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洪水伝説と三つの鳥居

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年11月12日(水)19時42分9秒
  通報 返信・引用 編集済
  http://www.geocities.jp/roro2734/kouzuiden.htmlより

関連記事:京都こそがエルサレム

http://rapt.sub.jp/?p=17054

富士山とイルミナティ

http://rapt.sub.jp/?p=17651

元記事は....http://ameblo.jp/64152966/entry-11958496465.html

有名な陰謀論者の殆どに問題がある

http://rapt.sub.jp/?p=17004

洪水伝説と鳩・燕・烏の三つ鳥居

ノアの洪水伝説の原型であるシュメール・アッカドの『ギルガメシュ叙事詩』は、アッシリア語版・古バビロニア語版・ヒッタイト語版・フルリ語版なども発見されている。

管理人注:

聖書から見たノアの大洪水

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/2126

ギルガメシュ叙事詩から二ケア信条まで その1

http://web.archive.org/web/20071228213740/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/634.html

ギルガメシュ叙事詩から二ケア信条まで その2

http://web.archive.org/web/20071228213740/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/635.html

ギルガメシュ叙事詩から二ケア信条まで その3

http://web.archive.org/web/20071228213740/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/636.html

ギルガメシュ叙事詩から二ケア信条まで その4

http://web.archive.org/web/20071228213740/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/637.html

ギルガメシュ叙事詩から二ケア信条まで その5

http://web.archive.org/web/20071228213740/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/638.html

一つの記事にまとめたギルガメシュ

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/19.html

ノアの方舟関連記事

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/265.html

『ギルガメシュ叙事詩』の〔第十一の書板〕で、ギルガメシュは永遠の生命を得たというウトナピシュテムに出会い、ウトナピシュテムの口から大洪水の物語が語られる。

ウトナピシュテムはシュメールの都市国家のシュルバックに住んでいたが、シュメールの神々は洪水によって町を滅ぼすことを決定した。エア神(エンキ神)はウトナピシュテムに方舟を造って一族や動物たちとともに乗り込むように命じ、その通りに事は運ばれる。大洪水は六日六晩荒れ狂い、方舟はニシル山に漂着した。ウトナピシュテムは鳩・燕・大烏を順に放して、大烏が帰ってこなかったことから、水が引いたことを知って、方舟から出て神々に感謝した。神々の間でエア神がウトナピシュテム一族を助けたことについて、言い争いがあったが、結局ウトナピシュテム一族に永遠の生命が与えられて、遠方の河口に住むことが許された。

ウトナピシュテム伝説は、シュメール語版のジウスドラ、アッカド語版のアトラハーシス(最高の賢者)、『旧約聖書』のノア、ギリシャ神話のデウカリオン、インド神話のマヌなどの伝説と同一のものである。 ノアの伝説では、アララト山に漂着してから最初に烏を放ち、後で鳩を放しているが、ウトナピシュテム伝説ではニシル山に漂着して、最初に鳩を放ち、次に燕を放ち、最後に放した大烏が戻ってこなかったことになっている。

この三羽の鳥が、秦氏の根拠地の一つである京都の太秦の木嶋坐天照御祖神社の三つ鳥居の由来でもある。秦族は『旧約聖書』の手本となったウトナピシュテム伝説を知っていたのだ。秦氏は八幡神の象徴として鳩を、賀茂大社の象徴として八咫烏(大烏)を伝説としたのは、ノア伝説の鳩と烏を示すためであったが、三つ鳥居は元糺の池に立っていて、三つ鳥居の中央の真下にニシル山を模した石積みの山があって、大洪水で辺り一面水没した所に、ニシル山だけが姿を表していることを示唆していて、木嶋坐(コノシマニマス)=此の嶋におわすのことで、元糺の池の石積みの山を示し「嶋」の漢字で三角形の鳥居を示している。

さらに、ウトナピシュテム伝説の鳩・燕・大烏の三羽の鳥は、それぞれシュメールに関係した民族を象徴する暗号であったからたまらない。烏は中国の夏王朝の禹王の一族のことで、ウトナピシュテム=禹王のことである。禹王も洪水を治めて荒廃した土地に人間が住めるようにした人物である。

ウトナピシュテムの名のウトはシュメールの太陽神のウトゥのことで、世界的にも烏は太陽に住む三本足の烏とされて、太陽神の象徴であり、禹王の一族とは烏桓族・烏孫族・契丹族・扶余族などがいた。

烏・燕・鳩を象徴する民族

禹王の一族の契丹族は、後章で説明する『契丹古伝』を残している。さらに契丹族が遼国を建てて『遼史』を編纂して残しているが、契丹族の祖王のことを葛禹図可汗(遼史では葛烏兎可汗)と記していて、禹王=烏王であることがわかる。そして契丹はキタイと読み、イスラエル十部族をアッシリアから救出したスキタイ騎馬民族の末裔であることを匂わしている。また烏桓族・ウイグル族の末裔が平家となった。

ウトナピシュテム伝説の燕は、夏王朝の後を継いだ殷王朝の祖の契(セツ)の出生譚の燕のタマゴを母親が飲み込んで生まれたことに関連している。五帝の一人のコクの子であり、母は有戎氏の娘であるが、契は帝舜の時代に治水を命じられた夏の禹王を助けて、黄河の修理に成功した人物であり、契も洪水伝説に関係している。契丹や殷の祖の契の名の「契」は契約の櫃の契であり、この漢字は神々の主のマルドゥークの魔力ある怪剣(大刀)を示すものであり、契丹族の祖王の名の葛禹図可汗の「可汗」は鏡の意味であると同時に、契約の櫃を担ぐ資格のあるアロンの直系のレビの尊称だった。

契を祖とする殷族は周王朝に取って代わられるが、殷族は烏を象徴する契丹族や烏桓族や扶余族などに逃込んで、烏を象徴する部族に吸収されてしまう。

殷の後に建った周王朝の祖の后稷(棄)は、母の姜原が巨人の足跡に感じて身ごもり、生まれてすぐに棄てられたが、馬や牛が踏まないでよけて通ったので、氷の上に棄てたところ、鳥が飛んできて暖めたという伝説がある。巨人の足跡とは磐古巨人の足跡のことを示している。

夏王朝は姜姓であり、殷王朝は子姓であり、周王朝は姫姓である。姜姓は炎帝の子孫で、姫姓は黄帝の子孫とされている。もともと姜氏と姫氏は婚姻関係を結ぶ親族関係の氏族であったが、周王朝の植民国家の杞は夏王朝の子孫、宋は殷王朝の子孫に建てさせているし、太公望呂尚も夏王朝の姜姓であり、イスラエル風の斉国を建てている。しかも周王朝の祖の母の姓が、夏王朝の姜姓であることは、周王朝もウトナピシュテム(禹王)の子孫にあたることを示している。

問題は周王朝の文王の子の召公に「燕」を建てさせたことである。明らかに殷王室の祖の契の燕のタマゴの出生譚と関係しているものだ。文王と殷王室の娘との子が召公だった可能性があるが、燕を象徴する民族は、明らかに殷王朝であったと言える。

そして、鳩を象徴する民族は八幡宮を氏神としていたヒッタイト騎馬民族の秦氏(秦帝国の部族)とその子孫の源氏や、大和漢直(阿知使主を祖とする)となった。

宇佐氏系図と三輪氏系図の符合とカラクリ

宇佐八幡宮の宇佐氏の系図は、タカミムスビ神の子の天三降命の子の宇佐津彦(玉依彦)と宇佐津姫(玉依姫)が宇佐氏の祖であり、大中臣氏の祖である天種子命と玉依姫の子が宇佐津臣命で、玉依彦の子孫が宇佐公を賜った武雄(法蓮)だった。

下賀茂大社の祭神の建角身の子にも玉依彦と玉依姫がいた。こちらはカミムスビ神の子の天神玉命の子の建角身命の子が玉依彦と玉依姫であり、玉依姫が賀茂川で川遊びをしていた時に流れて来た丹塗り矢を持ち帰り、床近くに置いていたところ、身籠もり、上賀茂大社の祭神の別雷神を生む。そう『古事記』の神武記の三輪山の大物主神が丹塗り矢に化して、セヤダタラ姫が床近くに置いていて、神武天皇の皇后となったイスケヨリ姫を生んだという『古事記』の神武記の記述に似ていて、明らかに賀茂の伝説は三輪とつながる。

別雷神の父親は火雷神とも日枝の山王(大山咋神)とも言われているが、宇佐氏系図の玉依姫の夫の天種子が本当である。建角身は天三降命のことで、天種子は建御雷神(天児屋命)の子である。

三輪山の大物主神の子の天日方奇日方命の子の飯肩巣見命の子が建甕槌命であり、建甕槌命の子が大田多根子である。大田多根子から大田を取ると「多根子」となり「種子=タネコ=多根子」となる。ようするに天尾羽張神の子の建御雷神の子の天種子は、飯肩巣見命の子の建甕槌命の子の大田多根子のことになる。天尾羽張神は飯肩巣見命の別名であった。肩から羽根が生えていた天使を形容して言(飯)ったわけだ。

このことから、賀茂建角身の娘の玉依姫の夫は建御雷神(建甕槌命)の子の中臣氏の祖の天種子(三輪氏の祖の大田多根子)と言うことになる。賀茂大社を大二目命が創建したのも、大姓が三輪族の大田多根子の大氏を名乗ったことにも起因していて、中臣氏を大中臣と呼んだのも大姓を示し、中臣の「臣」は出雲系の「富氏」の「富」の漢字転換であった。

『古事記』では大田多根子は、「意富多多泥古」と書かれ、「大氏=太氏」と「富氏=臣氏」が出雲系民族(三輪系民族)であることを示し、中臣氏が出雲系民族だったことを物語っている。

さて、宇佐氏系図によると、天種子命と玉依姫の子の名は宇佐津臣命しか書かれていない。宇佐津臣命の祖父は建御雷神(建甕槌命)と天三降命(建角身命)であるから、建御雷神(建甕槌命)の名を取って、賀茂大社で別雷神と呼ばれたことになる。また、大田多根子が神君鴨の祖と言われた理由もわかる。

さらに、三輪山の大物主神の「物」は物部氏の「物」であり、大和大物主奇甕玉命の「奇甕玉命」と物部氏の氏神の石上神宮の天照国照彦天火明奇甕玉饒速日命が同一神を示していることから、物部氏も出雲系民族であったことを物語っている。当然、天火明命を祖とする海部氏も出雲系民族だったことになる。

宇佐八幡宮につながる豪族

宇佐神宮を氏神とする宇佐氏は、三輪氏(大神氏、大氏、太氏)や中臣氏や物部氏につながっていたし、宇佐氏の祖は賀茂大社の祭神の建角身命でもあった。娘の玉依姫の夫が三輪山の大物主神の子孫の大田多根子であったことから、大神比義が宇佐八幡宮に関係して来ることになった。大田多根子は神君鴨の祖とされ、賀茂別雷神の実の父親であった。宇佐氏と賀茂氏は同族であったから、八幡宮が鳩を象徴し、賀茂大社が八咫烏を象徴したのは、ノアの洪水伝説を両社で示すためだった。

不思議なのは辛嶋氏が何故宇佐八幡宮に関連したのか?である。辛嶋氏はスサノオの子の五十猛命を祖とする海人族で、元来は鉱業技術者であった。『新撰姓氏録』では百済人の後裔とされ、秦氏の支配下にあったとされている。宇佐地方は秦氏が多く居住していて、秦氏と姻戚関係が深い大神氏も豊後地方に居住していた。宇佐郡の郡司の家柄であった辛嶋氏が、秦氏の支配下にあったとされているのは曲解で、秦氏の中でも支配層の氏族であったと思われるのだ。宇佐八幡宮の初期の頃の宮司や禰宜の名に辛嶋勝某が多いのは、勝(スグリ)姓を持つことが許された秦族の特別な支配者であったことを物語っている。村主と書いてスグリと読むように、支配される者の姓名には使われない。辛嶋の姓は明らかに新羅と加羅を示していた。

辛嶋氏は高度の文明と文化を所有し、大陸の先進文明を伝えた。銅の精錬・海運・暦法・呪術のプロ集団でもあったから、東大寺の大仏建立の立役者でもあった。辛嶋氏は五十猛を祖神としていたが、木(紀)氏も同じであった。竹内宿禰の子に波多宿禰と木角宿禰があったが、波多宿禰の子孫が辛嶋氏であり、木角宿禰の子孫が木氏(紀氏)であり、木氏は百済八大姓の一つでもあった。木氏は宇佐地方から瀬戸内海全域と紀伊半島までの海域の航行権を掌握していた海洋民族であり、造船技術のプロ集団だった。

木氏も宇佐津彦・宇佐津姫と同じように、名草彦・名草姫を氏神としていた。木氏の神職者が「在常」・「有宇」・「有何」などの「在」・「有」を名乗ったのは、出雲の神魂神社の神紋の亀甲紋の中に「有」の漢字が書かれていることと同じで「有りて、在るもの」と名乗ったイスラエルの神のヤハウエ神を物語っているのだ。木氏も八幡信仰をした氏族で、辛嶋氏と結びついていたし、木氏は百済の木羅斤資を祖とする新羅系帰化人だった。百済の政治家の木羅斤資の「木斤羅」が「新羅」になり、子の満致は蘇我満智だ。

宇佐地方に隣接する筑紫地方では、宗像氏がスサノオ神の娘の三女神を祀り、宇佐八幡宮の比売大神は三女神(タキツ姫・イチキシマ姫・タキリ姫)を祀っている。比売大神は本来は玉依姫と豊玉姫とされるが、比売許曽神社のアカル姫とも言われていて、天日矛やツヌガアラシト伝説につながっている。さらに宗像は、出雲から諏訪に出た建御名方富命の名に通じ、八幡神が建御名方だという説もある。建南方とすれば金山彦を祀る南宮大社につながり、金属精錬の神の八幡神にもつながることになる。

さらに八幡信仰には、海洋民族の安曇族も関係し、騎馬民族の王仁氏(和邇氏)も応神天皇との関係でかかわっている。飛騨の位山八幡宮の創始は和邇氏の将軍の建振熊命によってなされた。

秦氏と小野氏の密約

小野妹子は遣隋使として隋に赴き、隋国では蘇因高の名を名乗った。小野氏は猿田彦とウズメの子孫の猿女の君の家系であり、京都の祇園社(八坂神社)を氏神とする氏族である。隋国から無事に帰った妹子は、京都の岩倉地区に三宅八幡宮を創建した。三宅八幡宮の建てられた地と、上賀茂大社と下鴨大社の建っている地を結ぶと、見事に測ったように正三角形になっている。

祇園社は牛頭天王スサノオを祀り、小野氏はスサノオを祖神とする氏族であり、スサノオの子の五十猛を祖神とした辛嶋氏と同族ということになる。妹子が隋からの無事の帰還を感謝して、三宅八幡宮を創建したとされている背景には、スサノオの子のウガの御魂(八坂神)を氏神として伏見稲荷大社に祀った秦氏の影響があったと思われるのだ。

秦氏の京都の本拠地の太秦にある木嶋坐天照御祖神社の三つ鳥居の正三角形に符合するように、上下賀茂大社の二羽の鴨と三宅八幡宮の狛犬となっている鳩で、三つ鳥居を示している。妹子が遣隋使として赴いた時代は、聖徳太子のブレーンであった秦河勝の権力の最盛期でもあった。河勝の後ろ楯があって、妹子は遣隋使となり、河勝や賀茂大社の神官などから秘密を教えられ、三つ鳥居に符合する三宅八幡宮を建立することになった。それは妹子一人の財力では出来なかったはずで、秦族と賀茂族とが協力したのである。

何故なら、下賀茂大社の祭神の八咫烏と三宅八幡宮の変わった狛犬の鳩で、ノアの洪水伝説の烏と鳩を示す目論見があったし、三つ鳥居が見取り図であって、三つ鳥居の中央真下にある石積みの山が、三社の中央に位置する西山であることを示すためにも、必要不可欠なことだった。

小野氏が氏神とした祇園社は、蘇民将来の護符で有名な神社だ。妹子が隋国で蘇因高と名乗ったのは、小野氏が元々蘇民であったことを物語っていて、蘇民とはシュメール系イスラエル人であることを示しているし、因高の「因」はインドラ神桓因を示し「高」は高句麗王姓の太陽を示す漢字であった。ようするに小野妹子はシュメール系イスラエル人で、祇園精舎のあったインドと扶余族の建てた高句麗を経由して帰化した氏族であったことを、蘇因高の名で象徴していたことになる。

古代の姓氏名は、出自を物語っていた。木氏の神官が「有」・「在」を名乗ったのも同様である。高句麗も百済も扶余族の建国した国であり、百済から加羅、新羅を経由して帰化した辛嶋氏・木氏・蘇我氏も扶余族であり、小野氏と同族であった。そうでなくては、わざわざ『日本書紀』に小野妹子が隋で蘇因高と名乗ったことを書く必要がない。

さて、山幸彦伝説に見える龍宮信仰は、新羅の人々の信仰でもあった。元々東海にある海の女神の国に対する沃沮のオロチ族の伝承から来たもので、オロチ族が金属精錬技術を持っていて、扶余族の一員となったことも関係しているが、このことは後章で述べよう。

秦氏と安倍氏の密命

秦氏は京都の太秦を本拠地にしていた。秦氏は氏神として広隆寺境内に大酒神社(大辟神社)を祀った。中国の景教徒は、イスラエル王国のダビデ王のことを「大辟」と記したし、中国ではローマ帝国のことを「大秦」と呼んだ。中国で、大秦はウズマサとは呼ばず、日本で太秦をウズマサと読ませたのは、「織物をウズ高くマサるほど積んで、天皇に献上した」ことが語源となっていることが、『日本書紀』の雄略記で秦酒公が各種多数の秦族の村主(スグリ・勝)を雄略天皇から賜ったことの御礼として、絹織物を沢山献上したことで、天皇から太秦の名を酒公が賜ることになったことが書かれている。

太秦の「太」は、出雲族の太氏の姓氏名であり、秦氏の「秦」は出雲では波多郷と呼ばれる地があって「波多」のことだ。ようするに出雲の太氏と波多氏の合体名が太秦になったことになる。秦河勝は三輪山を水源とする川に瓶に乗って流されて来たという伝説があって、出雲系氏族の三輪氏や大神氏や大氏とも関係が深かった。

太秦の語源が出雲や三輪山にも関係があることは見て取れる。大酒神社(大辟神社)の「大」も大氏を示し、「大」が五芒星ペンタグラム☆を示していて、大辟の「辟」がヘキサグラムの「ヘキ」と発音する漢字であることも重要になっている。大酒神社のあった広隆寺の太子殿では、太子講の人々が掲げた五芒星☆の額が有って、大辟神社の「大」が五芒星☆を示していることを物語っている。

また賀茂保憲の弟子であった安倍晴明もセーマン(五芒星☆)を用いていた。セーマンは黒色で描く五芒星と赤色で描く五芒星があって、赤色のセーマンは逆さまに用いていたから、二つのセーマンを合体させると十芒星デカグラムとなることを示している。

安倍氏の祖は孝元天皇の子の大彦で、その名の「大」が五芒星を示している。大彦の腹違いの弟は彦太忍信命で、竹内宿禰の祖父であり、竹内宿禰の子が波多宿禰・木角宿禰・蘇我石川宿禰・葛城襲津彦などであったが、彦太忍信命の名の「太信」の逆の「信太」は、安倍晴明の母の葛の葉の信太の森につながる。

彦太忍信命を祖とするのが、秦氏・木氏・蘇我氏・葛城氏・平群氏・許勢氏であり、古代名族を輩出しているが、すべて帰化人なのだ。当然のことだが、大彦を祖とする安倍氏も帰化人だったわけだ。

安倍晴明のライバルとされた芦屋道満も秦氏であり、晴明も道満も陰陽道という名に隠れて、ユダヤの秘儀を継承していた。晴明の目指したものは『金烏玉兎集』という虎の巻の実体を知ることであり、彼はその奥義をつかみ、黒色の五芒星と赤色の五芒星を目印にして、後世に残した。

さらに平安京で、大文字山・左大文字山・妙法・船形・鳥居形の五山の送り火をすることによって、ユダヤ民族の宝が大文字の描かれた二つの山の和に関係していることを示し、それが妙法蓮華鏡であることを暗示したのである。大文字焼きの縁起帳に、最初は人型の五芒星で執り行ったことが書かれている。

太秦の語源とニッポンの言霊の語源

古バビロニア(紀元前1,900-1,700)の神話に、人間の創造に関する粘土板がある。

天には天神アン、大気の神エンリル、太陽神ウトゥ、大地と水神エンキがおり、神々の会議であるアヌンナキで議論が続いた。大気の神エンリルが「天と地が造られ、チグリス川とユーフラテス川の堤防も作られた。次は何を造ろうか」アヌンナキに集まった神々は、それに答えて言った「ウズムア(ニップールの聖堂)で二柱のラムガ神から人間を造ることにしましょう。神々の下働きとして、いろいろな労働をしてくれるように。神々の住まいを建て、運河を作り、畑を耕し、国土を豊かにしてくれるように。女神アルルがその計画を完成させるであろう」というものだ。

アヌンナキは七人の神々の会議のことである。

『古事記』の最初に書かれる独り神は、天御中主神から豊雲野神までの七神であり、アヌンナキの七神に相当する。イザナギ、イザナミの二神の国生みは、天神の助言で成功する。天神とは天御中主神から豊雲野神までの七神のことだ。

ニップールの聖堂に祀られていたのはエンリルであり、聖堂の中心はエ・クル(山の住まい)と呼ばれていた。ニップールの聖堂はウズムアと呼ばれ、このウズムアが秦氏の根拠地や頭領の名の太秦=ウズムァサになった。先述した宇佐八幡宮の「ウサ」は「ウシャ」のことで、ヒッタイトの神殿(社)の意味であり、ウズムァサの「サ」も「シャ」であり、「社」のことであるから、ウズムァサは聖堂社の意味になり、ウズムァサの頭文字と後尾文字が「ウサ」であることも、ウズムァサである太秦が、神を祀る聖堂の社であることを物語っている。

神が山に住むという観念が我が国にあるのは、ウズムアの中心がエ・クルと言われ、神の住む山の意味の須弥山思想が深く係わっていることになる。

さらに、日本という漢字を「ニッポン」と呼ばせる由縁は、シュメールの都市国家のニップールにある。ニップールを何度も唱えると、ニッポンと聞こえて来る。ニップールは別名をヤマトバァルと呼ばれていた。もうこうなると疑う余地もない。

源氏の名門氏族に宇都宮氏がいた。ウズ(宇都)ムア(宮)である。さらに宇都宮の宇都は、出雲の大国主神の別名の宇都志国玉につながり、ウズムアがイズモに変化した。ヘブル語は母音の発音は無いに等しく、あいまいであったから、ウズムアからイズモに変化してもおかしくない。

「ウズムァタイシャ」と言うと「出雲大社」と聞こえるのである。ウズムアとは聖堂(大社)のことだから、出雲と言う言霊自体が大社を意味していたことになる。

ニップールの別名のヤマトバァルの「バァル」は、エンリルの変化のバァル神のことで、数字記号は五十で、五十鈴宮(伊勢神宮)につながり、神紋は六芒星と十六菊花紋だった。

謎 の 契 丹 古 伝

『契丹古伝』の平(タイラ)と平家

日露戦争中、鴨緑江軍兵として従軍して『契丹古伝』を入手した浜名寛佑が『日韓正宗遡源』という名で、大正十五年に出版したのが『契丹古伝』が知られる始めとなった。契丹族の太祖の耶律阿保機(紀元876-926)の重臣の耶律羽之が撰した史書で、契丹はキタイと読み、古代のスキタイ騎馬民族の流れを匂わしている。

四世紀末から九世紀にかけて栄えていたウイグル人が、キルギス人の侵入によって亡命して来たのを迎え入れ、それまでいた契丹諸部族とウイグル人を統合したのが阿保機である。彼はウイグル族の名門の肅氏から妃を娶った。妃の姓は平(タイラ)名は月理奈と言う。

タイラ(平)は古代インドでも族長を示す言葉であり、古代インドとウイグル族の言葉が同じであったことが伺える。我が国の桓武天皇を祖とする平家のタイラにもつながり、桓武天皇の「桓」は帝釈天インドラの桓因につながり、古代中国の遼西地方の北方に住んでいた烏桓族を示している。

桓武天皇が造らせた平安京の内裏の近くに烏丸(カラスマ)通りがある。烏桓は烏丸とも書かれ、平家にも烏丸姓があった。明らかに桓武天皇は烏桓族の族長タイラ(平)だったことになる。

そして平安京には、烏桓(烏丸)の名につながる八咫烏(建角身命)を祀る下鴨大社が中央に陣取っていた。鴨大社の「鴨」は、『契丹古伝』を入手した鴨緑江の「鴨」につながっている。このことから『契丹古伝』が我が国に関連している古伝であることがわかる。

浜名寛佑は難解な『契丹古伝』を解読して、日本と朝鮮が同祖であることに気がつき、『日韓正宗遡源』という名で発表したわけで、当時としては画期的なものだったが、原本は無く、八幡書店刊の『契丹古伝』だけが現存する唯一のものになる。本書では以後『契丹古伝』のことを『古伝』と略記する。

さて、契丹族は3世紀頃にモンゴル東部で栄えていた東胡の一種で、烏桓族・鮮卑族・扶余族(貊族)・女真族などが東胡である。

『古伝』によると、契丹族は東大神族(シウカラ族)の一部族で、東大神族には阿芸(日本)・央委(朝鮮の祖民)・陽委・漢委・伯弭(貊)・潘弭(貊=扶余)・淮委(殷代の大候国)の七族がいたとされている。また貊夷・犬戎・姜戎・驪戎も同族であり、貊(伯弭・潘弭・貊夷)から秦に入った者と匈奴になった者がいたとされ、異種の沃沮のヤオロチ族がスサナミコに帰順したとされている。

注:この記事を書かれた方は飛騨でタクシードライバーをされている方です

http://www.geocities.jp/roro2734/shoukai.html
 
 
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