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東武天皇はなぜ消されたのか

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年 6月21日(土)13時28分28秒
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  http://onuma.cocolog-nifty.com/blog2/2009/12/post-ec5b.html

関連記事:日向師

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%97%A5%E5%90%91%E5%B8%AB&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=&afs=

東武天皇とは関連ありませんが.....大石寺と創価学会

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E5%AF%BA%E3%81%A8%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=&afs=



公明党が政権与党であり続ける理由

http://ameblo.jp/nyaonnyaon/entry-10323387356.html

池田大作こと成太作(ソンテチャク)は高利貸したっだのか?

http://matome.naver.jp/odai/2137677746603267801

2009-12-13
〔コラム 夢の一枝〕 「北のミカド・東武天皇」はなぜ“消された”か?――もうひとつの「歴史教科書」問題

 幕末、「御一新」のあの時代に、天皇が「2人」いたということを――明治天皇とは別に「東武天皇」というお方がおられたことを――そして、そのことが当時のニューヨーク・タイムズで報道されていたことを、どれだけの方がご存知だろう?

 少なくとも、戦後に生まれ、「新しい戦後歴史教育」を受けて育った僕(現在60歳)は、45歳になるまで知らなかった。聞いたこともなかった。

 「東武天皇」が、奥羽列藩同盟(幕末の北日本政府)によって「擁立」されていたことを、その中心である仙台で生まれ育っていながら、僕は何ひとつ知らずに、「昭和」を生きていたわけだ。

奥羽列藩同盟

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E7%BE%BD%E8%B6%8A%E5%88%97%E8%97%A9%E5%90%8C%E7%9B%9F

 新聞社の論説委員を辞め、仙台に帰郷し、一人の郷土史家に会うまでは。

 仙台郷土史研究会の副会長をされていた、逸見英夫氏とお会いしたのは、たしか1997年の夏だった。
 逸見氏のまるで図書館のような事務所で、私は「東武天皇」のことを初めて知り、驚いたのだった。

 僕は長いこと新聞記者をしていたから、特に面白い話は疑ってかかる癖がついており、ここでも逸見氏に、証拠はあるんですか、と迫った。

 その時、逸見氏が僕に示したもの――それがマイクロフィルムから起した、1968年(明治元年)10月18日付のニューヨーク・タイムズ。
 JAPAN:Northern Choice of a New Mikado(北部日本、新しいミカドを選ぶ)という記事だった。。

 僕はせっかく仙台に帰郷したのに(逸見氏とも知り合ったのに)、その後、誘いがあって上京、教員生活を続けた後、今春、再び仙台に舞い戻ったのだが、つい先日、奥羽列藩同盟の立役者である玉虫左太夫の事績を調べているうち、仙台市教育委員会が制作し郷土史の視聴覚資料をチェックしていて驚いた――というより、ある事実に気づかされた。

 戊辰戦争を扱ったその視聴覚教材は、これが「錦の御旗」だと言って、大きな菊の御紋が入った、いかにも堂々とした薄緑色の旗(らしきもの)を画面で紹介し、「官軍」の正統性を強調していたのである。とりあえず、間に合わせでつかった「西陣織」ではなく、いかにも、それらしい四角い緑の布に、天皇家の御紋を付けて、これがそうだと画面に登場させていたのだ。

 もちろん、「東武天皇」のことも「延寿」という元号のことも、一切合財、何も触れていない郷土の歴史学習の教材だった。幕末・北日本政権の拠点だった仙台市の――仙台の子どもたちが学ぶ、これが歴史の真実を伝える教材だった!

 僕はこの教材を見て、遅まきながら、自分の「無知」の原因に気づかされたのだ。「賊軍」としての仙台藩、奥羽列藩同盟――。明治以降、昭和になってからも、「聖戦」が終わってからも、この「朝敵史観」は、学校教育を通じ、仙台においても、子どもたちの中に「史実」として一貫して吹き込まれていたことに。

 だから僕もまた、「東武天皇」のトの字も知らずにいたのだ。「明治天皇」の「官軍」に盾突いた「逆賊」の末裔だという「思い込み」に囚われていたのである。

 僕は、この「東武天皇」が日本の近現代史から“消された”問題は、しっかり検証されねばならない大問題だと思う。
 この国の「歴史教育」の問題とは、「神国・日本」によるアジア侵略、「沖縄」だけではないのである。

 「靖国神社」は、戊辰戦争の「賊軍」戦死者を「排除」している。つまり、「靖国」とは「官軍」(そしてその後継である皇軍)の神社であるのだ。

 米国は「南北戦争」の後、南北和解を果たしたが、日本では幕末Civil War=戊辰戦争後、「勝てば官軍」の独裁・強権政治を続行、その勢いで遂にはアジアを侵略し、「敗戦」に至ったのではないか?

 そのいわば原点にあった、「錦の御旗」の「官軍」の神話づくりのための、史実の抹消……。
 「国史」の都合上、完全に抹消されてしまった「東武天皇」!

 前述のニューヨーク・タイムズの記事の書き出しはこうである。(逸見英夫氏訳)

 「日本の政治でもっとも重要なニュースは、新しいミカドの擁立である。これは日本の北部における内乱、あるいは将軍家の内紛によってもたらされた。新しいミカドは大兄宮(おおえのみや)といい、高僧のひとりである。この動きによって、いまや日本にはふたりのミカドが存在する事態になった。従来のミカドは依然として南部で権力を保持している」

 長州(山口)の教育委員会はともかく、仙台市(及び宮城県)の教育委員会はこの問題を本格的に検証し、史実として確定できたら歴史教育の教材として使い、文科省に対しは歴史教科書の書き換え(あるいはせめて「説」としての付記)を要求すべきである。

         ☆

 「東武天皇」即位説 Wiki ⇒ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%99%BD%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E8%83%BD%E4%B9%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B#.E3.80.8C.E6.9D.B1.E6.AD.A6.E5.A4.A9.E7.9A.87.E3.80.8D.

維新期の会津・庄内藩、外交に活路 ドイツの文書館で確認

http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201102070075.html

東大史料編纂(へんさん)所の箱石大准教授らが、会津、庄内両藩が戊辰戦争を前にプロイセン(ドイツ)との提携を模索したことを物語る文書をドイツの文書館で確認した。日本にはまったく記録がないが、薩摩、長州を中心とした新政府軍に追いつめられた両藩が、外交に活路を求めていたことが明らかになった。

 ドイツの国立軍事文書館に関連文書が3通あった。1868年7月31日、プロイセン駐日代理公使フォン・ブラントは「会津、庄内両藩から北海道などの領地売却の打診があった」として、本国に判断を仰ぐ手紙を出した。両藩は当時、北方警備のため、幕府から根室や留萌などに領地を得ていた。手紙には「交渉は長引かせることができる。どの当事者も困窮した状況で、優位な条件を引き出せる」と記されていた。

 船便なので届くのに2カ月ほどかかったようだ。「軍港の候補になるが、断るつもりだ」と宰相ビスマルクは10月8日に海相に通知。この日は、新政府軍が会津若松の城下に突入した日に当たる。ほぼ1カ月後に会津、庄内は降伏。戦争がこれほど早く展開するとは、プロイセン側は予想していなかったのだろう。

◆顧みなかったビスマルク

 ビスマルクは欧米列強間の協調と戦争への中立という視点から、両藩の提案を退けた。それに対して海相は「日本が引き続き混迷の一途をたどった場合は、他の強力な海軍国と同様に領地の確保を考慮すべきだ」と10月18日に返信していた。

 箱石さんらは当時の政治状況や人間関係も調査、研究した。新政府の背後には英国がいて、新式の武器や弾薬は英国商人が供給していた。幕府が頼りにしてきた仏国は中立に転じていた。

 「会津、庄内両藩は新政府軍の最大の標的であり、懸命に活路を見いだそうとしてブラントの意向と合致したのだろう」と箱石さんは見る。

ドイツの公文書と同時に東大には貴重な資料がもたらされた。スイス在住のユリコ・ビルト・カワラさん(86)が長年調査したシュネル兄弟の記録だ。会津藩の奉行で戊辰戦争で戦死したカワラさんの曽祖父と親交があった。

 国学院大栃木短大の田中正弘教授によると、新潟港を拠点に東北諸藩に武器をあっせんしたシュネル兄弟は会津藩の軍事顧問をつとめたが、国籍不明で謎の人物とされてきた。兄が政治面を、弟がビジネス面を、分担したという。

 カワラさんの調査で兄弟の出自が判明。プロイセンの生まれで、父の仕事の都合でオランダの植民地だったインドネシアで育ち、開港直後に横浜にやってきていた。

 オランダ語ができたことが兄弟の強みだったようだ。プロイセンの外交文書は、ドイツ語の原文をオランダ語に訳し、2通そろえて幕府に出した。そうした文書が東大史料編纂所に残っており、ボン大のペーター・パンツァー名誉教授が調べて、オランダ語への翻訳に兄のサインを見つけた。武器商人に転じるまで兄はプロイセン外交団の一員だったことが確認された。「会津、庄内両藩とプロイセンを結びつけたのはシュネル兄弟でしょう」と田中さん。

 一連の研究は明治維新に新たな視点をもたらした。「英―仏の対抗図式に目を奪われるあまり、維新や戊辰戦争をより広い世界の中に位置づけることや、東北諸藩が武器、弾薬をどのように調達したのか分析する視点が不足していた」と東大の保谷徹教授は話している。(渡辺延志)

    ◇

■1868年の動き(●は確認された文書。日付は新暦)

1月27日 鳥羽・伏見の戦い

5月3日 江戸城開城

6月22日 奥羽越列藩同盟発足

7月4日 新政府軍、上野の彰義隊攻撃

 31日 ●駐日代理公使がプロイセン宰相に書簡。「会津、庄内両藩から北海道の領地を売却したいとの相談を受けた」

10月8日 新政府軍、会津若松城の攻撃開始

 ●宰相が海相に通知。「軍港の候補になるが断るつもりだ」

 18日 ●海相が宰相に返信。「日本の混迷が続けば領地獲得を考慮すべきだ」

11月6日 会津藩降伏

 10日 庄内藩降伏
 
 
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