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金融システムの闇の超起源 その6

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年11月 1日(土)02時06分26秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11891085563.html

≪R.D. Willing 著『マネー/金融システムの闇の超起源』より抜粋(6)≫
2014-07-08 22:12:34
テーマ:R・デュアン・ウィリング
(5頁からの続き)

〔Richard Duane Willing 著, 為清勝彦 訳『マネー/金融システムの闇の超起源―地球を滅ぼす人類最後の宗教』 第5章 矛盾とカルト より抜粋、要約 P.112-P.143〕

■「よそ者であれば」毒物であろうとも与えて構わない、と申命記(「神聖な指示」)の神(モロク)

通常あまり意識しないかも知れないが、商業(コマース)というものは、色々な意味で宗教に深く関わり依存しているものなのだ。取引は、「嘘をつかない」という最低限の道徳的規範を守らなければ成立し得ないわけで、この道徳を根底から支える宗教は非常に重要なのである。宗教心に篤(あつ)い信者達は、(当り前と言えば当り前だが)嘘をついてはいけないと教えられ、祈りや願い事を通じて神に近づく正しい方法を宗教から教えられる。誠実に祈り願い事をすれば、その者の潜在的能力がどんどん引き出され、望ましい選択に辿り着くことが出来るとされる。神は、信徒のより良き生活に必要不可欠な規則や規範が身に着くように宗教を通じて語り掛ける。熱心な信徒の集団は、草創期には(秘密結社的なニュアンスで)「カルト Cult」と呼ばれることが多い。

新たな神を擁する新興カルトは、しばしば既成宗教の考え方と鋭く対立する。とかく新興カルトは、正邪を峻烈(しゅんれつ)に識別し善悪を厳しく弁別しがちで、彼らを導く新たな知恵(教え)を、神から自分達が特別に授かったと言い張るものである。神が与えた戒律なるものは、人間が正しく生きられるように、あれこれ間違った行動の戒めを懇切丁寧(こんせつていねい)にも具体的に纏(まと)めたものである。伝統宗教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教と同様に、多くのカルトにとっても、十戒(訳注.モーセがエジプト脱出の後に、シナイ山にてイスラエルの神から与えられたとされる十の戒律のこと)〔※関連資料(1ZEITGEIST・2ZEITGEIST「“モーゼの十戒”については完全にエジプトの死の本の呪文125の盗用だ」・3・4聖書アラビア起源説1~32・5『日の下に現われ出る為の書』・6666・7ニムロド、セミラミス偽りの三位一体・8・9善悪二元論と陰陽二元論・10)〕は、基本的な規律として認識され採用されている。この個人の日常生活における道徳的な指導は、商業の世界においても守られるべき正しい商行為の規範(ルール)となっている。

ところが、申命記14章21節を読むと、今述べたような「正しい行為」と矛盾していることがよく分かる。聖書の神は、誰もが持っている誠実の概念を、突き崩そうとしているかの様である。この神は、良き人間関係を築く上で必要不可欠な信頼に基づく営為を露骨に荒々しく拒絶している。聖書の主なる神は、彼のカルト(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)に「特別な(とんでもない)指示」を与える。これは「神聖な指示」とされているが、一般的に理解されている道徳的・社会的な行動に余りにも反しており、「神聖な意志」からなされたと言うよりは、経済霊と逆神モロクによるものであるとしたほうが、遥かに納得出来るものだ。

申命記の神は、彼のカルトに、「よそ者であれば」毒物であろうとも与えて構わない(毒餃子事件が想起される)と具体的な指示をしている。そして聖書は、そのように神が人々を「指導」したと伝えている。「お前達は、主なる神へと繋(つな)がる人間なのだから、死んだものを食べてはいけない。町にやって来たよそ者に与えれば食べるだろう。もしくは、外国人に売ってもよい」(旧約聖書 申命記 14章21節)と神は言った。そのような穢(けが)れた食べ物を不正に売買する「神聖な指示」が、慈悲深く、万人に普(あまね)く恵みを与える神意から出てくるとは到底考えられない。

この申命記の主なる神の形跡を、遺伝子操作した種子と食品(自然主義者は「汚染物」と言っている)〔※関連資料(1重要・2・3・4・5・6ヨハネの黙示録の四騎士・7・8・9・10・11ハラル市場参入と日本企業の可能性)〕を製造して天然の生命を人為的に支配しようとする現代企業の活動に発見出来るが、経済霊と逆神モロクのことを考えれば何の不思議も無い。


■神と共謀、エジプト人から「全ての金銀」を騙取(へんしゅ)したモーセ

更に聖書を読み進んでいけば、もっと矛盾したことに遭遇する。ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒の基盤となっている聖書のカルトは、エジプト脱出の物語(出エジプト記)に起源がある。選ばれた民は、シナイの砂漠を36年間放浪した(40年と主張しているが、モーセが84歳の時に脱出を始め、120歳で死去したのであれば36年になる。旧約聖書 申命記 34章7節)。彼らの衣服や靴の耐久性は抜群だったのだ。この信じ難い出来事は、彼らの神の指揮による、とんでもない詐欺と窃盗行為の末に起きている。その集団を率いたモーセは、聖書の長々しい神話的人名録中ヒーローの一人であるが、聖書の記述によると、神と共謀して詐欺を計画し、周到な手順でエジプト人から「全ての金と銀」を騙(だま)し取った。

この話から想像すると、恐らくモーセを操った神(反神モロク)は、新たなカルトを組織するに当って、尋常ならざる巨額資金を必要としていたのではなかろうか。この神は、カルトに所属する女は、返す気が全然無くてもよいから、隣人であるエジプト人から「全ての宝石、金、銀」を借りるようにと指導している。エジプトにいた人々で、カルトの一員でないものは全て、騙し取られる標的となった。こうして騙し取った大量の財産は子供達の身に着けさせた。略奪品を抱えて逃走を続ける間に、借りた金銀を盗んだことを隠す目的だったのは明らかである。この大胆不敵な詐欺は、一時は高位の役人をしていたモーセに関して聖書が記録していることであり、「エジプト人から略奪せよ」(旧約聖書 出エジプト記 3章22節)という計画的な目的を持つ神の命令によって行われた。エジプト人を確実に破滅させるという目的を除き、盗んだ金の最終的な行き先について、物語の内容は如何にも矛盾しており、不明瞭である(訳注.映画『十戒』などでは、エジプト王が如何にユダヤ人を奴隷にし、理不尽に扱ってきたかを執拗に描いているが、とんだ食わせ者だったらしい。聖書自身が自白しているように、反神モロクの指導よろしきを得て大胆不敵にエジプト人を破滅すべく詐欺略奪を働いた)。

聖書の記述から明らかなのは、詐欺と騙しによる窃盗は、モーセへの指図に示された、カルトの神の具体的な意志によるものであったことである。そこには、人間の最たる責務である、地球の世話人としての責務のことを考えたり、尊重したりする姿勢は一切無い。人類に入り込んできた新しい神の力は、略奪の標的となったファラオの思考さえも動揺させた。

テレパシーを使った心理操作の力によって、エジプト人は策略の犠牲者として協力させられてしまった。「そして神は、エジプト人に同情を起させるようにした。その為、エジプト人は求められるままに物を貸した。そうしてエジプト人から奪い取った」(旧約聖書 出エジプト記 12章36節)と聖書にある通りである。エジプト人が人間として幸福に生きることについて、完全なる無関心状態である。この「新しい神」には、新たに組織したカルトが貧乏であってはならないという、露骨(あからさま)な願望があったことが明確である。「手ぶらで旅立ってはならない」(旧約聖書 出エジプト記 3章21節)などという神の指示を道義的に正当とするのは、どう考えても蒙昧(もうまい)だろう。


■「主なる神」の覆い(ヴェール)の陰で経済霊が虎視眈々(こしたんたん)

この詐欺と窃盗の話が、如何にして真実と寛容を信奉する宗教の基盤として解釈され得るのかは、永年の謎である。この道義と敢(あ)えて矛盾対立するストーリーを記載したのは、何らかの暗示的な意味があると、ここでは考えることにする。その暗示とは、詩のような象徴的なものであり、聖書の出エジプト記が、精霊というよりも、経済霊の誕生について語っていることを暗号化して隠しているということである。

そうでないとすれば、聖書の神の窃盗精神に頬被(ほおかぶ)りして無視を決め込もうとする聖書の宗教の性向は、腹黒さと、ご都合主義と、反神モロクとの計画的な共謀を意味することになる。しかしながら、依然として、現代の聖書解釈は全般的に出エジプト記の経済的な側面を意図的に見過ごしている事実がある。それはまるで、人類に忍び込む「新しい神」が自然に逆らった性質を持つことを隠そうとする巧妙な策謀でもあるかのようである。恐らく善意の聖書の教えが次第に乗っ取られ、現在では人類にぴたりと張り付いている経済霊とモロク神を隠匿(いんとく)する暗幕(眼くらまし)になっているという印象を受ける。

人類の歴史は、既成の宗教と反逆の思想を持つカルトの戦いの連続であるかに思える。思想は常に緊迫した対立関係にあり、論破合戦を繰り返してきた。新興カルトの脅威は絶えず迫っていた。ここで依然として謎なのは、かつて侮蔑され嫌悪されていたカルトから生まれた思想(観念)が、如何にして既成宗教に侵入し最高位の座に登り詰めることが出来たのかということである。社会の異端としてのカルトと、社会の基盤であり中軸となっている教義そのものの起源を生み出したカルトが同居しているという矛盾は、宗教研究における多くの矛盾のほんの一つである。信じる者にとっては、既存の秩序に侵入していったカルトと、根本原理を生み出したカルトの間の矛盾は、皮肉なことにかえって彼らの神の至高さの証拠となる。真っ当な(敬虔な)信者というものは、かつて軽蔑の対象であったカルトが公式な宗教へと進展していった矛盾について疑いもしないものである。

宗教の起源について信者が疑問を抱かない理由は幾つかあるだろうが、無視出来ない理由として、新興カルトは開祖の出身教団の有名人物を巧みに流用するということが挙げられる。例えば、旧約聖書を基盤とする各宗教諸派では、神は、強奪の繰り返しを通じて出現する性癖があるものと見られている。聖書が作られる以前は、全てのセム人にとって神の総称は「エル」だったが、一説によれば、カナン人の神であったバアル神が旧約聖書の神ヤハウェに変身したそうである(Graham,Lioyd,Deceptions and Myths of the Bible,Bell Publishing Co.,New York,1979,P.156)。

零細なカルト的観念から始まって主流の堂々たる信仰体系へと、思想は発展を遂げる。例えば、国際的な共産主義は、卑小なカルトが如何にして短期間で世界的な信仰に発展することが出来るのかを示す好例(モデルケース)であると長らく考えられてきた。共産主義はしばしば宗教(妖教)という言葉で表現された。大商人のカルトは、共産主義のことを口にするだけで、不安に怯えた。ソビエト連邦が消滅した後も共産主義思想が持続出来るのか、それはまだ分からない。しかし、社会秩序の中に諸々の矛盾が存在する事実は、国際共産主義の勃興と共に、大きく浮かび上がった。共産主義のドグマ(教条)は、「世界が進歩する中で、それぞれの歴史段階の資質を決定する駆動力が存在する。それぞれの段階での主たる駆動力が、人類の経済的関係に根本的な矛盾を齎(もたら)す。この矛盾こそが革命による解決を求める」(Olekh,L.,How to Study the Theory of Scientific Communism,City:Progress Publishers,1988,P.47)と言う。聖書の物語におけるモロク神の登場は、そのような矛盾の一例に違いあるまい。


■聖書「殺人の奨励(「出エジプト記」)」は、商業(マネー)の象徴

神と宗教を頑(かたく)なにかつ公然と拒絶して出現した共産主義とは異なり、経済霊(エコノミー・スピリット)は、「主なる神」と呼ばれる宗教的イメージの覆い(ヴェール)の背後に隠れている。聖書が、カルトを急激に発展させようと残虐行為を叱咤激励(煽動)するのは、モーセ率いる新興カルトの神の指示としては珍しいことではない。聖書には「イスラエルの主なる神は言った。門から門へ出没し、全ての兄弟を、全ての友人を、全ての近隣者を撃ち殺せ」(旧約聖書 出エジプト記 32章27節)とある。この文章の「門」とは、市場が開かれ商売が行われていた城壁都市の場所を指している。この一節が象徴的に意味するものは、現在、市場の力として認識されているものを裏付けていると考えられる。殺人の奨励は、商業を象徴するものとして特殊ではない。現代の市場の慣習として、競争相手を「殺す」という象徴的な表現はよく用いられる。商売の競争相手を殺す手段は、通常、マネーの価格である。今日の株式投資の用語を見ると、劇的な価格上昇によって、市場で「殺す」ことが出来るのを心待ちにしているのが分かる。

出エジプト記の中に隠匿(いんとく)された経済霊のカルトの到来は、経済的な利益の獲得が人類の駆動力となる時代が始まったことを示している。「経済霊が育(はぐく)むものは、意識的であれ無意識的であれ、商売において特段の決まりきった行動様式を取らせる複雑な精神思想」であり、主にマネーの計算が駆動力となっている(Fanfani,Amintore,Catholicism,Protestantism and Capitalism,Whitefriars Press Ltd.,London,1935,P.20 邦訳はアミントレ・ファンファーニ著, 佐々木専三郎 訳『カトリシズム・プロテスタンティズム・資本主義』未來社 1968年刊行)。

人々の心の中に棲みついている経済霊は、商売と市場にだけ存在するものではない。政府機関も同様に感染している。例えば1980年の会議で、アメリカの内国歳入庁は、国際租税条約のことを宗教に喩(たと)えて話した。租税条約の交渉を行う過程で、アメリカの役人は租税の観念を二種類に分けた。「第一に神学理論上の問題があり、次に教義としてどう適用するかの問題がある」と彼は言った(Ault,1980,P.59)。この宗教を使った喩え話は、教義が終わるまで続いた。「税金の異端」という議論も出たし、「税金の十戒」という表現もあった。その後で、「所得税の原則の神学理論」について対話が持たれた。最終的には「米国の租税条約規則と、外国の総合企業の株主税制の相互作用」として、(モロク神の)税制宗教を述べるところまで延々とプレゼンテーションは続いた(前掲書 P.62-63)。経済霊とその神モロクの圧倒的支配は、特に米国ではそうであるが、現代の生活の全領域において顕著である。


■聖書に基づく宗教に共通する倫理観の破棄(詐欺の性癖)

法律制定を支配する経済霊のモロク的パワーの典型例は、米国の金融法制の中に見ることが出来る。アメリカの政治神話があくまで政治神話である所以(ゆえん)は、合衆国憲法の法的建前としては政府が金融機関をコントロールし、公正な競争と人々の安心を確保するよう規制することになっていることだ。真実は全く逆である。米国の銀行が政策を思いのままにしているだけでなく、合衆国憲法に反する現行法制においては、米国に支店を持つ外国の銀行は、連邦政府の銀行法から完全に適用除外になっている。この矛盾にはびっくりさせられる。米国の銀行が、自らの深謀遠慮で外国の銀行を適用除外にしておきながら、外国との競争について文句を言うのはどういうことか?自分達の利益の為にロビイストを使って議会に圧力を掛け法律を作らせていながら、外国の銀行によって不公正な状況に置かれていると自ら言えるのは何故か?旧約聖書が奨励している詐欺の実例が、或る最有力な銀行家の見せかけの「不平不満」の中に現れている。彼は、外国の銀行に有利な法制を廃止することに尽力するのではなく、こんな政策を誘導する為に、銀行の役員達が困って泣いているという嘘をでっち上げた〔※関連資料(1『Credit as a Public Utility』翻訳・2・3・4軍需産業の利益・5「対日年次改革要望書」とTPP・6)〕。

彼が提案した法律案の狙いは、いわゆる外国優遇を撤廃することではなく、大恐慌の時以来、大商人の銀行家達による悪法を禁じる安全装置――全米に施行されていた、金利の上限と銀行業務範囲の制限――を撤廃することをこっそりと法案に盛り込むことだった(Wriston,Walter,Risk&Other Four-Letter Words,Harper&Row,NY,NY,1986,P.70-71)。

これは重大なことだが、経済霊とマネーが聖書に登場するや、人間と神との関係に極めて大きな変化が起きた。ジュリアン・ジェインズ Julian Jaynes(1920-1997)教授は、彼の『二分脳の故障が意識を生んだ』という著書の中で、「マネーを発明する以前は、神々の声を聞くことが可能であった」(Jaynes,Julian,The Origin of Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind,Houghton Muffin Co.,Boston,1976,P.79 邦訳はジュリアン・ジェインズ著, 柴田裕之 訳『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』紀伊国屋書店 2005年刊行)と我々に教えてくれている。現在我が物顔に大手を振るに至っているマネーと経済霊(マネーを強迫神経症的に信奉する想念)の到来(聖書の時代)と時を同じくして、人類が神々の声を聞く能力を失ったらしいとは、何とも衝撃的な事件ではあるまいか。神々の声を聞くことが出来ない人間集団には、もはや経済霊が吹き込む邪悪な思考に対抗するのはとても不可能であったろう。

経済霊が旧約聖書の神(モロク)に由来する駆動力であることに宗教指導者達が気付かないままでいるのは、モロクのオカルト・パワーによる目くらましかも知れない。旧約聖書の神が、自ら「選んだ人々」と接触を始めたのは経済的な関心によるものであった事実を忘れてはならない。詐欺による財産獲得を後方支援する存在として、経済霊との関わりが始まったことは特筆すべき特徴である。この倫理観の破棄は、聖書の諸宗教に共通して教えられていることと、気持ち悪いぐらい矛盾している。多くの聖書の物語に要約して述べられているこの詐欺の性癖こそが、逆神モロクとそのカルトであるマネーの経済霊が人類に入り込んできた証拠である。経済霊とモロク神が、精霊の宗教のヴェールを被(かぶ)って何百年も活動してきたことは、数々の証拠によって裏付けられている。現代の伝統宗教が、新興カルト(無論、このカルトも後述するナチスは別格として大半は新興マネーを信奉しているが)に対して熾烈(しれつ)に抵抗しているのは、同様に新興カルトを敵とするモロクとの相互関係の証拠であると捉えることも出来るだろう。

■経済的矛盾をテコに12人企業家と「使徒(専門職)」がキリスト教(新興カルト)を創始

経済霊が齎(もたら)してきた道徳的矛盾を超克するという大義名分を掲げて、周期的にカルト的性質の新たな観念が現れ出てくる可能性は十分あり得る。共産主義が歴史的な矛盾を原動力として形成されたという考え方はその一例である。共産主義運動においては、世界の進化の原動力は経済的な矛盾から来ているというのが基本的なドグマである。

キリスト教の勃興の原動力として経済的矛盾が存在したことは極めて明確に知ることが出来る。経済霊の最初の世界帝国であるローマの経済事情は、かつて中流階級であった人々がマネー本来の駆動力によって次々に社会の周縁に追いやられている状態だった。経済機会が縮小し、もはやローマ帝国の中流階級を支えることが出来なくなっていた状況に直面した人々が、12人(訳注.原著にある11が誤植。2008年11月22日著者確認)の企業家と「使徒」と呼ばれる専門職の指導の下に生き残りを賭けて組織したのが最初のキリスト教会であったという明らかな例がある。

帝国が日の出の勢いであった頃、拡大する富を目前にしながら経済的に周縁に追いやられるという矛盾に陥った中流階級出身の人々は、生き残りの為に共同体的なカルトを結成した。全般的に公民権が存在しなかったことと、希望の無い大きな絶望感を抱えていたことについては、奴隷達であろうと、益々周縁に追いやられる中流階級であろうと、ローマ人であれば共通するものであった。

罪を社会共通の分母として認識するキリスト教カルトは、階級に関係無く全ての人に救済を与えた。これによって齎(もたら)された社会意識の水平化は、帝国の上流階級の多くの女性に受け容れられ、彼女達はカルトを支援する資金や資産を提供した。このキリスト教カルトが発展してキリスト教会となり、最終的には帝国全体の官僚組織を飲み込んでいくのであるから、驚くべき話である。

キリスト教初期のカルトにチャンスを与えた環境と、国際共産主義に発展したカルトを取巻いていた環境の類似性も特筆すべきである。双方とも人々の経済認識や経済状況が「変革」への大きな原動力となっていた。共産主義のカルトは、外交官であり政治学者であるかの有名なヘンリー・キッシンジャー Henry Alfred Kissinger(1923-)が「一つの宗教」であると呼ぶに至った地球規模の信仰体系へと発展していった。既成の秩序と新興カルトの戦いが20世紀の歴史そのものであるかのようである。ドイツの民族社会主義とイタリアのファシズムは二つのカルトじみた勢力であったが、両者とも利子稼ぎの経済霊とモロク神にとって直接的な脅威となった。


■邪神モロク(既存の利子稼ぎ体制)に敢然と挑んだヒトラー民族社会主義カルト

ドイツの民族社会主義をカルトであると考えた人は少なからず存在する。実際に党幹部の中には、指導者アドルフ・ヒトラーを救世主として考えていた者もいた。ヨーゼフ・ゲッベルス Paul Joseph Goebbels(1897-1945)〔※関連資料(1)及び『赤い楯』より【系図30】を参照〕は、ヒトラーの演説を聞き、党の集会でヒトラーに会った後で、「この男は何者なのか?半分人間であり、半分は神である!真のキリストか、それともヨハネに過ぎないのか?」(Reuth,Ralf Georg,Goebbels,Harcount&Brace,New York,1993,P.67)と感想を述べている。ヒトラーは自分を救世主であるという考えは拒絶し、ただの洗礼者ヨハネに過ぎないと認めている。「私は救世主ではない」とヒトラーは宣言した。「救世主は私の後にやって来る。私はただ本当の民族共同体を築きたいという意志を持っている。それは、神学的でもあり経済的でもある包括的なものであるが、基本的には政治的な任務である」(Wagener,Otto,Hitler:Memoirs of a Confidant,edited by Turner Jr.,Henry Ashby,translated by Hein,Ruth,Yale University Press,New Haven and London,1985,P.172)〔※関連資料(1・2・3・4・5・6)〕。

ジャーナリストのドニ・ド・ルージュモン Denis de Rougemont(1906-1985)は1935年3月11日にドイツの或る町でヒトラーの演説集会に参加した経験から、民族社会主義の中にカルト的な性質があることに気付いたと報道している。ドニは友人とドイツの政治情勢について話をしていた。集団的な魂や精神というものがあるのか?それは民族社会主義のような大衆運動の熱気に惑わされ酔ってしまうような人々を相手に、個人の魂など無いと説得する弁論術的な常套句(じょうとうく)に過ぎないのか?と、ドニが質問すると、友人は数ブロック先のホールで開催されるヒトラーの演説を一緒に聴きに行こうと強く勧めた。

その時は午後3時だった。ホールの入り口は5時まで開かなかった。演説が始まったのは9時だった。友人は、6時間も後に予定されていた演説を聞く為に、午後3時の段階で直ぐに出掛けようと言い張ったのである。総統は午前11時にホールのバルコニーに一瞬だけ顔を出していたという。SA(突撃隊)とSS(親衛隊)は既に広場に微動もせずに整列し、雰囲気を醸成していた。ドニと友人は、何とか2時間を過ごした後、午後5時を少し過ぎてホールに入場することが出来た。その後の数時間の体験と観察についてドニは次のように報告している。



正方形の塔のような空間の中央に丸い舞台があり、そのまた中央に演壇が置かれていた。演壇には赤い布が掛けてあり、強烈なスポットライトを浴びて、そこだけが煌煌(こうこう)と輝いていた。茶色の制服の塊が三階のギャラリーまで埋め尽くしていた。光と影の厳しい交錯で彼らの顔は殆んど見えなかった。ドラムの音は、時おり笛のファンファーレで遮られた。

私は労働者の一群の中にいた。若い男女である。少女達は質素な服装をしていた。会話は殆んど無い。双眼鏡があちこちで手渡されている。時々時間を尋ねる声がする。ホールの外側にいる10万人ほどの信奉者にも、幹部を歓迎する声が届いたであろう。何人かの少女が失神した。空気の良い場所に搬送する。7時だった。誰一人として苛立っていない。誰も文句を言わない。8時になって、総統ではないが、誰か帝国の要人がホールに登場した。ゲーリング Hermann Wilhelm Göring(1893-1946)、ブロンベルク Werner Eduard Fritz von Blomberg(1878-1946)、そして将官達が、歓喜の万歳で迎えられた。州知事が鼻にかかった声で挨拶するが殆んど聴き取れない。私はもう四時間近く立ちっ放しだった。この労苦に見合ったことがこれから起きるのだろうか?

すると群衆の中にざわめきが広がり、ホールの外側でトランペットが鳴った。ホール内のアーク灯は消され、スポットライトは一階のギャラリーの一つのドアに集中した。入り口に登場したのは、茶色の服を着た、無帽の小さな男だった。彼の笑顔は恍惚(こうこつ)としていた。(北米の人々はヒトラーが笑っている写真を見たことがあるだろうか?)

4万人の4万の右腕が同時に上った。男はとてもゆっくりと進み、聴衆に気を配って、ゆっくりと会釈した。この聖なる仕草は、リズミカルに響く雷のような万歳の大喝采を惹き起こした。彼は一歩ずつ前に進む。最後に彼は聴衆の敬礼を受け止めた。6分続いた。群衆は立ったまま、リズミカルに叫び、身体は硬直している。群衆の目は、恍惚の笑みを浮かべ、照明を当てられた一人の男の顔に釘付けになっていた。暗がりの中で群衆の顔には滂沱(ぼうだ)の感涙が流れる。

突然、静寂が訪れる。男は力強く腕を差し出した。彼は視線を天井に向け、党歌が地面から湧き上がってくるかのようだ。この時私は理解した。これは何か興奮状態と脈拍の高まりによってでなければ理解不可能な何かである。私が経験したのは「聖なる戦慄」、魂を土に結び付ける聖霊とでも言うべきものだった。

私は政治集会、大衆集会に参加するものと思っていたが、これはカルトの祝典だった。私が見たものは礼拝だった。私にとって未知の宗教の、大いなる神聖儀式だった。

4万人が即座に一体となって上げた声を忘れることは無いだろう。新しい時代がここに始まった。いがみ合う時代ではなく、愛の時代の始まりである。私は人々の魂から愛の叫びを聞いた。恍惚の笑みを浮かべた一人の男に所有された民族の厳粛で力強い叫びを。純粋で質素で、友であり、不屈の解放者である彼は神だった。



ドニ・ド・ルージュモンは帰国してからしばし熟考し、このように結論付けている。「キリスト教徒よ、地下墓地へ帰れ。キリスト教は敗北した。控え目な儀式に、小規模な集会、哀れな聖歌、どれもが全部葬り去られた。残っているのは、あなたの信仰だけだ。しかし、それこそが本当の戦いが始まる場所である」(Dorozynski,Alexandre,et al.,La Manipulation des Esprits,Press Select Ltee,Montreal,1982,P.80-83)。政治的な観念と、聖書の宗教のヴェールに隠れたモロク神との間の戦いに、大きな社会の公益が巻き込まれるかも知れないという可能性を前にして、思考は凍り付いてしまう。

ドイツの大衆運動の他にも、第2次世界大戦中の日本も、既存の経済秩序を脅かす一種のカルト観念のようなものとして考えられていたと言えるかも知れない。第2次世界大戦の政治的な事例からは、ヒトラー崇拝のドイツと、天皇崇拝の日本は、地球上で特別なカルトであったことと、神の概念において独特であったという意味で、旧約聖書の預言者達によく似た状態であったと言える。
 
 
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