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続・開戦工作の続き

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年 2月13日(木)22時01分6秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://rekishijyoho.seesaa.net/article/20978730.html

開戦工作――ゾルゲ事件の失われた環(ミッシングリンク)その2

●ゾルゲ・スパイネットワーク

 スメドレーについて、元米極東軍司令部情報部長C・A・ウィロビー将軍は、自著『上海コンスピラシーShanghai Conspiracy』(1952年)のなかで、こう指摘している。
「スメドレー女史は、1930年末より女史が中国を去る日まで、ゾルゲ・スパイ団の一員として協力していたのである。おそらく女史もコミンテルンの一員であったであろうことは推測に難くないが、赤軍情報局(GRU)に身分が移されていたかどうかは判断に苦しむところで、あるいはなんらかの取り計らいによって、コミンテルンと関係を保ちながらゾルゲに協力していたのかも知れない。また、ゾルゲの持論である、ソ連情報部とコミンテルンないし共産党情報部とは明確に区別すべきであるという点から考えるなら、スメドレー女史もおそらく赤軍情報局に転籍していたとみなすのが妥当であろう」(33ページ)

 また、ゾルゲについては、
「1930年1月、ゾルゲはドイツの『社会学雑誌 Soziologische Magazin』の記者ジョンソンという名目で上海に渡った。上海は自由かつ容易に入り込めるところであり、世界各地から各種各様の人間が集まってくるところなので、誰がどんな名目で入り込み、どのような生活をしようと誰も不思議には思わないし、関心も持たない。
 ソ連赤軍第四本部員が三名、支那に一緒にやって来た。まったく身元が不明のアレックス、リヒャルト・ゾルゲ博士およびドイツ人電信技師のワインガルトである。そのうち長となっていたアレックスは約六カ月後にロシアに帰ったようである。そこでゾルゲが長となり、スパイ団の本部を上海に置いたが、その活動範囲は中国全土に及び、とくに杭州、南京、広東、漢口、開封、西安、北京、満州において積極的に活動した。ゾルゲは各地を旅行し、中国および日本の政治、歴史、文化に関する書籍を広く深く読破した。そのうえ、中国語と日本語の勉強もし、アジア問題に精通するようになった。ゾルゲは中国でスパイ団の手先を多数集めた。そのうち十六名の氏名は判明しているが、それ以外にも多くのスパイがいたことであろう」
 とし、尾崎以外の日本人については、
「最終的に西園寺公一は現在と過去のつながりを白状しなければならなかった。彼はゾルゲ・グループにピックアップされ、秘密情報を尾崎に伝えていた罪が発覚し、執行猶予付禁錮3年の判決が下された。しかし西園寺は、1923年以来、日本支部の会員であった。彼は尾崎、牛場、名和〔統一〕と懇意にしていた。牛場友彦は一時、日本支部の事務局長を務めたことがある。尾崎と同様、彼は近衛公の秘書または〝前途有望な若者たち〟の一人であった。ゾルゲ団のなかでは尾崎ほどの重要人物ではなかったが、容疑者の一斉検挙で逮捕された。……
 一つ恰好の事例がある。それは平野義太郎が主宰していた支那問題研究所である。この人物は東京におけるソ連使節団と昵懇で、研究所はそのフロント(隠れ蓑機関)として広範な信望を得ている。わたしはこれを共産党の機関として分類している。支那問題研究所の理事の多くはIPR日本支部の理事でもある。支那問題研究所所長は有力な共産主義シンパである。前述の名和は京都支部長を務めている」(277~278ページ)
 とし、さらに支那問題研究所は国務省の秘密文書を盗んだかどで1945年にFBIによって逮捕された共産主義者のアンドリュー・ロス、フィリップ・ヤッフェらと連絡をとっていたと記している。また、ゾルゲ事件で検挙された者のなかに支那問題研究所の所員が2名いるが、渡部翁はこの支那問題研究所という組織を、

「満鉄を赤の巣窟にし、大川〔周明〕に甘粕〔正彦〕を加え、さらに黒川を足して満州協和会を造り、さらに石原莞爾が加わり、それに支那問題研究所とゾルゲ・ルートの昭和研究会及び国際問題研究所まで取り入れた頃には、ユダヤの企てていた中国を中核としたソ連による極東攻略の陰謀も、ほぼその実現の域に達していたのではなかったか。
 それ故にこそ尾崎秀実は獄中にあって、日本の革命準備八九分どおり成れりと嘯いていたのではなかったのか」(『攘夷の流れ』130ページ)
 と指摘している。

●日本海軍とIPRとの関係

 ちなみに、先に登場した牛場友彦、松方三郎、松本重治はいずれも前出の松方ファミリーの一員である。いったい彼らはなにをするためにヨセミテ(1936年8月14~29日)までわざわざ出かけて行ったのだろうか。その答えは、これもまた『上海コンスピラシー』が用意してくれている。

「太平洋問題調査会とゾルゲ・スパイ網とのもう一つの接点はゾルゲと一緒に絞首刑で死亡した尾崎秀実に見られる。尾崎は、1936年に渡米し、カリフォルニア州のヨセミテ峡谷で開かれた調査会の会議に出席した。シアトルの出版人で元海軍諜報将校だったミラー・フリーマンによれば、尾崎は日本海軍が科学的漁業調査を偽装してアリューシャン列島を調査する許可を確保するために接触したとのことである。日本人がアリューシャン列島を攻撃したとき、彼らはそこの詳細な地誌的・地理的情報を充分に所有していた」(277ページ)

 日本軍がアリューシャン列島のキスカ島を占領したのは日米開戦の翌年の1942年6月7日、アッツ島を占領したのは同月8日で、この作戦は同月5日に山本五十六の提案ならびに脅迫めいた懇請により決行されたミッドウェー海戦と深く連動しており、この海戦における日本の敗北が日米戦争の大きな転換点になったこと、作戦にきわめて不自然な点が多かったことは、かねてより有識者が指摘するところである。

 このウィロビー情報が正しければ、尾崎は日米開戦とその後の展開を事前に予期していた日本海軍の誰かに頼まれてヨセミテに来ていたことになる。しかも攻撃の時点で「詳細な地誌的・地理的情報を充分に所有していた」ということは、日本海軍は仮装敵国である米国の許可を事前に得たうえで、真珠湾攻撃以前にアリューシャン列島の調査を終えていたことを意味する。日米開戦後に敵国の領土であるアッツ島とキスカ島の調査など不可能だからである。つまり、1936年のヨセミテ会議以後、日本海軍とIPRは5年余りにわたって日米開戦とその後の展開を予期したうえで共同歩調をとったという、なんとも奇っ怪な構造が浮かび上がってくるのである。
 尾崎は日本海軍の誰に頼まれたのか、アリューシャン列島の調査を行なったのは日本海軍のどの部隊なのか、大いに調査が待たれるところである。

 渡部翁はこう指摘している。
「山本五十六が司令長官になった頃、ハーバード大学ルートの情報で、米国の海軍力は、山本五十六が司令長官である間ならば、日本に撃って出ても勝算があり、悪く行っても五分五分で決着がつく。早々に戦端を開くべきだという〔米国〕海軍側の意向が伝えられてきた。しかもその理由の中に一項目、山本はフリーメイスンの結社員だからという条項が入っていた。……
 戦時中、米内光政の身内や縁故者たちから、国の機密に属す事柄が敵国に流されていたことは事実であり、しかもその事柄が、日本の戦争遂行を不可能にするほどの重要なものもあったことを特筆しておく」(『攘夷の流れ』119~121ページ)

 なお、ニューヨーク・デイリー・ニュース紙(1951年5月17日付)は、
「1941年10月にソ連の高級スパイ、史上最大のスパイのリヒャルト・ゾルゲが、真珠湾は60日以内に攻撃されるだろうとクレムリンに打電した。モスクワは情報を米国に伝えたとゾルゲに知らせている。興味深いことに、ゾルゲの日本における3万2000語に及ぶ自白調書の国防省のコピーから真珠湾に関する部分はすべて削除されている」
 と報じているが、いったいこれはなにを意味するのか?

●日独伊三国同盟の立案者ゾルゲ

 ちなみにゾルゲは、「日支闘争計画に基く対日及び世界政策の転換のため、新しい使命を受けるためにモスクワに呼び戻されている。彼が新しい任務を与えられ、渡日の準備のためにフランクフルト新聞の日本特派記者を偽装するためベルリンに赴いたのが、西紀1933年のことであり」(『攘夷の流れ』81~82ページ)、米国を経由して横浜に到着したのは、つまりカナダで太平洋問題調査会の第5回会議が開かれた昭和8(1933)年9月6日ことであった。その3年後に尾崎はヨセミテに旅立つ。おそらく日本の某海軍筋とゾルゲの要請を受けての行動であろう。

『上海コンスピラシー』(61ページ)によれば、ゾルゲが日本において自白した諜報目標は次の7点とされている。

 1、満州侵略後の日本のソ連に関する方針。日本はソ連を攻撃しようとしているのか?一九三九年以後、この目標が最優先事項になった。
 2、日本の陸軍と空軍の編成、装備、戦闘秩序、とくに満州における軍備に関する諸事項。
 3、日独関係。ソ連政府は早くから日独関係の緊密化が避けられず、それがソ連にとって不利なことを予想していた。とくに反コミンテルン条約締結後はこの問題に重点が置かれるようになった。
 4、中国における日本の方針と活動。
 5、日本の対米英関係と方針の変遷。「満州事変」〔1931年〕以前は、ソ連は日本が米英の支援を受けてソ連攻撃をすることもあると想定していたようだ。その後、この問題は日本のソ連攻撃の可能性と密接に関連し、同時に日支戦争および日本の南進計画と関連するようになった。
 6、日本陸軍が政治関係において果たす役割の詳細な観察。これは、日本の基本的外交政策は陸軍の決定に基づくとソ連は想定していたからである。
 7、日本重工業の操業と発展を、満州の支社も含めて組織的に観察すること。

 この自白に基づいて日本ではこれまで、ゾルゲ・スパイ団の主たる役割は「日本にソ連攻撃を断念させて南進政策を取らせること」にあったと考えられてきた。けれどもそれに加えて実はもう一つ、重要な目標が抜け落ちていたのではなかろうか。つまり先述のニューヨーク・デイリー・ニュース紙が報じた「真珠湾」に関する部分である。

 この手がかりも『上海コンスピラシー』にしっかりと残されていた。次の部分である。
「その初期におけるゾルゲの直接の接触対象は新聞関係にあったが、彼は、日本の知名の士の紹介状をドイツ、アメリカ等において用意してきていた。その主なものを挙げれば、たとえば東京裁判の戦犯被告となった外交官の白鳥敏夫、元駐米大使の出淵勝次といった人びとである。また、ナチス党員の資格はヘルベルト・ディルクセン駐日ドイツ大使やその他の大使館幹部との折衝に非常に役立った。とくに彼と親密な交渉をもつに至った者は、ドイツ大使館付武官オイゲン・オットーである。ゾルゲが最初に彼と知り合った当時は、日本軍の名古屋連隊に勤務していた頃で、オットーは中佐だった。ゾルゲは、オットー中佐夫人が彼と結婚する以前、ミュンヘンにおいてさる建築家の妻だった時代に知己を得ていた。噂によれば、オットー夫人は過激思想の持ち主で、共産主義信奉者だったという人もあった。この点に関する限り確証はない。この夫人を通じてか、あるいは他の方法かは明らかではないが、ゾルゲとオットー中佐の友情は急速に深まっていったようである。オットー中佐は次第に昇進して少将になり、大使館武官補佐官から武官になり、ついに大使となった。そこで、ゾルゲは大使館にまったく自由に出入りができ、日本に関するドイツ側の重要な情報も入手が可能となった。さらに時が経ち、ゾルゲとオットーの関係は、ドイツの公文書を自由に見せ、かつそれについての意見の交換までするような間柄になった。……
 1940年9月27日、日本、ドイツ、イタリアのあいだで三国同盟が締結された。これを契機に、日本の陸軍参謀本部および日本海軍軍令部とドイツ大使館との接触は頻繁となり、軍事問題に関する討議もよりいっそう多くなった。これら大使館の職員は率直にゾルゲに意見を求めた。いや実のところ、この枢軸国条約の主たる立案者はリヒャルト・ゾルゲ本人だったのである〔太字筆者〕。オットー将軍は三国同盟条約の発展に尽くしたゾルゲに非常に恩義を感じていたので、東京における正式調印式にゾルゲを出席させようとした。しかし、条約を仕上げるために支那からやってきたヒットラーの特使ハインリッヒ・スターマー博士が反対し、ゾルゲは出席しなかった。スターマーはゾルゲの誠実さを疑っていた。彼は比較的無名で重要ではない人物と名誉を分かち合うことを警戒したにちがいない」(57~58ページ)

 とくに太字の部分に注目していただきたい。三国同盟が締結されていなければ、日本の真珠湾攻撃は、米国の対日開戦の理由になり得ても、対独参戦の理由にはならないことに思い至ると、ゾルゲ・スパイ団にはもう一つの大きな目標、つまり「三国同盟を締結させ、しかる後に日本(海軍)に宣戦布告なき対米(真珠湾)攻撃をさせよ」という目標が与えられていたように思われるのである。
 つまり、巷間言われているように、「日本という裏口を経由して米国に対独参戦させようとする迂回作戦」であるが、実はこれがゾルゲ・スパイ団の手によって主導されたのではないかという疑いである。
 ゾルゲがドイツ国内で三国同盟に至る前段の秘密協定、日独防共協定を推進した人物と連携して動いていた痕跡が残っていることからしても、先の目標がゾルゲに与えられていた可能性がきわめて濃厚なのである。

 米国外交は、伝統的に対ヨーロッパ不干渉を基本方針としてきた。その象徴的な例がモンロー・ドクトリンである。したがって米国では、第一次大戦でも、第二次大戦でも、国民の大部分が参戦に反対しており、ルーズヴェルト自身も第二期目の大統領選挙期間中に「攻撃されなければ外国の戦争にあなたがたの息子を送らない」となんども繰り返し国民に公約して当選していた。そのために迂回作戦を取らざるを得なかったのである。

●ハックと日本海軍

 大戦も終わりに近づいた1945年6月、ヨーロッパでは、スイスのベルンを舞台に見込みのない終戦工作が行なわれていた。日本側の主役は前ベルリン駐在海軍武官補佐官の藤村義朗、米国側はベルン駐在OSS代表のアレン・ダレス、仲介者はフリードリッヒ・ハックであるが、米国務省外交文書はその様子を、
「740・00119 PW6―2245、
 1945年6月22日、ワシントン、
 OSS長官代理より国務長官宛メモランダム
 以下の情報も、ベルン発5月12日付、6月4日付メモランダムの続報なり。既報メモの追加あり。同ソースによれば、藤村は、日本は降伏前に、天皇の地位保全の保障取り付けを要求するだろうと主張している。藤村は、ベルンの新聞に公開された、アレン・ダレスによる北部イタリアのドイツ軍に対する条件付降伏文書を読み、明らかに、この条件降伏文書の内容に強い興味を抱いたようだ」
 と伝え、その末尾で仲介者について次のようにふれている。
「前記メモランダムのドイツ人は、第一次大戦中、日本軍捕虜となり、釈放後、日本に残留して、日本との商業関係を確立することに成功したのち、ドイツにおける日本政府の物資買い付けに関与して財をなせるものなり。このドイツ人は、日本政府、とくに海軍内で厚い信用を博している。数年前、欧州にもどったが、ヒットラー政権内でペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)に指定されたあとはチューリッヒに居住し、ベルリン日本海軍駐在武官の野村〔直邦〕提督との接触を密にしてきた」

 この人物、すなわちフリードリッヒ・ハックは1933年(日本にゾルゲがやってきた年)にヒットラー内閣が誕生したあとドイツに帰国し、リッベントロップ外相に取り入って秘密裏にある計画を推進した。大森実は『戦後秘史1・日本崩壊』(講談社文庫)で次のように述べている。

「極東に関する彼の幅広い造詣は、リッベントロップ外相の信頼を得るところとなり、ドイツ外務省顧問の要職を与えられた。ハック博士の日本政府に対する最大の〝貢献〟は、日独防共協定締結に際して彼が演じた舞台工作であった。……ベルリンの駐在陸軍武官であった大島浩と、ヒトラーの信望が厚かったリッベントロップ外相をひそかに自宅に招いて密会させ、日独防共協定という秘密協約のお膳立てを整えた男が、フリードリッヒ・ハック博士であったのだ」(42~43ページ)

 日独防共協定が調印されたのは昭和11(1936)年11月25日である。その前か、この時かはわからないが、実にハックは、ドイツの特使として再来日し、ゾルゲと確かに会っているのである。ゾルゲが来日したのは1933年9月6日で、ハックがドイツに帰国したのは1933年にヒットラー政権が成立したあとだから、ハックはそれ以前にも日本でゾルゲに会っていた可能性もある。

 ゾルゲ自身がこう語っているからである。
「ハックがドイツの特使として日本に来たときのことである。彼はわたしに次のような内容の話をしてくれた。大島武官、リッベントロップ外相およびカナリス秘密情報局長の邸宅の周辺にソ連の諜報員が潜伏監視していて、反コミンテルン協定の秘密会議中に写真まで撮られたので、以後は三者会談をせずに、ハック自身が三者の仲介者となり、それ以上ロシアに探知されずに交渉を続けることができた。先に述べたように、わたしがソ連当局へ通報した結果、大島、リッベントロップおよびカナリスが監視されるようになったのである。ハックの話もわたしはすぐにソ連に報告しておいたが、その後は彼もまた監視されるようになったことと思う。人は言葉を慎まねばならない。部外者には最も信頼のおける友人であっても秘密を洩らすべきではないだろう」(『上海コンスピラシー』69ページ)

 ウィロビーはなぜここにあえてゾルゲの言葉を挿入したのだろう? 前後の文脈からみて唐突な感じがするのである。なぜだろう? ウィロビーはたぶん誰かに気づいてもらいたかったのかもしれない。

 ちなみにコールマン博士は、ウィロビーの無念の気持ちをこう表現している。
「スメドレーとその一味を暴いたのはマッカーサー将軍の情報部長ウィロビー少将である。彼は、マッカーサーの忠告を無視してソニアとホリスの交友に関する情報を英国当局に送ったが、公式記録には残されていない。あるいは、記録されていたが〝失われた〟のかもしれない。ウィロビーはのちに、ハロルド・アイザックスとスメドレーによって加えられた危害は測り知れないものがあったと述べた。ウィロビー将軍のホリスに関する警告に関心が寄せられ、正しく記録されていれば、おそらくソ連は、西側諜報機関内部で工作を進めるもっとも重要な自国のスパイを失ったはずだ。彼らはソ連にとっては測り知れない価値があったろうが、英国と米国にとっては最悪の売国奴であった」(『英国諜報部のソ連への浸透』)

 ちなみにハックであるが、再来日のあとドイツに帰国してから投獄されている。それを大森実は「ヒトラーのユダヤ人迫害政策に反対して投獄された」(『日本崩壊』43ページ)と記しているが、正体を見破ったドイツ当局の適切な措置であったろう。それをこともあろうに、駐ベルリン日本海軍武官府はドイツ当局に働きかけて釈放させたというのだから、恐れ入った話である。しかもそのあと来日し、その「反ナチ言動がオットー駐日ドイツ大使の逆鱗に触れ、日本追放、本国強制送還の迫害を受けたが、ここでも海軍関係者の奔走で、彼はスイスへの亡命に成功した。スイス亡命後のハック博士は、海軍物資調達の御用商人として、主としてチューリッヒを本拠に活躍していた」(同右)というのだ。海軍そのものが売国奴の巣窟のようなものである。これでは日本が負けるのも当然であろう。

 それはともかく、ここで注目しなければならないのは、ハックが再々来日した時点ではオットー駐日ドイツ大使は在職中だったのだから、ゾルゲ・スパイ団はまだ摘発されていなかったわけである。したがって、何度目かの来日かはしらないが、このときもハックはゾルゲと接触する機会はあったということを付記しておきたい。
 
 
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