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続・開戦工作

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年 2月13日(木)21時56分4秒
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  http://rekishijyoho.seesaa.net/article/20953026.html

開戦工作――ゾルゲ事件の失われた環(ミッシングリンク)その1

 本稿は『国際ユダヤ人・改訂版』(ヘンリー・フォード著、島講一訳、歴史情報研究所)の「編・訳者後書」の一部をご紹介するもので、3回にわたってお送りします。(島講一)
International-Jew.gif『国際ユダヤ人』

●日中・日米開戦工作

 ゾルゲ事件というのは、日米戦争開始前、日本政府の機密事項や日本の国内情勢、駐日ドイツ大使館の機密などをソ連に通報したかどで、昭和16(1941)年1月に日本国内に潜伏する売国奴が一斉に摘発され、その首魁リヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実(ほつみ)が処刑された有名なスパイ事件である。ゾルゲと尾崎以外にも、犬養健(衆議院議員)、西園寺公一(前外務省嘱託)、中西功(満鉄調査部、のち参議院議員)らが検挙された。

 戦前に愛国者が中心になって創設したユダヤ問題研究機関の国際政経学会に参画し、このゾルゲ事件を目の当たりにし、徹底究明された方がいらっしゃる。右翼の巨頭・頭山満の師匠にあたる愛国陣営の総帥・末永節先生の秘書を務めていた渡部悌治翁である。
 翁の著書『攘夷の流れ』(私家本、平成4年)を読むと、そこには次のような背景があったと記されている。

「西紀1918(大正7)年1月3日より約1カ月前の9月19日、モスクワにおいてユダヤとボリシェビーキとの合同会議が開かれた際、そこで決議された事項の中に、日支を闘争に導くための日支闘争計画案なるものがあった。その内容を要約すると、直ちに日本と中国との内部破壊を図るとともに、中国に反日運動を起こさせ、それを日支の武力闘争にまで発展させ、それに対してソ連と特にアメリカとを干渉させる戦争にまで発展させて日本を倒し、それとともに欧州に社会革命を起こさせる第2次の世界大戦を計画するというものであった」(76ページ)

 1918年1月3日はドイツがアメリカに講和を申し入れた日であり、連合軍とドイツがフランスのコンピエーニュで休戦協定を締結し、第1次世界大戦が終結したのは、その約1カ月後の11月11日のことであるから、9月19日にはまだ戦争は終わっていない。そのときすでに次の世界大戦が計画されていたというのである。実に日米開戦をさかのぼること23年前のことである。

 その後の推移は、言うまでもなく、歴史が示すとおりであるが、では、この「日支闘争計画」案の布石は具体的にどのように打たれていったのだろうか。渡部翁によれば、その実施機関としてまず太平洋問題調査会(IPR)が設立されたという。

『上海時代(上)』(松本重治著、中公新書)には、IPRの第1回会議が大正14(1925)年に、第2回会議が昭和2年に、いずれもハワイのホノルルで開催されたと書かれている。日支および日米開戦の実施計画を練り上げる日米英中を中心とした売国奴たちによる作戦会議である。この2度の会議に、日本からは沢柳政太郎が団長として、ほかに鶴見祐輔、高石真五郎、高木八尺らが出席したが、年表をみると、その間の大正15年4月6日に日本支部が設立されたことがわかる。昭和4年には、京都で3回目の会議が行なわれることになった。その様子を『上海時代』から引用しておこう。

「会議は都ホテルで開催されたが、招請された国々は、アメリカ、イギリス、中国、カナダのほかに、ハワイ、フィリピンのグループもあり、ソ連、フランスのオブザーヴァーもいた。代表の一人小松喬さんが、会議のロジスティックスすなわち、宿泊、設営一般の事務をとりしきっておられたが、会議の内容の実体たるプログラム面の仕事の采配をした幹事役は、同じ代表の高木先生と斎藤惣一さん(日本YMCA総主事)とであった。日本代表は、団長が新渡戸稲造先生、それに松岡洋右、頭本元貞、岩本裕吉、金井清、前田多門、鶴見祐輔、高柳賢三、高石真五郎、信夫淳平、蝋山政道、松田竹千代(まだ政治家にならないで、大阪のセツルメントをやっていた社会福祉事業家として、すでに有名になっていた)、それから那須皓その他の諸先輩であった。日本代表団のセクレタリーとしては、松方三郎、浦松佐美太郎、私の三人が選ばれ、その一段下積みの仕事、すなわち、ステンシル・ボーイとして謄写版刷りをやっていたのが前田陽一、岩永信吉、斎藤勇一の諸君であった。どういう意味か、白洲次郎君が、正式の代表ではなかったが、友人関係にあった英国代表の数人を接待しながら、彼らと話をしていたように覚えている」(23~24ページ)

 ちなみに冒頭でご紹介した日米欧三極委員会は、昨今の極東情勢を考える(新たな日支・日米闘争計画が発動されているように思われる)と、太平洋問題調査会の現代版と見てほぼ間違いないだろう。

 このあと、太平洋問題調査会は昭和6(1931)年に上海で第4回会議を、昭和8年にカナダのバンフで第5回会議を開くが、第3回の京都会議と第5回のバンフ会議には「ゾルゲ事件のバックとなった男であり、コミンテルン・ソ連スパイであったオーエン・ラティモア」(『攘夷の流れ』77ページ)も参加している。

『上海時代』の著者、松本重治はラティモアとの関係を次のように得々と述べているが、「語るに落つ」とはまさにこのことを言うのであろう。

「オーウェン・ラティモーアに会ったのは、上海が初めてではなく、東京であった。1929年の初秋、ラティモーアは夫婦で、その年から翌30年にかけて満州にある諸民族、ことに蒙古人の文化人類学的現地調査をくわだて、米国からの途中、日本に立ち寄ったのであった。松方三郎、浦松佐美太郎の両君らと一緒にラティモーア夫婦を囲んで葵坂の元の華族会館でランチを共にした」(164ページ)

●IPRと日本人

 ところで、ゾルゲ事件の主役の1人、尾崎秀実は、上海会議の前年の昭和5年にアグネス・スメドレーを介してゾルゲとすでに会っており、昭和11(1936)年に米国のヨセミテで開かれた太平洋問題調査会の第6回会議に日本側委員として出席しているが、前出の『絹と武士』(文藝春秋社)にその一端が記されている。

「1901年、京都で生まれた長男〔牛場〕友彦は次男の道雄と共に神戸の祖父母の許で育てられたので、アメリカから夏休み毎に訪れていたいとこ、つまり私の母や伯父と幼年時代を共に過ごした。家族の間ではトモと呼ばれた友彦は第一高等学校を経て東京帝国大学に学び、卒業後は英国に留学、オックスフォード大学で1925年から29年まで学び、哲学、政治、経済の3分野を専攻し、優秀な成績で卒業している。オックスフォード時代、友彦は英語を完全にマスターし、当時留学していた松方三郎、松本重治などとも親しく交わった。……重治や三郎への友情を通して、先に友彦はIPR(太平洋問題調査会)に関心をもつようになり、1936年にはヨセミテで開催された会議に出席したのだが、この会議では姉や私も、近衛の長男、文隆や『最後の元老』〔西園寺公望〕の孫、西園寺公一などと共に書記を務めたことは『はじめに』で述べた通りである。近衛は古い貴族の血をひく公一に興味を抱き、その結果、友彦も彼に注目した。友彦は、公一の将来にとって有益になるであろうと往きの船や会議中の宿泊で旧友尾崎秀実と同室させることを思いついた。尾崎はかつて一高時代友彦の同級であり、1928年から32年にかけて朝日新聞の特派員として上海に駐在した経験から中国通として知られていた。……友彦がヨセミテで公一と尾崎を同室にさせたことが、のちに若い西園寺を共産主義へ走らせるきっかけになったことは当然考えられることである」(395~399ページ)

 国際情勢・歴史分析に定評があり、すでに日本でも『三百人委員会』(KKベストセラーズ刊)など数冊の著者が邦訳されている米国在住のジョン・コールマン博士は、小論文で「1920年代のオックスフォード大学とケンブリッジ大学は共産主義という疫病神の温床だった」(「英国諜報部のソ連への浸透」1983年)と指摘し、

「アメリカは1940年にアメリカ大使館が『危険』と思われる外国人共産主義者のリストを英国に提供している。このリストに、上海時代からのロジャー・ホリスの友人ゲルハルト・アイスラー〔米国共産党の秘密党首(1935~47)〕、ロバート・クチンスキーとその娘、つまり赤軍の歴史にもっとも光彩を添えるスパイとなったソニアが記載されていた。クチンスキーは英国で3カ月間拘禁されたが、非常に奇妙なことに、釈放されている。この〝難民〟一家が加えた危害はおそらくはかり知れないものがあったであろう。……
 ホリスとソニアの物語は上海から始まる。英国国教会(聖公会)の聖職者の息子だったホリスは、オックスフォードの学業を中途で放棄した。理由は不明だが、突然オックスフォードを離れ、家族と別れて上海に赴いたのである。それまで中国に関心を向けたことはなかったのに、オックスフォードを卒業するまで待てなかったのだ。彼は両親に上海でジャーナリストの仕事に就く予定だと語っている。そして、これがホリスのもっとも奇妙な部分であるが、どういうわけか、上海で、献身的な共産主義者の仲間と偶然出会ったのである。このグループの指導者は、非常に活動的なアメリカの共産主義者アグネス・スメドレーであった。彼女は新しく到着したホリス、ソニアと親しくなった。スメドレーとソニアの友情がとりわけ親密だったことは注目に値する。せんさく好きな目から逃れるために、スメドレーは安全な外国人租界に献身的な共産主義者たちのためのサロンを開いた。彼女は急進的なコミンテルン(世界に革命を広げるための共産主義組織)のメンバーで、経験も豊富であった。彼女はボルシェヴィキ革命のすべてのモスクワ会議と記念祭に出席していた」

 と記している。
 かくして、スメドレー、尾崎秀実、ゾルゲ、ホリス、ソニアらが1930年代の魔都・上海で出会い、気脈を通じ、その先鋒が日本の政治中枢部に深く突き刺さり、日支・日米闘争計画に従って、日本は、対中戦争へ、対米戦争へ、そして敗戦へと誘導されていくのである。(続く)
 
 
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