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ポル・ポトと中国

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年 5月 6日(火)22時54分27秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://marrakech.exblog.jp/7094918

関連記事:ポル・ポトの大虐殺

http://www.cosmos.zaq.jp/t_rex/works/works_8_d.html

ポル・ポト  クメールルージュ   私的勉強ノート
私的な勉強ノートです。 ほとんどWikipediaなどのInternet、本、から引用しています。 内容が誤っていたり偏っていたりするかもしれませんがご了承下さい。

ポル・ポト  Pol Pot
本名 サロット・サル Saloth Sar
1925年5月19日生まれ - 1998年4月15日タイの山岳地帯逃亡中に死去

ポルポトは、カンボジアのコンポントム州で、農家の9人兄弟の8番目として生まれた後、6歳の時、プノンペンの宮廷に勤める兄の家に預けられ、国民のほとんどが農民という当時のカンボジア社会の中では珍しく、都会の空気を吸って育った。1949年に無線工学研究の奨学金を得てパリに留学。 パリ留学中にフランス共産党(Parti Communiste Francais/ PCF)内に形成された、クメール共産主義グループに参加。1953年カンボジアに帰国し、フランス語の教員をしながら地下活動を続け、1960年にベトナム主導のインドシナ共産党から独立したカンボジア共産党(のちのクメールルージュ)を作り、リーダーとなった。

1965年頃には、文化大革命が始まろうとしていた中国に招かれ、毛沢東が農村を重視した社会主義政策を展開し、知識人など都市住民を弾圧していく様子を見た。都市住民を農村へと追い出し、知識人を大量処刑したポルポト氏の政策は、この時に中国から学んだといわれている。

当時、フランスのインドシナ支配に反対する共産主義者主導の反仏運動が起きていた。
カンボジア独立にむけて活動をしていたシアヌーク国王は、その人気を利用し、議席をすべて獲得、反共産主義勢力を一掃した。

1965年にベトナム戦争が始まると、カンボジアは米ソ対立の中で中立を保っていることが難しくなる。 1970年にはアメリカの支援で親米派のロンノル将軍がクーデターを起こし、シアヌーク国王は北京に亡命、「カンプチア民族統一戦線」を結成する。

ポルポトは反政府ゲリラ活動を活発化した。1975年には、アメリカがベトナムから完全撤退するとともに、カンボジアのロンノル政権も崩壊し、クメールルージュが政権をとった。

シアヌークを助けて帰国させたのは、毛沢東主義を心酔するポル・ポト等が指揮する共産主義勢力「クメール・ルージュ」だった。 シアヌークはかつて弾圧したポル・ポト派を嫌っていたが、ポル・ポト派を支持していた中華人民共和国の毛沢東や周恩来、かねてより懇意だった朝鮮民主主義人民共和国の金日成らの説得により彼らと手を結ぶことになり、1975年には平壌から帰国し、農村部を中心にクメール・ルージュの支持者を増やすことに貢献した。 一方、王制を始めとする封建体制の徹底破壊を目指すポルポトは、シアヌークを幽閉、実験を握った。

クメール・ルージュは遂にカンボジア全土を制圧し、ロン・ノル政権は崩壊、ポル・ポト派はシアヌークを国家元首とする共産主義国家「民主カンプチア」の成立を宣言した。表向きは元の地位に返り咲いたかに見えたシアヌークだったが、実態は何ら権限を与えられず、クメール・ルージュがお膳立てした地方視察(そこでシアヌークは変わり果てた祖国の姿を目の当たりにする)以外はプノンペンの王宮に幽閉同然の身となった。同居を許されたのは第6夫人のモニク妃と2人の間に生まれた2人の王子(シハモニ、ナリンドラポン)及び僅かな側近、従者だけであった。他の家族のうち、国内に残っていた者は地方に追放され、その結果、5人の子供と14人の孫が虐殺された。当初は、シアヌーク自身も殺されそうになったものの中国政府が政治的理由からポル・ポトらに圧力をかけたために殺されずに済んだ。しかし、王宮内でもポル・ポト信奉者と化したナリンドラポンが両親を非難し続け、シアヌークは「いつ殺されるか」という強迫感も相まって、精神的に追い詰められていった。

首相となったポルポト氏はこの直後から、かねて考えていた祖国の農村共産主義化を急速に進めた。ポルポト氏が目指したのは「人間の改造」だったとされる。腐敗しがちな従来の人間を「労働」によって改造することで、共産主義にふさわしい存在に変え、豊かな社会を作る、という考え方だったのではないか。最初からただ多くの人々を殺そうと思っていたわけではないはずだ。都市住民は、植民地時代からの支配構造の上に乗っている社会の寄生虫であるとして、全員を農村に強制移住させた。ポル・ポト政権は、「腐ったリンゴは、箱ごと捨てなくてはならない」と唱えて、政治的反対者を弾圧した。医者、教師、技術者などは、ブルジョア思想を持っているとして弾圧した。眼鏡をかけているだけで知識人とされ、手がきれい(労働階級ではない)という理由だけで処刑された人もいる。また、通貨や、町々にあった市場を廃止し、企業もすべてつぶされた。休日はなくなり、余暇の音楽や映画、それから恋愛も禁止された。人々に許されたのはただ、毎日朝から晩まで農作業や機械を使わない土木工事にたずさわり、働くことだけだった。
又、ポル・ポトが「完全な兵士」として賞賛した地雷は、地方に広く埋設された。

クメール・ルージュの増長の背景には、親米路線・資本主義への反発、冷戦下における中国共産党の支援、ベトナム人への長い服従への反感。 クメール・ルージュのイデオロギーは、反植民地主義と、毛沢東思想の極端な形式を組み合わせたもの、つまり原始共産制である。党中央が毛沢東思想に染まっていく上では中国共産党の康生の薫陶によるところが大きく、康生はポル・ポトをして「毛沢東思想のもっとも忠実な実践者」と賞賛した。 「革命の恩恵は農村の労働者に与えられるべき」「階級が消滅した完全な共産主義社会を目指す」 クメール・ルージュの秘密警察である「サンテバル」は、知識人、伝統文化継承者、教師などを、「反革命的な者」と見なして次々と殺害した。 1977年の毛沢東の死によってクメール・ルージュ党中央は、中国からの援助が止まるのではないかと危機感を募らせ、それと共に反革命分子の詮索も苛烈の度を増していった。

「革命が成功したのに飢餓が進むのは誰か反革命分子が居るからに違いない」という、ポル・ポトを初めとする党中央の被害妄想に、現場の看守は残虐行為で応えた。囚人達はいわゆる拘禁反応によって、看守達が欲している答え(「わたしはアメリカ帝国主義の手先でした」「わたしはベトナムのスパイでした」)を言い、その対価として拷問の責め苦からの解放(=処刑)を得た。

尋問中の保安規則

1. 質問された事にそのまま答えよ。話をそらしてはならない。
2. 何かと口実を作って事実を隠蔽してはならない。尋問係を試す事は固く禁じる。
3. 革命に亀裂をもたらし頓挫させようとするのは愚か者である。そのようになってはならない。
4. 質問に対し問い返すなどして時間稼ぎをしてはならない。
5. 自分の不道徳や革命論など語ってはならない。
6. 電流を受けている間は一切叫ばないこと。
7. 何もせず、静かに座って命令を待て。何も命令がなければ静かにしていろ。何か命令を受けたら、何も言わずにすぐにやれ。
8. 自分の本当の素性を隠すためにベトナム系移民を口実に使うな。
9. これらの規則が守れなければ何度でも何度でも電流を与える。
10. これらの規則を破った場合には10回の電流か5回の電気ショックを与える。

S21(エス21)は、クメール・ルージュ(カンボジア共産党)支配下のカンボジア(民主カンボジア)において設けられていた政治犯収容所の暗号名である。稼働中は存在そのものが秘密であったため、公式名称は無い。現在は地名を取って「トゥール・スレン」と呼ばれており、国立の「トゥール・スレン虐殺博物館」となっている。2年9ヶ月の間に14,000~20,000人が収容されたと言われ、そのうち生還できたのは8名(現在身元が分かっているのは7名)のみであった(これまでは7人とされていたが、2007年、別の刑務所に移送されたため生き残った女性一名が名乗り出た)。 拷問が激化するのと、S21が「生きては出られぬ収容所」となったのは軌を一にしているが、「一度収容された囚人は有罪と決まっている→拷問し処刑する →S21の拷問と虐殺の実態が外部に漏れぬようにするため、ますます囚人を何が何でも有罪にして処刑しなければならない→さらに拷問が激化する」と言う悪循環に陥っていた点では、ナチスドイツの強制収容所などと通底するものがある。 囚人は処刑される前に、「反革命分子の仲間」を出来るだけ多く列挙するよう強要されたが、こうすることでS21は処刑すべき「反革命分子」に事欠くことが無かった。むしろその数は指数関数的に増えて行き、やがてはクメール・ルージュ自体の幹部も告発を受けて処刑されるようになる。ソン・センのように党中央のメンバーでさえ、逮捕には至らないが疑惑を向けられることはあったと言う。中央政府から地方組織や各事業所に至るまで、幹部の多くが処刑された事によってクメール・ルージュは弱体化していく。

ポル・ポト政権下での内戦およびベトナム軍の侵攻による死傷者数は議論されている。ベトナムが支援するヘン・サムリン政権は1975年から1979年の間の死者数を300万とした。ポンチャウド神父は230万とするが、これはクメール・ルージュが政権奪取する以前の死者を含む。イェール大学・カンボジア人大量虐殺プロジェクトは170万、アムネスティ・インターナショナルは140万、アメリカ国務省は120万と概算した。 キュー・サムファンおよびポル・ポトは当事者による過小評価であるが、100万と80万をそれぞれ概算した。

1977 年に入ると、ポル・ポト政権はベトナムへ越境攻撃を仕掛けるようになった。 1977 年末、ベトナム軍は国道沿いにカンボジア領内に進駐し、ポル・ポト政権に警告を与えた。党中央は東部管区に「敵」がいるために、ベトナム軍の侵攻が成功を収めたのだと考え、 1978 年 3 ~ 4 月には東部管区の幹部の粛清に着手した。 東部管区の粛清で特徴的なのは、軍司令官等のみならず、一般住民も潜在的な対ベトナム協力者と見なされたことである。 1978 年後半には、党中央の信頼が厚い中央管区軍が、東部各地で住民を虐殺した。その犠牲者数は数万~ 10 万人に達したと推計されている。さらに、東部住民であったことが一目瞭然となる衣類(青のクロマー)を支給した上で、北西部に強制移動させた。1978年には数年間の国境紛争およびベトナムへの大量の難民流入の結果、カンボジアとベトナムの関係は戦争寸前と言うところまで悪化していた。クメール・ルージュは同年の4月にベトナムに侵入し、バ・チューク村の住民のほとんどを虐殺していた(村民3,157名のうち生き残ったものは僅か2名)。アメリカ軍を追い出すことに成功しており、自国の軍事力に自信を持っていたベトナムはこの事件を契機に本気でクメール・ルージュ打倒に向かって動き出す。

伝統的に、カンボジア人の間では、東南アジアの覇権を握ろうとするベトナムに対する反感が強い。それはイデオロギーに関係なく、内戦中はロン・ノル政権、クメール・ルージュ双方が国内のベトナム人を迫害した。権力を掌握したポル・ポトたちは、東部国境でベトナムへの越境攻撃を繰り返し、現地住民を虐殺した。これがベトナムの侵攻を招く要因になる。

クメールルージュが政権の座にあったのは、1975年から79年までの、わずか5年間だった。目茶苦茶な政策によって国内が疲弊し、隣国ベトナムの軍事進攻を招くことになった。1979年1月7日、ベトナム軍はプノンペンを制圧したが、クメール・ルージュは全員撤退・逃亡した後だった。翌日、ベトナム人の従軍記者が異臭に気づき、この施設を発見した。ベトナムがカンボジアに傀儡のヘン・サムリン政権を擁立するにあたり、この収容所跡はベトナム側の政治宣伝(“ポル・ポトからカンボジアを救ったのはベトナムである”)として利用される事になり、わずか数日で外国のプレスに公開された。その年の内には、クメール・ルージュの残虐行為を展示する博物館が急遽設置された。 ベトナムは、粛清を避けてベトナムへ逃れた元クメール・ルージュ構成員から成るヘン・サムリン傀儡政権(カンボジア人民共和国)を成立させた。このことは東部カンボジアでのクメール・ルージュ構成員の広範囲な離脱につながった。離脱者の大部分はもし離脱しなければ告発されるという恐れによって動機づけられた。

ソ連に敵対したポル・ポトはタイおよびアメリカから直接的、間接的に支援された。ベトナム戦争の不安定化、特に「ベトナムの聖域を浄化する」アメリカ軍のカンボジア爆撃がなければクメール・ルージュが政権を獲ることもなかったであろうという議論もある(ウィリアム・シャウクロスの1979年の著書『Sideshow』がこの点に触れている)。 冷戦時代、反ベトナム・反ソ連をかかげるアメリカ・中国、そしてインドシナにおけるアメリカの代理役だったタイにとって、クメールルージュは重要な「仲間」だった。 カンボジア侵攻に関してソ連は一貫してベトナムを支持し中国は一貫してカンボジア(クメール・ルージュ)を支援していた。カンボジアを占領しクメール・ルージュを追放したベトナムを中国は激しく非難した。最終的にこの対立は中越戦争で火を噴くこととなる。 プノンペンに置かれた親ベトナム政権に対し、クメールルージュは敵対するかたちでカンボジア西部を支配していた。アメリカと中華人民共和国は、ヘン・サムリン政権のカンボジア代表の国連総会への出席を拒否した。

だが1989年ベトナム軍がカンボジアから撤退し、1990年に冷戦が終わり、アメリカがベトナムと仲直りすることを決めると、クメールルージュは「用済み」になってしまった。 クメールルージュは、アメリカの支援を受けやすくするために、「もはや共産主義を信奉していない」と表明したりした。こうした状態は、冷戦が終わる1990年代まで続いた。アメリカ政府の政府要人は、個人的にはクメールルージュの虐殺行為を嫌悪しながら、政府としては虐殺を無視するかたちでテコ入れしていた、とされている。

クメールルージュは政府側のフンセン派とラナリット派に寝返る幹部が多くなった。組織を挙げて政府側と交渉し、生き残りをはかろう、という意見も出始めた。こうした動きに、指導者だったポルポト氏は猛反発し、1997年政府との交渉を主張する腹心の一人とその一族郎党を全員、見せしめのために処刑してしまった。これには、組織内から批判の声があがり、ナンバーツーだったタ・モク氏が組織内クーデターを起こした。ポルポト氏は逮捕され、形だけの裁判を経て、軟禁状態に置かれた。 1998年の4月にタ・モクは新政府軍の攻撃から逃れて密林地帯にポル・ポトを連れて行った。

1998年4月15日にポル・ポトは心臓発作で死んだとされる。しかし遺体の爪が変色していたことから、毒殺もしくは服毒自殺のいずれかが死因と見られている。遺体は古タイヤと一緒に焼かれた後に埋められ、墓は立てられなかった。しかし、ポル・ポトを慕う近隣の住民たちが自主的に墓を建てて、現在も線香の煙が絶えないという。

ポルポト氏は73歳と高齢だった上、心臓が悪かった。だが一方で、ポルポト氏にこれ以上生き長らえてもらっては困る、と思っていた関係者が多いのも確かだ。それは、クメールルージュの「共犯者」だったにもかかわらず、共犯者の烙印を押されずにすんでいる人々である。その中には、タイの軍隊や中国政府までが含まれている。タイ軍は、クメールルージュが伐採した木材や採掘した宝石類を、安く買っていた。中国は大量の武器をカンボジアで売りさばいていた。ポルポト氏をジャングルの中から引っ張り出し、世界のマスコミが注目する中で、自分たちが何をしてきたか喋らせよう、と考える人々がいた。アメリカ政府である。

今、欧米では、大量虐殺やひどい人権侵害など「人類規模の犯罪」を犯した元権力者たちを裁く国際法廷を作る計画が進んでいる。ヒットラーや日本軍幹部を裁いた、かつての国際軍事法廷を、強化して機能させよう、という動きだ。この国際法廷ができれば、これまでは「内政干渉だ」と拒絶された「人権外交」を進めやすくなる、というメリットが欧米にある。アメリカは、ポルポト氏をこの法廷の被告第1号になってもらおう、と考えた。

そんなことが実現すれば、ポルポト氏がどんな恐ろしい秘密を暴露するか、分かったものではないと、かつての「仲間たち」は考えただろう。4月9日、アメリカがポルポトを捕まえて国際法廷にかける方針が報じられてから1週間もたたないうちに、ポルポト氏は死んでしまった。

自然死にしては、あまりにタイミングが良すぎるのである。
 
 
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