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今こそジョン・デューイか

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年 5月23日(金)14時00分49秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://burogu-mircea-blog.blogspot.jp/2012/11/creative-democracy.htmlさまより ありがとうございます

参考記事:寺田寅彦・学問の自由

http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/43535_24583.html

ジョン・デューイを検索すると.......

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A4&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=

ジョン・デューイの経験と教育

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E7%B5%8C%E9%A8%93%E3%81%A8%E6%95%99%E8%82%B2&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=

作業の息抜きに、ジョン・デューイの論文、Creative Democracyを訳してみた
ジョン・デューイの思想の価値・意義は留まるところを知らず、年々増すばかりではないかと個人的には思います。
R.ローティの思想がどれほど、ジェームズ、それ以上にデューイに負っているかは、両方の著作に触れたことがある人ならば、直ちに首肯してもらえるかと思います。
他にも、C.ライト・ミルズのsociological imaginationは、ジョン・デューイのcreative democracyへの共感表明でした。社会学が、根幹にある種、リベラルな教育者的な価値を含み持つ(少なくともそういう規範を持つべきである)という話だと理解しています。
(後者は、著作に当たっていないので、聞きかじる限りでの理解ですが)

まぁ、御託並べはこれくらいにして。
訳した元はこちら→Creative Democracy ? The Task Before Us(1939)
全部でたったの16段落のエッセイ。

誤植、変換ミス、脱字、訳文抜け、誤訳などなどあれば教えてください。
スピード重視で訳したので、結構あると思います。精密訳とか、ここの解釈が…とか言うのは求めてないので、ブラウザバック推奨。チラシの裏なので
あ、構文取り違えとかも、気付いたら教えて頂けるとありがたいです。

デューイはあんまり「良い文章」を書く人じゃないです、ほんとにもうね…w
少なくとも、以下みたいな文脈を簡単に指摘しておきます。
・デューイの最晩年に書かれたものであること(そしてもちろん彼は有名人)
・全体主義国家が台頭していること(これへの対抗)
・その中で、いかに良き社会を作るかということ

危機に瀕している民主主義を、いかに再生するかという問題意識といえばよいでしょうか。
デューイの民主主義に関する考えを多少なりとも知った上で読まないと、その文章が何を言っているのかわからないと思います。
『哲学の改造』とか、『経験と教育』とか、その辺りを読んでみるといいかもしれません。
デューイの教育哲学について短いのに的確にまとまってると思いますので、こちらを先にどうぞ→デューイの教育理論

収録とか初出について↓
First published in John Dewey and the Promise of America, Progressive Education Booklet No. 14 (Columbus,  Ohio: American Education Press, 1939), from an address read by Horace M. Kallen at the dinner in honor of  Dewey in New York City on 20 October 1939; reprinted in The Later Works, Vol. 14
こちらの最後に載ってました。


もう一点。際どい訳語を使った時は、わかりやすさのために単語を続けています。externalityとか。[]で、流石にわかりづらそうな所は、気が向いたら補ったりするかもしれません。


引用や改変は自由です。
引用や改変の際、引用先で、ここへのリンクは貼ってください。
ただし、使用の報告はいりません。
原文が、多少面倒くさい言い方をしる上にストレートではないので、「面白い」箇所は多くないでしょう。デューイが言っていることは、今となっては――繰り返しますが、今となっては、目新しいものではありませんし。少なくとも、こんな持って回った言い方をしなくても、同じ事を言っている人はいる。
けれど、デモクラシーの最大の擁護者である、デューイが1939年という時期に、やはり言わねばならなかったという点は、注目すべきことかなと思います。
そして何より、デューイの人間本性に対する独特な「オプティミズム」が、いかに冷静で、努力を伴うものであるかということは、何時まで経っても、学ぶべき所だろうな、と思います。
ここにある諸々は、私自身、忘れがちなことかもしれません。

それでは、以下本文。(番号は段落の見やすさのため)

======

クリエイティブ・デモクラシー――私たちの眼前にある課題(1939)


①現在の状況下で、私がなんとか80年生きてきたということを隠し立てすることはできないように思われます。以下の事実に言及することは、あなた方に、より意義ある事実を示唆することになるでしょう。すなわち、過去5分の4世紀の間、つまり、この国が現在の形態をとって以来の時間の半分以上の期間、この国の運命に対する、この上ない重要性を持つ所の、諸々の出来事が起こったという事実のことです。いくつかの明白な理由があって、こういった出来事の、より一層の重要性に関して要約するつもりはありません。私がここで、それらの出来事に言及するのは、この国がこういう形をとった――デモクラシーを創造した――時に、この国自身がコミットした問題に関係しているからです。この問題は、150年前――この国の最も老練かつ賢明な人が集まって、状況をよく検討し、また自己統治する社会の政治的な構造を創造した時と、同じくらい喫緊のものになっています。

②というのも、ここ最近起こった種々の変化をちゃんと持ち込むことは、かつては自然的な(そしてほとんど必然的な)幸運な条件からの産物だった所の、諸々の生活様式と制度が、今や、良心と決然たる努力によって勝ち取られねばならないということだからです。80年前は、国の全てが、先駆者的あり方をしていたわけではありません。しかし、恐らく2,3の大都市を除いて、本当のフロンティアの先駆者に関する様々な伝統は、生まれてくる人々が思想や信念を形作る際に、活発な作用因だった所の、アメリカ的生活の先駆的な時期に、やはりとても似ているものでした。少なくとも想像の上では、国が未だに、未使用で未占有のリソースの一つである所の、フロンティアを切り開いていると考えられます。それは、物理的な機会や誘因に関わる国のことだった。それはそうだとしても、この新しいネーションを生むことに関係する物理的な諸状況を、信じがたいほどに接続し合った以上のものがあったのだ。新しい物理的な状況に対処すべく、古い制度や思想を、その状況に改めて適応させることができる人の集団、つまり、政治的創意に関して比類なき才能がある人の集団が、存在したのです。

③現在、フロンティアは、道徳的精神であって、物理的なものではありません。限りない広さであるように思われた、占有する者のいない土地があった期間は、消え失せています。未使用のリソースは、物質でなく、今や人間です。雇用の機会のない、成年の男女が無駄にいて、そして、かつてなら好機があったはずが、道は閉ざされていると知った男女も多くいます。社会的・政治的な創意を呼び起こすような150年前の危機は、人間の創造性をより強烈に要求している形態にある私たちに、関係があるのです。

④とにかく、まさに私がいいたいのは、150年前にその起源を持ち、大部分は、人間と状況の幸運なる組み合せによる産物である所の、ある種のデモクラシーを、慎重かつ断固とした努力によって、私たちは再創造せねばならない、ということなのです。かつての人間と出来事の喜ばしい巡り合わせから、私たちへと受け継がれてきた遺産の上に、私たちは長い間、生活をしてきているのです。

⑤世界の現在の状況は、私たちの遺産が価値あるものだと、全精力をかけて、今、証明しなければならないということを、気付かせるだけではないのです。それは、決定的かつ複雑な今日の状況のために、かつての時代の人間が比較的単純な状況のためにやったことを、やってみろという挑戦(状)でもあります。

⑥創意に富んだ努力と創造的な活動によってのみ、その課題は成し遂げられるということを私が強調する時、それは部分的には以下の理由によるのです。すなわち、私たちの持つデモクラシーという制度が、まるで、それ自体で自律的に不朽不滅のものかのように、言い換えると、政治において、永続する動作という問題を解決した機械を調整することに、私たちの祖先が成功したかのように、私たちが長きに渡って振る舞ったという事実に対して、現在の危機の深さは、かなりの程度帰するべきであるという理由です。デモクラシーは、1年に1回かくらいに私たちが投票所へ行った時に、起こる何事かに促される中で、ワシントンとオールバニ――あるいは、他の何らかの州都――において主に行なわれるものかのように、私たちは(事実として)振舞ったのだ。このことは、私たちが、デモクラシーというものを、政治に関する、ある種のからくりのように考える傾向があるということを、いくぶんか極端に言ったものです。市民が合理的に忠実に、政治的な様々な義務を果たす限り作動するからくりのように、です。

⑦最近、私たちがますます頻繁に耳にすることは、これで十分ではありません。デモクラシーが、生活様式であるということ、これです。この言い回しは、(問題の)根底にたどり着いています。古い考えにある外在性(externality)というものが、新しくてよりよい主張に伴わない、私には思えません。どうであろうと、こうした外的な考え方からは、以下の時に限って、逃れることができます。デモクラシーは、パーソナルな仕方の一個人の生活であると、思想と行為において実感する時、つまり、個人のキャラクターを形成し、人生のあらゆる関係性のおける願望と目的を決定しながら、何らかの態度を所有し、それを継続的に使用することを示していると私たちが実感する時に限って、です。自分の能力や習慣を、何らかの制度に適応させたものとして考えるのではなくて、後者を、個人の習慣的に、主である態度の、表現、投影ないし延長であると捉えるようになるべきなのです。

⑧パーソナルで、個人的な、生活様式(生き方)としてのデモクラシーは、根本的に新しいものを含んでいるわけではありません。しかし、そのようなデモクラシーが適用されたなら、古い考えに、新しい実用的な意味合いを付与するのです。それを適用すること、それは、デモクラシーの現在の強力な敵対者に対しては、人間存在個々における、パーソナルな態度を創造することによってのみ、対処しうるということを示しています。言い換えると、軍人であれ文民であれ、個人のキャラクターを構成するのに足るくらいの、確固とした個々人の態度から、敵対者が分かたれているならば、デモクラシーの防衛は、なんであれ外在的な手段において見出され得ると考える、自らの傾向性を私たちは乗り越えなければならないということを示しているのです。

⑨デモクラシーは、人間本性の様々な可能性に関する、活動的な信念によってコントロールされた生き方のことです。一般的な人(the Common Man)の持っている信念は、民主主義的な信条に親和的な事柄です。人種、肌の色、性別、家計を問わず、そして、物質的、文化的資産に関わらず、全ての人間において示されているような、人間本性の可能性を信じること、それを意味する場合を除外すると、その信念は基礎と意義を欠いたものです。このような信念は、彫像(のような芸術作品)において示され得ます。しかし、日常生活のあらゆる出来事や関係において、人間がお互いに示し合う所の態度について、その信念を実行しない限り、空想上のことに過ぎません。もし、互いにとってのパーソナルな関係において、そして、日々の散歩や会話において、私たちが、人種、肌の色、その他の類の偏見によって行動を起こすならば、言い換えると、もし、人間としてのナチズムの人々の可能性を、寛容にも信じるという場合、つまり、彼らの能力が十全に発揮され得るような条件を提供する必然性をもたらすような信念を持つ場合を除いた、他のあらゆることによって、現に我々が行動を起こすならば、不寛容さ、残酷さ、憎悪という刺激を理由にナチズムを弾劾することは、ますますの不誠実を生み出すところとなります。人間の平等性を民主的に信じることは、個人に与えられた能力の特性や限度とは無関係に、あらゆる人間が、どんなものであっても自分の持つ才能の発展のために、他の人間が等しく持っている所の権利を、有しているという信念です。[自分の生活における自らの]リーダーシップという本質を。民主的に[=他の人にも同等に認める形で]信じることは、寛容なる信念のひとつです。それは普遍的なものです。適切な条件が与えられたならば、他人による抑圧や押し付けから自分の生活を解き放つことのできる能力を、人はみな持っているという信念です。

⑩デモクラシーとは、人間本性一般を信じることによってだけではなく、条件が適切である時の、知的な判断と行動に関する人間の能力を信じることによって、コントロールされるような個人の生活様式(a way of personal life)のことです。知性の可能性に対する、また知性の相互関係としての教育に対する信念が、不適切であるとか、ユートピア的であるという、[実際の私とは]反対の方面から、一度ならず非難されてきました。いずれにせよ、この信念は私が発明したのではありません。民主主義的なスピリットによって活気づいた限りでの、私の周囲の人達から、それを身に付けたのです。相談、会議、説得、議論の役割に対する、デモクラシーに関する信念が、自由な探求、自由な集会、自由なコミュニケーションの効果的な保証によって守られた、事実と思想の自由な働きへのコモンセンスに対応した、一般的な人間の知性の能力を除外すれば長期的に自己修正的である所の、世論の形成に対する信念であるのはどうしてでしょうか。知性の能力に対する信念は幻想(ユートピア)であるという物の見方は、左翼的ないし右翼的な全体主義国家の支持者に進んで引き渡そうと思います。この信念というのは、デモクラシーに内在的な方法論にあまりに深く埋め込まれているので、民主主義の擁護者だと公言している人が、その信念を否定する時に、自分の宣言に対する裏切りを自覚することになります。

⑪スパイ行為に怯え、私的な集まりでの親しげな会話のために、友達で集まる時にも迫っている危険と共にあるような、今日多くの海外国家で生活している男女が置かれている所の状況について考えると、検閲されていないその日ニュースで呼んだことを、街角で近所の人とあれこれ議論するために自由に集まること、そして、互いに打ち解けて自由に言葉を交わすために、一軒家やアパートのリビングで知人と集まることが、デモクラシーの核心的で最終的な保証であると確信するような気がします。宗教や政治、商取引についての意見の相違を理由にした、それだけでなく人種、肌の色、資産、分化の程度に関する差異を理由にした、不寛容、暴行、罵りというのは、民主主義的な生活様式(生き方)に対する反逆です。というのも、自由な、そして充足したコミュニケーションを締め出すようなあらゆることは、派閥や党派へと、すなわち、反目するセクトや分派へと人間を分割する障壁を生み出すことになり、そして、それによって民主主義的な生活様式は衰退するからです。もし、日常生活レベルのコミュニケーション自由に関して、思想や事実、経験を与えて、また受け取ることが、お互いへの懐疑、暴行、恐れや憎しみによって妨げられるのだとすれば、自由な信念、自由な表現、自由な集会という市民的自由を単に法的に保証するだけでは、ほとんど役に立ちません。人間個々の精神において、恨み、疑い、不寛容を育むことに成功した時に限って、全体主義国家の例が示しているように有効であるような、公然とした抑圧よりも一層効果的に、こういったことは、民主的な生活様式の持つ、本質的な条件を破壊するのです。

⑫結局、丁度言及した所の2つの条件について考慮すると、生活様式(生き方)としての民主主義は、個人が日々他人と協働しているという、個人的な信念によってコントロールされていることになります。デモクラシーとは、以下のような信念です。すなわち、たとえ理由や目的、結果が人毎に異なっている時でも、スポーツのように、張り合うこと(ライバル)、競争を含むとこの、友好的な協力という習慣は、それ自体、値段が付けられない価値のあるものを生活に付加するのだという信念です。強圧的・暴力的な雰囲気や状況から起こり、また起こる運命であるところの、ありうる全ての対立を、議論的・知性的な雰囲気や状況へと変化させる解決の手段として受け入れるというのは、友人である限りにおいて、私たちの学び先である人(私たちが学ぶところの人)と同じように、私たちと意見が食い違う、極めて強く意見が対立する人を取り扱うということです。真正に民主的に、平和を信じるということは、協同して引き受けるものとして、導くような論争や議論、対立が起こる可能性を信じるということです。そのような協同の企てにおいて、力ずくで抑圧―公然と投獄するとか、強制収容所に置くのではなくて、嘲り、暴言、脅迫という心理的な手段によって行なわれるにも関わらずある種の暴力であるところの抑圧―をすることによって、ある立場が他方を征服する、というのではなくて、むしろ他者に自己表現する機会を与えることで、両方の立場が学ぶのです。差異を表現することは、他人の権利であるだけでなく、自分の人生経験を豊かにする手段であるという信念を根拠として、違っているものに、各々自身を示す機会を与えることによって協同することは、民主的な生活様式に、本来的に備わっています。

⑬述べてきた一連のことは、道徳的に平凡であると非難されるならば、それらを述べる時に、それが要点だとだけ私は答えましょう。というのも、デモクラシーを制度的で外在的(institutional and external)なものであると考える習慣を取り除き、また、パーソナルな生活様式としてデモクラシーを扱う習慣を身に付けるということが、デモクラシーが道徳的な理想であり、事実となる限りで、デモクラシーは道徳的な事実であるということを実感する(現実化する)ことだからです。デモクラシーは現実のもの(a reality)であると理解する(realize)するのは、ただ単に実に生活にありふれているものだからなのです。

⑭大人になってからずっと、哲学の探求に年月を捧げてきた身として、結論するに当たり、哲学的な立場に関する形式的な用語を用いて手短に、民主的な信念を述べることをお許し願いたいと思います。さて、述べてきたように、デモクラシーは、人間経験の、諸々の目標と方法を生み出す能力を信じることです。それによって(※the abilityかthr aims and methodsどっちにby whichがかかるか判断する材料はありません。けど、最終的に、どっちでも意味合いは、あまり変わりません)、一層、経験が秩序だった豊かさで育まれます。この他の、あらゆる形態の道徳的・社会的信念が、外在的コントロールという何らかの形態へと、経験は従属させられているに違いないという思想に依存しています。つまり、経験の様々なプロセスの外側に存在すると主張されるところの、何らかの「権威」に、経験が従属させられているに違いないという思想です。
デモクラシーは、経験の諸プロセス、[経験によって]達成されるどのような特別な結果よりも重要であるという信念です。それゆえに、達成された特別な結果は、進行中のプロセスを豊かにし、秩序を与えるためだけに使われるから、究極的に価値をがあるのです。この経験のプロセスは教育的であり得るので、デモクラシーの信念は、経験と教育とに関する相合わさった信念なのです。進行中のプロセスから切り離された、あらゆる目的や価値は、停止状態ないし、固定状態になります。新しくて、よりよい経験へと続く道と切り開き、その方向を指し示すために、[プロセスの中で]得てきたものを、そのような目的や価値は、使うのではなく定着させようとします。


この結び付きにおいて、経験で何を意味しているのかと人に尋ねられた場合は、取り囲まれている諸々の条件、特に人間環境と、個々の人間の自由な交流(相互関係:the free interaction)であると私は答えます。その人間関係は、あるがままの事物についての知識を増大させることで、欲求や願望(need and desire)を生み出し、また充足させます。条件について、あるがままに知ることは、コミュニケーションとシェアすることに関する、ただの強固な理由でしかありません。そうではない全てのコミュニケーションは、他の人の個人的な意見に従属する人がいるということを意味しているのです。欲求や願望は、――活力の目的や方向性が、そこから生まれるのだが――実在を飛び越えていき、そしてそれゆえ、知識を越え、科学を飛び越える。それらは、まだ探索されていない、未だ到達していない未来へと続く道を、切り拓き続ける。


その他の生活様式と比較して、デモクラシーは以下ような生活様式です。目的としてまた手段としての、すなわち、この先の経験の方向に対して、信頼できる唯一の権威である科学を生み出すことができるような、加えて、過去には存在しなかった事物を生み出すために、様々な感情、欲求や願望を解き放つようなものとしての、経験の諸プロセスを、心から信じている、唯一の生活様式である。それというのも、様々な触れ合いや交換、コミュニケーション、交流が経験を大きく、そして豊かにもする一方で、安定させるのですが、自らのデモクラシーに怠る(失敗した:fails in its democracy)ような、あらゆる生活様式が、それらの限界を規定することになるからです。解放と充実というこの課題は、日々継続されねばならないものです。経験それ自体が終わりを迎えるまで、課題に終末はありえない(can have no end)ので、デモクラシーの課題とは、そこにおいて皆が共有し、それに対して皆が寄与するところの、より自由かつより人間味ある経験を創造するという課題なのです。

(おわりー)

=====
以下は、メモないしまとめ

<デューイのdemocracy>
繰り返し言われているのは、デモクラシーは制度ではない。それは能力だと。しかも、人間が、別け隔てなく、等しく(=democraticに)持つようなものだと。
一番示唆的な使われ方はをしているのは、⑯段落の、これでしょうか。
For every way of life that fails in its democracy limits the contacts...by which experience is steadied while it is also enlarged and enriched.
「デモクラシーを怠る」――それは、人間の能力によって、常に創造され続けるような「より自由で、しかも、より人間味ある経験」のことだと。能力の行使を怠れば、失われるものなのだということでしょう。時代状況を見ても、それがデューイの身に迫るリアリティだったことは想像にかたくありません。
デモクラシーは外在的なものではなくて、むしろ経験のプロセスの中にあり、私たちが創造するものだと。しかも、拡大し、豊かになるようなもので、方向づけられてもいて、よりよい方へ行くことができる、動態的なものとしてデューイは考えているようです。

初めの方で触れられている「フロンティア」「パイオニア(先駆者)」「開拓」「未使用」「未専有」……という諸々の言葉を通して語られるイメージ、つまり、ある道徳的・社会的スピリットは、⑮段落の最後の文章にかかっていますね。
デューイの不思議な「オプティミズム」(彼に結構当てられる言葉です)は、過去に支えられ、現在の絶えざる努力を要し、そして何より未来志向……これがオプティミズムなのかというと、そうでもないだろうという気はします。
教育や不平等状態に注目している時点で、少なくとも安い「オプティミズム」ではないことは確かでしょうね。
democracyだけでなく、デューイのexperienceの使い方も特殊ですよね。そっちはまとめませんが。というか、『経験と自然』とか読んでみてください。


<deweyにおけるfaithのメモ>

deweyのこのエッセイに関して、faithという言葉は、気持ち悪いくらい多用されます。
以前は、忠実さ、敬虔、という訳も使っていましたが、全部、「~を信じること」と書き換えるか、「信念」と機械的に置き換えました。本文では、基本的に形容詞(faithful)としてよりも、名詞(前を受けてthe faithとか、何に対するものかという意味でthe faith in...)としてよく用いられています。
つまり、イメージ喚起的にまとめれば、それは形容詞的なもの(状態や様子)ではなく、むしろ名詞的なもの(実体)として彼は考えているということを読み取ってもいいかもしれません。
例えば、スピノザで使われる「敬虔」という言葉の意味は、直ちに宗教的な含意があると同時に、社会的な意味合いも帯びます。
「敬虔でない」ということは、反宗教的であると同時に、反社会的である。それは、信念を共有する人にとって、あらゆる意味で敵であるということを意味しています。この言葉の身体的意味を、現代人(少なくとも日本人)は失っていると思います。その喪失の良し悪しはさておき、わからないですからね、やっぱり。
このfaithは、時折beliefと言い換えられたり、同時にI believeとかいう言葉でも受けられるように、私の個人的で主観的な確信であり、信念にも繋がっていくものでもあります。(beliefは信仰とも訳されることを想起してください。ただし、だからデューイの民主主義に対する考えは「宗教的だ」というのは、愚かだと思いますが)
もう一点、beliefにしろ、faithにしろ、inが後続すること。そのinの空間的なイメージは、私の能力もあって、適切に訳出できていません。「~に関しての信念」とか「~を信じること」、「~に対する信念」と多少のズレを無視するような形の日本語に逃げているということ、それは正直に告白しておこうと思います。


 
 
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