 返信・引用 編集済
 

http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/38255617.html

上のHPの管理人のプロフィール(サラリーマンをしながら偉いです)

http://profiles.yahoo.co.jp/-/profile/?sp=ejsjE201f6lU3bkdhmzk&.src=blog&.done=http%3A%2F%2Fblogs.yahoo.co.jp%2Fddogs38%2F38255617.html

近ごろアメリカ海軍・アメリカ海兵隊関係者たちとの間でしばしば話題になるのが、先の衆議院選挙における自民党の選挙公約である「自衛隊を国防軍として位置づける」という構想である。

 もっとも、われわれの議論は、単に自衛隊を国防軍や防衛軍あるいは単に国軍といった名称に変更することに関する純然たる軍事的話題であって、憲法改正論議とは一線を画するものであることは言うまでもない。

 自衛隊の名称変更に関するわれわれの議論の結論を述べると「自衛隊という名称を他の名称に変えるだけでは意味はなく、日本防衛にとって最低限必要な自主防衛能力を保持した精強な戦闘組織にしなければならない」ということになる。これは「自衛隊という名称を変える必要がない」というわけではなく「名称変更も強力な自主防衛能力の構築もともに必要」という趣旨である。
“Self-Defense”は個人的な自衛のニュアンス

 英語圏の人々にとっては自衛隊の英語表記である“Japan Self-Defense Forces”の“直訳”は 「日本自衛軍」である。軍事的に自衛隊の“隊”という語義を生かして直訳したいならば“Japan Self-Defense Corps”といったものになるのであって、“Forces”というのは常識的には“Armed Forces”、すなわち軍隊を意味する。したがって“Self-Defense Forces”から受ける語感は「自衛隊」ではなく「自衛軍」なのである。ただし、われわれが問題にしているのは“Forces”ではなく、“Self-Defense”の部分である。

 日本での論調の中には、“Self-Defense Forces”と“Defense Forces”という英語表現を、ほとんど同じと見なすものが少なくないようであるが、英語圏では通常“self-defense”という言葉は個人的な自衛という状況で用いられることがほとんどである。

 例えば昨年末に発生したコネチカットの小学校での銃乱射事件以来アメリカで議論が沸騰している銃規制問題などにおいても、悪人から自分自身そして自分の家族を護る、すなわち“self-defense”の問題が議論の焦点の1つとなっている。同時に、アメリカで通常“self-defense”というと、この種の自己防衛のための銃の使用や、空手や合気道やテコンドなどを応用した護身術といった、個人的な自衛を連想される。

以下省略

【書評】『秘録・日本国防軍クーデター計画』阿羅健一著〔msn産経〕
2013.9.15 08:41

    ノモンハン事件の作戦を立案し、戦後は連合国軍による占領下という制約がある中で、秘密裏に膨大な資料を集めて「大東亜戦争全史」をまとめた服部卓四郎。毀誉褒貶(きよほうへん)の激しいこの人物の実像に迫り、さらに本当の主権回復のため国防軍創設をめざし画策したとされるクーデター計画の真相にも肉薄している。

    戦後史最大の謎の一つを、多数の関係者へのインタビューで明らかにしようと挑んだ労作。GHQ(連合国軍総司令部)とそれを取り巻く人々の群像劇はスリリング。戦争とは何か、国家とは何か、敗北とは何かと考えさせられる。(講談社・1995円)

書評『秘録・日本国防軍クーデター計画』  宮崎正弘

    本当にあったのか? 戦後のワンマン吉田首相暗殺計画。クーデター計画を練り上げたのは嘗ての参謀本部の逸材たちだった。

    <<阿羅健一『秘録・日本国防軍クーデター計画』(講談社)>>

    ノモンハン事件を「敗北」と総括してきた左翼の歴史家は、そのときに作戦を立案した辻政信と服部卓四郎を「愚将」と罵倒した。ところがソ連崩壊後、夥しい機密書類がモスクワからでてきた。ノモンハンは日本が勝っていたか、すくなくとも辛勝したことが、いまの歴史で常識となっている。

    辻政信は戦後パージが解けるや、『潜行三千里』ほかのベストセラーを書いて戦後の人気者となり衆議院議員、参議院議員を務めた。参議院議員の現職中、国会に四十日間の休暇届を出し忽然としてラオスへ赴き、僧侶に変装してジャール平原で消息を絶った。パテトラオに処刑されたらしいとされた。

    しかし、辻は「死に場所を探していたのではないか」と本書は示唆する。

    理由は親友だった服部卓四郎の死である。服部は戦後、『大東亜戦争全史』を編纂した中心人物であり、いちどは参議院に出馬準備も整えたことがあった。

    この克明な記録は歴史家の仕事でもあり、占領下の作業だった。ともかく辻政信と服部卓四郎は毀誉褒貶が激しい。

    しかし服部の生涯には「謎」の部分が多く、とくにGHQとの関係や、GHQに出入りした女性らとの関係もすっきりしない所があるとされていた。

    松本清張も、この謎に挑もうとして文春編集部に資料を集めさせていた。編集部員は、じっさいにビエンチャンへ飛んだ。資料集めが佳境となり、いざ書き始めようとしたとき、松本は脳溢血で仆れた。

    とりわけ最大の謎は服部、辻、そして背後に児玉誉士夫らがいたとされた、クーデター計画である。警察予備隊、保安隊などと微温的な占領政策の変遷の下、服部らは本当の軍隊を創設しなければ主権国家の回復はならず、と関係者をまわっていた。強引にこの計画をつぶしたのは吉田茂だった。

    「国防軍計画は吉田首相によって阻止され、日本は独立を果たしたが、国防はないがしろにされた。このため、服部だけでなく、旧軍人のあいだにも、吉田首相に対する反感が相当募ることになった。こうした昭和二十七年十月、服部たちのクーデター計画が米軍の情報網にひっかかった。三ヶ月前の七月、服部たちは吉田首相を暗殺して、鳩山一郎と首相にそえる計画を立てたというのである。それに対して辻政信が『今はクーデターを起こす時ではない』と説得、服部たちは思いとどまった、と情報は具体的でもあった」(本書391p)。

    噂だけが一人歩きしたのが真相で、しかも出所を辿ると、中国の偽情報に行き着くとされた。この戦後最大の謎に本書は挑んだ。

    杜父魚文庫

阿羅健一「秘録・日本国防軍クーデター計画」平成25年8月8日刊行

    目次
    第1章 松本清張の最後の仕事「服部機関」
    第2章 焼かれていなかった機密資料
    第3章 極秘・国防軍計画の全貌
    第4章 GHQを手玉にとった女帝
    第5章 国防軍に集った軍人たち
    第6章 旧陸海軍の対立
    第7章 女スパイ・荒木光子の諜報活動
    第8章 毀誉褒貶の軍人・辻政信
    第9章 GHQ内部の対立
    第10章 吉田茂という名の壁
    第11章 内務官僚の大罪
    第12章 警察予備隊か国防軍か
    第13章 『大東亜戦争全史』の秘密
    第14章 史実研究所の狙い
    第15章 再軍備の日


昭和25年のクーデター未遂事件
服部機関

    服部卓四郎(1901~1960)
    秋田県出身。仙台陸幼、陸士34期。陸大。関東軍参謀。1939年、参謀本部(大本営)作戦課長。

    日本に来た米軍は、ポツダム宣言履行を保障占領するために来た。米軍は日本に総司令部(GHQ)を丸の内の第1生命ビルに設置した。このビルは東部軍司令部が設置されていた。

    GHQに参謀2部(G2)があり、部長はウィロビー(Charles Andrew Willoughby)中将であった。ウィロビーにつけたマッカーサーの綽名は「私のファシスト・ペット」であった。ウィロビーの担当は「情報」であった。ただし朝鮮戦争のさい「中国軍鴨緑江渡河」の情報を握りつぶしてマッカーサーに渡さなかったことで有名である。

    ウィロビーは終戦直後から帝国陸軍参謀本部作戦課に異様に興味をもった。終戦時参謀次長であった河辺虎四郎の「河辺機関」と服部卓四郎の「服部機関」をつくった。つまり占領経費と支払われる日本の国家財政から給与を払って雇ったのだ。そもそも保障占領業務からの重大な逸脱であった。

    終戦時、支那派遣軍の第13師団歩兵65連隊長であった服部卓四郎を急遽復員させ、そのうえ「追放」(陸海軍将校全員が対象であった)の例外とした。

    服部機関の大多数はGHQ歴史課に所属し、米国から見た太平洋戦史編纂(へんさん)の業務を担当した。東京・丸の内の郵船ビルで、第一復員局(旧陸軍省の後進の第1復員省の後身)の史実調査部長にも任命された服部卓四郎元大佐が兼務で勤務することになった。

    服部機関は西浦進や堀場一雄ら十数人の元陸軍参謀将校が活動した。ウィロビーのこの危険な人事について、

    「占領軍の方でも、日本を占領してから、戦争中のことをいろいろ聞くために、特に作戦関係、軍を動かすことについては服部さんは欠かすことができないと考えたようです。それで特別指令で服部を早く戻せと呼び返した」(大嶽秀夫編『戦後日本防衛問題資料集』)

    殺吉田

    昭和25年(1950年)9月、国会で社会党の猪俣代議士は、大橋法相にクーデター計画があるのではないかと迫った。

    「朝鮮事変以来どうも何となく世間の風潮が、また終戰前のような空気がただよつているような感じをわれわれは持つのでありまして、ことに昨日も申しましたが、いわゆる辻参謀の名をもつて聞えております辻政信だとか、あるいは海軍中将でありました小林省三郎だとかその他今申しました三浦義一氏だとかいうような一派が、どうも最近猛烈に活動をやつているのじやないか。

    これは昨日も特審局長に言つたのでありますが、新潟県下におきまして最大の発行部数を持つております新潟日報の紙上に、この辻政信が朝鮮事変前に現われて、士官学校の卒業生を全部集めて、われら立つべき時が来たというような演説をやつたということもあるのであります。

    かような人物、これこそ国家を破壊すべき重大なる人物であると思うのでありますが、かような人物に対しての特審局の調査、監督ということが、どうも手ぬるいのじやないか。かような右翼の浪人、その他の軍人上りの連中の動向に対していかなる関心を持つてこれを指導されておるか、法務総裁の御決心のほどを承りたいと思うのであります」。

    昭和25年のクーデター未遂事件は元大本営陸軍部作戦課長の服部卓四郎が計画したものである。海軍の小林省三郎(元霞ヶ浦航空隊長)をかつぎ、三浦義一から資金を得ようとしたもので、じっさいある程度進行したようである。小林は十月事件でも海相にかつがれており、余程かつぎやすかったのであろう。

    三浦は、日本発送電9分割問題をめぐってGHQの間を周旋し、大金を得たといわれる。日本発送電とは国家総動員体制の下で、1938年、民営電力会社5社(東京電燈・日本発電など)が合同国営化されてできた。このとき配電局が全国9ブロックにつくられた。GHQは三浦と一緒になって、日本発送電を9分割し、かつ配電局をそれにくっつけたのである。現在の9電力(沖縄を加えれば10)地域独占体制の始まりで、電力・電灯料金高止まりの原因をつくった改悪であった。

    『やまと新聞』の後身の『新夕刊』のオーナーでもあった(そのあと『国民新聞』となり、現在『東京スポーツ』)。編集局長は林房雄、尾崎士郎が文芸部長、吉田茂の息子で英文学学者の吉田健一は渉外部長であった。

    6月、朝鮮動乱が勃発し、スターリンと毛沢東から後方攪乱のため武装蜂起を要求された日本共産党は、四全共を開催し、「武闘方針」を決定した。志田重男が「軍事委員長」になり、神楽坂の料亭に流連して、2300ともいわれる山村工作隊へ指示を出した。共産主義者が、戦前軍部の跳ね上がり分子の真似をして料亭革命家を志した(志田はそのあと、党費横領の嫌疑で除名された)。時局は騒然としていたのである。

    日共の「武装蜂起」方針は、近藤栄蔵の下関料亭豪遊で始まり、志田重男の神楽坂の料亭流連で終了し、そのあと2度と試みられることがなかった。橋本欣五郎から服部卓四郎のクーデターも、この日共の武装闘争方針に対抗しようとしたものではなく、補完をなすものであった。社会主義が歴史の中で姿を消すと両方ともなくなった。

    昭和23年に帰国した辻政信は、『潜行3千里』がベストセラーになり、一躍時代の寵児となった。辻はかつて服部卓四郎に愚直にまで仕えていた。服部は戦後、生活のためかGHQのウィロビー機関に職を得ており、朝鮮動乱勃発とともに警察予備隊をつくるため、旧軍将校に声をかけた。この時期と辻の「われら立つべき時が来たというような演説」をした時期は一致する。ウィロビー機関には河辺虎四郎や辰巳栄一もいて、こちらも同様の活動をしていた。吉田茂はとりわけ辰巳に信頼を置いており、服部を排斥した。

    服部と辻は昔の作戦課のコンビを復活させ、警察予備隊への就職とバーターで、「殺吉田」「服部元帥」を認めさせようとしたのであるが、資金で吉田とも親しい三浦を頼みにするくらいで、情報は吉田側・米軍側に筒抜けであった。

    最後は、辻政信が旧軍将校が笑うだけであったのをみて、昭和27年7月、服部卓に引導を渡し、やめさせたという。

    吉田茂ら服部卓四郎「参謀総長」案を拒否

    服部や有末精三ら旧陸軍グループから、警察予備隊復活後も服部を「参謀総長」のようなポストにつけよとの要求が、吉田茂首相の手に数多く届けられた。これには吉田も激怒した。吉田は「決して旧軍指導部を寄せ付けるな」と洩らした(『サンデー毎日』2010年6月27日号、保坂正康「第12部「最大の官僚機構、内務省、陸軍省、海軍省解体の日(22)」)。

    旧内務官僚の海原治と後藤田正晴は、これを断然拒否した。後藤田は、

    「旧軍の作戦部門にかかわった参謀たちは本来なら戦犯に値するといってもよい。今またGHQの力を借りて復活を図ることなど決して許さない」

    海原治は、

    「旧軍幹部はプロとして戦争に負けたのである。その失敗の責任者はもう新しい舞台に出てこなくていい」

    と証言した。海原も後藤田も非常な官僚目線の人物であって、国益を中心に考えたとはいえない。多分に内務官僚支配の自衛隊を目論んだ感がなくもない。ただし「旧軍」ではなくて、戦時における権力集団、陸軍統制派と海軍条約派に置き換えてみれば、この見方が誤っているとはいえない。

    こうして陸軍統制派残党の最後のあがきはあっけなく終了した。彼らは社会主義を信奉し、陸軍官僚による独裁体制を敷こうとし、海軍の提案になる「ハワイ作戦」計画に承認を与えた。ハワイ作戦の論理的帰結である島嶼作戦と海軍の敗北による補給の断たれた陸兵の無残な死を政治にかまけた結果、まったく見通すことができなかった。昭和25年のクーデターは政治的軍人の終わりの終わり、喜劇であった。

    日本人義勇軍の結成

    服部らの動きとは別に、朝鮮戦争開始直後の昭和25年7月ごろから、日本人によって義勇軍隊を編成し、米極東軍司令官(マッカーサー)の隷下に入り、朝鮮半島で戦う計画があった。米軍勝利を見越して、帝国陸軍を再建しようとするものであった。

    服部らの動きはGHQのウィロビーに呼応したものであり、日本の内政をも支配しようとする陸軍統制派の考え方であった。河辺正三(終戦時航空総軍司令官)を総司令官に予定し、谷田勇中将、高嶋辰彦少将、堀場一雄大佐らが中心であった。

    高嶋辰彦や堀場一雄は、統制派に属さず石原莞爾や皇道派に近かった。米軍隷下に独立した軍隊を組み込むことは米憲法に抵触する可能性があることとトルーマンの戦略は朝鮮戦争を局地に限定し、日本を安全地帯とすることであったから、朝鮮半島に派遣される日本人軍隊よりも日本にいてソ連や中国の侵攻を抑止する軍隊をより必要とした。

    最終的には吉田茂の抵抗で、警察予備隊結成で落ち着いた。ただし、警察を牛耳る内務官僚と服部らを中心とする統制派軍人の同舟異夢で出発した。統制派には終戦クーデターを主導した竹下正彦らが含まれ、そのあと陸上自衛隊内部で複雑な人事抗争を惹き起こした。

    警察予備隊については、規模をめぐって日米間で摩擦が生じた。


戦後秘史・服部卓四郎と辻政信 古沢襄

    戦後秘史の類なのだろうが、吉田茂元首相の暗殺計画(未遂)があったと、参院議員の辻政信氏が教えてくれたことがある。昭和25年「潜行三千里」をサンデー毎日に連載して、一躍、時代の寵児になった辻氏だったが、昭和36年に旅行中のラオスで行方不明となり、消息を絶った。陸軍の高級参謀として服部卓四郎氏とともに”作戦の神様”といわれた半面、無謀な作戦指導をした張本人と指弾され、毀誉褒貶が分かれた人物。

    辻氏は「吉田暗殺計画は、私が中止させた」と言って自慢した。権謀に憑かれたスタンドプレー男と思っていたから、辻発言をにわかに信じる気にはなれなかった。あまり気にもとめていない。ホラの類と思って調べるつもりもなかった。行方不明になった辻氏は、昭和43年に死亡宣告、やがて世間から忘れ去られた。

    私の先輩記者に田々宮英太郎氏という昭和史の研究家がいる。存命していれば九十八歳の大長老だったが、二年前に亡くなった。亡くなる直前まで昭和裏面史を書いている。辻氏と同じ石川県の生まれである。

    その田々宮氏が「権謀に憑かれた参謀 辻政信」という本を1999年に出した。これ以前にも「参謀辻政信・伝奇」(1986年)を出版している。戦時中の辻参謀の挙動については、いろいろと書かれもしたが、戦後、政界に出るまでの行動は、謎に包まれた部分が多い。田々宮氏はその謎の部分に斬り込んでいる。

    昭和27年8月28日に吉田首相が抜き打ち解散の挙にでたが、GHQ追放令から解除されていた辻氏は、石川県第一区から衆院選に無所属で出馬して、6万4900票の最高点で当選している。田々宮氏によると辻氏を焚きつけたのは、自由党佐藤派の木村武雄氏だったという。これに反対したのは同期生の田辺新之大佐。「お前には政治家の素質はない。止めておけ」とズケズケ言われて、辻氏もその時は大人しく聞いていたという。

    昭和29年11月に日本民主党が結成されたが、無所属だった辻氏はこの党に加わった。田々宮氏は松村謙三氏に私淑する人であったが、富山県福光町の旅館でドテラ姿で松村氏と懇談していたら、辻氏が現れたという。遙かな縁側に跪き、両手を前に揃えて最敬礼したので、ドテラ姿の皆が戸惑った。松村氏には慇懃な辻氏であったが、肌の合わない岸・佐藤兄弟には、噛みつく奇矯な振る舞いが多かった。

    話は敗戦当時の外地に遡る。辻大佐は第三十九軍作戦主任参謀としてバンコクにあったが、その時に先輩に当たる林秀澄大佐と次のような会話を交わした。これは田々宮氏が林大佐から聞いた秘話。

    辻大佐「日本の降伏後、東亜の盟主は誰ですか?」
    林大佐「蒋介石だよ。蒋介石の反共作戦を援助すべきだ。ときに辻君。重慶に行かんか」
    辻大佐「行きます」

    八月十五日夜、タイの僧侶に変装した辻氏は七人の部下とともにメナム河畔の寺院に潜み、タイ脱出の機会を窺う。タイに英軍が進駐してきたのは九月二日。東南アジア軍の最高司令官・マウントバッテン元帥は「草の根を分けても辻参謀を捜しだせ」と命令を下していた。

    開戦当時にマレー・シンガポール作戦を行った山下奉文中将麾下の第二十五軍にあって、作戦主任参謀だったのが辻中佐(当時)であった。英軍の防衛線を突破してシンガポールが陥落させたのだが、占領後、華僑の虐殺事件が発生している。英軍は虐殺の命令を下したのは辻作戦主任参謀とみている。

    辻氏が英軍に逮捕されれば、軍事法廷で戦犯として処刑されるのは避けられなかった。そこで辻氏は運を天に委せて、蒋介石の懐に飛び込む挙に出ている。バンコクのスリオン街に重慶藍衣社の本部があったが、そこに単身で逃げ込んでいる。特務機関・藍衣社のボスは戴笠将軍。

    支那派遣軍総司令部第三課長時代に辻大佐は、蒋介石の母堂の慰霊祭を行っている。奇怪な振る舞いなのだが、ご本人は重慶政府との和平工作を考えていたという。田々宮氏は第三課の兼任参謀だった三笠宮が、蒋介石の故郷の写真を持っていて「お母さんのお墓だけでも祀ってあげたいですね」と言ったのを、辻氏が聞いていて”法要作戦”を思いついただけと手厳しい。

    だが逃げ込んだ藍衣社では、慰霊祭の殺し文句がきいたらしい。さらに「重慶に赴き、戴笠将軍及び蒋介石主席に会見し日華合作の第一歩を開きたい」と大風呂敷を広げたから、バンコクの藍衣社幹部たちは本気にして、二人の護衛をつけて辻氏のバンコク脱出を助けている。昭和21年3月19日に辻氏は、目的地の重慶に着いた。

    しかし一番当てにしていた戴笠将軍が、五日後の24日南京で飛行機事故によって急死してしまった。蒋介石は辻氏とは会おうともしなかった。敗戦国の一参謀将校と国民政府を率いる蒋介石では格が違う。日華合作の第一歩を開くどころか、招かれざる客という扱いを受けている。

    蒋介石政府は重慶から南京に還都し、辻氏も南京に送られて、一枚の辞令を交付されている。「史政信 国防部第二庁弁公 部長白崇禧」。第二庁は情報部門で、そこで一介の職員の扱い。昭和23年5月27日に辻氏は引揚船で帰国した。大陸では中華人民解放軍が延安奪回作戦に成功し、風雲急を告げていた。日華合作どころではない。

    しかし辻氏の帰国は危険が伴った。占領下の日本では英軍の追及と監視が厳しいと思われた。皮肉なことに祖国に戻って、すぐ地下にもぐることになった。地下潜入を助けたのは服部大佐。旧高級軍人は、いずれもGHQ命令で公職追放処分を受けていたが、これを免れたグループがいる。

    戦後政治の中で、吉田元首相と旧高級軍人グループの関係は、GHQ・G2(情報局)のウイロビー少将が絡んで密接であった。たとえば辰巳栄一元陸軍中将は吉田の腹心だったといわれる。辰巳中将の部下に服部氏がおり、ウイロビーの信任を得ている。

    戦時中の服部大佐の経歴は、陸軍部内でも一頭地抜いている。昭和十五年に参謀本部作戰班長、昭和十六年七月に大本營陸軍部作戰課長となり、日米開戰からガダルカナル攻防作戰までを全般指導。

    昭和十七年十二月にガ島作戰失敗の責任をとらされるかたちで 辻政信作戰班長とともに更迭されたが、辻大佐が以後 中央復帰が出来なかったのに比し、服部氏は東条首相・陸相秘書官兼副官の要職にとどまった。

    まさに服部大佐は、辻大佐とともに日米開戦の作戦指導を行った中核人物。敗戦後、服部氏が第一級の戦犯として逮捕されても不思議ではない。第三師団長だった辰巳中将は歩兵六十五連隊長の服部大佐と同じ引揚船で中国から帰国している。まずに服部氏に戦犯容疑がかかるのは避けられないとみた辰巳氏は服部氏をかくまっている

    やがて辰巳中将は在日米軍司令部に席を置いて、GHQ・G2(情報局)のウイロビー少将と親しくなる。GHQ側も服部氏らを戦犯として逮捕するよりは、有能な日本陸軍の高級軍人として、占領政策に協力させる方策に政策変更している。辰巳氏の働きかけがあったのではないか。

    服部氏は第一復員局史実調査部長のポストを与えられ、辻氏も米軍の情報業務につくことを条件にGHQの庇護下に置かれた。これにより英軍の追及から免れることができた。ウイロビーの服部氏に対する信頼は絶大で、やがて情報網{服部機関」が作られ、旧軍の「服部グループ」が形成されている。

    これらの動きは、米ソ冷戦構造が生まれ、朝鮮戦争が勃発するに及んで、GHQによる日本再軍備構想と並んで地下水脈で活発化されている。

    自衛隊の前身となる警察予備隊の創設をめぐって、GHQ内部では、民政局(GS ホイットニー少将)と第2部(G2 ウィロビー少将)の対立があったのは、よく知られたところだが、ウィロビーはGHQの戦史編集局にいた服部氏を中心に約400名の幹部人選をしている。一方、ホイットニーは追放中の旧軍人の起用には消極的だった。

    吉田内閣の内部からも、服部氏が予備隊幹部の人選にタッチするのは不適当という声があがった。「武官は服部が人選して新隊員を入隊させる」とのGHQ・G2の指示は、マッカーサーの裁定によって覆されている。吉田首相は宮内庁次長で軍幹部経験のない林敬三氏を警察予備隊の最高指揮官に据えた。

    この決定にウィロビーや服部氏は不満を持ったに違いない。理解者だと思ってきた吉田首相に裏切られたという思いすら抱いた。吉田首相にしてみれば、GHQによる占領下にあったからウィロビーや旧軍人を近づけたに過ぎない。独立国になれば、違ったデッサンが必要になる。

    ウィロビー周辺に集まった旧軍人グループは、辰巳氏や服部氏、辻氏だけでない。河辺虎四郎陸軍中将(敗戦当時参謀次長)、有末精三陸軍中将、中村勝平海軍少将らがGHQの戦史編集局の委嘱という形で参加した。いずれも旧軍主導による再軍備を目指している。これらの動きは、GHQやCIAの記録を保管する米国立公文書館の情報開示で少しづつ明らかにされている。

    CIA資料によると、服部氏ら旧日本軍幹部の一部が1952年、国粋勢力に敵対的であった当時の吉田茂首相を暗殺しようとした際に、辻氏は時期を見誤らないよう諭し、計画の中止を説得したという・・・この情報は正しいものか、単なる噂の類か定かではない。

    占領下ではGHQとCIAは、必ずしも良い関係になかった。とくにG2とCIAは犬猿の仲で、日本におけるCIAの活動は阻害されたという。またCIA報告がすべて正しいというものではない。情報開示で飛びつくと思わぬガセネタを掴まされることがある。

    辻氏がいう吉田首相の暗殺計画は、こういう情勢下で一部の旧軍人グループの中で検討され、中心人物は服部氏だったのかもしれない。辻氏は吉田暗殺には反対したといったが、服部氏の名には触れなかった。この説を裏付ける日本側の証言は出ていない。

    中心人物と目された服部氏は、昭和三十五年四月逝去、享年五十八歳であった。盟友を失った辻氏は翌年の昭和三十六年四月四日にエール・フランス機で羽田を飛び立った。ラオスの北東部に当たるジャール平原で殺害されたという噂を残して、消息は杳として分からない。

<関連記事>
①『GHQ知られざる諜報戦 副題:新版ウィロビー回顧録 C.A.ウィロビー/著(山川出版)』を読む その1

http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/35731128.html

関連記事:ホイットニー文書(ヒロヒト発言集)

http://zenkyoto68.tripod.com/CourtneyWhitney1.htm

②『GHQ知られざる諜報戦 副題:新版ウィロビー回顧録 C.A.ウィロビー/著(山川出版)』を読む その2

http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/35747250.html

『秘史発掘「日中戦争はドイツが仕組んだ」副題:上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ 阿羅健一 著 小学館』を読む

http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/23952258.html


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