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軍学と秋山真之

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年 7月21日(月)11時06分11秒
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  http://wedge.ismedia.jp/articles/-/630

人間は生きようとする意思が必要なのです

http://wind.ap.teacup.com/naoskoba/2434.html#comment20834



秋山真之の
負けぬ気と油断せざる心
(1) 名参謀になるための素質と環境
2009年11月21日(Sat)  三浦康之

軍学をまじめに勉強すれば、だれでも名参謀になれるか。

 経営学をまじめに勉強しても、だれもが名経営者になれるわけではない。

  「負ケヌ気ト油断セザル心アル人ハ、無識ナリトモ、用兵家タルヲ得」

 アメリカ留学中の秋山真之海軍大尉は、自戒のことば30条をビゲロー著『戦略原理』のうらトビラに書き付けました。その第2条です。真之ときに31歳。

 この条をひっくり返して読みましょう。

 軍学の知識があっても、負けぬ気と油断しない心を欠く人は、用兵家になれない。

 では、真之の「負けぬ気と油断せざる心」はどのようにして養われたのか。

 すべては天の時、地の利、人の和で決まるといいます。

 そこでまず、天の時です。
自分の生まれた環境を味方にできるか

 秋山真之は明治元年3月20日に生まれました。

「太平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯(しはい)で夜も眠れず」

 銘茶の上喜撰と、米海軍ペリー提督ひきいる四隻の蒸気船をかけた川柳です。

 植民地の争奪に乗出した欧米列強に囲まれて、明治日本は油断するどころではなかった。戦々恐々、「尊皇攘夷」から「富国強兵」」へ君子豹変します。この明治の油断せざる時代精神が三八年をかけて、日本海海戦の名参謀秋山真之を育てました。 まさに明治維新の申し子です。本人にもその自覚があった。

 平成のいま、38歳の方は1970年前後、昭和45年の大阪エクスポのころにお生まれのはずです。ご自分の生まれた年、天の時をどう意義づけるか。

 エクスポの年、日本の将来は輝いてまぶしいほどでした。楽観の気分が広がります。ところが、あとがいけない。バブルからバースト、さらに世界金融大恐慌と油断の連続でした。

 もうさすがに懲りたでしょう。エクスポ世代は「油断せざる心」をもつて、新たな時代と地平を切り拓いていただきたい。

地の不利は発奮に変えろ

 明治維新のあとは、薩長土肥の藩閥の天下となります。ところが、秋山家は初代信久が松平(久松)定之に仕えてから6代の久敬にいたるまで、先祖代々愛媛の松山藩士でした。この藩の初代定行は、家康の生母お大の方(伝通院)が再婚して生んだ久松定勝の嫡男です。れっきとした親藩だから明治維新では佐幕側についた。長州征伐の先鋒として海を渡り毛利藩の屋代島に侵攻します。ところが、肝心の徳川将軍慶喜があっさり大政奉還してしまった。さあ、どうするか。

 毛利藩に占領されるのだけは、勘弁してもらいたい。幸い、勤王派の土佐藩から200名の進駐軍がやってきます。道後温泉の芸者衆が峠まで出向いて歓迎したそうです。それでも屈辱の歴史にはちがいありません。「土州下陣」と呼ばれ、いまも松山人の記憶にのこっています。この苦難の記憶が秋山真之だけではなく、『坂の上の雲』の主人公、秋山好古と正岡子規の「負けぬ気」を養いました。

 なにしろ錦旗に逆らった賊軍の子弟ですから、高級官僚になって出世する道が閉ざされていた。軍人になるか、文士になるしか仕方ない。兄好古は陸軍、親友子規は文学、弟真之は海軍を選び、「負けぬ気」でそれぞれ第一人者となります。

 昭和日本もアメリカ軍に占領されました。ソ連でなくてよかったとはいえ、屈辱の歴史に変わりはない。「米州下陣」です。吉田茂が悔しがった。

「戦争に負けても、外交で勝った例はある」

 この「負けぬ気」が戦後の復興を支えました。

 では、バブル・バーストからの復興がなぜ足踏みのまま、失われた15年がすぎてしまったのか。「負けた気」がしていないからでしょう。勝ち負けは相手があっての話です。不動産バブルを起こした自分が悪いという自責の念だけでは、闘志が湧いてこない。

 バブルの原因ば昭和60年9月22日、中曽根内閣の宮沢蔵相がプラザ合意でアメリカの円高・ドル安外交に屈したときにはじまります。これは先の大戦での敗北を上回る対米第2次敗戦でした。その認識がないから「負けぬ気」が湧き上がらない。小泉構造改革はアメリカに「負けるが勝ち」みたいな弱腰でした。竹中参謀には「負けぬ気」など微塵もない。ひたすら対米追従でした。

 秋山真之は地の不利を発憤の動機に変えました。禍を転じて福となす。エクスポ世代の諸兄諸姉は、まずアメリカに対して。つぎに中国に対して「負けぬ気」を奮い発たせてください。

 さて、一番大切なのは、人の和です。
天地人のうち、もっとも大切なもの

 秋山真之は父平五郎と母貞の五男として生まれました。幼名は淳五郎です。

 松山藩士といっても、平五郎わずか10石取りの歩行目付、切米の身分で知行地はありません。藩から蔵米を支給される下の中級の武士でした。真之が生まれたころには髪がうすくなり、頭が寒いと大黒頭巾をかぶっていた。いつもこたつにあたってなにもせず、ただニコニコして、五人の息子に言い聞かせていました。

「おまえたちを発憤させるために、ムリしてなまけているんだ」

 晩年には老子・荘子を読み、なまえを「八十九」(やそく)とあらため、頭をまるめて「天然坊」と号した。ひょうげた味わいのあるひとでした。といっても、久敬は明治維新のあと愛媛県学務課の役人として採用されています。明治11年に旧藩主が『松山叢談』という藩史を編纂しました。その編集者のなかに秋山久敬の名があるそうです。つまり、久敬には学問があった。

 あなたの父君がたよりなげにみえても、書棚に書籍がならんでいれば、しめたものです。名参謀になる環境にめぐまれている。

 母貞も松山藩士山口家の次女で、夫の久敬とは5つちがいでした。小柄で賢く働き者で、貧乏しながら五男一女を育てあげます。武家の娘ですから学問があって、息子たちに四書五経の素読を教えた。夫がほったらかしだからです。娘のすゑには炊事・西方・糸つむぎなど家事いっさいを仕込んだ。

 逸話がのこっています。真之が12歳のとき、8歳の子分の桜井真清(海軍少将)家の蔵書のなかに岩戸流の火薬調合法をみつけた。さっそく12人の子分を指揮して花火を打ち上げる。お巡りさんにねじ込まれて、母親の貞が怖い顔になった。

「おまえのような腕白は生きていてもしょうがない。あしもこの短刀で死ぬけん、おまえもこれで胸を突いてお死に」

 さしものガキ大将も手をついてあやまった。真之が降参したのはこの母貞だけです。 まさにふるきよき時代の典型的な良妻賢母で、なかば厳父をかねました。

 あなたの母上もおそらく家事名人で、しかも読み書きを教えるのに熱心な教育ママだったでしょう。ずいぶん叱られたにちがいない。それでも名参謀になれないのは、あなたが怠けているからです。反省した方がいい。

秋山真之の長兄の鹿太郎・則久は漢学をよくしましたが25歳のとき発病して家督をつげなかった。次兄の寛二郎・正矢は岡家に入り朝鮮電気の役員在職中に死亡します。三兄信三郎・好古は日本騎兵の父とうたわれ陸軍大将になった。四兄の善四郎・通一は西原家に入り実業家となったが若死にしています。末っ子がただひとりの女子ですゑです。

 ここのところは、みなさん不利でしょう。一人っ子の時代となってしまっている。 兄弟喧嘩ができないなら、友だちをふやすしかありません。

 秋山真之には好古というたよりになる兄とともに、正岡子規という学友がいました。真之は子規に負けない文才があった。

雪の日に北のまどあけシシすれば
あまりの寒さにチンコちぢまる

 これは八歳のときの三十一文字(みそひともじ)です。真之には画才もありました。10歳ころには凧の絵を大人よりうまく描いた。俳人河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)が「秋山の凧」を買ってくれと母にせがんだ記憶を書きとどめています。

誤解してはいけません。色白で喧嘩に弱い子規とちがって、真之は真っ黒けの腕白小僧でガキ大将でした。才能が共通していてしかも性格がちがうから、ふたりは惹かれ合って親友となったのです。類だけをもって集まってもしかたない。

 いかがですか。真之と共通する子供時代の天地人の記憶がなにかあれば、あなたはめぐまれている。もし共通項がなければ、ハンデがあると覚悟して、いっそう努力するしかない。秋山兄弟のなかでも努力して大成したのは好古と真之だけなのですから。

 次回は、真之がどんな学習努力を自らに課したか。そこを見ましょう。
 
 
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