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官僚の反逆

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年 3月18日(火)22時09分43秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://g5arastradero.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-de21.html

官僚の反逆 (幻冬舎新書)、中野 剛志 (著)

を読んだので、私には驚くべき内容だったので、書いている訳です。「どうせ受け狙いだろ」で片付けるには真剣すぎる話しで、何もかにもそうやって疑っていては、もう世捨て人にでもなるしかなくなるので、信用することにしました。とは言っても、今度は私が誤解しているかもしれないので、気になる方は是非ご自分でご確認を! そして、「あれくらい入り組んだ話なら、誤解する方が普通だよ」と言ってくれ!

そもそも何で「官僚、、なんたら」の本を選んで読んだかというと、官僚というものに、次のようなイメージがあったからなのです。

[1] 官僚は東大出の秀才で、入省から10年、20年と仕事をして、それぞれの分野の専門知識を持ったエキスパートである。ま、そうですね。そうなってもらわないと困る。

[2] 一方、政治家というのは、選挙で選ばれ、次の選挙で落ちればハイさよならで、たまたま与党になれて、箔付けに持ち回りで大臣になっても、何もわかりゃしない。官僚が書いた作文を読んでいるだけさ。つまり、この国は民主主義と言いながら、結局官僚に支配されている。

それを良いことに、官僚たちは

[2-1] 現場の実情が分からず、霞が関の机の上で、そのうぬぼれた頭で思いついたこと、本当には皆のためにならないことをやっちゃう。

[2-2] あれが必要だ、これが必要だと言って外郭団体をたくさん作って、そこに天下りして、そこを渡り歩くたびに一億とかの退職金を手に入れる。

[3] なので、今の「官僚主導」から「政治主導」に変えて、つまり、政治家がもっとしっかりして、皆のためになることをやらせないと、またぼろもうけさせないようにしないといけない。

なのですが、この本で中野さんの言うことには、[1] はまあそうとして、

[2-1] のようなことはない。なので[3] のようなこともない。なにしろ、何事も国会で可決、閣議決定しないと予算が付かず、実行できない。ので、官僚の方も、「へ?そういう風にやるんですか?だとするとこんな風になって、お金がかかりますよ」となって、家を建てるときの施主と工務店の関係ね。そりゃうまくだまして売りつける工務店もあるでしょうけれど、官僚の場合は騙して水増しした金が自分の懐に入る訳ではないので、そういう金儲け目当ての騙し方はしない。

国会で官僚が書いた作文を読む前に大臣、与党議員の中のその道の専門家(族議員)、現場の実情を知る議員(そのために全国の選挙区を代表して来ているのだ)との事細かな調整があって、作文を読むのは調整の結果の政治的決着について変なケチがつかないように言葉遣いを選ぶから。(あ、こんな風には書いていなかったけれど、要するにそういうことでしょう。)

[2-2] のことについては、天下りは民間でもやっていることだ、とくらい書いてあったかな。まあ、この本のテーマではないのです。金額も少ないし。

じゃ何がテーマかというと、いきなりオルテガ・イ・ガセトという人の「大衆の反逆」という本の話が出てきて、それによると、

[4] 民主主義国家の国民は、分かっても分からなくても、お前らで投票して決めなさい、と言われる。今増税しないとこの先どうなるかなんてわかる訳もないことも、好きにしてよいから、と言われる。言われたから真剣に考えるかというと、「そんなこと分かんないもーん」、「でも皆こういっているみたいだし、その辺でしょうがないんじゃないかなあ」くらいで、要するに周りの雰囲気で投票するわけね。

ヨーロッパで国王を処刑して、選挙で選んだ代表に政治をさせようと決めた時は、皆もうちょっと真剣で、「これでいこうか」に誰かが「俺たちの方ではそれは困る。そんなことをするとこうなって、ああなって、大変だ」というと、「なるほどね、そういうことがあるならこんなふうじゃどうだ?」と議論したものなのだそうです。「そんな話、俺らには関係ない」と言って困りごとを押し付けてしまったら、自分たちがルイ14世、マリー・アントワネットになってしまいますからね。

ところが今の人たちはそういう苦労も知らず、小学校の学級委員を決めるときから選挙なので、ありがたみも分からず、なんとなく周りの雰囲気で投票しているわけ。世の中の大方の意見、世論で決まるから、沖縄に米軍基地を押し付けていても平気なのだ。こういうのを出来立てのホットな、実のある民主主義に対して「大衆民主主義」、あるいは「超民主主義」というのだそうです。あるいは「行き過ぎた民主主義」。

[5] そういう選挙民を相手にするのだから政治家も大変ですが、そういう無責任な人たちで成り立っている世の中を切り盛りしていく専門職、つまり官僚は不可欠です。税収の見込みと予算が合わないと、公務員のボーナスが無くなったり、途中まで掛けた橋がそのままになったり、その工事をした工務店への支払いが出来なくなったりしますから。

ここでさらにマックス・ウエーバーが出てきて、上のような「行き過ぎた民主主義」のもとでは、「だれかれの区別をせず、規則にのっとって、迅速に事務処理する」人々、その組織、官僚制度が不可欠なんですって。ま、そでしょうね。ご主人様は選挙でいつ変わるか分からないので、繰り返しになるけど「規則通りに」、「公平に」、「中立的に」仕事をする。あそこにひいきした、こっちをないがしろにした、と言われないように。

そういう仕事をする人々、官僚、がいないと世の中たち行かないのですが、行き過ぎた民主主義の中にいる国民には、官僚が目の敵に見えるものだ、とウエーバーが言っている(ホントかいと思って読み直したけどホント) 代議士どころか、総理大臣だってその時の雰囲気で(具体的には内閣支持率が30%をわる、みたいな世論調査で)すげ替えられるのに、なんで官僚は定年まで偉そうにして、その後天下りまでして、俺たちの税金で食わしてやっているんだぞ。

という訳で、一番最初に書いた私の「官僚というもののイメージ」は、マックス・ウエーバーが1947年の著作で指摘していた、「甘やかされて育った幼児のような、行き過ぎた民主主義社会の平凡な構成員が持つ心理的傾向」の結果なのだ。偉い人ってすごいねえ、こんな私の心理まで60年も前に予見しちゃうんですから。

面白いのはウエーバーの前に出てきたオルテガが、「みんながそう言っているみたいよ」で行動することに疑問を持って、自分で答えを出そうとする人のことを「エリート」、「貴族」という、それは東大を出ているとか、家柄が良いなどとは関係が無い、と言っていることで、これってニーチェの言う「高貴な人」だね。

ウエーバーも似たようなことを言っているのがこの本の最後に一縷の望みということで書いてありました。ま、オルテガも、ウエーバーもニーチェは読んでいる訳で、そういう高貴な人が一人でも多いことを期待するしかないというのが、民主主義政治のやむを得ない帰結なんですね。私も気分だけ高貴な人になるために、安直な官僚批判はやめよ。

他にもたくさん、暗い話が書いてありますので、ぜひ、一読をお勧めします。

官僚の反逆を読んで その1

http://achichiachi.seesaa.net/article/311880941.html

なんでこの人が書く本は、どれもこれもこんなに面白いんでしょうかね?この本『官僚の反逆』も物凄く面白い。まだ、読み始めで全然読み切ってないのだが、レビューを書いてみる。

「大衆」の反対は「エリート」であるが、「エリート」もまた、特定の階層や職業を意味するものではない。オルテガによれば、「エリート」すなわち「選ばれた少数派」とは、「自分に多くを要求し、自分の上に困難と義務を背負いこむ人」のことである。
 エリートは、「自分よりもすぐれた、自分のかなたにある規範にみずから訴えることが必要だと、心底から感ずる性格をもっていて、その規範のために、易々として身を捧げる」のである。そのような自らに厳しい規律を課している人間であれば、寿司職人であろうがプロ野球選手であろうが、「エリート」と呼ぶことができる。反対に、高級官僚であろうと財界の幹部であろうと、「自分になんら特別な要求をしない人」であれば、それは大衆的人間に過ぎないのである。「エリート」と「大衆」というのは、「社会階級の区分ではなく、人間の区分であって、上層、下層の階層秩序とは一致するはずがない」とオルテガは明言している。(中略)

 オルテガによれば、エリート―彼は「貴族」とも呼ぶ―とは、決して現状に満足することなく、より高みを目指して鍛練を続けており、常に緊張感をもって生きている存在である。「私にとっては、貴族とは努力する生の同義語であって、つねに自分に打ち克ち、みずから課した義務と要請の世界に現実を乗りこえてはいっていく用意のある生である」(オルテガ、四三三貢)。再び確認しておくと、ここで言う「貴族」とは、特定の階級のことではなく、人間の高貴な生き方のことである。(前掲書 p24)

 このような文章を読むと、ああ、なるほど、やはり偉い人、道理というものをわきまえた人は、皆一様に同じ事を思い、そして同じ事を言うのだなぁと思わされる。マックスウェーバーは、政治を天職とする資格をもつ人間、すなわち公益のために尽くす資格を持った人間の条件として次のように語った。

 政治という、仕事は、情熱と判断力を同時に使いながら、堅い板に力をこめて、ゆっくりと穴を開けていくような仕事です。世界のうちで不可能と思われることに取り組むことがなければ、いま可能と思われることも実現できないことはたしかですし、歴史が示す経験からも、それは確かなことです。しかしこれをなしうるのは、指導者でなければならないのであり、たんに指導者であるだけではなく、素朴な意味で英雄でなければならないのです。そして指導者でも英雄でもない人は、すべての希望が挫折しても耐えることのできる心の強靭さを、今すぐにそなえなければなりません。それでなければ、今可能であることでさえ、実現できないでしょう。
 現実のうちで貢献しようとしているものと比較して、世界がどれほどに愚かで卑俗にみえたとしてもくじけることのない人、どんな事態に陥っても、「それでもわたしはやる」と断言できる人、そのような人だけが政治への「召命」「天職」をそなえているのです。」(『職業としての政治 職業としての学問』 マックス・ウェーバー 中山元 訳 p152)

 マックスウェーバーは「世界のうちで不可能と思われることに取り組む」事を課した人間、あるいは「すべての希望が挫折しても耐えることのできる心の強靭さを」備えた人間のみが政治家としての条件を備えているのだという。これは、オルテガエリートの資質として挙げた「つねに自分に打ち克ち、みずから課した義務と要請の世界に現実を乗りこえてはいっていく用意のある」人間という事と、ほぼ同義であるだろう。

 面白いのは、彼らが共に強調した価値が、その社会的地位や能力ではなく、その精神性、いやむしろその生きる姿勢そのものについてであるという事だ。おそらく、彼等は共に、人間にとって最も重要であるのは、その能力でも社会的地位でもなく、生き方つまり、真剣に真面目に生きているか?それとも、ふざけて生きているか?であり、この問題こそがその人間の性質を分ける決定的な要因であると感じたのだろう。

 ウィトゲンシュタインは「生きるとは恐ろしいほど真剣なことなのだ」と言った。つまり、この恐ろしい程の真剣さをもって生きているか否か?この点こそが、その人物の価値を決め、高貴な充足した生と、ふざけた生き方を分けるものである。結局のところ、彼等は皆ふざけた連中が本当に心底嫌いなのだ。

 また、ウェーバーはこうも言う

 そしてこうした時代にあって、信条倫理を抱く人が急に増えてきて、次のような言葉を叫ぶとしましょう。「愚かで卑俗なのは世界であって、わたしではない。その結果の責任を負うべきなのは他人であって、わたしではない。わたしはこうした他人のために働いて、世界の愚かしさと卑俗さを根絶するつもりだ」と。こうした人にわたしははっきりと語るでしょう。「わたしとしては、この信条倫理の背後に、どれだけ精神的な重みがあるのかをまず問いたいのである。そして調べてみると一〇人のうち九人までは、自分の負っている責任を実感しておらず、ロマンチックな情緒に酔っているだけのほら吹きだという印象をうけるのだ」と。

つまり、ウェーバーは、見抜いていたのだ。混迷の時代にあって、突如として大義を掲げ、正義を振りかざす多くの人々、そのほとんどが、実際にはその情熱に精神的な重みなどまったくなく、「ロマンチックな情緒に酔っているだけのほら吹き」に過ぎないのだということを。

 オルテガは、エリート(貴族)と大衆の生の在り方についてこのような対比を行う。
 エリートの生の在り方とはすなわち

 なにか卓越したものに奉仕するように生をつくりあげるのでなければ、かれにとっては生は味気ないのである。したがって、奉仕の必要性を一つの圧迫とは思わない。もしも偶然その必要がなくなると、彼は不安を覚え、自分を抑圧するもっと困難でやっかいな規範をつくりだす。これは修行としての生であり―高貴な生である。

であり、他方大衆の生は

 あまりに組織されすぎた世界に生まれ、そのなかで便宜だけを見いだし、危険を感じないタイプの人間は、ふざけて暮らすよりほかに行動出来ない

のである。そして、卓越したものに価値を見いだし、それに奉仕することのできない、ふざけた連中が稀に、何かの思い付きで暇つぶしのように、正義と大義を振り回す。こうして大勢の「ロマンチックな情緒に酔っているだけのほら吹き」が生み出され、時には、このほら吹きどもを束ねる、ほら吹きのリーダーのような人物が表れる。これが、時に知識人であり、政治家であり、宗教家であったりする。彼等には、つねにお決まりの文句が存在する。「でっかく変える」か「ブチ壊す」だ。そして、ふざけて暮らすよりほかない、自分の人生に退屈し切った大衆が、熱烈に彼らを支持する。俺などは、のお決まりのフレーズを聞かされるたびにうんざりさせられるのだが、どうやら、この大衆社会の行き着いた末期のような現代の日本においては、残念ながら、こいつらを見ずに済む事は不可能なようだ。

 どこを見てもたまらなくうんざりさせられる事ばかりであるが、願わくば、自分が、このふざけて暮らすよりほかに行動出来ない大衆に埋もれることなく、自らの価値の軸を見いだし、卓越したものに奉仕する生を送りたい。

官僚の反逆を読んで その2

http://achichiachi.seesaa.net/article/311981708.html

 今回も、『官僚の反逆』を参考にマックス・ウェーバーとオルテガの主張の類似点について取り上げてみたい。

 「大衆」の反対は「エリート」であるが、「エリート」もまた、特定の階層や職業を意味するものではない。オルテガによれば、「エリート」すなわち「選ばれた少数派」とは、「自分に多くを要求し、自分の上に困難と義務を背負いこむ人」のことである。
 エリートは、「自分よりもすぐれた、自分のかなたにある規範にみずから訴えることが必要だと、心底から感ずる性格をもっていて、その規範のために、易々として身を捧げる」のである。そのような自らに厳しい規律を課している人間であれば、寿司職人であろうがプロ野球選手であろうが、「エリート」と呼ぶことができる。反対に、高級官僚であろうと財界の幹部であろうと、「自分になんら特別な要求をしない人」であれば、それは大衆的人間に過ぎないのである。「エリート」と「大衆」というのは、「社会階級の区分ではなく、人間の区分であって、上層、下層の階層秩序とは一致するはずがない」とオルテガは明言している。(『官僚の反逆』p24)

 前回の記事(『『官僚の反逆』(中野剛志 著)を読んで・・・』http://achichiachi.seesaa.net/article/311880941.html)でも触れたが、この世に存在する人間を「大衆的人間」と「エリート」もしくは「貴族」の2つの人間に分類したオルテガは、その二つの存在を分ける要因を、社会的地位や能力、あるいは職業といった区分によって分けることはしなかった。同様の考えは、マックス・ウェーバーの発言からも読みとれる。

 学者が、後々まで残る仕事を成し遂げたという、おそらく生涯に一度だけ、二度とは味わうことのできない深い喜びを感じることができるとすれば、それは自分のごく狭い専門の領域に閉じこもることによってなので。現在ではほんとうの意味で貴重で、決定的な業績というものは、つねに専門家の行った仕事なのです。ですから[競走馬が脇見をしないようにつける]目隠しをみずから身につけて、自分の魂が救われるかどうかはこの写本のこの箇所の解釈が正しいかどうかにかかっていると思い込むことのできない人は、学問とは縁遠い人なのです。そのような人は、最近よく言われる学問という「経験」をすることができない人なのです。これはごく稀な情熱であって、外部の人からは笑うべき熱狂にすぎないと見えるでしょうが、それでも「汝が登場するまでは、何千年もの時間がただすぎたのであり、さらに数千年のときが沈黙したまま待ちうけている」と信じられるかどうかにかかっているのです。ある写本の解釈が正しいかどうかに情熱をかけることのできない人は、学者としての職業には向いていない人であり、もっと別の仕事に携わるべきなのです。人間にとって情熱をかけることのできない仕事は、意味のないものだからです。(『職業としての政治 職業としての学問』 マックス・ウェーバー 中山元 訳 p177)

 オルテガにとって、その人物の携わる仕事が、寿司職人だろうが、プロ野球選手だろうが(もっとも、オルテガの生きていた時代にプロ野球選手はいなかったであろうが)、高級官僚だろうが、財界の幹部であろうが、その職業そのものが、その人間の価値を分けるものではなかった、同様にウェーバーも外部の人から見て、笑うべき熱狂に過ぎない情熱も、多くの人々から尊敬されるような高尚な使命も、その情熱の価値を分けるものとは見なさなかった。彼等にとって、ただ一つ重要であったのは、その人間の持つ真剣さ、あるいは生きる姿勢そのものだったのである。

 これは、いわゆる人類皆平等などといったお気楽なヒューマニズムとは全く違う。お気楽なヒューマニスト同様、彼等にとって、職業に貴賤はなかったかもしれないが、しかし、彼等は、明らかに高貴な人間と、下賤な人間を峻別していた。これは、真剣に生きる人間と、ふざけて暮らすほかない人間の違いと言い換えてもいだろう。

 繰り返すが、彼等は、人類皆平等を唱えるお気楽なヒューマニストとも、社会的な地位の高い連中が容易に陥りがちな鼻持ちならないエリート主義とも違う。むしろ、彼らが課す基準はそれより遥かに高い水準にあった。どれだけの、能力も、富も、社会的地位も、彼等にとって、その人間の価値を保証する事もなければ、規定する事もない。ただただ、ひたすら、自らの成すべき仕事に、尽きることのない情熱を傾け、自らに高い要求と規範を課し、飽くなき向上心と克己心を保ち続ける人間のみを価値ある人間と見なした。

 また、学者でも知識人でもないが、彼らと同じ信念を、音楽家であるベートーベンの発言や振舞いの中にも見いだすことができる。

 ベートーベンは芸術愛好家の間で人気が高く、数人の貴族が、ベートーベンが生活の心配をせずに作曲ができるよう共同で金銭的援助を行っていました。彼が貴族たちに頼っていたという事実は、諸刃の剣でした。一方では、安心して好きな作品を作ることができますが、もう一方では、本心では承服できない階級制度に妥協することになったのです。彼は飼い主の手を噛むような真似はしませんでしたが、彼がピアノを演奏している間もおしゃべりを止めない貴族に対して、苛立ちを露にしたことはありました。彼は椅子から立ち上がり、こう言い放ったと伝えられています。「貴族は大勢いるが、ベートーベンは一人しかいない」(『ザ・シークレットの真実』カレン・ケリ― 著 P206)

 ベートーベンが、何を思ってこのように言ったのかは、俺には分からないし、推測するしかない。しかし、俺が思うに、この言葉は、ただベートーベンが、「自分のように素晴らしい演奏ができる人間はこの世に一人しかいない」という意味で言い放ったのではないのではないかと思う。一つには、ベートーベンの音楽に傾ける情熱、そして、もう一つにはそれを通じて得た、生きることの対する真剣さ、この点においてベートーベンは、自分と、ここでおしゃべりに興じる貴族たちとは決定的に違うのだと感じたのではないか?この本の中では、ベートーベンは階級制度で厳密に分けられていた当時において、世界は平等であるという型破りな考えを持っていたと書いてある。たしかに、ベートーベンは、階級区分で分けられる事はないという意味で、世界は平等であると考えていたのかもしれない、しかし、決して、彼は人類が皆等しく同じ価値をもつとは考えていなかった。だからこそ、「貴族は大勢いるが、ベートーベンは一人しかいない」と言い放ったのだろう。

 彼にとって、彼の演奏中におしゃべりに興じる貴族たちが、「あまりに組織されすぎた世界に生まれ、そのなかで便宜だけを見いだし、危険を感じない」「ふざけて暮らすよりほかに行動出来ない」であると感じたに違いない、コイツ等は、自分とは違う種類の人間なのだと。

 一八一六年、ベートーベンは、病の床についている友人にこんな手紙も送っています。

「これは人間性と同じことだ。苦しみの中にあっても、強さを見せなくてはいけない。おのれの無力さなど知ることも感じることもなく、再び完全な自分に向って手を伸ばせば、価値のある人間になれる」

 一八一〇年に書いた手紙では、神についてこう記しています。

「私には、友は一人もいない。私は一人で生きていかなくてはならない。しかし、神はほかのどの芸術家よりも私の近くにいてくださる。私は恐れることなく神と結びつく。私は、自分の音楽の行く末になんの不安も抱いていない。私の音楽が不遇な運命をたどることはない。これを理解した者は誰でも惨めさから解き放たれる」

 ベートーベンは一八一六年から一八一七年の間に書いた次の記述の中で、自分を信じるためだけでなく、懸命な努力こそが何かを成し遂げるためには必要であることを示唆しています。

「才能の限界はまだ定められていない。今までも、そしてこれからもだ!」

 あまりにも素晴らしい記述であり、解説するのも野暮であるのだが、あえて、ウェーバーとオルテガの主張から、このベートーベンの書いた手紙の意味にそれぞれ解釈を加えてみたい。

「これは人間性と同じことだ。苦しみの中にあっても、強さを見せなくてはいけない。おのれの無力さなど知ることも感じることもなく、再び完全な自分に向って手を伸ばせば、価値のある人間になれる」

 これは、つまりいかなる境遇に、たとえ苦しみの極致にあっても、なおその人間の強さ、活力、あるいは生きる姿勢が、その人間の価値を規定し、あるいは、それのみが価値ある人間を作りだすことを意味する。

「私には、友は一人もいない。私は一人で生きていかなくてはならない。しかし、神はほかのどの芸術家よりも私の近くにいてくださる。私は恐れることなく神と結びつく。私は、自分の音楽の行く末になんの不安も抱いていない。私の音楽が不遇な運命をたどることはない。これを理解した者は誰でも惨めさから解き放たれる」

 ウェーバーは、学者にとって、「自分の魂が救われるかどうかはこの写本のこの箇所の解釈が正しいかどうかにかかっていると思い込むこと」の重要性を説いたが、その意味においてベートーベンは、まさに「自分の魂が救われるかどうかは自分自身の音楽への真摯さと情熱のみにかかっていると思い込むこと」が完全に出来たまさに、稀有な情熱を持った人物であると言える。

「才能の限界はまだ定められていない。今までも、そしてこれからもだ!」

 オルテガは、「つねに自分に打ち克ち、みずから課した義務と要請の世界に現実を乗りこえてはいっていく用意のある」人間を、エリート、もしくは貴族であると定義したが、まさにベートーベンは、この意味においてまぎれもなく貴族であったと言えるだろう。

 
 
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