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竹田恒泰氏かく語りぬ

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年 6月21日(土)15時24分38秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu75.html

管理人注:南北朝秘史 その2より

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/291.html

『「記紀」と呼ばれる古事記と日本書紀は、天皇家によるわが国支配を正当化するねらいを持つ史書である。その中に、天皇家の体面を汚す過去は記録できない。中国に朝貢していた倭王に関する記録がほとんど無視されているのは、そのためであろう。
したがって、邪馬台国という国名をもじった題の暗号形式の落書は、その題によって、国家の体面を汚すなと権力者に向かって訴えているのではなかろうか。(=「と か な く て し す」 つまり 「咎(とが)なくて死す」)「いろは歌」の暗号より)』

「乙巳の変」の本当の首謀者は誰か?
 第35代皇極(こうぎょく)天皇の時代に起きた「乙巳(いっし)の変」は、古代における重大事件のひとつとして、必ず歴史の教科書に書かれています。
 乙巳の変とは、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と中臣鎌足(なかとみの・かまたり)が蘇我入鹿(そがの・いるか)を暗殺する事件のことです。この事件がきっかけとなり、「大化の改新」が行われます。
 中大兄皇子が事件の首謀者であるというのがこれまでの考え方でしたが、近年は別に首謀者がいて、中大兄皇子は実行者の一人に過ぎないという考え方が有力になりつつあります。
 先ずは、『日本書紀』に記された事件の背景と経緯を確認してみましょう。

 第33代推古(すいこ)天皇のもとで摂政(せっしょう)として政務を取り仕切っていた聖徳太子(しょうとくたいし)は、推古天皇の次に天皇に即位するものと考えられていましたが、推古天皇よりも先に命を落としてしまいます。
 すると、皇位継承をめぐって争いが起きました。聖徳太子の息子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)が有力視されたことは当然ですが、聖徳太子の影響力によって力を落としていた蘇我(そが)氏がこれに反対し、結局は押坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとおおえのみこ)の子、田村皇子(たむらのみこ)を天皇に擁立しました。第34代舒明(じょめい)天皇です。
 舒明天皇が崩御すると、またしても皇位をめぐって紛議が起きました。このとき、再び聖徳太子の子、山背大兄王に即位の可能性がありましたが、蘇我氏がまた妨害し、舒明天皇の皇后が即位し、推古天皇についで二番目の女帝、第35代皇極天皇が成立したのです。
 舒明天皇、皇極天皇と蘇我氏の思うままの天皇が成立し、蘇我氏の権力はいよいよ強いものとなり、蘇我蝦夷(そがの・えみし)が蘇我入鹿(そがの・いるか)に大臣の位を譲ると、入鹿は山背大兄王の住む斑鳩宮(いかるがのみや)を襲撃して、殺害します。山背大兄王が暗殺されたことで、聖徳太子家は親子二代にして滅びてしまいました。
 そして、運命の皇極四年(六四五)六月十二日。この日は飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)の使者を迎えて三韓が大和朝廷に忠誠を誓う儀式が行われることになっていました。『日本書紀』に記されたこの時の事件はあまりに有名です。
 皇極天皇の子である中大兄皇子は中臣鎌足とともに、儀式の最中に蘇我入鹿に斬りかかる計画を立てていました。
 儀式が始まり、皇極天皇の前で上表文が読み上げられると、中大兄皇子は入鹿の頭と肩を斬りつけました。
 血まみれになった入鹿は、皇極天皇の御座にすがり、
 「まさに日嗣(ひつぎ)の位にましますべきは、天子(あめのみこ)なり。臣(やっこ)、罪を知らず」
 と、自らの無実を訴えたと『日本書紀』は記します。そして、中大兄皇子は天皇に、入鹿が皇位を狙っていたことを述べました。
 驚いた天皇は黙って奥へ入っていき、入鹿にはとどめが刺されたのです。
 入鹿が息も絶え絶えに訴えた無実の主張は、中大兄皇子の次の発言を予期していなければ発することができないはずですし、血まみれになりながらこれだけ長いセリフを述べたとは到底思えないので、これは後世の創作と考えられます。実際は「うー」といいながらうずくまったのではないでしょうか。
 天皇の息子が、外交的な儀式の途中、天皇の前で、白昼堂々と大臣を殺すわけですから、これは一種のテロであり、大変なことです。現在に置き換えれば、国賓を招いた宮中晩餐会で、天皇陛下の前で、皇太子殿下が内閣総理大臣を殺害するようなものです。
 そして、入鹿が殺害された翌日には、入鹿の父親の蝦夷も自害に追い込まれ、以降、蘇我氏は完全に没落することになります。
 さらにその翌日には、皇極天皇が、日本史上初となる生前譲位をおこなって、第36代孝徳(こうとく)天皇が即位しました。

 これまで、「乙巳の変」の首謀者は中大兄皇子とされてきましたが、それについては次のような反論があります。
 先ず、当時は若年で天皇に即位した例はなく、二十歳の中大兄皇子が即位できる可能性はありませんでした。したがって、この時点で中大兄皇子が自ら入鹿を殺害する動機がはっきりしません。
 また、もし殺害後に中大兄皇子が速やかに即位すると、天皇になるために入鹿を殺害したと周囲からいわれることになりますから、その動機もなかったと考えなくてはならないでしょう。
 すると、中大兄皇子と中臣鎌足は事件の実行者であるも、二人とは別に事件の首謀者がいると考えることは自然なことです。
 乙巳の変の首謀者は、入鹿が殺害されることにより、もっとも利益を得た人物、孝徳天皇ではないかと考えられています。
 次の第37代斉明(さいめい)天皇の後、中大兄皇子は即位して第38代天智(てんじ)天皇となりました。

天皇になるには

http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu68.html

 天皇の即位儀礼
 国家公務員試験に合格すれば、誰でも国家公務員になることができます。また会社の取締役会で代表取締役に選任されれば、誰でも社長になることができます。そして、国会の首班指名を受けて天皇に任命されれば、誰でも内閣総理大臣になることができます。しかし、天皇は試験に合格したり、誰かが決議したり、誰かが任命したりしてなるものではありません。

 天皇になることを即位(そくい)といいます。即位の時期は時代とともに変化してきました。
 古くは天皇の崩御(ほうぎょ)(天皇が亡くなること)によってのみ皇位の継承がおこなわれましたが、六四五年に皇極(こうぎょく)天皇が生前譲位(せいぜん・じょうい)(生前に天皇の位を譲ること)をしてからは、譲位の道が開かれ、以降多くの例を数えます。
 しかし、明治天皇から現在まで、譲位の例はありません。明治時代に成立した皇室典範は、皇位継承は天皇の崩御によってのみ行われることを規定し、以降、譲位による皇位継承は行われなくなりました。昭和二十二年に皇室典範は廃止され、新たな皇室典範が制定されましたが、皇位継承の時期については旧法を引き継いでいます。

 また、即位の方法も時代とともに変化しています。ただ、天皇が天皇になるためには、特別な儀式をいくつも経なければいけないことに変わりはありません。
 天皇になることを、古い言葉で「践祚(せんそ)」といいます。践祚とは、「皇位を践(ふ)む」ことで、具体的には天皇が天皇であることの証「三種の神器」を継承することがその趣旨です。(三種の神器については、第7回「皇位のしるし・三種の神器」、第15回「神器各論①八咫鏡」、第18回「神器各論②草薙剣」、第22回「神器各論③八坂瓊曲玉」参照)
 古くは践祚をもって天皇に即位したことになっていましたが、桓武天皇以降は、践祚の儀の後に、日を隔てて即位の儀を行うようになり、現在に至ります。
 践祚の儀が神器の継承でしたが、即位の儀は、天皇に即位したことを広く内外に示すことを趣旨とします。
 践祚の儀と即位の儀を済ませると、一応形上は天皇に即位したことになりますが、実はまだこの段階では、本当の天皇ではありません。
 本当の天皇になるには、もうひとつ絶対に避けて通れない重要な儀式があります。それが「大嘗祭(だいじょうさい)」です。

 江戸期までは旧暦十一月の二回目の卯(う)の日、明治以降は新暦の十一月二十三日に毎年、新嘗祭(にいなめさい)という宮中祭祀(きゅうちゅうさいし)が行われていますが、天皇に即位して最初に行われる新嘗祭を、特に「大嘗祭」と呼び、通常の新嘗祭とは区別しています。大嘗祭は天皇一代につき一回限りの祭りです。
 この大嘗祭を行うことで、天皇の体に天皇霊が宿ると考えられています。それによって天皇が天皇になるわけです。そして、その天皇霊とは、有力説によれば、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の孫で、天孫降臨(てんそんこうりん)した邇邇芸命(ににぎのみこと)の御霊(みたま)であるとされています。ですから、歴代の天皇には、同じ御霊が宿っていることになります。(邇邇芸命については、第47回「天孫降臨(古事記、第十四話)」参照)
 大嘗祭は、大嘗祭のために建てられた悠紀殿(ゆきでん)と主基殿(すきでん)という建物の中で行われます。それぞれ皇祖の天照大御神をお迎えする神座に御膳をお供えし、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を感謝し、国家と国民の安寧を祈念するお告文(つげぶみ)を天皇が読み上げ、天皇が神と共に御膳を食する直会(なおらい)をすることにより、天皇が神と一体になると考えられています。

 したがって、三種の神器を継承する践祚の儀を行った段階で形式的に即位したことになり、次に即位の儀を行った段階で、社会的な意味における天皇が成立し、そして最後に天皇の体に天皇霊を宿らせる大嘗祭を行って、宗教的な意味における天皇、つまり本質的な天皇が成立するのです。
 践祚の儀、即位の儀、大嘗祭の三つの儀式を通じて、段階的に天皇の即位が成立することになります。

 ところで、今上天皇は、昭和六十四年一月七日に昭和天皇が崩御あそばした日に、践祚の儀に当たる「剣璽等継承の儀(けんじとう・けいしょうのぎ)」を済ませられ、践祚あそばしました。
 そして、一年間は昭和天皇の喪(も)に服され、その喪が明けた平成二年十一月十二日に即位の儀に当たる「即位の礼」で、天皇に即位されたことを広く示され、そして同年十一月二十二日夕方から二十三日未明にかけて大嘗祭を済ませられました。

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