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ハスモン朝

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年 5月 8日(木)13時43分4秒
  通報 返信・引用 編集済
 
『ユダヤ人の起源』では、イエメンの地にローマ時代後期に存在したユダヤ教王国についての言及があります。これも、一見妙な感じがしますが、アシール地方がユダヤ人の故地であるのならば、イエメンでもその影響が強く残っていて当然です。さらにもう一点、明らかに飛躍しすぎとは思うのですが、どうしても気になる事実があります。

エホバ(ヤハウエ神)は元来アシール地方の火山神と目されています。日本には八重山がありますね。

上記参考記事.....

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/610.html

学校の先生が国を滅ぼす

http://www.ican.zaq.ne.jp/rekishi/book_kyouiku02.html

管理人注:大学を選ぶポイントは学びたい科目にぴったりの先生がいるかどうかでしょう。哲学を目指して東大を中退して西田幾多郎のいた京都大学を目指した学生がいたように。これはなかなか気がつきません。でも今は統一教会の教授で汚染されていますのでいわゆる一流大学は避けたほうがいいでしょう。理想は中学卒業して仕事をすることです。斎藤ひとりさんみたいに納税額連続一位になるためには。ロスチャイルド家の創業者アンセルムもそうでしたね。13歳で父親を失ったという事情もあったのですがロスチャイルド家は誰ひとり大学なんかに行っていませんよ。父親が極意を教えるのです。クローン人間みたいな服装をした大学生が就職活動をしている姿は涙を誘います。毎日社歌・社是を強制される会社に入って何が楽しいのでしょうか?そこは自分の信念・哲学が一瞬にして壊されるところなのです。

ハスモン朝より

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%B9%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%9C%9D

関連記事:高校生のための歴史......こういうことを教えてくれる先生は教師の鏡です.......それは何にでも疑問を持ち考える習慣を身につけさせるということです。つまり暗記型ではなく思考型の人間を創りだすということでこれからの日本にとって大切なことです。そして試験問題は前もって教え論文形式をとることです。教師は『歴史は勝者の歴史であって嘘の歴史である。しかし大学入試はその嘘の歴史なのでそれはそれとして学ぶ必要がある』くらい言わなくてはダメですよ。せめて大学の教師は本物の歴史を教えろ....と言っても無邪気な先生が圧倒的なのでテキトウに大学なんて卒業しましょう。

http://www.ican.zaq.ne.jp/rekishi/episode11.html

現在のイスラエルの建国されたパレスチナの地をいくら発掘しても古代イスラエル王国の痕跡は、ほとんど見いだせないという。無理にこじつけているのはあっても、決定的な遺跡は出てこないという。
 ヘブライ語は、子音のみで表記されていた。実際の読みは、母音を入れて表現されているので、正しい発音は復元しにくかったり、変化するのでもともと古代の地名の復元はむずかしいという。
 そのこともあり、前500年頃には、アシュール地方のユダヤ人達は、衰退の中で、民族意識もその歴史も失いつつあり、田舎生活者となりはててしまった。
 なぜ、このようなことが起こってしまったのか。アシール地方は、大変豊かな土地で、古代イスラエル王国の二代国王ダビデ、三代国王ソロモンの時代に大変繁栄したが、その後、ユダ王国とイスラエル王国に分裂し、さらに、アッシリア帝国や新バビロニア王国の度重なる侵略をうけ、大変疲弊してしまう。そのために、アシール地方のユダヤ人たちは、当時の交易路でつながれていたパレスチナ地方に新天地を求めて多数移住していった。そして、移住したユダヤ人たちが、アシュール地方の出身地名をパレスチナ地方の移住地につけていった。
 江戸幕府のある東京に、日本各地の地名がある。豊臣秀吉の城下町大阪にも日本各地の地名がある。古くは、太宰府のあった福岡にも、日本各地の地名が残っている。このようなことは、ほかにもあるので不思議なことではない。
 パレスチナ地方には、聖書に書かれてある地名の場所が、確かにあることが多い。しかし、その位置関係になると、聖書に記述に一致しないことが多いという。ところが、このアシュール地方に当てはめると、聖書に書かれている位置関係が、合理的に考えて一致するという。たとえば、ソロモン王がヤハウェ神の神殿をつくったエルサレムであるが、アシール地方の「アール・シャリーム」が本来のエルサレムであるという。ただ、言語の変化があるので、古代のアラビア半島や古代ヘブライ語の知識が必要であることは言うまでもない。
 また、聖書に書かれているオリーブ、イチジクなど植物や、気候自然の風景までも、パレスチナ地方ではなく、アシール地方の説明とする方が、合理的であり、記述に一致するという。
  聖書には
「処女であるシオンの娘は、
あなた(アッシリア王センナケリブ〔前704~前681〕)を侮り、あなたをあざける。
エルサレムの娘は、あなたのうしろで頭を振る。
ユダの家の、のがれて残る者はエルサレムから出、
のがれる者はシオンの山から出る。
万軍の主の熱心がこれをなし遂げられる。」
(イザヤ書37章22節、31~32節、列王紀下19章21、30、31節)

とある、ソロモン王の神殿があるエルサレムのシオンの丘(アシュール地方)と新しいエルサレムとシオン(パレスチナ地方)を区別している。パレスチナ地方のエルサレムを「エルサレムの娘」、シオンを「シオンの娘」と表現しているのではないか。

 アッシリアにより、前722年北王国のイスラエル王国は滅ぼされ、首都サマリアも徹底的に破壊され尽くされた。イスラエル王国の民もアッシリアに連れて行かれた。そして、前586年南王国のユダ王国も、新バビロニアに滅ぼされて、民は「バビロン捕囚」によって、バビロニアに連れ去られた。首都エルサレムのヤハウェ神殿も徹底的に破壊された。
 アケメネス朝ペルシアによって新バビロニアが滅ぼされ、オリエントが統一されると、南王国のユダヤ民族は、前586年「バビロン捕囚」より解放され、祖国(アシュール地方)に帰ることになる。
 ところが、アケメネス朝ペルシアによる、オリエントの統一は、交易路の変化をもたらし、交易の拠点として栄えていたアシュール地方の諸都市は、交易路から外れ、衰退していった。アシュール地方に帰還した、ユダヤ人たちは、あまりの荒廃と衰退に祖国の再建をあきらめて四散したと想像される。一方、パレスチナ地方に根付いていたユダヤ民族は、アケメネス朝ペルシアの支配下で信仰の自由をえて、交易の一大拠点としてさらに発展することとなる。パレスチナ地方のユダヤ民族及び周辺の民族も大い繁栄することとなる。
 アケメネス朝ペルシアは、アレキサンダー大王に征服される。大王の死後、パレスチナは、セレウコス朝シリアの支配下におかれる。前141年ハスモン朝の下にユダヤ国家が独立を果たすが、このころパレスチナのエルサレムの神殿は、ユダヤ教徒にとって第一の聖所と認識されていたようである。 前63年にローマに滅ぼされるまでハスモン朝はつづく。ハスモン家はユダヤ教の祭司の家系であり、自ら古代イスラエルの正当な後継者であるとみなしていた。
 この王朝によって故意に、アシール地方の歴史が抹殺されパレスチナ地方にダビデ・ソロモンの王国があったと解釈されるようにされたのではないかと想像される。

 現在1947年に再建されたイスラエル国は、ユダヤ民族の遠祖アブラハム、及びモーセにユダヤ民族に与えると約束され土地に2600年の空白を経て建国されたということではあるか、アシュール地方が「約束の地」であるとすれば、建国の前提が崩れることとなる。この説が正しいかどうかはやがてアシュール地方の発掘される時が来れば明らかになるであろう。
(「聖書アラビア起源説」カマール・サリービー著 広河隆一、矢島三枝子訳 草思社 1988年 による)

参考記事:キリスト誕生前のハスモン朝

http://yosaburo.web.fc2.com/coin/judaya/hasumon.html

ハスモン朝のシモン

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A2%E3%83%B3_%28%E3%83%8F%E3%82%B9%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%9C%9D%29

ハスモン朝のヨナタン

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8A%E3%82%BF%E3%83%B3_%28%E3%83%8F%E3%82%B9%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%9C%9D%29

ものみの塔の記述.....ハスモン家とその遺物

http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/2001446

竹下雅敏氏の宗教講座

http://shanti-phula.net/ja/video/blog/?p=5778&utm_medium=youtube&pk_kwd=video-id-5778

管理人注:聖書アラビア起源説に触れれば評価できるのですが....



公開日: 2012/12/16

竹下雅敏氏・講演映像の試聴編です。
本編(1時間以上)はWebサイト http://p2525.com/yt/5778 で配信中。

<映像の見出し>
1.ハスモン朝の成立と滅亡
2.ヘロデ朝の成立
3.ハスモン朝~ヘロデ朝について別の資料より
4.ヘロデ王によるハスモン血統の根絶

(内容の一部紹介)
『 今日から新訳聖書を進めたいと思います。
新訳のイエスが出てくる前、紀元前167年頃、ユダヤの独立戦争が起こってユダヤが政?治的に独立していくわけです。
そしてハスモン朝が起こります。
ハスモン朝が短期間に滅亡するのですが、その内乱に乗じて王位を乗っ取ったのがヘロデ?大王。
今日はハスモン朝とヘロデ朝についてお話ししたいと思います。
(中略) 「小説「聖書」新約篇」(ウォルター・ワンゲリン著、徳間書店)。
聖書を読んでも時間軸にそって書かれていないので良く分からないのですが、この本は時?系列に沿って物語にし、当時の政治情勢も書いてあるので、非常に読みやすくていい本で?す。
この本を読むとキリスト教の信仰を持っている人はこういう世界観をもっているのだとい?うことが良く分かります。
ここからヘロデのところを見てみたいと思います。


本編・映像のさらに詳しい内容はこちらでご覧いただけます
http://p2525.com/yt/5778

配信元 シャンティ フーラ
http://shanti-phula.net/

ヘロデ大王とヘロデ朝

http://www.gregorius.jp/presentation/page_82.html

『新約聖書『マタイによる福音書』二章には、「ヘロデ王」が新たな王(救世主イエス・キリスト)の誕生を恐れて二歳以下の幼児を虐殺させたという記述があります。この「幼児虐殺」の伝承は、紀元前07年にヘロデ大王がハスモン朝の血を引く二人の息子を処刑した事件に対応するという見解があります』

ヘロデの呪い その1

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/607.html

ヘロデの呪い その2

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/608.html

ヘロデの呪い その3

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/609.html

ヘロデの呪い.....暴かれたユダヤ古写本(22章まであります)

http://www.asyura2.com/07/revival2/msg/165.html

ヘロデの呪いの本はlaurence DH Laurence と Awad Khouryによって書かれたが

Khoury本人がフリーメーソン33位階でありヘロデはこじつけのようだ

http://www.asyura2.com/2002/war11/msg/662.html

ヘロデ王をWikiでは....

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AD%E3%83%87%E5%A4%A7%E7%8E%8B

『王位についたヘロデが徹底したことは前政権ハスモン朝の血をひくものをすべて抹殺することであった。

紀元前37年、最後のハスモン王アンティゴノスをローマ人によって処刑させた。
紀元前36年頃、妻マリアムネ1世の弟アリストブロス3世を暗殺。
紀元前29年、妻マリアムネ1世を処刑。
紀元前28年、彼女の母であるアレクサンドラを処刑。
紀元前7年、ヘロデとマリアムネ1世との間に生まれた自分の二人の王子アリストブロス4世とアレクサンドロスを処刑』

以下はWikiより(ハスモン朝)

ハスモン朝(ヘブライ語: ?????????、英語: Hasmonean )とは、紀元前140年頃から紀元前37年までユダヤ(イスラエル)の独立を維持して統治したユダヤ人王朝。紀元前166年に起きたユダ・マカバイ(マカベウス)によるセレウコス朝軍への決起から20年後に成立。フラウィウス・ヨセフスによればハスモンという名は一族の先祖、祭司マタティアの祖父の名前に由来しているといわれている。

目次

1 ハスモン朝の歴史
1.1 起源(マタティアス、ユダ、ヨナタン)
1.2 権威の確立(シモン)
1.3 混乱と内紛
1.4 その後のハスモン家
2 歴代指導者の一覧
3 脚注
4 関連項目

ハスモン朝の歴史
起源(マタティアス、ユダ、ヨナタン)

ハスモン朝の起こりについてはフラウィウス・ヨセフスの著作および旧約聖書の外典(第二正典)である「マカバイ記」1・2に詳しい。マカバイ記は七十人訳聖書に含まれていたため、カトリック教会と正教会によって旧約聖書の一書として受け入れられたが、ヤムニア会議以降のユダヤ教とプロテスタント諸派はこれを正典として受け入れなかった。

マカバイ記の記述によれば、セレウコス朝シリアの王アンティオコス4世エピファネスはエルサレム神殿において異教の神への捧げ物と祭儀を行って、これを冒涜したため、紀元前167年にモディンという村の祭司マタティアとその息子たち(ヨハネ、シモン、ユダ、エレアザル、ヨナタン)がシリアの役人を殺害して荒れ野に逃れ、抗戦を呼びかけた[1]。
ユダ・マカバイの勝利、ギュスターブ・ドレ画

管理人注:マカバイ記1と2はユダヤ教とプロテスタントが除外

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8

ただしカトリックでは第二正典として扱われている

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%83%90%E3%82%A4%E8%A8%98

では第二正典とは

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AD%A3%E5%85%B8

第二正典(だいにせいてん)とは、旧約聖書の中でカトリック・正教会は正典とするが、プロテスタントでは正典とせず外典や偽典として扱われている書物のこと。聖公会は正典と同格の文書として受け容れるが、教義の源泉とすることは禁じている。

旧約外典とは

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%85%B8

聖書ものがたり・APOCRYPHA(外典)

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/124.html

紀元前166年にマタティアが死ぬと、息子でマカバイと呼ばれたユダ(ユダ・マカベウス)がそのあとを次いで軍事蜂起を行ってシリア軍を排除し、紀元前164年のキスレウの月(12月)の25日に聖所を清めた[2]。今も行われるユダヤ人の祭りハヌカはこのユダが聖所を清めた出来事を記念している。シリア軍は依然としてエルサレムの要塞に拠っていた。シリアで将軍リュシアスが実権を握ると、エルサレムに大攻勢をかけ、ユダたちは窮地に陥った。しかしセレウコス朝内での権力闘争が起こったため、リュシアスはユダたちと和解し、ユダヤに対するシリアの主権を認めることとひきかえに、ユダヤ人の宗教的自由を完全に認めるという協定が結ばれた。

その後、シリアによって任命された大祭司アルキモスにユダたちが叛旗を翻したことで、再びシリアとの間に軍事衝突を引き起こした。ユダはその争いの中で紀元前160年に戦死した。ユダの戦死後、指導者となった兄弟のヨナタンはシリアの王との戦闘の末に講和を結び、大祭司としての地位を承認された。正統な祭司の家系に属さない人物が大祭司になったことに衝撃を受けた敬虔派の人々はハスモン家と距離をとるようになっていく。

権威の確立(シモン)

紀元前142年にヨナタンが敵将トリュフォンの手に落ちて殺害される[3]と、兄弟のシモンがヨナタンの後をついで大祭司となった。シモンは兄の立場を継承して軍事的指導者にして大祭司という立場に収まった。シモンの時代にユダヤ人はエルサレムに駐留するシリア軍を撃退し、撤退させたことで、シリアから政治的独立を認められた[4]。ハスモン家の祭司としての正当性に疑問を持つユダヤ人たちも少なくなかったが、ハスモン一族の政治的実績の前に、多くの人々が「忠実な預言者の出現するまでは、シモンを彼ら(ユダヤ人)の指導者、大祭司とするのをよしとした」(マカバイ記1 14:41)

こうして紀元前142年から紀元前135年にかけてのシモンの時代にユダヤはシリアからの事実上の独立を勝ち取ることに成功した。シモンは共和政ローマに使者を送って権威の承認を求めた。元老院はこれに応じて、シモンの政権を承認した。(マカバイ記1 15:19)が、紀元前135年2月、シモンは娘婿であったプトレマイオスに不意をつかれて殺害された。
混乱と内紛

シモンは二人の息子マタティアとユダと共に殺害されたため、三男のヨハネ・ヒルカノス1世が後を継いだ。ヒルカヌスの治世は紀元前135年から紀元前104年まで及んだ。ヒルカノス1世は傭兵を用いてサマリアやかつてエドムと呼ばれたイドマヤにまで支配権を及ぼすことに成功した[5]。ハスモン朝の世襲体制に対して当初ハスモン一族の対シリア戦争に対して協力的だったユダヤ教の敬虔派などは批判に転じるようになった。このころ、敬虔派の中から律法への忠実さを特色とするファリサイ派が発生してくる。ヒルカノスはファリサイ派でなく、サドカイ派と接近し、統治体制に組み込むことで、ユダヤ教の指導層をつなぎとめようとした。

ヒルカノス1世の死後は、遺志によってその妻が息子アリストブロス1世を大祭司にたてる形でユダヤを統治した。しかし実権のない大祭司の地位が不満だったアリストブロス1世は母親と兄弟を獄に投じて母を獄死に追い込み、政教両面の指導者の地位を手にした。彼は「大祭司」にして「王」の称号を持つというユダヤ的神権政治を具現した初めての人物となった。それもつかの間、一年たらずあとの紀元前103年にアリストブロス1世は苦痛の中で病死した。

アリストブロス1世の後はアレクサンドロス・ヤンナイオスというギリシャ風の名前を名乗った弟のヨナタンが後を継いだ。彼は2人の弟と共に獄中にあったが、アリストブロス1世の未亡人サロメ・アレクサンドラによって釈放され、彼女と結婚することで王位につくことが出来た。アレクサンドロスは紀元前103年から紀元前76年まで統治し、遠征先のラガバ要塞の包囲中に死去した。もともとユダヤ民衆はハスモン朝に対して冷ややかであったが、ヤンナイオスは反対者に対して極刑で望んだため、その恐怖政治にハスモン朝に対するユダヤ人の反感がさらに高まった。

アレクサンドロスの後は妻サロメ・アレクサンドラ(在位:紀元前76年 - 紀元前67年)、さらに息子アリストブロス2世(在位:紀元前67年 - 紀元前63年)によって継承された。本来は大祭司であった兄のヨハネ・ヒルカノス2世が王位をついでいたのだが、弟のアリストブロス2世が武力によってこれを奪取したのである。この兄弟の争いがハスモン朝時代の終わりを早めることになる。

いったんは王位を追われ、大祭司職も剥奪されたヒルカノス2世はイドマヤ人の武将のアンティパトロスの支援によって体制を建て直し、エルサレムに迫ってアリストブロス2世との決戦を迫った。しかし、中東へ進出し、セレウコス朝を倒したグナエウス・ポンペイウスとローマ軍がユダヤに到来したため、両勢力は競ってこれに接近した。ポンペイウスは有能なアリストブロス2世を危険視し、無能なヒルカノス2世が傀儡にふさわしいと判断、アリストブロス2世をローマへ連行し、ヒルカノス2世を大祭司に復職させた。
その後のハスモン家

ローマの影響力の前にハスモン朝支配はすでに名前だけのものになっていたが、ヒルカノス2世はそのローマの後ろ盾によってなんとか王位についていることができた(在位:紀元前63年 - 紀元前40年)。しかし、ヒルカノス2世は、そのころ東方から進出してきたパルティアと結んだアリストブロス2世の遺児アンティゴノスによって捕らえられ、王位を奪われた。

アンティゴノスはパルティアの支援によって、父の仇を討って王と大祭司の地位を手にいれることに成功した。紀元前40年から紀元前37年まで在位したアンティゴノスは大祭司にして王というユダヤの二大称号を保持した最後の人物となった。

アンティパトロスの息子ヘロデ(ヘロデ大王)もアンティゴノスに命を狙われたが、辛くもその手を逃れ、ローマに渡ってその支持を得ることに成功、ユダヤ王として承認された。マルクス・アントニウスが率いたローマ軍と共にユダヤに戻ったヘロデはパルティア軍を追い払い、後ろ盾を失ったアンティゴノスを破って紀元前37年に名実共にユダヤの王となった。ローマ軍の捕虜となったアンティゴノスは斬首されてハスモン朝は滅亡、ヘロデ朝が成立した。
歴代指導者の一覧

紀元前167年~166年 マタティア モディンの祭司、反乱を開始
紀元前166年~160年 ユダ・マカバイ(マカベウス、マカベオス) マタティアの息子
紀元前160年~142年 ヨナタン(大祭司) ユダの兄弟、初めて大祭司の称号を得る。
紀元前142年~135年 シモン(大祭司) ユダの兄弟
紀元前135年~104年 ヨハネ・ヒルカノス1世(大祭司)シモンの息子
紀元前104年~103年 アリストブロス1世(大祭司、王)ヒルカノス1世の息子、初めて王を名乗る。
紀元前103年~76年 アレクサンドロス・ヤンナイオス(大祭司、王) アリストブロス1世の弟
紀元前76年~67年 サロメ・アレクサンドラ アレクサンドロスの妻
紀元前67年~63年 アリストブロス2世(大祭司、王) アレクサンドロスの息子
紀元前63年~40年 ヨハネ・ヒルカノス2世(大祭司、王) アレクサンドロスの息子
紀元前40年~37年 アンティゴノス(大祭司、王) アリストブロス2世の息子、ハスモン朝の終焉。

脚注

^ フラウィウス・ヨセフス、秦剛平・訳 『ユダヤ戦記 I』 ちくま学芸文庫、2002年、P.031。
^ フラウィウス・ヨセフス、秦剛平・訳 『ユダヤ戦記 I』 ちくま学芸文庫、2002年、P.032。
^ フラウィウス・ヨセフス、秦剛平・訳 『ユダヤ戦記 I』 ちくま学芸文庫、2002年、P.035。
^ フラウィウス・ヨセフス、秦剛平・訳 『ユダヤ戦記 I』 ちくま学芸文庫、2002年、P.036。
^ フラウィウス・ヨセフス、秦剛平・訳 『ユダヤ戦記 I』 ちくま学芸文庫、2002年、P.040。............以上一部編集・.転載おわり

ハスモン朝

マカベア戦争でセレウコス朝から独立したユダヤ人国家。前166~前37年。

http://www.y-history.net/appendix/wh0102-106_2_1.html

アシュケナジーとスファラディー

http://www.ican.zaq.ne.jp/rekishi/episode27.html

『7世紀にイスラム教徒の侵略を受けたパレスチナに残ったアブラハムの子孫の民の血統のユダヤ人は、イスラム教に改宗した。現在のイスラム教徒のパレスチナ人こそ、血統のユダヤ人であることがわかっている』

『エルサレムのどこを掘ってもダビデ、ソロモン王の遺跡が見つからないとなると、「聖書アラビア起源説」が信憑性をおびてくる。アラビア半島のアシール地方が古代ヘブライ王国の故地であるとするならば、パレスティナ人自体も、血統のユダヤ人ではなく、改宗ユダヤ人の可能性がでてくる。 (「ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたか」シュロモー・サンドによる)』

http://

 
 
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