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動乱の東アジア

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年 7月12日(土)19時05分52秒
  通報 返信・引用 編集済
 
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140706/wlf14070612000011-n1.htm

関連記事:渡辺裕明の奇人礼讃

http://search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A2RhYNVO7MFTgQ0ABlaJBtF7?p=%E6%B8%A1%E9%83%A8%E8%A3%95%E6%98%8E%E3%81%AE%E3%80%90%E5%A5%87%E4%BA%BA%E7%A4%BC%E8%AE%83&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=&afs=

「難波宮」は「統一中国」建国の衝撃が生み出した…律令国家の淵源、わずか2年の悲劇
2014.7.6 12:00 (1/4ページ)[渡部裕明の【奇人礼讃】]
いまも発掘調査と整備が進む難波宮跡。後方は大阪城公園=大阪市中央区(本社ヘリから)

いまも発掘調査と整備が進む難波宮跡。後方は大阪城公園=大阪市中央区(本社ヘリから)

 今から約1300年前、日本(倭国)はかつてない危機に見舞われていた。東アジアに、段違いに強大な国家が出現したからである。大阪・上町台地、現在の大阪城公園(大阪市中央区)の南に造られた難波宮(なにわのみや、長柄豊碕宮=ながらとよさきのみや=)は、その緊張の産物だったといえる。わが祖先たちは、どう知恵をしぼって危機に対処したのだろう。難波宮の革新性を探ることで、古代の国づくりの苦悩に迫ってみたい。

相次ぎ滅亡した百済と高句麗…動乱の東アジア

 7世紀の東アジアは、激動の渦の中にあった。中国大陸で統一王朝の隋が建国され、その緊張が朝鮮半島など周辺の国々に及んだのだ。隋のあとには唐が成立し、日本もその圏外ではなかった。

 「唐に攻め込まれるかもしれない…」。力だけが正義の時代である。事実、朝鮮半島の百済や高句麗は滅亡の道をたどっている。大陸からもたらされる最新情報を前に、政権中枢の人々の危機感は切実だったろう。

 守旧派の蘇我氏が主導する政権では事態に対処できないのでは…。こうした不安の声を背景に645年に起きたのが、中大兄皇子らによる蘇我蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)父子討伐のクーデター、乙巳(いっし)の変だった。

 改革グループの最年長で、姉である皇極女帝の退位を受けて即位した孝徳天皇は、飛鳥の地を捨てることを決断した。難波は茅渟海(ちぬのうみ、大阪湾)に面し、大陸に向けての出発点だったからだ。上町台地の先端には、建物を建てるだけの平地もあった。

《(大化元=645=年)冬12月9日、天皇は都を難波長柄豊碕に移された》

 『日本書紀』によれば、孝徳政権は新都の造営を始める一方で「改新の詔(みことのり)」を発し、土地の私有を廃し(公地公民)、戸籍や税の制度を定めた。旧俗を止め、豪壮な古墳を造ることを禁じた(大化薄葬令=はくそうれい=)。新都は白雉(はくち)3(652)年9月、完成した。

大パノラマ楽しむ望楼?突出した最先端技術

 今年2月、大阪歴史博物館(大阪市中央区)で「難波宮と大化改新」と題したシンポジウムが開催された。建築史が専門の李陽浩(り・やんほ)同館学芸員は、難波宮の先進性を指摘した。

 「日本書紀には、完成した難波宮が“言葉にできないほど素晴らしい”と書かれている。大規模で企画性のある内裏や朝堂院(ちょうどういん)、朱雀門をはじめとした中心線上の門、東西の八角殿など、いずれも飛鳥の宮にはなかったものです」

 こうした先進性、革新性は朝鮮半島や中国の最先端の技術や思想を受け入れただけでなく、さらに工夫を凝らした成果がうかがえる。

 しかし、宮の完成からわずか2年後、孝徳天皇が亡くなってしまう。中大兄皇子らは前年、飛鳥に戻っており、2人の間に路線の対立があったと考えられている。「飛鳥で造られた岡本宮では、難波宮の革新性は引き継がれなかった。あまりに進みすぎていたので、かえって嫌われたのではないか」と、大阪市立大学の磐下徹講師(日本古代史)は言う。

 難波宮では、宮の東側に望楼のような建物が見つかっていることも報告された。「大阪湾から入り込んだ河内湖や生駒山の大パノラマを楽しんだ施設だと考えていい。外国からの賓客を迎えたのかもしれません」。発掘調査を担当する大阪文化財研究所の高橋工・調査課長が思いをめぐらせた。

白村江の歴史的惨敗が中央集権生む

 シンポジウムの議論は、大化改新の実態にも及んだ。日本書紀の一連の改新の記述については、戦後歴史学の研究成果の中で、「日本書紀が作り上げたフィクション」という虚構論が力を得た時期があった。行政や官僚組織が整備されるのは、もっと後世になってからのことだったとの見方である。

 しかし、磐下講師は「飛鳥や藤原京などで木簡という1次史料が相次いで発見されたことにより、すでに7世紀半ばに律令制的な公民制は萌芽していたと考えられるようになった」と報告。大阪市立大学の岸本直文准教授(考古学)も、「大化薄葬令は理念的な産物という意見が強いが、古墳の石室などの様相を細かく見てゆくと、かなり効果をあげていたことが分かる」と、薄葬令の実効性を認める立場を表明した。

 孝徳天皇亡き後は、皇極女帝が重祚(ちょうそ)して斉明天皇となった。天皇と中大兄の母子は朝鮮半島情勢に深く関わり、唐や新羅によって圧迫されつつある百済を救援する派兵に踏み切る。天智2(663)年の「白村江の戦い」である。

しかし、海を渡ったのは西日本各地の豪族からの寄せ集めの兵で、規律正しい唐・新羅連合軍の敵ではなかった。白村江での歴史的大惨敗の結果、日本は真の改革のため、中央集権国家への道を目指すこととなったのだった。

 難波宮で姿を現しかけた古代国家の理想像は残念ながら、まぼろしで終わってしまった。しかし、その先進性は色あせるものではない。

 「難波宮が示した王宮プランが実現するのは結局、100年後の聖武天皇の時代。過大な評価はできないが、律令国家への淵源が孝徳朝にあったことは間違いない」。磐下講師は、こう締めくくった。
 
 
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