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ハツクニシラス天皇が二人いる理由

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年 6月19日(木)12時30分54秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://www.geocities.jp/yasuko8787/2-06.htm

ハツクニシラス天皇(スメラミコト)が2人いる理由

日本書紀の大きな謎の一つは、初代神武天皇を「始めて天下を馭(ぎょ)した」天皇と称し、その上、10代崇神天皇を「国をお肇(はじ)めになった」天皇と称する、とあることです。

なお、日本書紀での振りがなは、どちらもハツクニシラス天皇(すめらみこと)になっています。
これは、崇神のみを初国知らしし御真木(みまき)の天皇と記す古事記に合せたものでしょう。

この称は、本来実質的に大和朝廷の建設者崇神天皇に与えられたものであったが、
皇室の起源を古くさせるため造作した神武天皇にもおよぼされた、との説があります。

しかし、この謎は、先の1~3世紀についての簡単な倭国史年表を見ながら解くべきです。
  1年  辛酉の年(倭国史用年表の紀元)
 57年  倭奴国王、後漢に朝貢し、金印を授かる
 61年  辛酉の年
107年  倭国王帥升、後漢に朝貢(「隋書倭国伝」は倭奴国王とする)
桓霊の間<『梁書』は霊帝の光和年間(178~184)とする>倭国大乱
181年? 大乱を終息させるために、倭の諸国は卑弥呼を倭王に共立
239年  倭の女王卑弥呼、魏に朝貢(神功紀39年の注に引用あり)

247年  卑弥呼が死んで、男王を立てると、国中が乱れる
248年  卑弥呼の宗女台与を倭の女王とすると、国中が治まる
       倭の女王台与、魏に朝貢
266年  倭の女王台与、西晋に朝貢(神功紀66年の注にに引用あり)

<『梁書』は、倭国大乱を霊帝の光和年間(178~184)のこととしていますが、
  その中央値は、「(178+184)/2=181」年で、辛酉の年になります。
  だから、卑弥呼が倭王に共立された年が辛酉だった可能性もゼロではありません>

問題は、倭国王として後漢から金印を授かった倭奴国王の地位が、
倭国大乱を経て邪馬台国の卑弥呼へと移動したことが重視されてなかったことです。

すなわち、中国の史書によれば「始めて天下を馭(ぎょ)した」天皇とは、当然、金印の倭奴
国王で、「国をお肇(はじ)めになった」天皇とは、金印の親魏倭王卑弥呼のはずなのに、
そのことがほとんど問題にされてなかったことです。

この件に関するヒントは、神功摂政前紀では、神功が大和を離れて北九州に来ていることと、神功紀では、応神天皇の母親となった神功が、畿内に攻め込んでいることです。

これは、卑弥呼の邪馬台国は北九州、台与のとき邪馬台国は大和へ東遷したというヒントです。

ところで、中国の史書によれば、卑弥呼は結婚していないので、直系の子孫がいません。
だから、天皇家の直系の始祖は、卑弥呼ではなく、その後継者の台与のはずです。

神功紀に、卑弥呼と台与に関する記事が引用してあるのは、このことを示唆するためでしょう。

この点に注目すれば、日本書紀に、初代神武天皇を「始めて天下を馭(ぎょ)した」天皇と称し、10代崇神天皇を「国をお肇(はじ)めになった」天皇と称する、とある謎が解けます。

すなわち、崇神天皇は、大和に遷都して、大和朝廷の始祖となった、天皇家にとって初代にあたる倭王ということになる訳です。

倭国史には、10人の倭王が登場しています。しかし、日本書紀は、倭王の名を出さないで、
3番目の卑弥呼と4番目の台与に関する記事の一部を引用しているだけです。

おそらく、これは、それだけあれば、後の8人についての情報が得られるということでしょう。

なぜなら、中国の史書には、倭国大乱の際、卑弥呼を倭王に共立したことと
卑弥呼の死後に立てた男王に替えて、台与を倭王としたこと以外に
倭国の政変に関する記事がないからです。

これまでは、この点をきちんと押さえず、倭国王帥升を倭奴国王とする「隋書倭国伝」を誤りとし、遺憾なことに、倭奴国王と倭国王帥升は別系統という誤った見方をしています。

この誤りに気付けば、倭国史は卑弥呼以前と卑弥呼以後に二分すればよいことになります。

すなわち、伊都国に都があった、金印の倭奴国王および倭国王帥升の伊都王朝と、邪馬台国に宮殿があった卑弥呼と、その後を継ぐ台与・讃・珍・済・興・武・多利思比孤の大和朝廷との二つを考えればよいことになる訳です。

当然のことですが、初代天皇に当る倭奴国王は、天皇家とは血のつながりのない倭王です。
このことは、次に引く、天皇家による神武天皇の遇し方にハッキリ表れています。
神武天皇は初代天皇として、年代記の最初に記されるだけに止まって、
それ以上の意味を持つことはなかった。

神武天皇の存在が強く意識されるようになったのは、江戸時代の中期に国学の研究が起こって、本居宣長や平田篤胤らによって古代の歴史が回顧されるようになってからである。

徳川幕府が権威を失って、天皇政治の復古が唱えられるようになると、
この風潮はますます盛んになり、文久年間(1861~64)にはその陵墓が決定して修理が行われ、孝明天皇が攘夷の奉告のために、行幸されようとすることさえあった。

王政復古とともに皇室の始祖としての神武天皇が強く回顧されるようになり、明治5年(1872)には神武紀元(西暦紀元前660年)が制定され、

明治7年(1874)以来、天皇即位の日が2月11日が定められ、
紀元節(現在の「建国記念の日」)という名の祝日となった。

明治22年(1889)には皇居があったと伝える畝傍山の東南に、天皇を祭る
神宮が創建せられ、翌年(神武紀元2550年)橿原神宮の宮号を定め、
官幣大社に列せられた。
            (植村清二「神武天皇 日本の建国」中公文庫による)

崇神天皇には台与が対応するというヒントは、はっきり、天孫降臨神話にあります。

天孫降臨とは、簡単に言えば、皇祖神天照大神ではなく、その孫にあたるニニギが
地上の支配者として高天原から天降ったということです。

つまり、天照大神=卑弥呼とみれば、卑弥呼の孫に相当する人物が
日本を支配する天皇家の始祖である、ということです。

だから、崇神天皇の時代は、台与の時代に復元できるはずです。試しに、
X=(Y+843)/3……(1) に、紀元前97年Y=-97 を代入してみると、

X=(-97+843)/3=746/3=248(端数切捨て) となり、
崇神天皇即位の年紀元前97年が、台与の即位した年248年に復元される訳です。
日本書紀 神武天皇即位(辛酉)紀元前660年 崇神天皇即位紀元前97年
復元計算 (-660+843)/3=61 (-97+843)/3=248
倭国史 金印の倭奴国王時代の辛酉の年61年 台与即位248年

倭奴国王が後漢に朝貢し、金印を授かった年=57年と辛酉の年=61年には、
61年-57年=4年のズレがあります。征東大将軍氏はこの点に注目して、

X={(Y+843)/3}-4=(Y+831)/3

という式について研究しています。どうか、「征東大将軍氏の新発見」をご覧下さい。

関連記事

http://08120715.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-f9c6.html

二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)考

 崇神天皇の諡名(おくり名)は、初代の神武天皇のそれと同じ「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」である。諡名は格別に精密高度に付されているものであるのに同名の諡名が存在する。こういうことがあり得て良い訳がない。これをどう解すべきか。これを仮に「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)問題」と命名する。ここに、「れんだいこの解」を発表しておく。

 「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)問題」は実は、諡名(おくりな)の和読みによって同じである訳で、漢字表記では識別されている。神武天皇は「始馭天下之天皇」、崇神天皇のそれは「御肇國天皇」である。こうなると、窺うべきは、漢字で識別されている筈の神武天皇と崇神天皇が何故に和読みでは「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」と同じに読まれているのかと云うことであろう。これをどう了解すべきかであろうか。

 れんだいこの理解では、そう難しくはない。通説の諸説の方が滑稽な気がしている。なんとならば、「れんだいこの新邪馬台国論」で披歴したが、日本古代史は「原日本新日本論」を媒介せずんば解けない。逆に云えば「原日本新日本論」を媒介すれば容易く解ける。即ち、日本古代史は、渡来系「新日本」が、国津系「原日本」から天下の支配権を奪い取ったところから始まる。これによれば、神武天皇が実在であれ架空の人物であれ「新日本」は神武天皇から始まる。歴史的にそのように位置づけられているのが神武天皇の地位である。故に、諡名が「始馭天下之天皇」つまり「天下の始まり天皇」であり「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」と読む。

 神武を始祖とする「新日本」王朝の御代は、初代・神武、2代・綏靖(すいぜい)、3代・安寧(あんねい)、4代・懿徳(いとく)、5代・孝昭(こうしょう)、6代・孝安(こうあん)、7代・孝霊(こうれい)、8代・孝元(こうげん)、9代・開化(かいか)と続いている。この9代が実在であれ架空であれ、この期間の政権基盤は弱かった。神武天皇が滅ぼしたとされる出雲王朝―邪馬台国三輪王朝系「原日本」の国津神系旧勢力が隠然とした支配権を持っていたからである。何とならば、神武天皇系渡来勢力は、国津神系旧勢力との「手打ち」によって辛うじて政権を奪取したことにより、「新日本」王朝に国津神系旧勢力を組みこまざるを得なかったからである。と云うことはつまり、国津神系旧勢力は「新日本」王朝の政治能力を値踏みしつつ「原日本」王朝の御代を憧憬しつつ諸事対応していたことになる。しかも、この勢力の方が概ね有能だった。これにより「新日本」王朝の内部抗争が絶えないこととなった。

 この政治状況に於いて、第10代の崇神天皇が登場し大胆な改革を行う。崇神天皇は、政権基盤を安定させる為に大胆に、従来の討伐政策を転換し旧王朝「原日本」勢力の復権的登用へと舵を切る。崇神天皇の御代の前半事歴はほぼこれ一色である。「三輪山の大物主神祭祀譚」がその象徴的事例である。崇神天皇のこの「原日本復権政策」により政権基盤が安定し、新日本王朝は名実ともに大和朝廷となった。崇神天皇は、三輪を筆頭とする旧王朝勢力を抱き込むことによって返す刀で大和朝廷に服属しない諸豪族の征討に乗り出すことになった。この征討史は11代の垂仁天皇、12代の景行天皇60年、この御代におけるヤマトタケルの命のそれへと続く。その「元一日」を始めたのが崇神天皇であり、そういう事歴を見せた崇神天皇の諡名が「御肇國天皇」つまり「国の肇(はじ)まり天皇」であり、神武天皇と同じく「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」と読まれている。

 これにより「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)問題」が発生することになった。窺うべきは、神武天皇により国が「始」まり、崇神天皇により国が「肇」まったと云うことであろう。大和王朝の始祖とする位置づけに於いて、二人の天皇は甲乙付け難い同格であったと云うことであろう。諡名は「歴史の鳥瞰図法」に則りかくも精密に漢字表記され読みまで定められていると云う筆法であろう。諡名は決してエエ加減に付けられているのではないと云うことであろう。

 付言すれば、この王朝の漢字表記における大和王朝、読みとしての「ヤマト王朝」も然りである。その意味するところ、「大きく和す」と云う意味での「大和」なる漢字を宛(あて)がい、「大和」は漢音でも和音の訓読みでも「ヤマト」とは読めないところ敢えて、この王朝の始祖は元邪馬台の国であったと理解する意味を込めて「ヤマト」と読ませていることになる。その裏意味は、今後は旧王朝「原日本」勢力を滅ぼすのではなく、その系譜を継承し、和合させる体制にすると云うところにある。これが、「大和」を「ヤマト」と読ませることになった経緯である。ここに歴史の智恵を感じるのは、れんだいこだけだろうか。れんだいこは、「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)問題」をかく解する。

 こう解かず、何やら小難しくひねくり廻す論が溢れている。それによれば、崇神天皇の別名「ミマキイリヒコ」に注目し、「ミマ」は朝鮮半島の南部、弁韓、あるいは任那(みまな)を、「キ」は城のことを云うとして、朝鮮の王族が「イリ」(日本に入ってきた)した、あるいは「イリ」とは入り婿のことを云う云々との説が為されている。

 れんだいこはこういう「崇神天皇=朝鮮王説」説を否定する。崇神天皇の父は開化天皇、母は三輪系の物部氏である。これによると、崇神天皇は「原日本」三輪系の御子であるところに意味があり、その出自故にか原日本と新日本の和合を政策にした英明な天皇であるところに値打ちがある。その崇神天皇をよりによって渡来系天皇と見なすのは奇説と云うより重大な誤認論であると云わざるをえない。

 この類の諸説の一つに元東京大学名誉教授江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」がある。この説は、「天神(あまつかみ)なる外来民族による国神(くにつかみ)なる原住民族の征服」を指摘すると云う炯眼な面もあるが、崇神を神武、応神と並ぶ三大渡来系天皇に比しているところに問題がある。「神」がつく天皇は三人いるとして、「神武、崇神、応神」に注目するのは良いとしても、崇神を騎馬民族説の論拠に使うのは歴史盲動の所為であろう。

 ちなみに、「騎馬民族征服王朝説」が定向進化し「失われたイスラエル十支族の末裔説」へと結びつき、まことしやかな日ユ同祖説へと誘われて行く。佐野雄二氏の著書「聖書は日本神話の続きだった!」となると、「崇神天皇の生涯に起こった事を『旧約』と比較するとダビデ王を想起させる」として、「崇神天皇=ダビデ王説」まで至っている。他にも「神武=崇神=応神天皇のルーツがイスラエル十支族であることは疑いないと思っている。天皇家や記紀の真実を知るためには、旧約、新約聖書の知識が必要であることは間違いない」などと述べる者もいる。

 今風の言葉で云えばヤラセが過ぎよう。論は勝手だからお互いに云えば良かろうが神武、応神いざ知らず崇神まで巻き込まないようにしてほしいと思う。本稿を2013年5月連休期の意欲作とする。これまで数々「歴史の紐のもつれを解く通説批判説」を発信しているが本稿もその一つ足り得ているだろうか。

2013年5月 9日 (木)
ニギハヤヒの命の日の本王朝こそ真の日本始め考

  2013.5.6日れんだいこブログ「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)考」をものした。特段の反応がないので、今度こそは思い知らせて見ようと更なる「歴史の紐のもつれを解く通説批判説」をしておく。「ニギハヤヒの命の日の本王朝こそ真の日本始め考」と題することにする。内容は、日本の国名、国旗、国歌、国紋、元号の由来を問うものである。

 れんだいこの新説は、日本の国名も、日章旗としての日の丸も、国歌としての君が代も、皇室御紋としての菊花弁も、恐らく元号も、記紀神話のみに拠らず、いわゆる古史古伝をも併せて理解すれば、大和王朝に先立つ、少なくともニギハヤヒの命王朝以来のものであり、大和王朝は、これらのどれをも継承したものである。なぜならどれもが、そのできばえが優れものであったが故であるように思われる。

 通説では、国名も国旗も国歌も皇室紋としての菊花弁も大和王朝の御代になって初めて自生したものと説く。果たしてそうであろうか、大和王朝以前の出雲王朝―ニギハヤヒの命の日の本王朝―邪馬台国王朝の頃より始まるのではなかろうかとの疑問を投げておく。これを確認するのに次のような論になる。

 国名の由来は、(略)。国旗の由来は、(略)。国歌の由来は、(略)。皇室紋としての菊花弁の由来は、(略)。(この下りにつき別章【日の丸、君が代、元号、菊の御紋考】に記す)

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/minzokumondaico/hinomarukimigayoco/hinomarukimigayoco.htm

 こうなると、日本左派運動式の国旗、国歌、元号制、菊の御紋批判は「ちょっと待て」と云うことになる。れんだいこ史観によれば、ニギハヤヒの命の日の本王朝は国津系であり、大和王朝の始祖たる外航系神武軍によって滅ぼされている。とはいえ、事情は定かではないが、神武王朝は、ニギハヤヒの命の日の本王朝時代の遺制としての国名、国旗、国歌、元号制、菊の御紋を継承した。

 こうなると、国名、国旗、国歌、元号制、菊の御紋批判を為すに当っては、ニギハヤヒの命の日の本王朝即ち三輪王朝の政体検証抜きには批判し切れないのではなかろうか。この辺りの検証抜きの国名、国旗、国歌、元号制、菊の御紋批判は安逸過ぎるのではなかろうか。これも歴史ジレンマの一つであろう。

 この問題な対するれんだいこの「解」は、「悠久の国体論」を媒介させることで解き明かすことにしている。即ち、国名、国旗、国歌、元号制、菊の御紋は大和王朝の専属にあらず、それより以前の「悠久の国体」に帰属しているとして、よほどのことがない限り継承すれば良いとしている。なぜなら、そのどれもがデキが良いからである。世界に誇る日本文明の財産足り得ているからである。但し、そうであればあるほど、それらは振り廻したり排除したりするものではなく、いわば味わうべしとしたい。即ち、時、所、局面構わず礼賛されるべきものではなく節度こそが肝要と云うことになる。

 従来の「悠久の国体論」は皇国史観に基づく大和王朝論より派生せしめられてきているものである。これにより神武東征譚を賛美し、好戦化するよう仕向けている。これを仮に「狭量の誤れる国体論」と命名する。それに対し、れんだいこの国体論は、国体論そのものに批判のメスを入れるのではなく、国体論を真に相応しく大和王朝以前の日本の国家の起源来のものとして位置づけ継承しようとしている。それは好戦化するようなものではなく神人和楽的な共和思想を生みだすものである。この差が御理解賜れるだろうか。

 思えば、北一輝の国体論も、その思想に共鳴した2.26皇道派将校のそれも、「狭量の誤れる国体論」によって導かれたことで躓いたのではなかろうか。昭和天皇の聖断を仰ぎ、期待とは全く異なる聖断を浴びることで殉死を余儀なくされたが、国体思想の受け取り方の間違いによる悲劇としても見るべきではなかろうか。特記しておくべきは、「国体思想の受け取り方の間違い」は今も続いていることである。そういう意味で賢明なる国体論の構築が待たれていると云えよう。
 
 
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